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第十一話「蠢事愚挙(しゅんじぐきょ)」
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蠢事愚挙(しゅんじぐきょ)
一
権力をめぐる男の嫉妬ほど始末に悪いものはない。
元璋が太平府を開き、大元帥に就任したことは和州の郭天叙・天祐兄弟たちを大きく刺激した。郭子興没後、朱郭両軍の溝は深くなる一方であった。朱軍が渡江を開始した折も和州守護を名目に郭軍は一兵も援軍を出さなかったのである。だが元璋は、
「和州は我らにとって大事なる地」
と言って、郭軍の行動を非難しなかった。
その郭軍の動きだが、天祐に目論みがある。それは朱軍が渡江に失敗するか、はたまた江南で長期戦となって自滅することを願っていたのであった。
ところがその予想は大きくはずれた。朱軍は渡江に成功したのみならず、太平まで手に入れてしまったのである。さらに独自の行政府たる太平府まで開府したため、朱軍の実力は郭軍を大きく上回る結果になってしまった。
――このままではまずい。
天祐でなくとも、この現状をよしとする者はいないであろう。郭軍は明らかにその勢力を失いつつある。
――郭軍には人がいない。
これが郭軍衰退の最たる原因であった。
子興は傍若無人で癇癪持ちであったが面倒見が良く、人徳のようなものを有していた。それゆえ元璋をはじめ、家臣たちが最後まで子興を見放さなかったのである。だが子興の後継者たちは人の上に立つ器量というものを誰も持ち合わせてはいなかった。
――義兄は人として大好き。
義妹の鈴陶は義兄の優しさが好きでならない。
――一方、人としては主殿の方は悪党。
平安な世ならば義兄を褒める者がいても、したたかな元璋は忌み嫌われたに違いない。
だが今は乱世であり、朱軍も郭軍も興亡の際に立たされている。子興の後継者として生を享けてしまった義兄はしたたかでなければならないのだ。
――義兄は人が良いから、すぐ他人に染まってしまう。
鈴陶はそのことが不安で仕方がなかった。優しさは美徳だが、人を率いるには自分がないといけない。
争いは自我の対決であり、その自我をいかにして統御・調整するのかが統率者に求められる力量であった。義兄には統率者の能力が皆無で、郭子興の子に生まれたために、統帥に祭り上げられたにすぎなかった。
義兄と違って、鈴陶は叔父が好きではなかった。それは叔父が陰謀こそ乱世を渡る唯一の術だと信じ、義兄をその道具として利用していたからである。
天祐は反対のための反対を好み、人の揚げ足を取るのが得意であった。また権威を利用する術に長けており、一時は小明王の力を背景に元璋を出し抜くことに成功した。
だが陰謀は薬と同じで過度に用いることは危険であった。先が読めない者が陰謀を用いることはやがて身を滅ぼしてしまう。その点、子興は陰謀の危うさをよく知っていた。
「わしは難しきことはせぬ」
これが子興の口癖であった。
ただ策謀どころか根回しすら嫌っていたため、窮地に陥ることもあった。しかし陰謀を巡らさなかったおかげで滅亡を免れていたとも言えた。
天祐たちを危ぶんだのは鈴陶だけではなかった。
子興の妻・小張夫人である。
彼女は弟や息子たちとは違って物の本質を見極める能力がある。元璋の能力を見抜き、鈴陶を嫁がせたのも彼女であった。その彼女が思う郭家の進むべき道が一つある。
それは朱軍に傘下に入ることであった。
――哀しいかな、天祐と婿殿の器量には天地ほどの開きがある。
夫人はそう見ている。天祐は必死になって元璋を出し抜こうと策略を巡らせるが、その都度、元璋は逆手を取っては郭軍の力を吸い上げていった。
「悪手は打たぬが賢明ですよ」
たまり兼ねた婦人が幾度も弟に警告したことがある。しかし天祐は頑として聞こうとしない。
「表のことは我らにお任せあれ。何もしなければ、郭・張両家の全てを、あばた顔に奪われてしまいますよ」
――嗚呼、やんぬるかな。
夫人は失望し、身の処し方を模索した。
――誰を頼るべきか、誰を扶けねばならぬか。
夫人の脳裏に瞬時に浮かんだ名は言わずもがな、元璋であった。いやどう考えても元璋以外に自分の余生と若き芙蓉を託す人物はいなかった。
――今なら難儀なく婿殿の許にいける。
夫人は、「あること」を耳にしていた。「あること」とは元璋に嫡子・標が産まれ、鈴陶が養育しているという話であった。
「鈴陶を手伝ってあげましょう」
夫人はそう言うと、芙蓉を連れて鈴陶の邸へ身を遷してしまった。あまりの自然さに誰も異存がなかったほどであった。
夫人には女性としての深く、そして哀しい考えがある。
このままでは郭家の血は息子たちによって絶たれてしまう。その前に郭家の血を受け継ぐ芙蓉も連れていかなければならない。血を残すことこそ最も大事なる人の道――そんな孝の考えが夫人の根底にあった。 だが天叙たちは夫人の深慮を窺い知る能力はなかった。天祐は、
「やっとうるさい姉から解き放たれた」
と、嬉しげに寝室で妾に語ったと云う。この話を漏れ聞いた夫人はただ「そう」と一言つぶやいたのみであった。
郭家とのいざこざにかかわりなく、朱軍は敵について警戒を怠ることは許されなかった。
「江南に人なしと、お思いになってはなりませぬぞ」
そう忠告したのは巣湖軍の廖永安であった。
トクトの死後、江南における元朝の力は急激に衰退している。しかし彼の遺産と言うべき将が健在であった。
その一人に 陳埜先(ちんやせん)がいた。
南人であるが、稀代の智将として近隣にその名が轟いている。
郷土愛が強く、人々から故郷の柱とされた人物であった。トクトも彼の才幹を認め、義兵元帥に封じて江南中域の指揮を委ねたのである。
埜先は故郷を守るために強き軍を編成しなければならないと考え、父老たちの協力を得て義勇軍を結成した。
厳格な軍律を定め、略奪暴行を禁止し、地元の富豪たちに援助物資を支援させる代わりに故郷防衛を買って出ているやり方は元璋とそっくりであった。人材の勧誘および育成にも熱心で、彼が見出し育てた若者たちは埜先の手足となって郷里を守衛している。
その人材の中に船を動かせば江南第一と評された康茂才(こうもさい)や、豪傑として知られる弟の陳兆先(ちんちょうせん)がいた。朱軍が金陵を攻めるためには陳軍は叩いておかねばならない勢力であった。
その埜先たちに驚愕すべき情報がもたらされた。
朱軍が采石鎮を落とし、さらに太平まで攻略してしまったという知らせであった。さらに和州にいた郭軍までも渡江し、連合で金陵を目指していると云う。
「このままでは白蓮教徒どもに江南が穢されてしまう」
埜先は地面に唾を吐き、大きく舌打ちした。
彼ほど紅巾賊――白蓮教徒を毛嫌う人物もいなかった。蒙古は南人にとって憎かったが、それ以上に邪教で人を惑わし、故郷を踏みにじる白蓮教徒がどうしても許せなかったからである。だが相手は大軍を擁し、士気がすこぶる高い。まともに戦えば郷土の兵を死地に追いやるだけであった。
埜先は茂才と弟を呼び、紅巾軍撃退の策を練った。弟の兆先は元朝中枢と深い繋がりを持っており、逐一、朱軍の動きを知らされていた。
その弟が朗報を知らせてくれた。チャガンティムールが麾下のマンジハイヤとアルクゥイに五万の兵を与えて南下させているとのことであった。
「あの二人をお遣わしになったか」
「兄上はご存知なのですか」
「義兵元帥を拝命するために上洛したことがあるが、その時に王保保様のお引き合わせでお会いした」
保保はチャガンの甥で、かつて濠州を賈魯と共に攻めた将軍である。
「マンジハイヤ将軍は冷静沈着で、人の話をお聞きになる。アルクゥイ将軍は蒼狼の如く豪勇で、機を見るも敏な方だ。兆先――」
埜先は一通の書状をしたため、手渡した。
「お主には我が軍でもっとも足の速い船と、駿馬を託す。この書状を両将軍にお渡しせよ」
「書状には何と?」
「軍機に属することを、みだりに聞くな」
埜先は厳しい口調で命じた。兆先は拱手すると、急ぎ出立の準備を始めた。
次に茂才に声をかけた。
「太平の靳将軍の仇であるが……仇をそなたに取ってもらいたい」
太平の副将・靳義は茂才とは竹馬の友で、刎頸の契りを交わしたほどの仲であった。
「命令がなくとも、朱元璋の首を刎ね、靳将軍の墓前に供えてやります」
そう肩を震わせながら復讐を誓った。埜先にとっても靳義は江南を守る盟友で、彼の御霊を慰めてやりたいと強く願っていた。二人は雄叫びを上げ、朱軍壊滅を誓い合った。
どうもよくない――。
この頃。湯和は邵栄に危惧の念を伝えた。二人は子興旗揚げ当初からの同志で、立場が変わっても情報を交換しあっていた。
何がよくないのかといえば、郭軍が全軍挙げて渡江してきたことである。子興亡き後、郭軍が滅びずにいるのは彼の能力に拠るところが大きい。子興が生存していた頃は邵栄が郭軍の中枢にあった。しかし今では天祐が実権を手中に収め、邵栄は飾り物のようになってしまっている。
「どうやら私は朱公子に通じている、と思われているらしいよ」
寂しげに笑ったのは、彼も小張夫人と同じく郭軍が自立できないと考えていたからであった。
郭軍が生き残るには元璋を頼る他ない。邵栄は仁義に篤い人で、心底から子興の子供たちの行く末を案じていた。そのために朱軍との連携を模索しているのだが、これが邵栄を孤立させてしまう結果になっていた。
「和よ。公子が太平府を開き、大元帥になったのは早計ではなかったか」
愚痴っぽく、邵栄は湯和に疑問を投げかけた。
今後の戦略を考えると太平府を開き、人民を安堵させることは正しい。朱軍だけならば異論を挟む余地はなかった。しかし郭軍との連携を考えればまずく、小心者の天叙をおびえさせ、狭量な天祐の嫉妬心を増大させたことは連携を危うくしている。
「くだらぬことよ」
もし邵栄が湯和のような性格であったなら、大声で天祐たちを罵ったに違いなかった。だ彼の性格はそのようなことは口に出せなかった。
――これほどの御仁が哀れなことだ。
湯和はこの畏怖すべき友人に同情した。暗く沈んだ空気が流れたが、話題を変えようと邵栄は別の危惧を語り出した。
「内々のことはともかく、和よ。容易ならざる報を知っているか」
「容易ならざる報?」
「また蒙古が動き始めたのだ。義兵元帥・陳埜先が元朝と連携を取って大軍が南下している」
「それはいかんな。すぐに手を打とう」
湯和は諸事行動が早い。辞儀もそこそこに徐達に報告するべく駆け出していった。
「よく知らせてくれました」
徐達は深々と頭を下げたが、この情報を朱軍首脳はすでにつかんでいた。それだけでなく、防戦準備も整えていると言うのだから湯和は驚いた。
「天徳には敵わぬな」
徐達はただにこやかに微笑み、近く軍議が開かれる旨を話すのであった。
太平を取り巻く状況は濠州攻防戦の時と同じく、朱軍にとって危機的なものであった。
一つは四方に敵がいること。
一つは郭軍が合流したことによって再び指揮系統が乱れてしまっていること。
この懸念をどう解決するのか、朱郭両軍が生き残るための大きな課題であった。
いずれも容易ならざる事態であり、その対応を巡って軍議が開かれた。だがこの軍議を召集したのは元璋ではなかった。都元帥・郭天叙の名によって朱郭両軍の諸将に軍議を開く旨が伝えられたのである。これに対し朱軍側から憤りの声が上がったが、
「太平府元帥など朱元璋が勝手に開いたものだ。郭公(天叙)は正式な都元帥ゆえ、左副元帥の元璋が参じるのが筋というものだ」
天祐はあくまで紅巾軍の秩序を重んじるべきだと主張した。
――白蓮教の序列に公私の区別などあるものか。
馮国勝などはあまりの馬鹿馬鹿しさに憤怒した。だが元璋は、
「つまらぬことで騒ぎ立てるな」
と言って、静まるよう朱軍を抑えた。
元璋が恐れていたのは外の敵ではなく、内での諍いであった。
強引に事を進めれば郭軍は蒙古と戦う前に、朱軍と戦う道を選ぶに違いない。そうなれば四方から蒙古軍に攻め立てられ、朱・郭両軍が滅亡してしまうのは必至であった。今回の軍議は思惑あってのことであろうが、ここは黙認をし、場合によっては逆手に取ってやれば良いと、元璋は腹をくくっていた。
軍議が始まったのは夕刻になってからであった。
郭軍の諸将は時刻通りに参上し、遠慮なく上席に着いていった。しかし元璋は一向に現れない。
――どうしたことか。
徐達たち朱軍首脳は首をかしげ、天祐たち郭軍首脳は舌打ちなどをして露骨に不快感を示した。
「かような時に遅参するとは何事か。都元帥はすでにご着座されておられる。あのような不届き者など待たず軍議を開くべし」
邵栄はそれでも待とうと諭したが、天祐は耳を貸さない。結局諸将の制止を振り切るようにして軍議が始まってしまった。
初めからこの軍議は紛糾していた。
いや、紛糾したのではなく、何一つ具体的な案がなく、会議の体をなさなかったというのが実情であった。
例えばある案が提出されても、提案者が責任から逃れようとするため何事も決まらない。 都元帥たる天叙には大局を見渡す視点がなく決断力もなく、また天祐は朱軍首脳の論に異を唱えるだけに夢中で、彼自身は何も打開策を示すことが出来なかった。
――今ほど国瑞のありがたみがわかる時はない。
参席していた湯和が嘆息したほど、この軍議は無意味なものであった。ただ時間のみが流れていく。益体もない軍議が続き、諸将が疲れ果てたころ、ようやく元璋がその姿を現した。
「何をしていたのかッ」
憤然と天祐は吠え、徐達でさえも怪訝な表情で遅れた理由を尋ねた。だが憮然とした表情をした元璋は何も答えない。
「朱元璋ッ」
苛立ちのあまり、天祐は相手の名を呼ぶという非礼を働いたが、元璋は気にも留めなかった。
「――続きを」
元璋は末席に座るや、瞑目して腕を組んだ。その後ひたすら耳を澄ませて黙して何も語ろうとしなかった。
――不気味な。
その場にいた者は誰もがそのように感じた。
元璋はかつて「鬼」と間違われ捕縛された醜顔の持ち主である。普段は愛嬌のある表情で会話も機知に富んでいるため、鬼の風貌が覆い隠されている。だがこのように憮然と沈黙を保つと何とも恐ろしげな鬼に変わってしまうのだ。
諸将は気味悪がったが、軍議をやめるわけにはいかない。沈黙する元璋を傍目に軍議を再開した。
軍議は続く。
だが相変わらず無意味な論争が繰り広げられ、やはり時間だけが流れた。何事も決まらず、諸将はくたびれた。
「諸将よ」
見兼ねた邵栄は一つの案を提示した。
「我らは議論をし尽くしたが、何も良策が浮かばぬ。そこで――」
そう言うと元璋の方に視線を向けた。
「朱元帥は未だ発言をされていない。ここはあなたの意見を伺いたい」
「馬鹿なッ」
当然と言えば当然だが、天祐は猛反対した。しかし辟易していた諸将たちは邵栄の案を渡りに船とばかり、皆賛同の意を示した。
いかなる者も衆意には敵わない。郭軍の諸将ですら同意してしまっている以上、天叙と天祐にこの空気を打ち破る術はなかった。だが元璋はそれでもしばらく瞑目していた。
「朱元帥」
邵栄が声を励ましてうながして、ようやく元璋は眼を開けた。
「……やむをえませんな」
一人一人諸将の顔をのぞき込むようにして眺めた。もはや元璋が発言することに否を唱える者はいなかった。
「諸君は――」
元璋はそう言うと、おもむろに黒白の碁石を取り出し、掌上で弄んだ。
「碁をご存知であろう?」
唐突な質問に諸将は眉をしかめたが、黙ってうなずいた。
「一見複雑な局面でも一つの手によって大きく打開することも出来れば、瓦解してしまうこともある」
元璋は碁石を静かに机上に置いた。
「まずどのような状況にあるか考えねばなるまい。北より江を南下中のマンジハイヤ、西からは陳埜先、東には金陵軍。そして南からは埜先の弟・兆先が太平を狙っている。我らが手中にしているのは太平府、采石鎮、江北の和州、滁州、定遠。随分と領地が広がったが、それら全てを守るには兵力が足りぬ。また四方からの敵全てを同時に撃破することも無理であろう。ではどうするべきか」
黒石を手にして、白石を払いのけた。
「敵の狙いが太平にあるのなら、太平のみに兵力を集中すれば良い。また敵は陳埜先を中心に動いているのだから、彼を討ってしまえば、事態は好転する」
この意見に天祐は目を真っ赤にして反対した。
「国瑞殿はせっかく手に入れた城や領地を捨てよと申されるのか」
この問いに対し、「いかにも」と元璋は力強くうなずいた。
「戦とは取捨選択。何を得、何を捨てるのかを見極めることが肝要だ。それを見誤れば滅亡し、反対に敵の急所を衝けば勝利を得る」
さらに持論を続ける。
「物事には力点というものがある。蒙古の力点は陳埜先とその先手の康茂才である。四方の蒙古軍は彼らを軸に回転していることは疑うべくもない。それと太平以外を放棄することに意味がある」
「意味?」
天祐は噛みつくような口調で訊いた。
「敵軍の軸を叩き潰すことが第一。そのため陳軍を凌駕する兵力を太平に集中させる」
「では兵を集中させるためだけに太平のみを残すと?」
今度は邵栄が質問した。元璋は笑みを浮かべながらかぶりを振った。
「もう一つは空き城を蒙古軍に占拠させ、兵力を分散させます。あらかじめ兵や民を撤退させておけば損害も少ない」
驚くべき計画であった。
敵に空き城を奪わせることで敵の兵力を釘付けにし、当方の兵力を一点に集中させて敵の中枢を破って勝利に導くという大胆なものであった。
――朱元帥は頼うだるお方だ。
よどみのない打開策を打ち出した元璋に朱軍は言うまでもなく郭軍の者でさえ畏敬の念を抱いた。それでも天祐は難色を示したが、腹案のない彼の意見など通るはずもなかった。結局、元璋の示した案が可決されることとなったのである。
この軍議は朱郭両軍にとって大きな転機点となった。
それまで元璋を侮っていた郭軍の古株どもも、元璋を見直さざるをえなくなった。子興と共に兵を挙げただけに古株どもはどこまでも現実主義者で、誰が主であろうともさしたる問題ではない。面子にこだわって命を捨てるのなら、頼り甲斐のある元璋を首領にするべきだと割り切っていた。この軍議を境に彼らの態度を一変した。一方で何も決められなかった天叙と天祐たちは見切りをつけられたのである。
元璋が軍議に遅参したのは、あざとい計算あってのことであった。わざと遅れることで天祐たちの無能ぶりを露見させ、郭軍将領の心をつかもうと画策したのである。
――我が君も人が悪い。
軍師の善長は苦笑しつつ、元璋に力強さを感じるのであった。
軍議が終了したのは明け方であった。さすがの元璋も身心共に疲れきっている。
――俺だけなら夜通しの軍議にならぬのにな。
それにしても天祐たちの無能さには呆れてしまう。彼らが和州に止まり、朱軍単独で動いていた時はどれだけ気が楽であったか。そう思うと頭上から足指まで疲れを感じずにいられない。
鈴陶の許に戻ると、軍装のまま倒れ込むように床に寝転んでしまった。放浪していたころに体験したことだが、疲労が極度に達するとかえって眠れないものだ。あの時と同じように身体が鉛のように重く、動かせない。
「鈴陶――」
顔も上げず、鈴陶に声をかけた。鈴陶はすぐさま靴を脱がせ、そして丹念に足をぬぐってやった。
「俺も結構なご身分になったものだ」
世話をしてもらう自分を嘲笑したが、鈴陶は笑いもしない。
「そうですね。今度は孫爽樹(そんそうじゅ)と申す女子を囲われたとか。まこと結構なご身分」
そう言うと、思いきり足をつねってやった。思わず元璋は声を上げたが、それでも身体は動かなかった。
孫爽樹とは元璋が太平で得た新たな妾で、多忙を極めているくせに、この手の努力だけは惜しまない。だが鈴陶は母の教えに忠実であった。
人前では朱元帥の妻として、妾たちにも親身になってやっている。そのためか、彼女たちは鈴陶を姉のように慕い、何かと挨拶や相談をしにやって来るのである。しかし二人きりになった時は、大いに嫉妬してやろうと決めていた。
嫉妬してやるのも妻の務め――そんなことを自分に言い聞かせていたが、その実はただ鬱憤晴らしをしているだけであった。
「随分とお疲れのようですね」
つねった後が赤くなっていたため、優しくさすってやった。
「国瑞様もお歳なのかしら」
「まだ三十にもなっていない」
「それでは遊びが過ぎるのかしら」
「夜通しで軍議があったからだ。妙な勘ぐりはよせ」
元璋の困じ顔を鈴陶は意地悪く観察してやっている。だが困じるほどの気力がないほど元璋は疲れきっていた。相手に通じてこそ意地悪は愉しいものだが、ここまで疲れている夫をいたぶっても詮無きことと思って、矛を収めてやった。
「濠州の時もそうであったが、外敵はさほど恐ろしくはない。だが内なる敵は……」
「内なる敵?」
「天に日は二ついらず、陽光をさえぎる雲は民の害となる」
「国瑞様」
あまりに暗く沈んだ顔に鈴陶は不安をよぎらせた。すると元璋は起き上がり、鈴陶の身を抱き寄せた。
「そなたは義兄上が好きか」
「幼き頃より可愛がっていただきました」
「では叔父上は?」
「偏屈ではありますが……叔父ですもの。それに決して悪人ではありません」
「そうか、そうだな……」
そうつぶやくと、腕の力を強めた。
「そなたを女子のこと以外で泣かせるわけにはいかないな」
抜け抜けと言う元璋に鈴陶は苦笑した。
「いかなることでも、です。この鈴陶を泣かせるようなことは許しません」
鈴陶はほおを膨らませて冷たい炎を目に宿らせた。元璋はどうにもこの冷たい視線が苦手で、「いかなることでも泣かせぬな」と、目許を笑ませて何度もうなずいた。
元璋は半刻ほど瞑目しながら休憩した。やがて眼を開けたかと思うと、跳ねるように立ち上がって再び靴を履いた。
「よし休めた。これより出陣いたす」
元璋はにこやかに微笑むと、再び鈴陶を今一度抱きしめ、そして部屋から出ていこうとした。
――何だろう?
いつもと様子が違っており、胸騒ぎを覚えた。
一体何が起きるのか、鈴陶は不安でならなかった。
「鈴陶には……悔いがないか」
「悔い?」
「鬼面で何の取り柄もない俺に嫁いだことを悔いてないか」
この問いに鈴陶は笑みを浮かべながら、かぶりを振った。
「悔いなどありませぬ。私は省みることはあっても、悔いは残さぬよう日々を過ごしているつもりです」
「省みることはあっても、悔いは残さぬ?」
「朱元璋の妻になれたことは私の誇り。例えこの先にどんな地獄が待ち受けていようとも悔いはいたしませぬ」
澄みきった瞳で、何のよどみもなく言い放った。
「朱元璋は鈴陶のために死ぬるが良いか、それとも生きるが良いか――どっちだ?」
「これは異なることを申されます。私のためにと思召しなら、石にかじりついても生き延びてください。国瑞様と私は生きるも死ぬのも一緒。国瑞様が鬼となって歩まれるなら私も鬼となります。でもその時は鈴陶の命に代えても国瑞様を人に戻して差し上げます」
元璋は振り向かないためどんな顔をしているのか、わからなかった。ただ無言でいる。
このまま遠くへ行ってしまうのではないか――。鈴陶はこのたびの出陣を押し留めたい衝動にかられたが、その時はすでに元璋は部屋を出てしまっていた。
果たしてどのような修羅の道に進むつもりなのか。
――例え、そうだとしても……。
いかなることになっても夫を信じ続けなければならない――鈴陶は心に堅く誓うのであった。
二
陳軍の動きは予想よりも速かった。元璋は陳軍の動きを見て、やはり埜先は只者ではないと実感した。
「学はないそうですよ」
かたわらにいた国勝が冗談まじりに言うと、元璋は眉をしかめた。
「将に必要なのは机上の空論ではない。複雑な事象を単純明快に出来るか否かだ」
埜先の真髄は整理能力にあると元璋は見ている。頭の良すぎる学者はしばしば物事を必要以上に複雑化してしまう。そのためかえって物の本質を見失い、戦においては敗戦を喫してしまうものだ。賈魯などがその失敗例であり、精強な大軍を擁しながら濠州すらも落とすことが出来なかった。
埜先は読書家ではなく、学問に精通しているわけでもない。しかし人や物の本質を看破する能力に長けている。その現れが眼前で展開される陳軍の動きで、実に無駄なく整然としていた。
――だが彼にとって不幸であったのは所詮、義兵元帥にすぎないということだ。
埜先は蒙古軍の軸であることには違いないが、全指揮権はマンジハイヤにある。いかに名将といえども指揮権がなければ手足を縛られたようなもので、どうしようもない。この点は郭軍というお荷物を抱えている元璋も同様であった。
朱・郭軍が陳軍と対峙していた頃。その他の蒙古軍はどうしていたのか。
「そういうことか」
埜先は敵軍の動きを見て、すぐさま元璋の意図を見抜いていた。
南下するマンジハイヤに急使を送り、太平のみを目指すよう嘆願したのである。しかしマンジハイヤの返事は色よくはなかった。
「我が君より、奪われた江南の城市を取り戻せと命ぜられている」
そう主張して埜先の提案を一蹴したのである。そればかりか空城となって戦略価値のない采石鎮を攻めて占拠してしまい、埜先を失望させた。
マンジハイヤの失策はこれだけに留まらなかった。采石鎮に入ったマンジハイヤ軍が太平に向かうことが出来なくなってしまったのである。それは元璋の密命を受けた巣湖軍が南征軍の糧道を脅かしたために、動くに動けなくなってしまったのであった。
空城に敵兵力を入れて釘付けにする――。
元璋の策通りに事が運び、太平における蒙古軍の決戦兵力は大きく低下してしまった。
だが埜先も手をこまねいてはいない。すぐさま次の手を打った。間諜を駆使し、太平府下の豪族たちを取り込もうとしたのである。間諜たちに、
「白蓮教の輩は土豪を目の敵にしている。己の命と財産を守るために共に戦おう」
と、呼びかけさせたのである。
しかし元璋に抜かりはなかった。太平府を開くや土豪階層であった李善長や馮兄弟、陶安(とうあん)たちを使い、彼らを懐柔していたのだ。
元朝の政策は支離滅裂で、豪族たちの安全と財産は常に不安定であった。そんな状態が百余年続いている。だが朱軍には郷紳出身である善長が軍師として活躍しており、現に朱軍傘下の豪族は手厚く保護されていた。
――蒙古に義理立てする必要はあるまい。
長らく差別され搾取され続けてきた彼らにとって朱軍は同じ漢民族であり、その上、軍律が厳しく安心感があった。どうせ味方に付くのなら早い方が良い。もし運の巡りあわせで元璋が天下を制したなら、早くから援助しておいた方が、子々孫々重用されるであろう。豪族たちがそんな夢を抱く魅力を元璋は放っていたのである。
さらに元璋は手を打った。
「軍を支えるのは豪族だけではない。農民にこそ心を配らなければならない」
この考えに至ったのは元璋が貧しい小作農者出身であったからだ。反蒙古の気運がここまで高まっているが、その最大の力はやはり農民たちである。
豪族の気持ちは豪族に、農民の気持ちは農民に――。
豪族たちへの折衝は善長たちに任せたが、農民の慰撫は湯和や周徳興、呉良といった元璋と同じ階層の者がこれに当たった。
「蒙古の世に戻れば、再び我らは地獄の日々を送らねばならぬ」
彼らは苦渋をなめ尽くしてきただけあって、その訴えは切実であった。その言葉は苦しみあえいでいた農民たちの心をつかんだ。農民たちも百年に亘る悪政で限界に近づきつつあり、元朝が一日長く続けば、それだけ農民たちは苦しめられていく。ならば自分たちの気持ちを理解してくれる朱軍に協力しなければと思わせたのである。
埜先は唖然とした。
――何たる男か。
改めて朱元璋という男の恐ろしさを埜先は認識した。
――このままでは真綿で首をしめられるように陳軍は自滅させられていく。
ここは短期決戦に持ち込まねばならない――そう判断したのである。
――合戦にて雌雄を決すべし。
埜先は筆を取り、決戦を挑む戦書を朱軍に叩きつけた。
――我が意を得たり。
この戦書を手にした元璋は思わず、ほくそ笑んだ。
実を言えば長期戦は朱軍にとって不利であった。籠城戦などに持ち込めば、郭軍との確執が大きくなり自壊する恐れがある。またせっかく采石鎮に足止めさせているマンジハイヤが進発する恐れもあり、そうなれば朱軍の敗北は必至であった。
――許より合戦望むべし。
元璋は急ぎ筆を取り、即座に埜先の挑戦を受けて立ったのである。
かくして朱陳両軍は激突した。
合戦が始まったのは正午近く、少雨の中での戦いであった。
兵力はほぼ互角で、双方とも十三の陣を布いている。陳軍の主力は北方から駐屯している騎馬兵で、兆先がこれを采配した。
茂才は得意の水軍を駆使し、朱軍の退路を断つべく活発に動いている。
一方、朱軍の先陣は常遇春が務め、花雲や費聚(ひしゅう)、呉良など名うての猛将たちが遇春の後に続いた。
水軍は廖永安たち巣湖軍が当たり、茂才の動きを封じようとしている。
埜先の采配は巧みであった。
先陣の兆先を振り子の重りのように使い、朱軍に痛烈な打撃を与えた。また十三陣のうち、七陣に朱軍を取り囲むように左右に展開させたのである。
これは先陣に中央を突破させ、朱軍が壊乱した後に包囲撃滅するという作戦である。
だが朱軍も負けてはいない。陳軍に突破させまいと十三陣を結集させた。先陣の遇春たちは果敢に戦い、兆先軍をよく防いだ。
――だがこのままでは敗れる。
目を細めながら元璋は冷静に戦況を注視している。その注視の目は陳軍だけではなく、友軍である郭軍にも向けられていた。朱軍不利となれば郭軍がどのように動くかわかったものではない。もし彼らが離反などすれば総崩れになるは必至であった。
元璋の左右には幕僚長として善長と徐達が控えている。善長は全軍の連携を調整していた。幾度も兆先軍に中央軍を突破されそうになったが、ここまで持ちこたえることが出来たのは善長の調整力あってのことであった。
徐達は終始無言でただ側に控えて戦況を凝視しているだけであったが、好機が到来したと見るや、進言をしてきた。
「元帥。ここが戦の切所でございます」
「切所?」
徐達はうなずくと、予備軍を率いる鄧愈を呼び出した。
「陳埜先は本陣突破こそ勝利の道と信じ、前面のみに意識を集中しております。そこで常十万殿たち先陣をわざと後退させます。郭軍にはその後詰として進発していただきましょう」
「都元帥が承諾しようか」
「鼎臣殿を遣わしください。邵将軍と共に都元帥を説得してくれましょう」
「承知した。では伯顔(鄧愈)をどのように使うのだ」
「徐達と共に長躯し、敵の側面を衝けば戦況は大いに変わりましょう。ただその間、本陣は手薄となります。苦しき戦いを強いられますが……」
「懸念いたすな。しぶとさは、我が身上だ」
元璋はにこやかに笑い、徐達に許可を与えた。
ちなみに鄧愈の予備軍は朱軍の中でも屈強の騎兵が与えられており、機動力および突貫力がずば抜けている。徐達と鄧愈はすぐさま進発し、朱軍本陣から各将に命が下された。
名将は機を見るに敏であり、徐達は埜先がそうであることを計算に入れている。
――長所は短所、短所は長所に通ずる。
埜先が名将であれば、朱軍の崩れに敏であるはずで、きっと誘いに乗ってくると考えていた。
果たして徐達の読み通りに朱軍の先鋒が後退を始めると、埜先はこれを好機ととらえた。
「この機を逃すなッ」
すぐさま水軍の茂才と、先陣の兆先に命じて総力挙げて中央突撃を命じた。勝利を目前にした軍の勢いは違う。
――押して、押しまくれッ。
陳軍は脳裏に凱歌を奏じつつ、朱軍の息の根を止めようとした。
だが朱軍は粘り強かった。主将元璋への篤き信頼と、彼の揺るぎない心意気が軍勢を強くしていた。
「心折れるな、友を想え、この朱元璋を信じよ、天の加護を引き寄せよッ」
元璋も自ら剣を振るい必死に敵兵と切り結び、総崩れにならぬよう采配を振るった。
戦いは熾烈を極めた。懸命に防戦したが、本陣に斬り込まれた朱軍は時が経つにつれ劣勢となっていく。
――いよいよ凱歌を奏する時だ。
埜先が勝利の光を見たと思った瞬間――。この瞬間こそ徐達が狙い済ませていた好機であった。
「今だ、皆の者、命を捨てよッ」
別働隊を率いていた鄧愈は号令を発し、陳軍の脇を襲った。
青天の霹靂――埜先の脳裏にそんな言葉がよぎった。
一挙に勝利をつかもうとしていた埜先の全神経は前面のみに向けられていた。だが朱軍は意表を突き、陳軍の脇腹を襲ってきたため、総崩れとなってしまったのである。
――やんぬるかなッ。康将軍の水軍を残しておくべきであった。
後悔あとに立たず、埜先は己の迂闊を恨んだが、時すでに遅かった。
これからどうするべきか――埜先はすぐさま善後策を練ったが、麾下の軍勢は混乱をきたしており、いかなる名将でもこれを立て直すことは不可能であった。
埜先はそれでもあきらめずに、すぐさま軍使を走らせた。まず茂才には水軍を稼働させて、巣湖軍に当たらせた。そして兆先には攻勢から守勢に転じさせることとした。
――その間に本陣を立て直すのだ。
さすがは埜先と言うべきか、最後の最後まであきらめはしなかった。だが簡単に事は進まない。
――攻めるのをやめて、守りに徹しよ。
この兄の命に兆先は、「左様なことが出来るか」と、怒声を発し激しくかぶりを振った。だがそれでも軍令は軍令であり、背くことは許されない。兆先は眼を血走らせながら、兄の命に沿って攻勢から守勢に転換させた。だがここに大きな隙が生じてしまった。
「ここを逃すなッ」
戦上手の遇春はこの隙を見逃さなかった。
それまで守勢であった手勢を叱咤激励し、猛然と攻勢に転じたのである。他の猛将たちも遇春に追従した。
戦は連鎖である。
――朱軍だけに手柄を立てさせるな。
勝ちに乗じたい郭軍は、ここぞとばかりに全軍挙げて兆先軍に襲いかかってきたのである。
一方の水軍は、こちらはさながら鬼ごっこの様相を呈していた。茂才が水軍を率いてやって来ると、巣湖軍は蜘蛛の子を散らすように散開した。ところが茂才が本軍を救おうと上陸しようとすると、背後から襲ってくるのである。茂才は本軍と合流することが出来ず、水辺に釘付けとされてしまった。
ここに勝敗は決したのである。
「全滅するわけにはいかぬ」
埜先は戦場から脱出しなければならからない。だが脱する機すら陳軍本陣は喪っていた。
朱軍の善長は巧みに軍勢を動かし、陳軍の退路を断っていたのである。
――死か降伏か。
埜先は悩んだ。だがある考えが脳裏を横切り、邵栄軍に投降することを決意した。
先鋒の兆先は命からがら脱出することに成功し、茂才も水軍をまとめて采石鎮へと退くことが出来た。だが本陣が崩壊し、主将たる埜先が降伏した今では、もはや陳軍は軍勢として態をなしていなかったのである。
采石鎮にいたマンジハイヤ軍は話にならなかった。
マンジハイヤは平素、勇猛さを誇っていたが、どうやらそれは化けの皮であったらしい。彼の軍勢は十分に朱軍と対峙する力があったにも関わらず、過分に朱軍の勢いを恐れ、対岸の峪渓口(よくけいこう)へあたふたと逃げ去ってしまったのである。トクト亡き後の蒙古軍はまこと人材がいなかった。
朱・郭軍は圧勝した。
全て元璋の立案による成果であったが、敵将を虜にした天祐たちはそう思わず、すっかり有頂天になっていた。
「次は金陵だ」
狂喜乱舞しながら勇ましく号令し、天叙もまた人変わりしたように一日でも早く金陵攻めをするよう朱軍に催促したのである。
――先の見えぬ者たちだ。
この浮かれ様に元璋は冷ややかな視線を向けている。
たしかに敵将・埜先を捕らえることに成功した。しかしまだ茂才や兆先たち陳軍残党が失地回復を目指しているのである。浮かれて金陵を目指せば必ず背後を襲われるだけである。
――まだ四方を囲まれていることに変わりはないのだ。
元璋はあくまで冷静であった。うかつに金陵を攻めれば四方の敵に囲まれ、金陵郊外で全滅してしまうのは火を見るより明らかであろう。
起死回生の策を――。
降伏した埜先は密かに巻き返しを狙っていた。囚われの身であったが、彼の頭は目まぐるしく回転している。
戦いが終わって五日。
陳埜先は名将なり――。
このたびの戦いで朱郭両軍ともに埜先をそのように評した。名将は一人でも多く欲しいと、どの軍もこれはという 人材を勧誘する。当然のように連日、埜先は両軍から仕官を求められた。だが埜先は黙して返事をせず、ただ双方の言動をつぶさに観察している。やがて埜先は一つの結論を得た。
――この陳埜先を破ったのは、やはり朱元璋だ。
朱軍は主将である元璋自らが出向き、礼を尽くし、そして仕官するよう要請した。
――物を見る眼が違う。
埜先は元璋という人物をつぶさに監察した。その洞察力に何度も舌を巻き、その周囲にいる善長や徐達、遇春など綺羅星の如き人材が集まっていることに驚愕した。
――それに比べて……。
郭軍のつまらなさよと、埜先は幾度も心内で嘲笑した。
――本気でわしを仕官させたいのか。
そう思ってしまうほど郭軍の勧誘には誠意がなかった。
仕官を説得する者は名も無き百夫長程度の男で、終始その態度は傲慢であった。さらに天叙や天祐たち主将どもは愚劣そのものあり、致命的なのは邵栄以外に人材がいないことであった。その邵栄ですら疎外されてしまっているのだからどうしようもない。そんな郭軍の体たらくを見て埜先は、
――利用するならば郭軍だ。
と、決意した。
彼には底意があった。底意とは朱・郭両軍を戦わせ、崩壊させてしまうことであった。
――脱するか。
幾度もそのように考えた。だがすぐさま「否」と答えを出した。
――今一度、朱元璋に決戦を挑みたい。
これが埜先の願いであった。
出来うるならば脱走して残存兵を集めた上で朱軍に挑みたい。しかし陳軍の主力兵は郭軍に投降し、組み入れられている。単身で脱走したところで再度、兵を集めることは不可能であり、何よりも己一人で逃げ出すような者を郷里の人々が受け入れてくれるはずがない。
――ここはこの陳埜先が獅子身中の虫となって内部を撹乱させ、郭軍をも我が手中に収めよう。
そう目論んでいたのだ。
――朱元璋は主として仕えるに値することは百も承知だ。
忌まわしいと思いつつも元璋の実力は認めざるをえなかった。だが埜先は紅巾軍に恨みがある。彼らに従兄を殺され、盟友であった靳義まで滅ぼされてしまった。今さら節を曲げて紅巾軍の親玉に仕えるなど、彼の誇りが許さなかった。
内部から切り崩すにはまず首領に取り入らなければならず、相手が賢者であっては都合が悪い。才覚がなく野望だけが人一倍ある愚者でなければ利用することは出来ないのだ。
――その点、天叙と天祐ならば……。
取り入って利用するのに、これほどうってつけの野望家はいない。埜先はひそかにほくそ笑んでいた。
かくして「名将」埜先を陣営に加えた天祐たちは狂喜し、いとも簡単に郭軍の中枢に招き入れてしまったのである。
三
自身に力がない者ほど権威に弱い。
「名将」陳埜先の威名に、もっともなびいたのが、郭軍の総帥・天叙であった。彼は埜先を「師父」と仰ぎ、軍師に迎えたのである。埜先は軍師として様々なことを天叙たちに吹き込んだ。
「天に二日なしと申します。都元帥たる我が君こそ天の一日となるべきなのです」
そのように甘い言葉をささやき、暗に元璋を取り除くことを示唆したのである。しかしいざとなると、天叙は意気地がなかった。
「たしかに元璋は出過ぎておるが、共に小明王様にお仕えする身だ。また義妹の婿でもある」
乱世の主とは思えないような甘いことを口にして、埜先を呆れさせた。
「我が君はまこと仁愛に満ちたお方ですな」
埜先は心にもないことを口にして褒めそやした。
「その御心は得がたきもの。しかしその御心は民と、我が君に仕えし家臣にお向けなさい。人は同じ所から出立しても、たどり着く地は違うもの。なるほど朱元帥は同志であり、我が君の妹婿でございます。ですが今ではそのようなことを忘れ、主筋たる我が君を軽んじております。ここは仁愛を施すべき万民のために心を鬼になさいませ」
埜先はいかにも心痛な面持ちで涙ぐんだ。とんだ役者であったが、この演技にかたわらにいた天祐も乗ってきた。
「賢人の言を軽んじなさるな」
そう声を励まして元璋排除をうながしたのである。天叙はなおも悩み、渋っていたが、やがて力無くうなずいた。
「この埜先に良き思案がございます」
「思案?」
「群衆を納得させ、我が君の体面と義を傷つけない良き思案が――」
この埜先の言葉に天叙は飛びつくようにして耳をかたむけた。
「朱軍を葬り、そして金陵を奪うのです」
「そのようなことが出来るのか?」
「これをご覧なさい」
そう言うと埜先はおもむろに一枚の地図を懐から出した。のぞき込むと金陵付近のものであった。
「金陵は今、江南御史大夫の福寿(ふくじゅ)がわずかな兵にて守っております。この福寿なのですが――」
言葉を止め、一通の書状を埜先は懐から出した。見ればそれは福寿に投降をうながすものであった。
「福寿とそれがしは旧知の仲。この書状を送れば、きっと我が方に寝返りましょう」
なるほど、と天祐はうなずいた。
「ですが……」
埜先は笑みを収め、眼光を鋭くした。
「これだけでは、ただ金陵を手に入れただけに過ぎませぬ。金陵攻略にかこつけて朱軍に罠を仕掛けてやるのです」
「罠?」
「はい。朱軍には共同で金陵を攻めようと申し出るのです。我らは西方、朱軍は南方から攻めて挟撃しようと。朱軍が敵中深く入った所を見計らって、金陵軍に烽火を上げるのです。また陳軍残党にも私から味方につくよう催促いたしておきます。彼らにも金陵に迫ってもらい、朱軍を攻めさせます。こうして八方塞がりになった朱軍を身捨てれば……朱元璋は敵の手によって討死いたしましょう」
友軍を騙して、利の全てを一人占めにするという人道にもとる策であった。
――我ながらおぞましい。
献策した埜先自身、内心不愉快であった。ところが天祐はさすが軍師よと、手を打って喜んだ。
――何と軽薄な。
この天祐の態度に、埜先は反吐が出そうになっていた。だがここは我慢せねばならず、つとめて不快感を覆い隠して、ひたすら柔和な笑みを浮かべた。
「ご主君に一つお願いがございます」
恐ろしげなこの策略に身を震わせていた天叙に埜先は願い出た。
「この策を実行するに当たって、それがしの旧兵三万をお授けいただけませぬか」
「旧兵を?」
「手持ちの兵がないと諸事動くことが適いませぬ。ご主君の大事を成すためにも、ご熟考願います」
この願いだが、拍子抜けするほどすぐさま聞き届けられた。埜先は深々と頭を下げ、厚恩に感謝した。しかし内心ではあまりの他愛のなさに呆れ果てていた。かえって深慮遠謀があるのではないか、と勘繰ってしまうほどこの二人は素直であったが、埜先は策を進めるべく足を進めるのであった。
共に力を併せて金陵を奪取しよう――。
郭軍から朱軍に申し入れがあった時、馮国用が珍しく怪訝な表情をした。
「どうにもきな臭いですな」
「きな臭い、とは?」
「聞くところによりますと、金陵攻めを献策したのは、あの陳埜先とのことです」
「陳埜先が……なるほど、きな臭いな」
国用は深くうなずいた。
「それにしても、かの者は何を考えて金陵攻めを献策したのか。奇なることだな」
そう言うと、何が可笑しいのか元璋は哄笑した。
埜先のことはよく調べている。
彼は志が高く、つまらぬ者と決して付き会わない。また白蓮教を心より憎み、故郷を誰よりも愛している。その埜先が紅巾軍都元帥に智恵を貸し、さらには故郷である江南制覇を手助けするなど、どう考えてもおかしな話であった。
「都元帥は埜先に兵を三万も返してやったそうじゃないか」
「よくご存じで」
国用は元璋の情報収集力に驚いた。旧兵返還は邵栄から湯和にもたらされた情報であった。
「そこまでご存じでありながら、何ゆえ金陵攻めをご承諾されたのですか」
「存じているから、承諾したのだ」
冷たく暗い表情で元璋は答えた。
「妙山。人を呪うと我が身に戻ってくるものだ。もし彼らが我らと共に金陵を手にするつもりならば、富貴を分かち合えよう。ただし彼らに悪意があるのなら……」
国用は元璋が何を言わんとしているのがすぐに察し、表情を暗くした。
「残念ながら陳埜先の献策ゆえ……十中八九は――」
「……やむをえまい。降りかかった火の粉は払わねばならん。それにそろそろ決着をつけねばならんし、な」
それ以上元璋は語ろうとしなかった。
亡き子興への恩があり、曲がりなりにも共に蒙古軍と戦ってきた同志である。何とかしてやりたいが、相手がそのつもりならどうしようもなかった。
元璋には志がある。
それは苦しみに満ちた世を革め、万民が安穏に暮していける世を創ることにある。そのために金陵を奪取して、他の群雄や蒙古軍を滅ぼさなければならない。埜先は天叙たちを利用し、自らの復権を目指しているに違いない。ならばその企みを丸ごと利用してやり、全てを一掃させてやればいいのだ。
天叙と天祐を抹殺することは、元璋にとって身を切られるような痛みを伴う。彼らは妻の義兄と義弟であり、叔父なのだ。自分を引き立ててくれた夫人にとっては弟と息子たちなのである。彼女たちに何と言って詫びれば良いのかわからない。だが天叙たちはすでに矢を放ち、元璋もまた迎え討たんと矢をつがえてしまっている。もう後戻りは出来なかった。
――今の俺は俺一人のものではない。皆の朱元璋なのだ。
元璋はそのように自分の立場を心得ている。その双肩には十万以上の将兵と、その家族、そして支配する土地の人々の生活がかかっている。皆のために一匹の鬼とならねばならないのだ。
その昔、元璋は人として鈴陶に救われた。だがその鈴陶の義兄と叔父を討って、鬼とならなければならない。何と皮肉で過酷な運命であることか。
――鈴陶……許してくれよ。
元璋は虚空を見上げながら歯を食いしばるしかなかった。金陵攻略の命が朱軍に下されたのはそれから間もなくのことであった。
至正十五年夏。
朱・郭両軍は金陵を目指して太平を進発した。
郭軍は埜先を先鋒として西方から進撃し、朱軍は遇春を先陣として南方から金陵を目指したのである。途中、郭軍は兵力補充のためと称して、陳軍残党を軍に加えた。そして金陵攻略を号令したものの、その動きは極めて遅かった。
邵栄などは、
「このままでは朱軍が金陵に先入りしますぞ」
と、忠告した。いつもなら天祐あたりが騒ぎ立てるものだが、妙に落ち着いている。
――どうしたことか。
邵栄は眉をしかめたが、どうにも天叙たちの真意がわからなかった。だが進軍速度が遅かったのは、郭軍だけではなく、朱軍も同様であった。
元璋は徐達に兵を与え、溧水(りっすい)、溧陽(りつよう)、句容(くよう)、蕪湖(ぶこ)といった金陵南方にある地域を攻略させていた。これらの地を掌握すれば、金陵を包囲することが出来るからだ。
一見、郭軍と歩調を合わせているように思えたが、無駄な手を元璋は打たなかったのである。
朱軍の不可解な動きは埜先の許に知らされた。
――まったく煮ても焼いても食えぬ男よ、朱元璋は――。
今さらながら元璋のしたたかさに呆れる思いであった。彼の思惑は朱軍に先行させ、陳・郭・金陵三軍で取り囲み殲滅させようというものであった。しかし朱軍は容易に動かず、郭軍と歩調を合わせている。
――ここは呼び水が必要か。
朱軍を深入りさせるためには郭軍を動かさなければならないであろう――埜先はそう考え、天叙にその旨を奏上した。郭軍は埜先の進言に従って軍を進めさせ、溧水地方を攻略した朱軍も同じく金陵に向けて進撃したのである。
太平を出立して一ヶ月。
両軍はようやく金陵付近に到達した。しかし朱軍は微動だにせず、ひたすら郭軍が動き出すのを待っている。
――どういうつもりだ?
さすがの埜先も焦りを覚えた。朱軍が攻めてくれなければ、彼の謀略は成功しないのだ。
まさか、と埜先は不安にさいなまれた。自分の意中を元璋は見抜いているのではないのか――そう思うからであった。と言ってこのまま退くわけにもいかない。ここは今一度、郭軍を動かすしかなかった。
「このまま対峙していても埒があきませぬ。いっそのこと、攻めましょう」
「内応している福寿を攻めると申すのか」
「ご懸念には及びませぬ。朱軍を誘い出すために攻め入るふりをするのです」
埜先はそのように説明し、ついに郭軍は城攻めを開始した。朱軍も同じく鐘鼓を鳴らして金陵を攻撃した。
――このまま城攻めを続け、頃合いを見つけて兵を退く。
埜先は密かに茂才と兆先たち旧兵に使いを送って、朱軍包囲網を形成させた。
金陵攻撃開始から二日後の夜。
埜先にとって天地を揺るがす事態が発生した。
野営していたはずの朱軍が、夜陰に紛れて撤退してしまったのだ。撤退しただけではなく、城内に間諜を放って、「朱軍残留、郭軍後退」と、書かれた矢文を射込んだのである。
さらに密命を受けた国勝が襄陽砲三門にて震天雷を城内に撃ち込み、あたかも朱軍の夜襲を演出したのであった。
「残留した朱軍を挟撃すべし」
密書を受け取っていた福寿は機を逃すまいと、城を打って出た。
夜半にて周囲は暗闇に包まれている。言わば目隠しされたような状態で金陵軍は城外の兵に夜襲を敢行したのである。叩けるだけ叩いてやろうと、福寿は兵士たちを鼓舞させた。
だが福寿は何も知らなかった。
まさか己が襲撃しているのが内通しているはずの郭・陳軍であることとは夢想だにしなかった。
福寿に襲われた郭・陳軍は混乱の極みに達した。
「これはどういうことだ?」
阿鼻叫喚、暗闇の中、郭・陳軍は金陵軍に追い立てられ、次々と兵たちは討たれていった。指揮する者はなく、軍は完全に崩壊し、力のない将兵は暗闇の中で次々と力尽きていく。
そうした中、天叙は流れ矢で命を落とし、天祐は半狂乱の中、自刎して果てた。
天叙の弟である郭天爵は幸いにも邵栄と共にいたため、彼に守られて辛うじて戦場を脱出することに成功した。
埜先はと言うと、その最期は何ともみじめであった。
郭軍崩壊の渦に巻き込まれ、金陵軍の手によって討ち取られてしまった。
――策士、策に溺れる。
人を陥れる罠は天の怒りを受けるものなのか――埜先は朱・郭両軍に仕掛けようとした罠で自身を滅ぼす結果となってしまったのである。
「おのれ朱元璋、謀りおったなッ」
彼が最期に出来たことは自身が謀ったことを棚に上げ、そう罵ることのみであった。
かくして名将の器であった埜先は人を呪ったばかりに狂乱の中で朽ち果ててしまったのである。
「こ、これは……」
夜が明けてみると、福寿は我が目を疑い、そして絶句した。
戦場に転がる死体は味方であるはずの郭・陳軍であり、朱軍はその場にはいなかったのである。
「どういうことだ?」
戸惑う福寿をさらに混乱させたのは、埜先の死体まであったことであった。彼の首を見てようやく、その秘策が敗れたことを理解したのだ。
「終わりだ、もう終わりだ――」
福寿は顔をゆがめながら、逃げるようにして城に籠り、堅く門を閉ざした。もはや福寿に打開する術は残されてはいなかった。
一方。郭軍の生き残りは、将を失った彼らは朱軍に迎え入れられた。邵栄は郭軍を無事に帰還させた功でおとがめなしとされたが、天爵は都元帥や右副元帥に道を誤らせたとして、全ての兵権を奪われてしまったのである。その結果、郭軍は解体されることになり、邵栄は朱軍の将軍として迎えられた。
陳軍はと言うと、茂才と兆先は残党を率いて再びマンジハイヤの許に逃げ込もうとした。しかし朱軍に阻まれ、茂才は降伏し、兆先は血路を開いて金陵へ逃げ込んだ。逃げ込んだ陳軍はわずかな数となっており、事実上陳軍は壊滅したと言えた。だが元璋はすぐに金陵を攻めなかった。
「兵を太平に戻す」
金陵に守備兵がいるにはいるが、その戦意はくじけてしまっている。そんな金陵を攻略することはいともたやすい。それよりも元璋が成さなければならないのは一刻も早く朱・郭両軍を一つに再編成して、元璋の主導権を確立させなければならなかった。ここに子興没後より混乱し続けてきた両軍はようやくにして指揮系統を統一することが出来たのである。
両軍を掌中に収めた元璋の動きは実に目覚しかった。
至正十六年二月。
遇春率いる精鋭がマンジハイヤ軍を撃破。制江権を奪回し、和州以北との連絡を復活させた。
三月一日。
兆先が陳軍残党を集結させて挙兵。しかし茂才によって鎮圧され、この戦いで兆先は討死した。
三月十日。
孤立無援となった金陵を元璋は全軍を挙げて攻略。
守将・福寿は奮戦したが、破竹の勢いである朱軍に抗しきれず、あえなく金陵は落城。この戦いで一兵卒となっていた天爵は討死し、郭家の直系は途絶えてしまった。
かくして宿願の金陵を手に入れ、全軍統帥権を元璋は手に入れることが出来た。
しかしその心は決して晴れやかではなく、むしろ陰惨とした気持ちに包まれている。 凱旋した彼を待ち受けていたのは凍てついたような目つきの鈴陶であった。
元璋は無表情のまま近づき、しばらく鈴陶の顔を見つめた。
「とうとう……本物になってしまったな」
重く、ひどく沈んだ声で元璋はつぶやいた。そしてそれ以上は何も語らず、そのまま部屋を出ていってしまった。
「うああああ――ッ」
元璋が去った後の部屋から、力無き幼子のような鈴陶の泣き声が、廊下にまで鳴り響いた。しかし元璋は振り向きもせず、足も止めなかった。ただただ真直ぐに歩み続けた。
――俺は全てを喰らい尽くす鬼になってやる。全てを、全てを――。
元璋は泣かなかった。いや、泣けなかった。
大義のために鈴陶の大事な人を奪ってしまったのだ。人を捨て鬼と化してしまった以上、元璋に残されたのは、どのような手を使ってでも万民が安穏に暮らせる世を創らねばならなかった。そうでなければ鈴陶が救われない。
元璋の心は火傷のような痛みに覆い尽くされている。だが立ち止まることは許されない。
間もなく春であるというのに金陵には冷たく乾いた風が吹き荒んでいた。
一
権力をめぐる男の嫉妬ほど始末に悪いものはない。
元璋が太平府を開き、大元帥に就任したことは和州の郭天叙・天祐兄弟たちを大きく刺激した。郭子興没後、朱郭両軍の溝は深くなる一方であった。朱軍が渡江を開始した折も和州守護を名目に郭軍は一兵も援軍を出さなかったのである。だが元璋は、
「和州は我らにとって大事なる地」
と言って、郭軍の行動を非難しなかった。
その郭軍の動きだが、天祐に目論みがある。それは朱軍が渡江に失敗するか、はたまた江南で長期戦となって自滅することを願っていたのであった。
ところがその予想は大きくはずれた。朱軍は渡江に成功したのみならず、太平まで手に入れてしまったのである。さらに独自の行政府たる太平府まで開府したため、朱軍の実力は郭軍を大きく上回る結果になってしまった。
――このままではまずい。
天祐でなくとも、この現状をよしとする者はいないであろう。郭軍は明らかにその勢力を失いつつある。
――郭軍には人がいない。
これが郭軍衰退の最たる原因であった。
子興は傍若無人で癇癪持ちであったが面倒見が良く、人徳のようなものを有していた。それゆえ元璋をはじめ、家臣たちが最後まで子興を見放さなかったのである。だが子興の後継者たちは人の上に立つ器量というものを誰も持ち合わせてはいなかった。
――義兄は人として大好き。
義妹の鈴陶は義兄の優しさが好きでならない。
――一方、人としては主殿の方は悪党。
平安な世ならば義兄を褒める者がいても、したたかな元璋は忌み嫌われたに違いない。
だが今は乱世であり、朱軍も郭軍も興亡の際に立たされている。子興の後継者として生を享けてしまった義兄はしたたかでなければならないのだ。
――義兄は人が良いから、すぐ他人に染まってしまう。
鈴陶はそのことが不安で仕方がなかった。優しさは美徳だが、人を率いるには自分がないといけない。
争いは自我の対決であり、その自我をいかにして統御・調整するのかが統率者に求められる力量であった。義兄には統率者の能力が皆無で、郭子興の子に生まれたために、統帥に祭り上げられたにすぎなかった。
義兄と違って、鈴陶は叔父が好きではなかった。それは叔父が陰謀こそ乱世を渡る唯一の術だと信じ、義兄をその道具として利用していたからである。
天祐は反対のための反対を好み、人の揚げ足を取るのが得意であった。また権威を利用する術に長けており、一時は小明王の力を背景に元璋を出し抜くことに成功した。
だが陰謀は薬と同じで過度に用いることは危険であった。先が読めない者が陰謀を用いることはやがて身を滅ぼしてしまう。その点、子興は陰謀の危うさをよく知っていた。
「わしは難しきことはせぬ」
これが子興の口癖であった。
ただ策謀どころか根回しすら嫌っていたため、窮地に陥ることもあった。しかし陰謀を巡らさなかったおかげで滅亡を免れていたとも言えた。
天祐たちを危ぶんだのは鈴陶だけではなかった。
子興の妻・小張夫人である。
彼女は弟や息子たちとは違って物の本質を見極める能力がある。元璋の能力を見抜き、鈴陶を嫁がせたのも彼女であった。その彼女が思う郭家の進むべき道が一つある。
それは朱軍に傘下に入ることであった。
――哀しいかな、天祐と婿殿の器量には天地ほどの開きがある。
夫人はそう見ている。天祐は必死になって元璋を出し抜こうと策略を巡らせるが、その都度、元璋は逆手を取っては郭軍の力を吸い上げていった。
「悪手は打たぬが賢明ですよ」
たまり兼ねた婦人が幾度も弟に警告したことがある。しかし天祐は頑として聞こうとしない。
「表のことは我らにお任せあれ。何もしなければ、郭・張両家の全てを、あばた顔に奪われてしまいますよ」
――嗚呼、やんぬるかな。
夫人は失望し、身の処し方を模索した。
――誰を頼るべきか、誰を扶けねばならぬか。
夫人の脳裏に瞬時に浮かんだ名は言わずもがな、元璋であった。いやどう考えても元璋以外に自分の余生と若き芙蓉を託す人物はいなかった。
――今なら難儀なく婿殿の許にいける。
夫人は、「あること」を耳にしていた。「あること」とは元璋に嫡子・標が産まれ、鈴陶が養育しているという話であった。
「鈴陶を手伝ってあげましょう」
夫人はそう言うと、芙蓉を連れて鈴陶の邸へ身を遷してしまった。あまりの自然さに誰も異存がなかったほどであった。
夫人には女性としての深く、そして哀しい考えがある。
このままでは郭家の血は息子たちによって絶たれてしまう。その前に郭家の血を受け継ぐ芙蓉も連れていかなければならない。血を残すことこそ最も大事なる人の道――そんな孝の考えが夫人の根底にあった。 だが天叙たちは夫人の深慮を窺い知る能力はなかった。天祐は、
「やっとうるさい姉から解き放たれた」
と、嬉しげに寝室で妾に語ったと云う。この話を漏れ聞いた夫人はただ「そう」と一言つぶやいたのみであった。
郭家とのいざこざにかかわりなく、朱軍は敵について警戒を怠ることは許されなかった。
「江南に人なしと、お思いになってはなりませぬぞ」
そう忠告したのは巣湖軍の廖永安であった。
トクトの死後、江南における元朝の力は急激に衰退している。しかし彼の遺産と言うべき将が健在であった。
その一人に 陳埜先(ちんやせん)がいた。
南人であるが、稀代の智将として近隣にその名が轟いている。
郷土愛が強く、人々から故郷の柱とされた人物であった。トクトも彼の才幹を認め、義兵元帥に封じて江南中域の指揮を委ねたのである。
埜先は故郷を守るために強き軍を編成しなければならないと考え、父老たちの協力を得て義勇軍を結成した。
厳格な軍律を定め、略奪暴行を禁止し、地元の富豪たちに援助物資を支援させる代わりに故郷防衛を買って出ているやり方は元璋とそっくりであった。人材の勧誘および育成にも熱心で、彼が見出し育てた若者たちは埜先の手足となって郷里を守衛している。
その人材の中に船を動かせば江南第一と評された康茂才(こうもさい)や、豪傑として知られる弟の陳兆先(ちんちょうせん)がいた。朱軍が金陵を攻めるためには陳軍は叩いておかねばならない勢力であった。
その埜先たちに驚愕すべき情報がもたらされた。
朱軍が采石鎮を落とし、さらに太平まで攻略してしまったという知らせであった。さらに和州にいた郭軍までも渡江し、連合で金陵を目指していると云う。
「このままでは白蓮教徒どもに江南が穢されてしまう」
埜先は地面に唾を吐き、大きく舌打ちした。
彼ほど紅巾賊――白蓮教徒を毛嫌う人物もいなかった。蒙古は南人にとって憎かったが、それ以上に邪教で人を惑わし、故郷を踏みにじる白蓮教徒がどうしても許せなかったからである。だが相手は大軍を擁し、士気がすこぶる高い。まともに戦えば郷土の兵を死地に追いやるだけであった。
埜先は茂才と弟を呼び、紅巾軍撃退の策を練った。弟の兆先は元朝中枢と深い繋がりを持っており、逐一、朱軍の動きを知らされていた。
その弟が朗報を知らせてくれた。チャガンティムールが麾下のマンジハイヤとアルクゥイに五万の兵を与えて南下させているとのことであった。
「あの二人をお遣わしになったか」
「兄上はご存知なのですか」
「義兵元帥を拝命するために上洛したことがあるが、その時に王保保様のお引き合わせでお会いした」
保保はチャガンの甥で、かつて濠州を賈魯と共に攻めた将軍である。
「マンジハイヤ将軍は冷静沈着で、人の話をお聞きになる。アルクゥイ将軍は蒼狼の如く豪勇で、機を見るも敏な方だ。兆先――」
埜先は一通の書状をしたため、手渡した。
「お主には我が軍でもっとも足の速い船と、駿馬を託す。この書状を両将軍にお渡しせよ」
「書状には何と?」
「軍機に属することを、みだりに聞くな」
埜先は厳しい口調で命じた。兆先は拱手すると、急ぎ出立の準備を始めた。
次に茂才に声をかけた。
「太平の靳将軍の仇であるが……仇をそなたに取ってもらいたい」
太平の副将・靳義は茂才とは竹馬の友で、刎頸の契りを交わしたほどの仲であった。
「命令がなくとも、朱元璋の首を刎ね、靳将軍の墓前に供えてやります」
そう肩を震わせながら復讐を誓った。埜先にとっても靳義は江南を守る盟友で、彼の御霊を慰めてやりたいと強く願っていた。二人は雄叫びを上げ、朱軍壊滅を誓い合った。
どうもよくない――。
この頃。湯和は邵栄に危惧の念を伝えた。二人は子興旗揚げ当初からの同志で、立場が変わっても情報を交換しあっていた。
何がよくないのかといえば、郭軍が全軍挙げて渡江してきたことである。子興亡き後、郭軍が滅びずにいるのは彼の能力に拠るところが大きい。子興が生存していた頃は邵栄が郭軍の中枢にあった。しかし今では天祐が実権を手中に収め、邵栄は飾り物のようになってしまっている。
「どうやら私は朱公子に通じている、と思われているらしいよ」
寂しげに笑ったのは、彼も小張夫人と同じく郭軍が自立できないと考えていたからであった。
郭軍が生き残るには元璋を頼る他ない。邵栄は仁義に篤い人で、心底から子興の子供たちの行く末を案じていた。そのために朱軍との連携を模索しているのだが、これが邵栄を孤立させてしまう結果になっていた。
「和よ。公子が太平府を開き、大元帥になったのは早計ではなかったか」
愚痴っぽく、邵栄は湯和に疑問を投げかけた。
今後の戦略を考えると太平府を開き、人民を安堵させることは正しい。朱軍だけならば異論を挟む余地はなかった。しかし郭軍との連携を考えればまずく、小心者の天叙をおびえさせ、狭量な天祐の嫉妬心を増大させたことは連携を危うくしている。
「くだらぬことよ」
もし邵栄が湯和のような性格であったなら、大声で天祐たちを罵ったに違いなかった。だ彼の性格はそのようなことは口に出せなかった。
――これほどの御仁が哀れなことだ。
湯和はこの畏怖すべき友人に同情した。暗く沈んだ空気が流れたが、話題を変えようと邵栄は別の危惧を語り出した。
「内々のことはともかく、和よ。容易ならざる報を知っているか」
「容易ならざる報?」
「また蒙古が動き始めたのだ。義兵元帥・陳埜先が元朝と連携を取って大軍が南下している」
「それはいかんな。すぐに手を打とう」
湯和は諸事行動が早い。辞儀もそこそこに徐達に報告するべく駆け出していった。
「よく知らせてくれました」
徐達は深々と頭を下げたが、この情報を朱軍首脳はすでにつかんでいた。それだけでなく、防戦準備も整えていると言うのだから湯和は驚いた。
「天徳には敵わぬな」
徐達はただにこやかに微笑み、近く軍議が開かれる旨を話すのであった。
太平を取り巻く状況は濠州攻防戦の時と同じく、朱軍にとって危機的なものであった。
一つは四方に敵がいること。
一つは郭軍が合流したことによって再び指揮系統が乱れてしまっていること。
この懸念をどう解決するのか、朱郭両軍が生き残るための大きな課題であった。
いずれも容易ならざる事態であり、その対応を巡って軍議が開かれた。だがこの軍議を召集したのは元璋ではなかった。都元帥・郭天叙の名によって朱郭両軍の諸将に軍議を開く旨が伝えられたのである。これに対し朱軍側から憤りの声が上がったが、
「太平府元帥など朱元璋が勝手に開いたものだ。郭公(天叙)は正式な都元帥ゆえ、左副元帥の元璋が参じるのが筋というものだ」
天祐はあくまで紅巾軍の秩序を重んじるべきだと主張した。
――白蓮教の序列に公私の区別などあるものか。
馮国勝などはあまりの馬鹿馬鹿しさに憤怒した。だが元璋は、
「つまらぬことで騒ぎ立てるな」
と言って、静まるよう朱軍を抑えた。
元璋が恐れていたのは外の敵ではなく、内での諍いであった。
強引に事を進めれば郭軍は蒙古と戦う前に、朱軍と戦う道を選ぶに違いない。そうなれば四方から蒙古軍に攻め立てられ、朱・郭両軍が滅亡してしまうのは必至であった。今回の軍議は思惑あってのことであろうが、ここは黙認をし、場合によっては逆手に取ってやれば良いと、元璋は腹をくくっていた。
軍議が始まったのは夕刻になってからであった。
郭軍の諸将は時刻通りに参上し、遠慮なく上席に着いていった。しかし元璋は一向に現れない。
――どうしたことか。
徐達たち朱軍首脳は首をかしげ、天祐たち郭軍首脳は舌打ちなどをして露骨に不快感を示した。
「かような時に遅参するとは何事か。都元帥はすでにご着座されておられる。あのような不届き者など待たず軍議を開くべし」
邵栄はそれでも待とうと諭したが、天祐は耳を貸さない。結局諸将の制止を振り切るようにして軍議が始まってしまった。
初めからこの軍議は紛糾していた。
いや、紛糾したのではなく、何一つ具体的な案がなく、会議の体をなさなかったというのが実情であった。
例えばある案が提出されても、提案者が責任から逃れようとするため何事も決まらない。 都元帥たる天叙には大局を見渡す視点がなく決断力もなく、また天祐は朱軍首脳の論に異を唱えるだけに夢中で、彼自身は何も打開策を示すことが出来なかった。
――今ほど国瑞のありがたみがわかる時はない。
参席していた湯和が嘆息したほど、この軍議は無意味なものであった。ただ時間のみが流れていく。益体もない軍議が続き、諸将が疲れ果てたころ、ようやく元璋がその姿を現した。
「何をしていたのかッ」
憤然と天祐は吠え、徐達でさえも怪訝な表情で遅れた理由を尋ねた。だが憮然とした表情をした元璋は何も答えない。
「朱元璋ッ」
苛立ちのあまり、天祐は相手の名を呼ぶという非礼を働いたが、元璋は気にも留めなかった。
「――続きを」
元璋は末席に座るや、瞑目して腕を組んだ。その後ひたすら耳を澄ませて黙して何も語ろうとしなかった。
――不気味な。
その場にいた者は誰もがそのように感じた。
元璋はかつて「鬼」と間違われ捕縛された醜顔の持ち主である。普段は愛嬌のある表情で会話も機知に富んでいるため、鬼の風貌が覆い隠されている。だがこのように憮然と沈黙を保つと何とも恐ろしげな鬼に変わってしまうのだ。
諸将は気味悪がったが、軍議をやめるわけにはいかない。沈黙する元璋を傍目に軍議を再開した。
軍議は続く。
だが相変わらず無意味な論争が繰り広げられ、やはり時間だけが流れた。何事も決まらず、諸将はくたびれた。
「諸将よ」
見兼ねた邵栄は一つの案を提示した。
「我らは議論をし尽くしたが、何も良策が浮かばぬ。そこで――」
そう言うと元璋の方に視線を向けた。
「朱元帥は未だ発言をされていない。ここはあなたの意見を伺いたい」
「馬鹿なッ」
当然と言えば当然だが、天祐は猛反対した。しかし辟易していた諸将たちは邵栄の案を渡りに船とばかり、皆賛同の意を示した。
いかなる者も衆意には敵わない。郭軍の諸将ですら同意してしまっている以上、天叙と天祐にこの空気を打ち破る術はなかった。だが元璋はそれでもしばらく瞑目していた。
「朱元帥」
邵栄が声を励ましてうながして、ようやく元璋は眼を開けた。
「……やむをえませんな」
一人一人諸将の顔をのぞき込むようにして眺めた。もはや元璋が発言することに否を唱える者はいなかった。
「諸君は――」
元璋はそう言うと、おもむろに黒白の碁石を取り出し、掌上で弄んだ。
「碁をご存知であろう?」
唐突な質問に諸将は眉をしかめたが、黙ってうなずいた。
「一見複雑な局面でも一つの手によって大きく打開することも出来れば、瓦解してしまうこともある」
元璋は碁石を静かに机上に置いた。
「まずどのような状況にあるか考えねばなるまい。北より江を南下中のマンジハイヤ、西からは陳埜先、東には金陵軍。そして南からは埜先の弟・兆先が太平を狙っている。我らが手中にしているのは太平府、采石鎮、江北の和州、滁州、定遠。随分と領地が広がったが、それら全てを守るには兵力が足りぬ。また四方からの敵全てを同時に撃破することも無理であろう。ではどうするべきか」
黒石を手にして、白石を払いのけた。
「敵の狙いが太平にあるのなら、太平のみに兵力を集中すれば良い。また敵は陳埜先を中心に動いているのだから、彼を討ってしまえば、事態は好転する」
この意見に天祐は目を真っ赤にして反対した。
「国瑞殿はせっかく手に入れた城や領地を捨てよと申されるのか」
この問いに対し、「いかにも」と元璋は力強くうなずいた。
「戦とは取捨選択。何を得、何を捨てるのかを見極めることが肝要だ。それを見誤れば滅亡し、反対に敵の急所を衝けば勝利を得る」
さらに持論を続ける。
「物事には力点というものがある。蒙古の力点は陳埜先とその先手の康茂才である。四方の蒙古軍は彼らを軸に回転していることは疑うべくもない。それと太平以外を放棄することに意味がある」
「意味?」
天祐は噛みつくような口調で訊いた。
「敵軍の軸を叩き潰すことが第一。そのため陳軍を凌駕する兵力を太平に集中させる」
「では兵を集中させるためだけに太平のみを残すと?」
今度は邵栄が質問した。元璋は笑みを浮かべながらかぶりを振った。
「もう一つは空き城を蒙古軍に占拠させ、兵力を分散させます。あらかじめ兵や民を撤退させておけば損害も少ない」
驚くべき計画であった。
敵に空き城を奪わせることで敵の兵力を釘付けにし、当方の兵力を一点に集中させて敵の中枢を破って勝利に導くという大胆なものであった。
――朱元帥は頼うだるお方だ。
よどみのない打開策を打ち出した元璋に朱軍は言うまでもなく郭軍の者でさえ畏敬の念を抱いた。それでも天祐は難色を示したが、腹案のない彼の意見など通るはずもなかった。結局、元璋の示した案が可決されることとなったのである。
この軍議は朱郭両軍にとって大きな転機点となった。
それまで元璋を侮っていた郭軍の古株どもも、元璋を見直さざるをえなくなった。子興と共に兵を挙げただけに古株どもはどこまでも現実主義者で、誰が主であろうともさしたる問題ではない。面子にこだわって命を捨てるのなら、頼り甲斐のある元璋を首領にするべきだと割り切っていた。この軍議を境に彼らの態度を一変した。一方で何も決められなかった天叙と天祐たちは見切りをつけられたのである。
元璋が軍議に遅参したのは、あざとい計算あってのことであった。わざと遅れることで天祐たちの無能ぶりを露見させ、郭軍将領の心をつかもうと画策したのである。
――我が君も人が悪い。
軍師の善長は苦笑しつつ、元璋に力強さを感じるのであった。
軍議が終了したのは明け方であった。さすがの元璋も身心共に疲れきっている。
――俺だけなら夜通しの軍議にならぬのにな。
それにしても天祐たちの無能さには呆れてしまう。彼らが和州に止まり、朱軍単独で動いていた時はどれだけ気が楽であったか。そう思うと頭上から足指まで疲れを感じずにいられない。
鈴陶の許に戻ると、軍装のまま倒れ込むように床に寝転んでしまった。放浪していたころに体験したことだが、疲労が極度に達するとかえって眠れないものだ。あの時と同じように身体が鉛のように重く、動かせない。
「鈴陶――」
顔も上げず、鈴陶に声をかけた。鈴陶はすぐさま靴を脱がせ、そして丹念に足をぬぐってやった。
「俺も結構なご身分になったものだ」
世話をしてもらう自分を嘲笑したが、鈴陶は笑いもしない。
「そうですね。今度は孫爽樹(そんそうじゅ)と申す女子を囲われたとか。まこと結構なご身分」
そう言うと、思いきり足をつねってやった。思わず元璋は声を上げたが、それでも身体は動かなかった。
孫爽樹とは元璋が太平で得た新たな妾で、多忙を極めているくせに、この手の努力だけは惜しまない。だが鈴陶は母の教えに忠実であった。
人前では朱元帥の妻として、妾たちにも親身になってやっている。そのためか、彼女たちは鈴陶を姉のように慕い、何かと挨拶や相談をしにやって来るのである。しかし二人きりになった時は、大いに嫉妬してやろうと決めていた。
嫉妬してやるのも妻の務め――そんなことを自分に言い聞かせていたが、その実はただ鬱憤晴らしをしているだけであった。
「随分とお疲れのようですね」
つねった後が赤くなっていたため、優しくさすってやった。
「国瑞様もお歳なのかしら」
「まだ三十にもなっていない」
「それでは遊びが過ぎるのかしら」
「夜通しで軍議があったからだ。妙な勘ぐりはよせ」
元璋の困じ顔を鈴陶は意地悪く観察してやっている。だが困じるほどの気力がないほど元璋は疲れきっていた。相手に通じてこそ意地悪は愉しいものだが、ここまで疲れている夫をいたぶっても詮無きことと思って、矛を収めてやった。
「濠州の時もそうであったが、外敵はさほど恐ろしくはない。だが内なる敵は……」
「内なる敵?」
「天に日は二ついらず、陽光をさえぎる雲は民の害となる」
「国瑞様」
あまりに暗く沈んだ顔に鈴陶は不安をよぎらせた。すると元璋は起き上がり、鈴陶の身を抱き寄せた。
「そなたは義兄上が好きか」
「幼き頃より可愛がっていただきました」
「では叔父上は?」
「偏屈ではありますが……叔父ですもの。それに決して悪人ではありません」
「そうか、そうだな……」
そうつぶやくと、腕の力を強めた。
「そなたを女子のこと以外で泣かせるわけにはいかないな」
抜け抜けと言う元璋に鈴陶は苦笑した。
「いかなることでも、です。この鈴陶を泣かせるようなことは許しません」
鈴陶はほおを膨らませて冷たい炎を目に宿らせた。元璋はどうにもこの冷たい視線が苦手で、「いかなることでも泣かせぬな」と、目許を笑ませて何度もうなずいた。
元璋は半刻ほど瞑目しながら休憩した。やがて眼を開けたかと思うと、跳ねるように立ち上がって再び靴を履いた。
「よし休めた。これより出陣いたす」
元璋はにこやかに微笑むと、再び鈴陶を今一度抱きしめ、そして部屋から出ていこうとした。
――何だろう?
いつもと様子が違っており、胸騒ぎを覚えた。
一体何が起きるのか、鈴陶は不安でならなかった。
「鈴陶には……悔いがないか」
「悔い?」
「鬼面で何の取り柄もない俺に嫁いだことを悔いてないか」
この問いに鈴陶は笑みを浮かべながら、かぶりを振った。
「悔いなどありませぬ。私は省みることはあっても、悔いは残さぬよう日々を過ごしているつもりです」
「省みることはあっても、悔いは残さぬ?」
「朱元璋の妻になれたことは私の誇り。例えこの先にどんな地獄が待ち受けていようとも悔いはいたしませぬ」
澄みきった瞳で、何のよどみもなく言い放った。
「朱元璋は鈴陶のために死ぬるが良いか、それとも生きるが良いか――どっちだ?」
「これは異なることを申されます。私のためにと思召しなら、石にかじりついても生き延びてください。国瑞様と私は生きるも死ぬのも一緒。国瑞様が鬼となって歩まれるなら私も鬼となります。でもその時は鈴陶の命に代えても国瑞様を人に戻して差し上げます」
元璋は振り向かないためどんな顔をしているのか、わからなかった。ただ無言でいる。
このまま遠くへ行ってしまうのではないか――。鈴陶はこのたびの出陣を押し留めたい衝動にかられたが、その時はすでに元璋は部屋を出てしまっていた。
果たしてどのような修羅の道に進むつもりなのか。
――例え、そうだとしても……。
いかなることになっても夫を信じ続けなければならない――鈴陶は心に堅く誓うのであった。
二
陳軍の動きは予想よりも速かった。元璋は陳軍の動きを見て、やはり埜先は只者ではないと実感した。
「学はないそうですよ」
かたわらにいた国勝が冗談まじりに言うと、元璋は眉をしかめた。
「将に必要なのは机上の空論ではない。複雑な事象を単純明快に出来るか否かだ」
埜先の真髄は整理能力にあると元璋は見ている。頭の良すぎる学者はしばしば物事を必要以上に複雑化してしまう。そのためかえって物の本質を見失い、戦においては敗戦を喫してしまうものだ。賈魯などがその失敗例であり、精強な大軍を擁しながら濠州すらも落とすことが出来なかった。
埜先は読書家ではなく、学問に精通しているわけでもない。しかし人や物の本質を看破する能力に長けている。その現れが眼前で展開される陳軍の動きで、実に無駄なく整然としていた。
――だが彼にとって不幸であったのは所詮、義兵元帥にすぎないということだ。
埜先は蒙古軍の軸であることには違いないが、全指揮権はマンジハイヤにある。いかに名将といえども指揮権がなければ手足を縛られたようなもので、どうしようもない。この点は郭軍というお荷物を抱えている元璋も同様であった。
朱・郭軍が陳軍と対峙していた頃。その他の蒙古軍はどうしていたのか。
「そういうことか」
埜先は敵軍の動きを見て、すぐさま元璋の意図を見抜いていた。
南下するマンジハイヤに急使を送り、太平のみを目指すよう嘆願したのである。しかしマンジハイヤの返事は色よくはなかった。
「我が君より、奪われた江南の城市を取り戻せと命ぜられている」
そう主張して埜先の提案を一蹴したのである。そればかりか空城となって戦略価値のない采石鎮を攻めて占拠してしまい、埜先を失望させた。
マンジハイヤの失策はこれだけに留まらなかった。采石鎮に入ったマンジハイヤ軍が太平に向かうことが出来なくなってしまったのである。それは元璋の密命を受けた巣湖軍が南征軍の糧道を脅かしたために、動くに動けなくなってしまったのであった。
空城に敵兵力を入れて釘付けにする――。
元璋の策通りに事が運び、太平における蒙古軍の決戦兵力は大きく低下してしまった。
だが埜先も手をこまねいてはいない。すぐさま次の手を打った。間諜を駆使し、太平府下の豪族たちを取り込もうとしたのである。間諜たちに、
「白蓮教の輩は土豪を目の敵にしている。己の命と財産を守るために共に戦おう」
と、呼びかけさせたのである。
しかし元璋に抜かりはなかった。太平府を開くや土豪階層であった李善長や馮兄弟、陶安(とうあん)たちを使い、彼らを懐柔していたのだ。
元朝の政策は支離滅裂で、豪族たちの安全と財産は常に不安定であった。そんな状態が百余年続いている。だが朱軍には郷紳出身である善長が軍師として活躍しており、現に朱軍傘下の豪族は手厚く保護されていた。
――蒙古に義理立てする必要はあるまい。
長らく差別され搾取され続けてきた彼らにとって朱軍は同じ漢民族であり、その上、軍律が厳しく安心感があった。どうせ味方に付くのなら早い方が良い。もし運の巡りあわせで元璋が天下を制したなら、早くから援助しておいた方が、子々孫々重用されるであろう。豪族たちがそんな夢を抱く魅力を元璋は放っていたのである。
さらに元璋は手を打った。
「軍を支えるのは豪族だけではない。農民にこそ心を配らなければならない」
この考えに至ったのは元璋が貧しい小作農者出身であったからだ。反蒙古の気運がここまで高まっているが、その最大の力はやはり農民たちである。
豪族の気持ちは豪族に、農民の気持ちは農民に――。
豪族たちへの折衝は善長たちに任せたが、農民の慰撫は湯和や周徳興、呉良といった元璋と同じ階層の者がこれに当たった。
「蒙古の世に戻れば、再び我らは地獄の日々を送らねばならぬ」
彼らは苦渋をなめ尽くしてきただけあって、その訴えは切実であった。その言葉は苦しみあえいでいた農民たちの心をつかんだ。農民たちも百年に亘る悪政で限界に近づきつつあり、元朝が一日長く続けば、それだけ農民たちは苦しめられていく。ならば自分たちの気持ちを理解してくれる朱軍に協力しなければと思わせたのである。
埜先は唖然とした。
――何たる男か。
改めて朱元璋という男の恐ろしさを埜先は認識した。
――このままでは真綿で首をしめられるように陳軍は自滅させられていく。
ここは短期決戦に持ち込まねばならない――そう判断したのである。
――合戦にて雌雄を決すべし。
埜先は筆を取り、決戦を挑む戦書を朱軍に叩きつけた。
――我が意を得たり。
この戦書を手にした元璋は思わず、ほくそ笑んだ。
実を言えば長期戦は朱軍にとって不利であった。籠城戦などに持ち込めば、郭軍との確執が大きくなり自壊する恐れがある。またせっかく采石鎮に足止めさせているマンジハイヤが進発する恐れもあり、そうなれば朱軍の敗北は必至であった。
――許より合戦望むべし。
元璋は急ぎ筆を取り、即座に埜先の挑戦を受けて立ったのである。
かくして朱陳両軍は激突した。
合戦が始まったのは正午近く、少雨の中での戦いであった。
兵力はほぼ互角で、双方とも十三の陣を布いている。陳軍の主力は北方から駐屯している騎馬兵で、兆先がこれを采配した。
茂才は得意の水軍を駆使し、朱軍の退路を断つべく活発に動いている。
一方、朱軍の先陣は常遇春が務め、花雲や費聚(ひしゅう)、呉良など名うての猛将たちが遇春の後に続いた。
水軍は廖永安たち巣湖軍が当たり、茂才の動きを封じようとしている。
埜先の采配は巧みであった。
先陣の兆先を振り子の重りのように使い、朱軍に痛烈な打撃を与えた。また十三陣のうち、七陣に朱軍を取り囲むように左右に展開させたのである。
これは先陣に中央を突破させ、朱軍が壊乱した後に包囲撃滅するという作戦である。
だが朱軍も負けてはいない。陳軍に突破させまいと十三陣を結集させた。先陣の遇春たちは果敢に戦い、兆先軍をよく防いだ。
――だがこのままでは敗れる。
目を細めながら元璋は冷静に戦況を注視している。その注視の目は陳軍だけではなく、友軍である郭軍にも向けられていた。朱軍不利となれば郭軍がどのように動くかわかったものではない。もし彼らが離反などすれば総崩れになるは必至であった。
元璋の左右には幕僚長として善長と徐達が控えている。善長は全軍の連携を調整していた。幾度も兆先軍に中央軍を突破されそうになったが、ここまで持ちこたえることが出来たのは善長の調整力あってのことであった。
徐達は終始無言でただ側に控えて戦況を凝視しているだけであったが、好機が到来したと見るや、進言をしてきた。
「元帥。ここが戦の切所でございます」
「切所?」
徐達はうなずくと、予備軍を率いる鄧愈を呼び出した。
「陳埜先は本陣突破こそ勝利の道と信じ、前面のみに意識を集中しております。そこで常十万殿たち先陣をわざと後退させます。郭軍にはその後詰として進発していただきましょう」
「都元帥が承諾しようか」
「鼎臣殿を遣わしください。邵将軍と共に都元帥を説得してくれましょう」
「承知した。では伯顔(鄧愈)をどのように使うのだ」
「徐達と共に長躯し、敵の側面を衝けば戦況は大いに変わりましょう。ただその間、本陣は手薄となります。苦しき戦いを強いられますが……」
「懸念いたすな。しぶとさは、我が身上だ」
元璋はにこやかに笑い、徐達に許可を与えた。
ちなみに鄧愈の予備軍は朱軍の中でも屈強の騎兵が与えられており、機動力および突貫力がずば抜けている。徐達と鄧愈はすぐさま進発し、朱軍本陣から各将に命が下された。
名将は機を見るに敏であり、徐達は埜先がそうであることを計算に入れている。
――長所は短所、短所は長所に通ずる。
埜先が名将であれば、朱軍の崩れに敏であるはずで、きっと誘いに乗ってくると考えていた。
果たして徐達の読み通りに朱軍の先鋒が後退を始めると、埜先はこれを好機ととらえた。
「この機を逃すなッ」
すぐさま水軍の茂才と、先陣の兆先に命じて総力挙げて中央突撃を命じた。勝利を目前にした軍の勢いは違う。
――押して、押しまくれッ。
陳軍は脳裏に凱歌を奏じつつ、朱軍の息の根を止めようとした。
だが朱軍は粘り強かった。主将元璋への篤き信頼と、彼の揺るぎない心意気が軍勢を強くしていた。
「心折れるな、友を想え、この朱元璋を信じよ、天の加護を引き寄せよッ」
元璋も自ら剣を振るい必死に敵兵と切り結び、総崩れにならぬよう采配を振るった。
戦いは熾烈を極めた。懸命に防戦したが、本陣に斬り込まれた朱軍は時が経つにつれ劣勢となっていく。
――いよいよ凱歌を奏する時だ。
埜先が勝利の光を見たと思った瞬間――。この瞬間こそ徐達が狙い済ませていた好機であった。
「今だ、皆の者、命を捨てよッ」
別働隊を率いていた鄧愈は号令を発し、陳軍の脇を襲った。
青天の霹靂――埜先の脳裏にそんな言葉がよぎった。
一挙に勝利をつかもうとしていた埜先の全神経は前面のみに向けられていた。だが朱軍は意表を突き、陳軍の脇腹を襲ってきたため、総崩れとなってしまったのである。
――やんぬるかなッ。康将軍の水軍を残しておくべきであった。
後悔あとに立たず、埜先は己の迂闊を恨んだが、時すでに遅かった。
これからどうするべきか――埜先はすぐさま善後策を練ったが、麾下の軍勢は混乱をきたしており、いかなる名将でもこれを立て直すことは不可能であった。
埜先はそれでもあきらめずに、すぐさま軍使を走らせた。まず茂才には水軍を稼働させて、巣湖軍に当たらせた。そして兆先には攻勢から守勢に転じさせることとした。
――その間に本陣を立て直すのだ。
さすがは埜先と言うべきか、最後の最後まであきらめはしなかった。だが簡単に事は進まない。
――攻めるのをやめて、守りに徹しよ。
この兄の命に兆先は、「左様なことが出来るか」と、怒声を発し激しくかぶりを振った。だがそれでも軍令は軍令であり、背くことは許されない。兆先は眼を血走らせながら、兄の命に沿って攻勢から守勢に転換させた。だがここに大きな隙が生じてしまった。
「ここを逃すなッ」
戦上手の遇春はこの隙を見逃さなかった。
それまで守勢であった手勢を叱咤激励し、猛然と攻勢に転じたのである。他の猛将たちも遇春に追従した。
戦は連鎖である。
――朱軍だけに手柄を立てさせるな。
勝ちに乗じたい郭軍は、ここぞとばかりに全軍挙げて兆先軍に襲いかかってきたのである。
一方の水軍は、こちらはさながら鬼ごっこの様相を呈していた。茂才が水軍を率いてやって来ると、巣湖軍は蜘蛛の子を散らすように散開した。ところが茂才が本軍を救おうと上陸しようとすると、背後から襲ってくるのである。茂才は本軍と合流することが出来ず、水辺に釘付けとされてしまった。
ここに勝敗は決したのである。
「全滅するわけにはいかぬ」
埜先は戦場から脱出しなければならからない。だが脱する機すら陳軍本陣は喪っていた。
朱軍の善長は巧みに軍勢を動かし、陳軍の退路を断っていたのである。
――死か降伏か。
埜先は悩んだ。だがある考えが脳裏を横切り、邵栄軍に投降することを決意した。
先鋒の兆先は命からがら脱出することに成功し、茂才も水軍をまとめて采石鎮へと退くことが出来た。だが本陣が崩壊し、主将たる埜先が降伏した今では、もはや陳軍は軍勢として態をなしていなかったのである。
采石鎮にいたマンジハイヤ軍は話にならなかった。
マンジハイヤは平素、勇猛さを誇っていたが、どうやらそれは化けの皮であったらしい。彼の軍勢は十分に朱軍と対峙する力があったにも関わらず、過分に朱軍の勢いを恐れ、対岸の峪渓口(よくけいこう)へあたふたと逃げ去ってしまったのである。トクト亡き後の蒙古軍はまこと人材がいなかった。
朱・郭軍は圧勝した。
全て元璋の立案による成果であったが、敵将を虜にした天祐たちはそう思わず、すっかり有頂天になっていた。
「次は金陵だ」
狂喜乱舞しながら勇ましく号令し、天叙もまた人変わりしたように一日でも早く金陵攻めをするよう朱軍に催促したのである。
――先の見えぬ者たちだ。
この浮かれ様に元璋は冷ややかな視線を向けている。
たしかに敵将・埜先を捕らえることに成功した。しかしまだ茂才や兆先たち陳軍残党が失地回復を目指しているのである。浮かれて金陵を目指せば必ず背後を襲われるだけである。
――まだ四方を囲まれていることに変わりはないのだ。
元璋はあくまで冷静であった。うかつに金陵を攻めれば四方の敵に囲まれ、金陵郊外で全滅してしまうのは火を見るより明らかであろう。
起死回生の策を――。
降伏した埜先は密かに巻き返しを狙っていた。囚われの身であったが、彼の頭は目まぐるしく回転している。
戦いが終わって五日。
陳埜先は名将なり――。
このたびの戦いで朱郭両軍ともに埜先をそのように評した。名将は一人でも多く欲しいと、どの軍もこれはという 人材を勧誘する。当然のように連日、埜先は両軍から仕官を求められた。だが埜先は黙して返事をせず、ただ双方の言動をつぶさに観察している。やがて埜先は一つの結論を得た。
――この陳埜先を破ったのは、やはり朱元璋だ。
朱軍は主将である元璋自らが出向き、礼を尽くし、そして仕官するよう要請した。
――物を見る眼が違う。
埜先は元璋という人物をつぶさに監察した。その洞察力に何度も舌を巻き、その周囲にいる善長や徐達、遇春など綺羅星の如き人材が集まっていることに驚愕した。
――それに比べて……。
郭軍のつまらなさよと、埜先は幾度も心内で嘲笑した。
――本気でわしを仕官させたいのか。
そう思ってしまうほど郭軍の勧誘には誠意がなかった。
仕官を説得する者は名も無き百夫長程度の男で、終始その態度は傲慢であった。さらに天叙や天祐たち主将どもは愚劣そのものあり、致命的なのは邵栄以外に人材がいないことであった。その邵栄ですら疎外されてしまっているのだからどうしようもない。そんな郭軍の体たらくを見て埜先は、
――利用するならば郭軍だ。
と、決意した。
彼には底意があった。底意とは朱・郭両軍を戦わせ、崩壊させてしまうことであった。
――脱するか。
幾度もそのように考えた。だがすぐさま「否」と答えを出した。
――今一度、朱元璋に決戦を挑みたい。
これが埜先の願いであった。
出来うるならば脱走して残存兵を集めた上で朱軍に挑みたい。しかし陳軍の主力兵は郭軍に投降し、組み入れられている。単身で脱走したところで再度、兵を集めることは不可能であり、何よりも己一人で逃げ出すような者を郷里の人々が受け入れてくれるはずがない。
――ここはこの陳埜先が獅子身中の虫となって内部を撹乱させ、郭軍をも我が手中に収めよう。
そう目論んでいたのだ。
――朱元璋は主として仕えるに値することは百も承知だ。
忌まわしいと思いつつも元璋の実力は認めざるをえなかった。だが埜先は紅巾軍に恨みがある。彼らに従兄を殺され、盟友であった靳義まで滅ぼされてしまった。今さら節を曲げて紅巾軍の親玉に仕えるなど、彼の誇りが許さなかった。
内部から切り崩すにはまず首領に取り入らなければならず、相手が賢者であっては都合が悪い。才覚がなく野望だけが人一倍ある愚者でなければ利用することは出来ないのだ。
――その点、天叙と天祐ならば……。
取り入って利用するのに、これほどうってつけの野望家はいない。埜先はひそかにほくそ笑んでいた。
かくして「名将」埜先を陣営に加えた天祐たちは狂喜し、いとも簡単に郭軍の中枢に招き入れてしまったのである。
三
自身に力がない者ほど権威に弱い。
「名将」陳埜先の威名に、もっともなびいたのが、郭軍の総帥・天叙であった。彼は埜先を「師父」と仰ぎ、軍師に迎えたのである。埜先は軍師として様々なことを天叙たちに吹き込んだ。
「天に二日なしと申します。都元帥たる我が君こそ天の一日となるべきなのです」
そのように甘い言葉をささやき、暗に元璋を取り除くことを示唆したのである。しかしいざとなると、天叙は意気地がなかった。
「たしかに元璋は出過ぎておるが、共に小明王様にお仕えする身だ。また義妹の婿でもある」
乱世の主とは思えないような甘いことを口にして、埜先を呆れさせた。
「我が君はまこと仁愛に満ちたお方ですな」
埜先は心にもないことを口にして褒めそやした。
「その御心は得がたきもの。しかしその御心は民と、我が君に仕えし家臣にお向けなさい。人は同じ所から出立しても、たどり着く地は違うもの。なるほど朱元帥は同志であり、我が君の妹婿でございます。ですが今ではそのようなことを忘れ、主筋たる我が君を軽んじております。ここは仁愛を施すべき万民のために心を鬼になさいませ」
埜先はいかにも心痛な面持ちで涙ぐんだ。とんだ役者であったが、この演技にかたわらにいた天祐も乗ってきた。
「賢人の言を軽んじなさるな」
そう声を励まして元璋排除をうながしたのである。天叙はなおも悩み、渋っていたが、やがて力無くうなずいた。
「この埜先に良き思案がございます」
「思案?」
「群衆を納得させ、我が君の体面と義を傷つけない良き思案が――」
この埜先の言葉に天叙は飛びつくようにして耳をかたむけた。
「朱軍を葬り、そして金陵を奪うのです」
「そのようなことが出来るのか?」
「これをご覧なさい」
そう言うと埜先はおもむろに一枚の地図を懐から出した。のぞき込むと金陵付近のものであった。
「金陵は今、江南御史大夫の福寿(ふくじゅ)がわずかな兵にて守っております。この福寿なのですが――」
言葉を止め、一通の書状を埜先は懐から出した。見ればそれは福寿に投降をうながすものであった。
「福寿とそれがしは旧知の仲。この書状を送れば、きっと我が方に寝返りましょう」
なるほど、と天祐はうなずいた。
「ですが……」
埜先は笑みを収め、眼光を鋭くした。
「これだけでは、ただ金陵を手に入れただけに過ぎませぬ。金陵攻略にかこつけて朱軍に罠を仕掛けてやるのです」
「罠?」
「はい。朱軍には共同で金陵を攻めようと申し出るのです。我らは西方、朱軍は南方から攻めて挟撃しようと。朱軍が敵中深く入った所を見計らって、金陵軍に烽火を上げるのです。また陳軍残党にも私から味方につくよう催促いたしておきます。彼らにも金陵に迫ってもらい、朱軍を攻めさせます。こうして八方塞がりになった朱軍を身捨てれば……朱元璋は敵の手によって討死いたしましょう」
友軍を騙して、利の全てを一人占めにするという人道にもとる策であった。
――我ながらおぞましい。
献策した埜先自身、内心不愉快であった。ところが天祐はさすが軍師よと、手を打って喜んだ。
――何と軽薄な。
この天祐の態度に、埜先は反吐が出そうになっていた。だがここは我慢せねばならず、つとめて不快感を覆い隠して、ひたすら柔和な笑みを浮かべた。
「ご主君に一つお願いがございます」
恐ろしげなこの策略に身を震わせていた天叙に埜先は願い出た。
「この策を実行するに当たって、それがしの旧兵三万をお授けいただけませぬか」
「旧兵を?」
「手持ちの兵がないと諸事動くことが適いませぬ。ご主君の大事を成すためにも、ご熟考願います」
この願いだが、拍子抜けするほどすぐさま聞き届けられた。埜先は深々と頭を下げ、厚恩に感謝した。しかし内心ではあまりの他愛のなさに呆れ果てていた。かえって深慮遠謀があるのではないか、と勘繰ってしまうほどこの二人は素直であったが、埜先は策を進めるべく足を進めるのであった。
共に力を併せて金陵を奪取しよう――。
郭軍から朱軍に申し入れがあった時、馮国用が珍しく怪訝な表情をした。
「どうにもきな臭いですな」
「きな臭い、とは?」
「聞くところによりますと、金陵攻めを献策したのは、あの陳埜先とのことです」
「陳埜先が……なるほど、きな臭いな」
国用は深くうなずいた。
「それにしても、かの者は何を考えて金陵攻めを献策したのか。奇なることだな」
そう言うと、何が可笑しいのか元璋は哄笑した。
埜先のことはよく調べている。
彼は志が高く、つまらぬ者と決して付き会わない。また白蓮教を心より憎み、故郷を誰よりも愛している。その埜先が紅巾軍都元帥に智恵を貸し、さらには故郷である江南制覇を手助けするなど、どう考えてもおかしな話であった。
「都元帥は埜先に兵を三万も返してやったそうじゃないか」
「よくご存じで」
国用は元璋の情報収集力に驚いた。旧兵返還は邵栄から湯和にもたらされた情報であった。
「そこまでご存じでありながら、何ゆえ金陵攻めをご承諾されたのですか」
「存じているから、承諾したのだ」
冷たく暗い表情で元璋は答えた。
「妙山。人を呪うと我が身に戻ってくるものだ。もし彼らが我らと共に金陵を手にするつもりならば、富貴を分かち合えよう。ただし彼らに悪意があるのなら……」
国用は元璋が何を言わんとしているのがすぐに察し、表情を暗くした。
「残念ながら陳埜先の献策ゆえ……十中八九は――」
「……やむをえまい。降りかかった火の粉は払わねばならん。それにそろそろ決着をつけねばならんし、な」
それ以上元璋は語ろうとしなかった。
亡き子興への恩があり、曲がりなりにも共に蒙古軍と戦ってきた同志である。何とかしてやりたいが、相手がそのつもりならどうしようもなかった。
元璋には志がある。
それは苦しみに満ちた世を革め、万民が安穏に暮していける世を創ることにある。そのために金陵を奪取して、他の群雄や蒙古軍を滅ぼさなければならない。埜先は天叙たちを利用し、自らの復権を目指しているに違いない。ならばその企みを丸ごと利用してやり、全てを一掃させてやればいいのだ。
天叙と天祐を抹殺することは、元璋にとって身を切られるような痛みを伴う。彼らは妻の義兄と義弟であり、叔父なのだ。自分を引き立ててくれた夫人にとっては弟と息子たちなのである。彼女たちに何と言って詫びれば良いのかわからない。だが天叙たちはすでに矢を放ち、元璋もまた迎え討たんと矢をつがえてしまっている。もう後戻りは出来なかった。
――今の俺は俺一人のものではない。皆の朱元璋なのだ。
元璋はそのように自分の立場を心得ている。その双肩には十万以上の将兵と、その家族、そして支配する土地の人々の生活がかかっている。皆のために一匹の鬼とならねばならないのだ。
その昔、元璋は人として鈴陶に救われた。だがその鈴陶の義兄と叔父を討って、鬼とならなければならない。何と皮肉で過酷な運命であることか。
――鈴陶……許してくれよ。
元璋は虚空を見上げながら歯を食いしばるしかなかった。金陵攻略の命が朱軍に下されたのはそれから間もなくのことであった。
至正十五年夏。
朱・郭両軍は金陵を目指して太平を進発した。
郭軍は埜先を先鋒として西方から進撃し、朱軍は遇春を先陣として南方から金陵を目指したのである。途中、郭軍は兵力補充のためと称して、陳軍残党を軍に加えた。そして金陵攻略を号令したものの、その動きは極めて遅かった。
邵栄などは、
「このままでは朱軍が金陵に先入りしますぞ」
と、忠告した。いつもなら天祐あたりが騒ぎ立てるものだが、妙に落ち着いている。
――どうしたことか。
邵栄は眉をしかめたが、どうにも天叙たちの真意がわからなかった。だが進軍速度が遅かったのは、郭軍だけではなく、朱軍も同様であった。
元璋は徐達に兵を与え、溧水(りっすい)、溧陽(りつよう)、句容(くよう)、蕪湖(ぶこ)といった金陵南方にある地域を攻略させていた。これらの地を掌握すれば、金陵を包囲することが出来るからだ。
一見、郭軍と歩調を合わせているように思えたが、無駄な手を元璋は打たなかったのである。
朱軍の不可解な動きは埜先の許に知らされた。
――まったく煮ても焼いても食えぬ男よ、朱元璋は――。
今さらながら元璋のしたたかさに呆れる思いであった。彼の思惑は朱軍に先行させ、陳・郭・金陵三軍で取り囲み殲滅させようというものであった。しかし朱軍は容易に動かず、郭軍と歩調を合わせている。
――ここは呼び水が必要か。
朱軍を深入りさせるためには郭軍を動かさなければならないであろう――埜先はそう考え、天叙にその旨を奏上した。郭軍は埜先の進言に従って軍を進めさせ、溧水地方を攻略した朱軍も同じく金陵に向けて進撃したのである。
太平を出立して一ヶ月。
両軍はようやく金陵付近に到達した。しかし朱軍は微動だにせず、ひたすら郭軍が動き出すのを待っている。
――どういうつもりだ?
さすがの埜先も焦りを覚えた。朱軍が攻めてくれなければ、彼の謀略は成功しないのだ。
まさか、と埜先は不安にさいなまれた。自分の意中を元璋は見抜いているのではないのか――そう思うからであった。と言ってこのまま退くわけにもいかない。ここは今一度、郭軍を動かすしかなかった。
「このまま対峙していても埒があきませぬ。いっそのこと、攻めましょう」
「内応している福寿を攻めると申すのか」
「ご懸念には及びませぬ。朱軍を誘い出すために攻め入るふりをするのです」
埜先はそのように説明し、ついに郭軍は城攻めを開始した。朱軍も同じく鐘鼓を鳴らして金陵を攻撃した。
――このまま城攻めを続け、頃合いを見つけて兵を退く。
埜先は密かに茂才と兆先たち旧兵に使いを送って、朱軍包囲網を形成させた。
金陵攻撃開始から二日後の夜。
埜先にとって天地を揺るがす事態が発生した。
野営していたはずの朱軍が、夜陰に紛れて撤退してしまったのだ。撤退しただけではなく、城内に間諜を放って、「朱軍残留、郭軍後退」と、書かれた矢文を射込んだのである。
さらに密命を受けた国勝が襄陽砲三門にて震天雷を城内に撃ち込み、あたかも朱軍の夜襲を演出したのであった。
「残留した朱軍を挟撃すべし」
密書を受け取っていた福寿は機を逃すまいと、城を打って出た。
夜半にて周囲は暗闇に包まれている。言わば目隠しされたような状態で金陵軍は城外の兵に夜襲を敢行したのである。叩けるだけ叩いてやろうと、福寿は兵士たちを鼓舞させた。
だが福寿は何も知らなかった。
まさか己が襲撃しているのが内通しているはずの郭・陳軍であることとは夢想だにしなかった。
福寿に襲われた郭・陳軍は混乱の極みに達した。
「これはどういうことだ?」
阿鼻叫喚、暗闇の中、郭・陳軍は金陵軍に追い立てられ、次々と兵たちは討たれていった。指揮する者はなく、軍は完全に崩壊し、力のない将兵は暗闇の中で次々と力尽きていく。
そうした中、天叙は流れ矢で命を落とし、天祐は半狂乱の中、自刎して果てた。
天叙の弟である郭天爵は幸いにも邵栄と共にいたため、彼に守られて辛うじて戦場を脱出することに成功した。
埜先はと言うと、その最期は何ともみじめであった。
郭軍崩壊の渦に巻き込まれ、金陵軍の手によって討ち取られてしまった。
――策士、策に溺れる。
人を陥れる罠は天の怒りを受けるものなのか――埜先は朱・郭両軍に仕掛けようとした罠で自身を滅ぼす結果となってしまったのである。
「おのれ朱元璋、謀りおったなッ」
彼が最期に出来たことは自身が謀ったことを棚に上げ、そう罵ることのみであった。
かくして名将の器であった埜先は人を呪ったばかりに狂乱の中で朽ち果ててしまったのである。
「こ、これは……」
夜が明けてみると、福寿は我が目を疑い、そして絶句した。
戦場に転がる死体は味方であるはずの郭・陳軍であり、朱軍はその場にはいなかったのである。
「どういうことだ?」
戸惑う福寿をさらに混乱させたのは、埜先の死体まであったことであった。彼の首を見てようやく、その秘策が敗れたことを理解したのだ。
「終わりだ、もう終わりだ――」
福寿は顔をゆがめながら、逃げるようにして城に籠り、堅く門を閉ざした。もはや福寿に打開する術は残されてはいなかった。
一方。郭軍の生き残りは、将を失った彼らは朱軍に迎え入れられた。邵栄は郭軍を無事に帰還させた功でおとがめなしとされたが、天爵は都元帥や右副元帥に道を誤らせたとして、全ての兵権を奪われてしまったのである。その結果、郭軍は解体されることになり、邵栄は朱軍の将軍として迎えられた。
陳軍はと言うと、茂才と兆先は残党を率いて再びマンジハイヤの許に逃げ込もうとした。しかし朱軍に阻まれ、茂才は降伏し、兆先は血路を開いて金陵へ逃げ込んだ。逃げ込んだ陳軍はわずかな数となっており、事実上陳軍は壊滅したと言えた。だが元璋はすぐに金陵を攻めなかった。
「兵を太平に戻す」
金陵に守備兵がいるにはいるが、その戦意はくじけてしまっている。そんな金陵を攻略することはいともたやすい。それよりも元璋が成さなければならないのは一刻も早く朱・郭両軍を一つに再編成して、元璋の主導権を確立させなければならなかった。ここに子興没後より混乱し続けてきた両軍はようやくにして指揮系統を統一することが出来たのである。
両軍を掌中に収めた元璋の動きは実に目覚しかった。
至正十六年二月。
遇春率いる精鋭がマンジハイヤ軍を撃破。制江権を奪回し、和州以北との連絡を復活させた。
三月一日。
兆先が陳軍残党を集結させて挙兵。しかし茂才によって鎮圧され、この戦いで兆先は討死した。
三月十日。
孤立無援となった金陵を元璋は全軍を挙げて攻略。
守将・福寿は奮戦したが、破竹の勢いである朱軍に抗しきれず、あえなく金陵は落城。この戦いで一兵卒となっていた天爵は討死し、郭家の直系は途絶えてしまった。
かくして宿願の金陵を手に入れ、全軍統帥権を元璋は手に入れることが出来た。
しかしその心は決して晴れやかではなく、むしろ陰惨とした気持ちに包まれている。 凱旋した彼を待ち受けていたのは凍てついたような目つきの鈴陶であった。
元璋は無表情のまま近づき、しばらく鈴陶の顔を見つめた。
「とうとう……本物になってしまったな」
重く、ひどく沈んだ声で元璋はつぶやいた。そしてそれ以上は何も語らず、そのまま部屋を出ていってしまった。
「うああああ――ッ」
元璋が去った後の部屋から、力無き幼子のような鈴陶の泣き声が、廊下にまで鳴り響いた。しかし元璋は振り向きもせず、足も止めなかった。ただただ真直ぐに歩み続けた。
――俺は全てを喰らい尽くす鬼になってやる。全てを、全てを――。
元璋は泣かなかった。いや、泣けなかった。
大義のために鈴陶の大事な人を奪ってしまったのだ。人を捨て鬼と化してしまった以上、元璋に残されたのは、どのような手を使ってでも万民が安穏に暮らせる世を創らねばならなかった。そうでなければ鈴陶が救われない。
元璋の心は火傷のような痛みに覆い尽くされている。だが立ち止まることは許されない。
間もなく春であるというのに金陵には冷たく乾いた風が吹き荒んでいた。
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