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14 勘違いは誰にでも

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 林檎を丸齧りしたのは何十年振りだろうか。歯茎はとても健康で、出血しなかった。ささやかな喜びをも噛みしめる夕食だった。
 ただ、気がかりなのはギルバートがいないことだ。彼の機嫌を損ねてしまった。あれぐらいのことでへそを曲げるなと叱責したいところなのだが、それもまたおこがましいのかもしれない。

 ギルバートの好意を無下にしてしまった、とベッドを見て宗一は思う。閑散とした部屋に残されたこの豪華なベッドには、いくつもの魔法を施してあるらしい。そこに眠る宗一を守る為の魔法だ。
 交渉を潤滑で優位に進めるために、空間を演出することは、仕事や政治において重要である。高級料亭で接待をするなんていうのは、昔からよくあることだ。
 また、景観は心情を変える。家や服装など清潔感や趣向にあったものが身近にあれば、人は幸福感に満たされる。
 ギルバートの考えは正しい。だが、それでも、宗一はこの世界を知れば知る程、己だけが贅沢をすることはできない。
 これはもう性分だ。宗一は自身が頑固者であると再認識した。

 夜の帳が下りると、窓の外には星空が一面に広がった。月明かりが差し込んで、予想よりもはるかに明るい。晴れの日は明かりに困らないな、と宗一は美しく輝く星々を眺める。

「ソーイチ様、私が番をしておりますので、安心してお休みください」

 床に座るアインハルトはその長い脚を組み替えて言った。
 確かに疲労感はある。だが、眠る気にはなれなかった。一抹の不安があった。
 宗一はベッドの端に腰掛けて返答する。

「もう少し、待つよ。君は先に休んでおくれ」

 ギルバートがいない。それは小さな不安だが、無視することはできず、徐々に膨らもうとしている。
 魔素、と言っただろうか。その燃料のようなものが切れたら、宗一は眠りについてしまう。そして、ギルバートが魔素を取り込ませるための魔法を掛けなければ、宗一は目覚めることができない。
 彼の機嫌を損ねるということは、宗一に朝日は昇らないということだ。

「ならば、お供します」

 アインハルトは優しく微笑んだ。銀色の髪が揺れる度、窓から差し込む月光がひと際輝かせている。
 ギルバートが太陽ならば、アインハルトは月の如く。
 なかなか風情のある男だ。こうして大人しくしていればの話だが。
 そんな色男をいつまでも硬い石床に座らせておくわけにはいかない。

「床ばかりだと疲れるだろう。こっちにお座りよ」

 宗一はベッドと軽くはたいた。
 何の気なしに言ったのだが、アインハルトは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして宗一を見ていた。ほんのりと頬を赤らめているようにも見える。

「ああああ!」アインハルトは奇声を発して飛び跳ねるように立ち上がった。「ななな、なにを仰るのですか! そんなこと、私如きには畏れ多いことです! ああ! だが!」

 酷く狼狽している。アインハルトは後退りしては前進し、また引き下がるという不思議な動きを繰り返しながら、矢継ぎ早に混乱を口にした。

「しかし! ソーイチ様のお誘いを断ることなどできぬ! だがしかし! 崇高なるソーイチ様の御身をお守りする騎士の身でありながら、そんなことが許されるはずもない! だが!」

 生きるべきか、死ぬべきか、と苦悩するハムレットが如く、「だが」と「しかし」を繰り返してアインハルトは頭を抱える。
 ベッドを椅子の代わりにするのはそんなに悩むことなのか、と宗一は小首を傾げつつ、アインハルトの独白を聞いていた。
 何気ないひと言が、こんなにも苦しませるとは知らず、避けようがなかったことだが、宗一はアインハルトに対して慎重に接するべきかと反省する。
 そうこうしていると、突如、部屋の扉が開かれた。

「あーあ。本当に何もなくなったな」

 暗がりから姿を見せたのは、苦笑いを浮かべるギルバートだ。
 月明かりに照らされたその顔を見た瞬間、宗一は心なしか安心感を得た。
 ギルバートは宗一の感情の動きを察したらしく、いたずらな笑みを浮かべる。

「遅くなって悪かった」ギルバートは宗一にウインクをしてから、視線を苦悩する男に向けた。「何やってんだ、アイン。陛下の手紙が飛んで来てるぞ。さっさと行ってこい」

「くっ……、わかっている! だが、私は今、ソーイチ様より同衾のお誘いをだな……」

 アインハルトは髪を掻き乱して苛立ちをギルバートに訴える。
 苛立ちが移ったのかギルバートも声を荒げた。

「はあ? 同衾なんかさせるわけないだろ! ソウイチはなんて言った? 言ってみろ!」

「床では疲れるから、寝台へ座れとご命じに……」

「それは、そのままの意味だ、この色情魔!」

 ギルバートはアインハルトの胸ぐらを掴み怒鳴る。

「え?」

 戸惑うアインハルトはギルバートに押されながら、宗一へ視線を送る。
 宗一は両者の喧嘩に置いてきぼりなのだが、アインハルトの赤い瞳が答えを求めていた。座るという言葉をどう解釈したら同衾になるのか。勘違いをしていたらしいアインハルトに、宗一はゆっくりと頷いてみせた。
 それを受けて、アインハルトはすっかり気が抜けてしまい、ギルバートに連れられ部屋の外へ押しやられていった。
 扉が閉じられる直前に正気を取り戻したのか、アインハルトの声だけが聞こえる。

「はっ! ギルバート、私が戻るまで迷宮に変えるんじゃないぞ、絶対に変えるな!」

 アインハルトはギルバートに対して何度も念を押す。しかし、ギルバートは面倒くさそうに曖昧な返事をした。

「いいから、行けって」

 ギルバートは確約を求めるアインハルトを適当にあしらいながら、無理やり扉を閉ざす。そして、いつになく早口で呪文を唱えた。

「迷宮にしちゃったのかい?」

「した。まあ、今夜で終わりだ。明日からは居住者も増えるだろうから」

 宗一が尋ねると、ギルバートは端的に答えた。
 そして、木箱の上に残された林檎を拾い上げると、ひと口齧る。
 どうも興奮が収まらないのか、ギルバートはせわしない。家具もなくだだっ広い部屋を当てもなくうろうろと歩き回り、宗一を一瞥して、すぐさまそっぽを向いて言った。

「ベッドは残したんだな」

「これは僕の為に、君がいろいろと骨を折ってくれたそうだからね」宗一はギルバートを目で追いながら言った。「君の気持も考えず、すまなかったね」

 すると、ギルバートは食べかけの林檎を木箱の上に戻して宗一の元へ歩み寄った。
 困惑したような表情で口を開く。

「ソウイチの言っていることは正しい。謝ることじゃない。ただ――……」

 ギルバートはそう言い淀んで視線を逸らした。険しい表情で髪を掻き乱し、苛立ったようにベッドを揺らして隣に座った。背中を丸めて項垂れると、声を絞り出すように呟いた。

「……オレはソウイチを、籠の鳥にしようとしていたのかもしれない」

 ギルバートは顔の前で両手を合わせ、親指の合間に自身の鼻を挟んだ。きつく目を閉ざし、深く長い溜息を零す。
 そして、苦しそうに懺悔を続けた。

「この部屋に居れば安全なんだと知れば、ソウイチを囲えると、どこかでそう思っていた。でも、気づいたんだ。これじゃあ、教会の連中と同じだ」

 広間での口論の際に宗一が抱いた心配は、してはならないことした可能性によるものだったと宗一は気づいた。
 発言と行動を許され、金策を強行した。それは許可された範疇であると認識していた。だが、ギルバートの助けにならねばと思っていながら、宗一のとった行動が間違いだったのではないか、という不安だ。
 だが、そもそもこの世界に来たのはギルバートの為だ。この身体も、魂も、ギルバートやこの世界に還元されて然るべき、という考えは変わらない。
 何もするなと言われれば、そのようにするべきだった。

「君が望むなら、僕はそれで構わんよ」

「良いわけがない! 誰にも自由を奪う権利なんてないんだ」

 ギルバートは宗一の両肩を掴んで声を荒げた。その表情は怒りというより、悲しみに近いように見える。

「そんなことはないさ。君は、僕をいかようにもできる。その権利を持っているよ」

 宗一は微笑んだ。それは少しぎこちなかったかもしれない。
 権利というなら、宗一を生かすも殺すも、ギルバートの思いのままだ。必要なら、手を貸そう。望み以上のことはもうしないと約束しよう。要らぬなら、眠れせてくれ。二度と目覚めぬよう、ふざけた神に使われぬよう、ひと思いに。
 宗一の言葉に、ギルバートは目を見開いて硬直した。少し間をおいてから、ギルバートは困惑した様子で宗一を離し、拙い動きで口元を手で隠す。

「それ、どういう意味?」

「君は、僕を、どうしたいんだい?」

 宗一は心穏やかにギルバートの返答を待った。
 月明かりが影を濃く見せる。
 ギルバートはちらりと宗一を上目に見るも、その青い瞳は陰り、暗い。
 これは幕引きか、そう思った。

「……キスしたい」

「は?」

 ギルバートの沙汰に、宗一は間の抜けた声が出る。
 この緊張感の漂う場面でそんなことを要求されるとは思いもよらず、些か拍子抜けした。だが、ギルバートという青年は宗一の想像の及ばない発想をする。これが若者と老人の差なのか、この違いが宗一は面白いと感じていた。

「挨拶か。いいよ」

 ギルバートの手が宗一の頬を包み、ゆっくりと顔を寄せる。

「挨拶?」ギルバートの瞳が逡巡する。「ああ、エルガー? なら、そう、これは挨拶。クラシックを聴くの?」

 宗一に不可解なことを問うギルバートは、その答えを聞くつもりはないのか、ゆるゆると瞳を閉ざし、宗一の唇を塞ぐ。重ねた唇にギルバートの体温が伝わる。
 その感触を楽しむかのように唇を摘ままれる。離れようと身を引くと追われる。
 挨拶にしては長い。

「んふ……」

 思わず止めていた息が鼻から漏れ出る。
 ギルバートは僅かに唇を離れると、鼻先を擦らせながら顔の向きを変えた。宗一と視線を絡ませ、再び瞳を閉ざして口づける。
 唇に熱の高いねっとりとした軟らかいものが触れ、宗一の隙間に差し込まれた。

「んん!」

 これは挨拶というより、魔素を送るだとか言ってされた時の深い口づけでは、と狼狽える宗一は、やめろという合図のつもりでギルバートの袖を掴んで引っ張る。
 だが、口腔内に侵入したギルバートの舌先は一向に出ていってはくれない。身を捩り逃れようとすると、より深く追い迫り、ベッドへ倒れ込んだ。

「待っ……うぐ……」

 倒れた拍子に唇が解放され、制止しようとするも、開いた口はすぐさま塞がれる。
 互いの唾液の混ざり合う水音が羞恥心を煽る。絡みつく舌から逃れようと自身の舌先を避けさせるが、そのままじっとしていることもできず、ギルバートの良いように弄ばれてしまう。
 押し退けようとギルバートの肩や腕にしがみつくが、伸し掛かられた体躯は重く、かえってギルバートに抱きしめられ、身動きがとれなくなる。
 ぬるりとした感触は、次第に心地よささえ感じさせた。力が抜ける。息が上がり、顔が火照る。その熱は思考を溶かすのか、宗一の意識が呆けていく。

「は、んう……」

 激しさを増す口づけの合間に上擦った声が漏れる。
 挟まれて吸い上げられ、甘く噛む。
 宗一の口角からだらりと唾液が流れた。
 夢中で宗一を貪るギルバートは息を乱し、唇を僅かに触れさせたまま、熱を帯びた瞳を揺らして囁いた。

「触りたい……」
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