朱元璋

片山洋一

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第九話「大樹の枯去(こきょ)」

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   大樹の枯去(こきょ)

   一

「どうにも解せぬ」
 馮国勝は酔いながら、兄の国用にこぼした。
 国勝は気性が激しい。気性激しき者の悪口に同調すれば火に油を注ぐようなもので、そのことを国用はよくわかっている。
「何が解せぬのだ?」
 わざと柔和な笑みを浮かべ、酒を注いでやった。
 禁酒令であるが、食糧事情が改善されて、今は解かれている。意味なき禁酒はただ鬱気を溜めるのみで、度を越さなければ飲んでも良いと緩和されたのだ。
「胡将軍もお気の毒に……」
 国勝は盃を舐めながらつぶやいた。胡大海の子息は禁酒令を破った咎により斬首に処せられた。このことを厳しすぎると思う者は少なくない。
 ――がやむをえまい。
 国用はそのように考えている。あの処刑は酒を禁ずるか否かは問題ではない。もっと大きな意味が二つあるからだ。
 一つは民の信頼を得ること。乱世を生き抜くのに大事なのは民の心をつかむことで、このことを怠ってきた者は全て滅び去っている。
 二つ目は規律の厳格さを示すことである。戦は遊びではなく、命のやりとりをする場である。そのために必要なのはいかなる者でも軍律は厳守させなければならない。
 ――公子といえども軍律の外にあらず。
 国用は軍律とはそのようなものだ、と考えている。軍というものは武具を携えているために傲慢になりがちで、一歩間違えれば豺狼――すなわち民衆に害を加える獰猛な山犬や狼のように成り下げってしまう。そうなれば民心は離れ、朱軍の滅亡は自明の理であった。
 それにしてもと、国用は思うと少し可笑しくなる。元璋の一連の行動には間違いなく李善長の教えがある。郷紳である善長は軍律を守ることがいかに大切なことか熟知している。そのことを元璋に教え、元璋もまた忠実に遵守しているのであろう。何とも素直な良き弟子であることか。
 それはさておき。禁酒令が撤廃されたことは馮兄弟にとってありがたかった。何しろこの兄弟は無類の酒好きで、国用は通としてその名を馳せている。
「どうだ、国勝。良い黄酒だろう」
 国用は恍惚とした表情で黄酒を口に含んだ。飲む、と言うより香を愉しんでいる。
「たしかに旨い」
 そう言うと国勝は一気に飲み干した。だがこの飲み方がどうにも気に入らないらしく、国用は眉をしかめた。
「わざわざ南方の紹興から取り寄せたのだぞ。いいか、その黄酒は餅麹を用いて、そして鑒湖(かんこ)の水をだな……」
 温和で寡黙な兄であるが酒の話となると饒舌、と言うより誰にもその語りを止められなくなる。
「それより兄者」
 国勝は話題を変えようと身を乗り出した。
「公子のなされようを何も思われないのか」
「公子のなされよう?」
 国用は杯を置き、首を傾げた。
「滁陽王(ちょようおう)のことだ」
 そう叫ぶや、手にしていた盃を地面に叩きつけた。
「濠州で行き詰った者を王に推戴するなど、公子はおかしくなられたのではないか?」
「口を慎め」
 国用は厳しい顔つきで弟を制した。

 元璋は窮地に陥った郭子興とその軍を滁州に迎え入れた。
 迎え入れるだけではなく、子興の位を進めて王に推戴したのである。このことは朱軍の諸将、とりわけ定遠以後に仕えた者たちには不服であった。
「兄者に問う。何ゆえ公子にお仕えしているのです」
「公子こそ天下を平定し、悪しき蒙古どもを駆逐される方だからだ」
「この国勝も同じじゃ。だからこそ公子に身命を賭そうと決意した。だがあのような侠客を王に奉じるなど烏滸の沙汰だ」
「公子には公子のお考えあってのこと。お仕えした以上は犬馬の労を厭わぬものだ。西に手綱引かれれば西に、東に手綱引かれれば東に参る他あるまい」
「されど兄者。この国勝は悍馬でござる」
 この言葉に国用は思わず吹き出してしまった。そして馬をいなすように肩を叩いてやった。
「そうよな。そなたは悍馬よ。乱世なればそうでなくてはならぬ。だがな」
 そう言うと、国用は眼光を鋭くした。
「手綱裁きも出来ぬは駄馬にすぎぬ。そうなれば馮家は滅び去るのみだ。それよりもこの酒、旨いだろう?」
「酒の話はもういい」
「まあ聞け。良い酒を生み出すは豊穣なる地だ。だが我らが立つ滁州や定遠ではとてもこのような銘酒は造れぬ」
 兄が何を言いたいのかわからず、ただ国勝は凝視した。
「この地では兵や民を飢えさせないようにするので手いっぱいだ。乱世でかような地に留まるは滅亡あるのみ。わしはのう、国勝。この黄酒を造り出す地に参りたいのだ。だが……その豊穣なる地を目指すには朱軍だけでは兵が足りぬ。江(こう)(長江(ちょうこう))を渡るにも公子の名はまだ重みがない」
「兄者?」
「我ら兄弟やお仕えしている者たちは皆、公子の力量を知っている。また我らの眼が確かなことは、あの百室(ひゃくしつ)(善長の字)殿が軍師となられたことでも証明されておる。だが世間はそうではない。世間の眼は公子を郭子興の婿としか映っていないのだ」
「力量と名望は一致しないというわけか、兄者」
「そうだ。今は滁陽王を頭に戴き、その名望を大いに利用する時なのだ」
「公子に深慮遠望あり、か」
 納得してはいなかったが、兄の考えも一理あると感じた。確かにここで国勝一人が騒いだところでどうしようもない。
「兄者よ。これほどの銘酒を我らだけで愉しむはもったいないだろう」
 国用はけちではない。良き物は分かち合ってこそ意味があるとさえ考えているから弟を止めなかった。
 ――もう少し愉しみたいものだが……。
 酒好きとしてはやや惜しい気もしたが、自嘲しながらかぶりを振った。
 弟は粗雑に見えるが、誰よりも思慮深い。黄酒を持っていくにも何かしらの理由があるはずだ。
「国勝、別れを惜しませてくれ」
 国用はにこやかに微笑むと、杯を差し出した。最後の一杯を国勝にねだった。
「人前で乱れるなよ」
 国用は最後の一杯に唇を濡らしながら、弟を見送った。

 国勝が向かったのは善長の部屋であった。善長は酒豪ではないが、旨い酒の味を見ることが何よりの楽しみにしている。
「おお、宗異(国勝の号)殿」
 国勝が部屋に入ると、そこには徐達が先客としてやって来ていた。
「お邪魔だったかな?」
「いえ、お気になさらず。……手にしているのは酒でありますな」
「兄の選んだ銘酒でござる」
 酒通の国用が選んだ酒と聞き、善長は眼を輝かせた。
「さてさてこの酒は……うむ」
 善長は杯を出すや、すぐさま黄酒を口に運んだ。さすがは博識というべきか、すぐさま黄酒の生産地や特徴、さらには造り方まで言い当てた。
「やはり持参してよかった。兄だけが飲んでもそれはただ臓腑に流れてしまうだけのこと。李先生や天徳殿に味わっていただく方がこの酒も以って冥すべし、じゃ」
 酒好きから酒を奪うとはひどいことをする、と言いたげな表情で徐達は苦笑した。
「しかし何とも芳醇な香りだ。兄君も李太白の如く、酒泉を巡っているのでしょうな」
「そうかもしれませぬな。だがこの宗異は兄のように物静かではないゆえ、つい動き回っては現にありし酒泉に参りたいと思ってしまう。酒星降り注ぐ地。すなわちこの酒を産み出す酒泉」
 徐達は国勝の言葉を聞いて、ようやく来訪の意味を理解した。
「地上の酒泉とは……紹興」
「はい」
 国勝は満面に笑みを浮かべながら満足げにうなずいた。
「この宗異は願うのです。公子、いや我が君には酒瓶一本ではなく、酒星降り注ぎし地を献上したいのです。そしてこのような銘酒でもって天下太平の世を楽しみたい。これが拙者の志なのです」
 この言葉に善長と徐達は感嘆の声を上げた。
「滁州は四方山を囲まれ、守るに適した土地でありましょう。志がないのであればここに留まるも良いでしょう。ですが天下万民を救いたいという我が君の大志は叶いませぬ。このまま座していればまた禁酒の命が出され、我ら酒呑みの首が斬られるだけです」
 冗談めかして話していたが、その内容はとても笑えるようなものではない。先日斬首された胡仲烈はさしずめ馬謖であった。
 泣いて馬謖を斬る――諸葛孔明が軍律の厳しさを教えるために愛弟子を涙して斬った逸話であるが、元璋もこれに倣ったのである。
 だが馬謖を斬り続けるような状態を長く続けてはいけない。ただ厳しいだけの軍律はやがて恐怖支配となり、軍が崩壊してしまうからだ。そのためにも国勝が言うように兵糧が不足しがちな滁州から豊穣な地へ移る必要があった。
 善長は一気に黄酒を飲み干すと、盃をそっと置いた。
「宗異殿にお聞きしたい。胡君の死を無駄にせぬためには、我らはどの地を目指せば良いと思う。……まさか紹興ではありますまい」
「紹興はちと遠すぎますな。まず我らが目指すべきは――」
 言葉を途切らせ、善長が作成した地図の前に足を進めた。善長も徐達と同じく、様々な情報を地図に書き込む。その中で最も多く書き込みがされている地名を指差した。

「金陵」
 
 指差した先にはそう記されていた。
「金陵……。古くは建康と称され、呉の孫権を初めとする歴代の帝王が都と定めし地。まさに竜蟠虎踞(りょうばんこきょ)の地とは金陵をおいて他にない。ここを拠点に四方に打って出て天下に義を示せば、おのずと世の乱れが収まるに相違ござらぬ」
 さすが馮国勝は具眼の士であると、徐達は素直に感心したが、善長は難しい顔をしながら、否とも応とも言わない。
「軍師殿には何かご異存でも?」
「金陵は帝王の都にて我らが拠るべき地でござろう。しかし急がば回れ、と申す」
「性急に過ぎれば元も子もない、ですな」
 善長は力強くうなずき、徐達は碁を打つ真似をして歌うような調子で自分の考えを披露した。
「人の世は碁に通ずるものあり。天は蓋なり、大地は盤なり。そして人は石にて黒白をわけるものなり。彼方の石を欲するなら、此方の石狙え」
 金陵は国勝の言うように江南の要所である。この要所を奪えば天下平定への足がかりとなるが、朱軍だけでなく、敵も金陵を欲している。元朝にとって金陵は要衝であり、周囲を精兵によって固めていた。
「それに金陵は江の向こう岸にあるゆえ、まず江岸に軍を進めなければなるまい。江を渡るには船が入用だ。船を操る者もまた必要。ならば」
 我らが目指す地は――そう言って善長が指差した地は滁州南方の岸沿いにある街であった。
「和州、でござるか」
 国勝はあごをなでながら、地図上の和州を凝視した。
「和州は南に江の長流があり、軍を南下させるためには是が非でも押さえておかねばならぬ地。しかし朱軍単独で攻めるはやはり難しい。郭軍と力を合わすとなれば……」
 言葉を止めると、笑みを浮かべた。子興を利用するべきだと彼の眼は語っていた。徐達もまた同様であった。
 ――そうか。そうだったのか。
 国勝は二人の全てを見通している表情を見て未熟さを自嘲した。
 子興推戴の話が持ち上がった時、この二人は兄と同じく反対をしなかった。ただ黙って元璋の提案に従ったのである。
 ――それに比べて俺は……。
 何と浅はかであったのか。だが自嘲していたものの気持ちは至って明るかった。なぜなら、このように慧眼を持つ男たちが味方であるからだ。
 ――この男たちとなら天下を取るも夢ではない。
 そう考えると心が昂揚していくことを国勝は実感していた。また善長たちのような人材を集める元璋にも希望を見出すことが出来る。彼に仕えている限り、青史に名を刻むことは難しくはないだろうと考えるのであった。

   二

 朱軍と郭軍。
 相手を利用しようと目論んでいたのは、朱軍側ばかりではなかった。むしろ郭軍側――中でも張天祐は露骨に朱軍から権限を奪い取ろうと画策していた。
「このままでは、あの乞食坊主に全てを奪われてしまう」
 そう言って元璋の危険性を主張しては子興の息子たちを煽り立てたのである。元璋の勢力は子興を上回っており、天祐一人が反発したところで太刀打ち出来ない。そこで子興の跡を継ぐべき二人の甥たちを盛んにけしかけたが、子興の倅どもはいずれも出来が悪い。少なくとも乱世を生き抜く力はなかった。
 長男の天叙は将としては性格があまりにも素直すぎた。いや素直と言うより何でも鵜呑みにしてしまうため、洞察する能力が欠落していた。
「郭家の婿がそのような悪逆をするはずがない」
 そう言って叔父の言葉に耳を貸そうとはしなかったが、元璋を信じてもいなかった。つまりは考えることを忌み、現実からひたすら逃避しようとしていたのだ。
 次男の天爵はと言えばどうか。有言実行と言うより彼の性格はひどく単純で、こうと思えばすぐさま行動してしまう。元璋についても叔父にそそのかされるや、瞬く間に反朱軍の急先鋒となってしまった。
 いずれにせよこの兄弟に共通することは物事を考えようしない所であった。乱世を生き抜くためには真偽を見分ける力が必須である。その力を有していないこの倅どもに明るい未来があるはずがなかった。
 さて、この両軍は、たがいに長所と短所を有している。
 郭軍には濠州で旗揚げをしたという名誉があり、その恩恵を最も受けていたのが他ならぬ朱軍であった。元璋とその仲間たちはいずれも何の力もない浮浪児であった。それに比べて子興は侠徒の頭で基盤を背景に旗揚げをしたために多くの兵が募った。
 だが朱軍は急激に大きく成長した。元璋たち朱軍の者たちが懸命に働いた成果であったが、郭軍の一派という肩書きは決して小さくはない。
――どれほど勝利を収めても舅殿によるものだ。
 元璋はそのように考えていたが、その見方は正鵠を得ていた。 
 軍としての実力と言えば、これは朱軍が郭軍を圧倒していた。軍の力を左右するのは人材で、無能な将の許ではいかなる大軍も力を発揮することは出来ない。
 郭軍にも人材はいる。邵栄はその最たる者で、その指揮能力と人望は抜きん出ており、郭軍のみならず元璋も彼を敬慕しきっていた。だが郭軍には若い人材がなく、その上有為なる者はごくわずかでしかない。
 その理由ははっきりしている。郭軍の首領の子興があまりにも頑固であるからだ。頑固、いや近頃は頑迷になり人材登用がひどく消極的になっている。さらに言えば濠州での益体なき諍いは人々を大いに失望させていた。
 その点、朱軍には綺羅星の如く、人材が集結しつつある。武は徐達、湯和、花雲、そして鄧愈。文は善長、馮兄弟といった、いずれも当世第一の者ばかりが元璋の覇業を助けようと力を合わせている。
 ――朱元璋は危険だ。
 天祐がそのように思ったのも、ただのやっかみではなく、現実を直視した結果であった。
 いつの世も男はくだらぬことで諍いを起こす。郭軍と朱軍双方がたがいの利点を巡って暗闘を繰り返していた頃、両家の女たちは辟易していた。もっとも「両家」とは言うものの、孤児であった元璋に実家など無いに等しく、郭家そのものであった。小張夫人と芙蓉が子興に伴われて滁州にやって来たのである。
「相変わらず楽しそうね」
 鈴陶が以前にも増して走り変わっている様を見て夫人は可笑しくなった。
「そうでしょうか?」
 鈴陶はきょとんとした顔つきで首を傾げた。
「ええ。でも……知らない間にたくさんの子持ちになったわね」
「子供たちに罪はありませぬもの」
 笑ってはいたが鈴陶の顔にはどこか翳がある。そのことを夫人は機敏に察した。
「やれやれ。婿殿も他聞に漏れず病になられたようね」
「病?」
「聞けば子が一人生まれるのでしょう」
 夫人は寂しげに義娘の腹に眼をやると、鈴陶は顔を曇らせながらそっぽを向いた。
 子が生まれる――それは鈴陶の子ではなく、元璋の妾が産むのである。鈴陶の体に変化がないのは当然であった。
「主(子興)殿もまあ、こまめでしたよ。西に東にせっせと子作り三昧」
「義母上は……」
 鈴陶は怪訝な表情で尋ねた。
「気分を害されなかったのですか?」
「良い訳ないでしょう。あ、芙蓉――」
 夫人はかたわらにいた芙蓉に持参した菓子と茶を用意するよう促した。
「英雄色を好む、と言うことかしらねぇ……」
「英雄……。鬼様も英雄ですか?」
「鬼は人外の力を有する者。凡人とかけ離れている点で英雄と鬼は同じでしょう」
 目を閉じながら芙蓉が用意してくれた茶に口をつけると、急に夫人は吹き出した。
「しかし考えてみれば不思議ね。主殿も婿殿もよくあのお貌で妾を作ることが出来るもの。感心してしまうわね」
「鈴陶は感心しません。賢き妻とは夫が妾を持とうと、子を作らせようとにこにこ笑うことが肝要だと仰せになりたいのですか?」
 この鈴陶の問いにまさかと、夫人は目を剥くようにして否定した。
「怒りもせず微笑むなど主殿を想う妻のすることではありません。妻たる者は夫が他の女子に懸想すれば大いに悋気を発しなければならないのです」
「悋気を発しなければならない?」
「そうです。それこそ主殿の顔に爪を立てようとも罵声を浴びせようとも気が済むまで悋気を発するのです。悋気を発しなくなれば妻はもうおしまい」
 どう理解して良いのかわからない鈴陶の頭を夫人は優しく撫でてやった。
「良いですか。一番良くないのは小賢しさを身に付けることです。悋気も起こさずにこにこ笑い続ける。そんなことをすれば夫婦の間に溝が生まれ、いつかは大きくかけ離れてしまうもの。その溝が出来れば最後。二度と埋めることは出来ないのです。だから夫が妾を作れば大いに怒れば良い。でもね、鈴陶」
 夫人は真剣な視線を向けた。
「悋気を起こすのは二人きりの時だけになさい。家臣や子たちのいる前で夫を罵倒してはなりませんよ。あなたは多くの方々を率いる朱元璋の妻。婿殿が妾を作ったことに怒って良いのは天下で馬鈴陶、あなただけ。でも皆の前ではあなただけの婿殿ではないのです。郭・朱両家、滁州、定遠数万の生命と財を守るお役目を背負っておられるのです。そんなお方の妻であるあなたにも、その重責がかかっていることを忘れてはなりませんよ」
 どうやら先日の「乱行」のことを義母は言っているらしい。今さらながら鈴陶は恥ずかしくなり、耳まで真っ赤にしてしまった。
「でもね。偉そうなことを言っているけど、私も随分やったものですよ。人前であろうが主殿に悋気を起こしたものです。あなたも覚えているでしょう?」
「はい……。年中、義母様は義父様を叱りつけていた」
「でしょう?」
 そう言うと夫人は弾けるようにして笑った。鈴陶もそれに釣られ、いつもの笑顔を取り戻した。
「やっぱりそれね」
「はい?」
「あなたの笑い顔が一番。それでこそ鈴陶です。その笑顔で皆がどれだけ救われていることか。周りの者にとってその笑顔は宝ですよ。悋気も大事ですけど、その宝を無くしてはなりませんよ」
 やはり義母上には敵わない――そんなことを思いながら鈴陶は久しぶりに心の底から笑った。かたわらにいた芙蓉もようやく戻った義姉の笑顔を見て安堵したのであった。
「しかしね……。近頃の主殿には手を焼いています」
 夕食を済ませた後、珍しく夫人が顔を曇らせて愚痴をこぼした。
「義父様が何か?」
「お歳を召されたのでしょうね。童のように駄々をこねられるのです」
 男という者は歳を取ると厄介である。子供のようにわがままになり、妻にとってたまったものではない。子興は元来頑固者であったが、滁州で王になってからはすっかり傍若無人になってしまった。自制心が無くなり、無理難題を家臣に命ずるようになってしまったのだ。そのため急速に人心が離れていっている。今はかたわらに邵栄がいるから良いのだが、彼がいなくなれば郭軍は瓦解してしまうだろう。
「婿殿からは何も聞いていないのですか」
「……近頃はろくに口を利いておりませんでしたので」
「ああ、夫婦喧嘩の最中だったわね」
気まずい鈴陶の顔を見て夫人は哄笑した。
「それはともかく。天祐がろくでもないことを主殿に吹き込んでいるようです。弟は本当に困った子です」
「ろくでもないこと……」
 鈴陶は嘆息すると同時に、義母の叔父に対する態度が何とも可笑しかった。
 ――いつまでも義母上にとって叔父は幼子なんだ。
 天祐の母は彼が幼い時分に亡くなった。母が逝去した後は歳が離れた夫人が母親代わりとして育ててきたのである。そのため、いつまでも夫人にとって天祐は弟というより子供のように思えて仕方がなかった。人を見る眼を持つ夫人は弟が将の器でないと見ている。だが母性本能からか、弟の身が立つようにと考え、つい郭軍の副将という地位を与えてしまった。
 ――叔父が虚勢を張るのもそのためだ。
 そのように鈴陶は見ていた。姉の威がなければただの凡人という眼が常に付きまとっている。彼に実力があれば泰然と構えることも出来たのだが、自身の非力を誰よりも天祐が熟知していた。未熟な者がそうした眼を払拭するために出来ることはただ一つ、虚勢を張ることしか出来ない。
 ――その虚勢も国瑞様の台頭で影をひそめている。だから叔父は必死になって義父様に讒言をしているんだ。
 そう鈴陶はにらんでいるが、その通りであった。そのことは夫人も承知している。だからこそ彼女はやりきれない思いを嘆息と愚痴をこぼすしかなかった。
「婿殿が兵を抱え、良からぬことを企てているとささやいているそうな」
「国瑞様がそのようなことを考えるはずもありません」
「その通りです。ですがそれだけではなく、天叙たちまでも巻き込んでいるのです」
「義兄様までも?」
 にわかに信じられない話であった。義兄は心根が優しく、人を陥れることなど出来ない人物である。
「婿殿は賢明な方です。舅と婿が争うことが、どれほど愚かなことかよくご存知のはず。鈴陶。私は主殿を諌めます。あなたは婿殿が道を違えぬよう、しっかりと見守りなさい」
 鈴陶は真剣な面持ちでうなずいた。もしここで郭朱一族が骨肉相食む諍いを起こせば何となるのか。
 ――良い物笑いの種だ。
 鈴陶は苦虫を噛み潰したような表情でかぶりを振った。
 そんなことは断じてさせてはならない。愚挙を止めるは男ではなく私たち女の仕事だと、鈴陶は本気でそう思うのであった。その思いは夫人も芙蓉も同様であった。だが女たちの切実な思いを他所に子興は元璋に対して無理難題をふっかけるのであった。

   三

 子興が元璋に下した命はまさしく無理難題であった。
「兵を全て余に差し出せ」
 そう命じてきたのである。郭朱一族に内紛を起こさせない――そう鈴陶が誓った三日後のことであった。元璋は王の家臣として子興にご機嫌伺いをしなければならない。
 その日も善長たちを引き連れて滁陽王府に参内した。滁陽王府は元璋が指揮所として使っていた知府邸にあり、子興に献上したのである。元璋は城の外れにある孟家という豪族の邸に起居していた。
 参府した元璋に開口一番、いきなり無理難題を命じてきたのである。
 ――何と明け透けな……。
 唐突であまりに無茶な命令に善長と徐達は呆然としてしまった。双方どちらも言葉を発せず。沈黙の時間が流れた。だがいつまでも沈黙している訳にいかず、善長が拒絶すべく言葉を発しようとした。ところが元璋は意外な反応を見せた。
 笑みを浮かべながら、
「王命に従いまする」
 と、いとも簡単に王命を奉じてしまったのである。
 ――我らの歩みはここまでか。
 この瞬間、徐達は顔を青ざめさせ倒れそうになった。だが当の元璋は何とも思っていないのか、その表情は妙に清々しい。
「まことに良いのか?」
 無理難題を押し付けた子興本人ですら不思議に思い、念を押した。
「良いも悪いもござりませぬ。我らは王臣。王の命とあれば東奔西走、謹んで従いまする」
 元璋は拱手し、兵権をどのように返上すれば良いのか子興に尋ねた。しかしその途中で、一つだけ願いを出した。
「兵権返上にあたっては、動揺した兵が混乱をきたすやもしれませぬ。そこで願わくは軍編成をお手伝いさせていただきたいのです。両軍併せて五万もの大軍が滁州に集結しております。しかし急な軍編成は乱れを生じさせ、敵に乗じられる恐れがござります。そうならぬよう、この朱元璋が、王の号令一下、一糸乱れぬ軍を作りあげたいのです」
「なるほど。編成をして何をするのだ」
「編成だけでなく、王業を援ける精鋭に鍛え上げとうございます。そのために大きな目標を定めてはいかがでしょうか」
「目標?」
「ここ滁州は交通の便悪く、大軍を留めおくには不向きな土地。また人溢れ、無用な諍いが起こりつつあります。そこで新たな拠点を求めることが王の御為になるかと存じます」
 新たな拠点とは何処か、子興は尋ねた。元璋は善長に目配せして説明をさせた。
「滁州の南方、江の北岸に和州がございます。和州にはさしたる軍勢なく、かつ交通の便にも優れており、王業を開く格好の地かと拝察いたします」
 元璋は続いて懇願した。
「大王の志をお援けせんがため、どうかこの元璋を王府に属しめられ、お使いいただきとうございます。また王業を成すまで、ここに控えし李善長と徐達をお貸しいただければ幸甚に存じます」
 何とも上手い切り返しであった。これには子興も反対する術なく、ただ言葉を失うのでみであった。
それにしても、何と強かな男なのだろうか。兵を献上すると言いながら、その実は郭・朱両軍の指揮権を王命の許、掌握しようとしているのだ。
 災い転じて福となす。いつの間にこのような男になったのか子興は心底恐れを抱いていた。控えていた善長と徐達もまた身が震えるほどその手腕に恐れ入るしかない。
 だが子興は懲りなかった。次なる難題をふっかけてきたのである。
「そなたが王府に入ることは認めよう。だが今一つ無心をしたい。余はかねがね、良き謀臣を求めてきた。そこに控える李善長は稀代の賢人と聞き及ぶ。どうであろうか、その賢人を王の師として迎えたいのだ。この無心、聞き届けてくれようの」
 身を乗り出すようにして懇願した。
 ――食えぬは我が君だけではない。
 徐達は双方の狐狸ぶりに呆れる思いがした。この命も元璋はすぐさま引き受けるのかと思いきや、今度は深く頭を下げて拒絶をした。
「李善長が王にお仕えするは望外の極み。ですがその儀はご容赦願わしゅう」
「王命に背くのか?」
「滅相もござりませぬ。ただこの李善長をお側に侍らせますは王の御為にはなりませぬ」
 子興は意味がわからず、怪訝な表情をした。
「善長は文学の徒ではなく、戦場において初めて真価を発揮出来る者。和州攻略は王業を成すための大事なる一歩です。かかる大事の戦に善長を宮中に留めおくは不忠を働けと申すも同然。どうか大王への忠義を全うさせてやってくださりませ」
 子興は思わず言葉を詰まらせた。そんな子興に善長は間髪入れずに、「忠義を全うしとうござります」と懇願をした。
 またしても子興は手を封じられた。しばらく腕を組んで考え、側で控えていた天祐の方に顔を向けた。今回の無理な命令は全て天祐の入れ知恵によるものであったからだ。元璋の才覚を恐れ出していた子興は天祐の言に乗って、状況によっては誅殺まで考えていた。
 もし兵権返上を渋れば、「王命に背く謀反人」と、弾劾して有無を言わさず斬首するつもりであった。しかし元璋は見事に切り返した。兵権返上どころか反対に「王の御為」と称して全軍の指揮権を手にしてしまったのである。
 元璋は天祐の策を見抜いていたのかと言えばそうではない。人を騙し、己のみの利を求める者は策士ではなく詐欺師である。策士とは状況を鑑み、臨機応変に良き方向に道を見出す者のことを指す。
 元璋は強かに切り抜けた。だが子興を不利な方向に導くつもりはない。むしろ自分が全権を握ることで子興を援けることが出来ると考えていた。この強かな誠意こそがどんな謀略をも打ち破る武器であり、元璋は数多の経験からおぼろげながらわかりかけている。
 とにもかくにも子興は一つにまとめた軍の総指揮を元璋に託し、善長を側に召すことを断念した。元璋は「王命」の許、朱郭両軍に和州攻撃を命じるのであった。

 それからも天祐はあらゆる手段を講じて元璋追い落としを目論んだ。だがこのことは郭軍重鎮の邵栄には何も知らされていない。
 ――邵栄はあばた顔に通じている。
 天祐はそのように邵栄を疑っていたからだ。その疑いは無理もなく、邵栄は郭軍の中で唯一の親元璋派であり、かつて子興救出で先んじて元璋の命に従ったのは彼であったからだ。
 だが天祐の小賢しき策は結果としてただ指揮権を奪われるというだけのことになり、邵栄は憤慨した。
「浅慮は身を滅ぼしますぞ」
 大編成が開始された初日に、たまりかねた邵栄は苦言を呈した。
「浅慮とは言葉が過ぎようッ」
 この苦言に天祐は耳まで紅潮させて激怒した。しかし邵栄は天祐如きに怯むような腰抜けではない。
「……将軍よ、まずお聞きあれ」
 弱い者に対しては滅法強い天祐であったが、相手が少しでも強硬であると途端に腰砕けになってしまう。掌を返すように懇々と元璋排除の理由を説明し始めた。
「元璋はとんでもない男だ。かの者を野放しにすれば、きっと義兄(子興)は彼奴に併呑されるに違いない」
 この危惧に邵栄は真っ向から異論を唱えた。
「左様であろうか。疑心暗鬼を生ず、杯中の蛇影、藪を突いて蛇を出する、の譬えあり。人を呪えば禍は全て自身に返ってくるものだ」
「先んずれば人を制す、と申すではないか。手をこまねいていては乱世では滅びを待つのみ。こたびのことでわかったが、あの朱元璋が奸雄であることは間違いない。わしは義兄のために、かの者をこのままにはしておけぬのだ」
 天祐はそう叫ぶや、憤然と去ってしまった。
 ――張将軍の危惧もあながち杞憂ではないが……。
 困った男だと邵栄は思いながらも、一方で元璋に危険性があることも認識していた。
 だが元璋が奸雄ならば、と考える。もし元璋が真に奸雄であるなら天祐のやり方はそれこそ愚策であろう。奸雄に下手な策を講じれば、逆手に取られ窮地に追い込まれてしまうからだ。
 奸雄に対抗する術はただ一つ。それは泰然と隙なく構え、相手が策に溺れるのを待つしかない。付け入る隙がなければ相手は何も出来はしないのだ。元璋に奸雄の資質があることは違いないが、少なくとも子興に対して邪心を抱いている様子はない。だがこちらが邪心をもって相対すれば元璋が変貌する可能性は大きい。そのことを邵栄は恐れていた。 このまま双方が対立し続ければ両軍は破滅の道へと突き進むであろう。
 ――このわしがいる限り、そうはさせぬ。
 邵栄は断じてそのような事態を起こさせまい、と密かに誓うのであった。

 年が明け、至正十五年。
 郭・朱軍は一つに編成され、和州攻略の準備を整えた。子興はただちに王命を発し、一路、和州に向かって進撃を開始させた。元璋は滁陽王直属の大元帥として全軍を指揮し、副元帥として天叙が補佐に当たった。
「天下に滁陽王の威を示さんがため、大元帥に節刀を賜りまするよう」
 出立を前にそのように進言したのは善長であった。
「王の威令はすでに天下の知るところ。そのようなことは不要であろう」
 天祐は必死になって反対したが、善長の弁舌に彼如きが敵うはずがなかった。手玉に取られるようにして天祐はいつの間にか善長の論を支持している形に持っていかれてしまったのである。
 子興は善長の言を入れた。そして彼をして荘厳な拝命式を執り行うことを命じたのである。
 ――一枚一枚、王の威が剥がされていく。
 天祐は足元が崩れていく感覚を抱き続けている。好きにさせまいぞ、と手を打つのだが、そのたびに逆手を取られ、さらに悪化していく。もはや彼にあるは怒りではなく恐怖がその体を支配しつつあった。
 ――それ見たことか。
 そんな天祐の失態を見て邵栄は舌打ちをしたが、郭軍の力は日々朱軍に奪われていった。
 かくして朱郭軍は大々的に軍を編成し、瞬く間に和州を陥落させた。
 元々和州には良将なく、長年に渡る元朝の苛政に民が恨みを抱いていたため、落とすにさほどの労力がかからなかった。
 問題はむしろ陥落させた後にあった。元璋には確固たる信念がある。それは軍規の厳粛、民心の収集であった。和州を攻略すると、すぐさま大元帥の名において略奪暴行を禁止する令を発したのである。この禁令に朱軍は厳守した。だが郭軍は平然と禁を破り続けたのである。
「大元帥の命は王命だ。王に背くな」
 邵栄は必死になって禁令に背かぬよう奔走したが、まるで効果はない。困り果てた邵栄は略奪を戒める王使を要望したが、これが事態をさらに悪化させた。
 滁州より王使として天祐がやって来たが、彼の配下が略奪暴行の限りを尽くして和州の人々から恐れられてしまったのである。
 だがこの状況を元璋は黙ってはいなかった。和州入城から三日後、大元帥の名をもって諸将を召集したのである。無論その中に天祐も含まれている。諸将が集まるや、子興から賜った節刀を抜き一同に見せつけた。
「余は王より節刀を賜りし大元帥である。余の命は朱元璋の命にあらず、滁陽王の命なり。しかるに数多の者が命に従わず民から奪い、女子を辱めた。王命に違背する者は、その数千名を超えると聞く。本来ならばそれらの者全てを斬るべきであろうが、そうもいかぬ。そこで特に行状悪しき百名を捕らえ、ことごとくその首を刎ねる」
 元璋は国用を呼び、斬首すべき百人の名を読み上げた。その大半は天祐の配下で、中には彼の娘婿も含まれていた。天祐は飛び上がらんばかりに驚き助命嘆願したが、元璋は一蹴した。
「張天祐、控えよ。本来ならば王命を軽んじたそなたこそ斬首に処すべきところを、王の義弟であるゆえ、格別の計らいで助けてやるのだ。禁令を破りし罪は山より高く、海より深い。しかと申し渡す。今後は王の名を汚さぬよう身を慎まれよ」
 この言葉に天祐は何も抗することが出来ず、その場に崩れ去った。元璋は改めて諸将をにらみすえた。
「皆に聞く。諸君は滁州より何をしに参ったのだ。善良なる民から妻女を奪い、財を奪うためであったのか。我らは無道なる蒙古を倒し、暗の世から明の世にせんが為に紅き旗の許、集ったはずだ」
 言葉を止め、腰の剣を抜いて電光石火、天祐の娘婿を斬り捨ててしまった。
「そのような大義を忘れ、王の名を辱めた者はこのように処す。以後、何人たりとも禁令を犯すこと相許さん」
 血刀を元璋は刑吏に渡し、百名ことごとくその首を刎ねさせた。そして違反した残りの九百名には刺青を施し、謹慎処分に処した。
 諸将や兵たちは皆、この姿勢に震えあがったのは言うまでもない。鉄は熱いうちに打たねばならない。引き続き、訓戒を言い渡した。
「もう一つ申しおくことがある。入城早々、諸君には城壁の補修を命じたはずである。ところが怠惰をむさぼり、全く進んでおらぬ。敵がいつ攻めてくるわからぬ中、かような体たらくで、どうして大義を全うすることが出来ようか。今一度命ずる。民より奪うな。婦女を犯すな。命ぜられたことは全うせよ。我が命に背く者は王の名において成敗いたす」
 もはや元璋に異議を唱える者は誰もおらず、恐懼して命に服することを誓ったのである。
 天祐は当然怒り狂ったが、邵栄は改めて元璋という男に畏怖の念を抱いた。これ以降、誰一人軍律や禁令を犯す者はなく、和州は滁州同様、秩序正しき街となったのである。

   四

「義姉様、大変よ」
 芙蓉が血相を変えて鈴陶の部屋に飛び込んだのは、和州陥落から三ヵ月後のことであった。鈴陶たちは滁州から和州に移され、部屋を与えられている。
 部屋は今まで以上に広く快適であったが、鈴陶はひどく不機嫌であった。
「そうね」
 そう返事をするだけで、振り向こうともしない。
「秋には目出度く国瑞様の御子が産まれるのだから、こんな大変なことはないわね」
 鈴陶は黙々と何を縫っていた。芙蓉は不思議に思い、手元をのぞき込んだ。
「何を縫っておられるのですか」
 と尋ねると、鈴陶は手の物を投げ捨てるようにして芙蓉に手渡した。
「赤子のむつき?」
「ええ。それと産着もね」
「どうして義姉様がそのようなものを縫われているのですか」
「産まれてくる御子が男子ならば朱家の嫡男。鈴陶は朱家の正妻ゆえ、妾の子でも嫡男の世話をするのが当たり前。それゆえ産着やむつきもそなたが縫え、と」
「国瑞様が仰ったの?」
 あまりの勝手な言い分に芙蓉は腹を立てたが、鈴陶はかぶりを振った。
「仰せになったのは義父様よ。滁州を出立する際に、きつく申し付けられたのです」
「父上も妙な所で国瑞様をかばわれるのですね」
「他のことは全く似ていないのにね。国瑞様は妾を作るところだけは義父様を見習っておいでなのです」
 鈴陶は吐き捨てるような口調で、大きくため息をついた。
「ところで、何が大変なの?」
 少し気持を和らげた鈴陶は話題を元に戻した。
「そうそう。大変なのです。先ほど鼎臣(湯和)殿からお聞きしたのですが、国瑞様は孫元帥(徳崖)を和州に迎え入れることを承諾されたとのこと」
「孫元帥を?」
 さすがの鈴陶も、この突拍子な話に驚いた。
「よりによって、孫元帥を迎え入れるだなんて……なぜそのような話になったのです」
「何でも濠州では糧食が尽き、趙王(均用)様がいずくにか逐電されたとのこと」
「他の元帥たちは?」
「趙王様が去った後にそれぞれ仲違いをされ、こちらに来られる前に流賊に討たれたとのことです」
「流賊……ねえ」
 鈴陶は複雑な気分で、濠州の将領たちの末路を思った。かつて義父と大義を掲げ挙兵した彼らであったが、散々、内輪揉めを起こして、かつ民から奪うだけ奪い尽くした彼らが流賊に討たれたと云う。流賊にと言うが、彼らのやって来たことはそれ以上のことではないか。このたびの惨めな末路はまさに天の怒りと言うべきであろう。
 しかしわからないのは元璋である。人一倍軍律に厳しい元璋が何故非道を尽くしてきた徳崖を迎え入れようとしているのか、不思議としか言いようがない。
 ――情で言えば、なおさら奇妙。
 恨みこそあれ、情など徳崖にはないはずである。大義から言えば濠州を食い潰した彼は滅ぼすべき相手であった。
「国瑞様が申されますに……」
 この鈴陶の疑問に芙蓉は答えたが、彼女にもよく理解出来ないらしい。
「孫元帥は紅巾軍の同志である。窮鳥懐に入れば猟師もこれを射ず。それゆえ、彼をかくまうと仰っているようです」
 この説明に鈴陶も理解出来なかった。
 ――国瑞様らしからぬ。
 元璋は理路整然、合理的な人物である。何事も情を挟まず、理に沿って物事を進めてきた。ところがこのたびの行動はどうしたことであろうか。理どころか、情も当てはまらない。元璋は戦に疲れて錯乱しているのではないか、と鈴陶は本気で心配した。それほど徳崖受け入れは理屈に合わない行為であった。
 先の子興を王に推戴した時もそうであったが、この頃から発作的に元璋は理屈に合わない行動を起こすようになる。その発作は自分を保護してくれる対象が訪れると、全てを投げ打って推戴しようというものであった。
 元璋は長い間、行くあても頼る辺も見出せない放浪の旅を続けていた。誰も頼ることが出来ない時は、卓越した指導力や発想力をもって対処してきた。だが寄る辺もない恐ろしさを元璋ほど知り尽くしている者も少ない。
 ――国瑞様は人に甘えたいのだ。
 そのように鈴陶は元璋を見ている。だが人に甘えては堕落してしまうことも彼女は見抜いていた。
 ――このままでは駄目だ。
 そう思うと鈴陶は立ち上がっていた。
「芙蓉。後は頼みます」
 鈴陶は産着を芙蓉に託し、自身は元璋に会うべく部屋を飛び出して行った。芙蓉は産着を抱きしめながら義姉の後ろ姿を見送るしか術がなかった。

「また来たか」
 そう言いたげな表情を元璋はした。
「そんなに産着を縫うのは嫌か」
 半ば冗談、半ば本気で元璋は訊いた。
 鈴陶は思わず、「嫌に決まっていますでしょう」と、言い返しそうになったが、必死にその言葉を飲み込んだ。
「冗談を申し上げに参ったのではありません。孫元帥をお迎えになること、本当ですか?」
「前にも申したはずだ。女子が政に口を出すな、と」
「ええ、お聞きいたしました。ですがこのまま濠州の時のようにいがみ合うのはたくさんです」
 徳崖を迎え入れれば内紛が起きる――そのようなことを元璋は誰よりも理解している。だが元璋は頑なであった。
「考えあってのことだ」
 言葉短く答えるのみで、何も取り合おうとしなかった。鈴陶はそれでも食いつこうとしたが、元璋の顔つきを見てあきらめた。
 ――頑固な義父様と同じだ。
 誰の言葉にも耳を貸さない時の子興と瓜二つであり、このような時の男は諭せば諭すほど逆効果であることを鈴陶はよくわかっていた。
 ――何とかならないのか。
 鈴陶は焦燥感を抱いたが、今はどうにも妙手が思い浮かばない。一連の動きに危惧を感じていたのは無論鈴陶だけではなかった。
 湯和たち諸将もまた同様であった。
「俺たちは孤児だからな」
 徐達に相談を持ちかけられた湯和は言葉短く、己の見解を口にした。湯和も天涯孤独の身であり、元璋の気持が何となく理解が出来た。
「どうすれば良いのでしょう?」
 徐達は鎧を着けながら、湯和に愚痴をこぼした。
「天徳が愚痴とは珍しい」
 からかうような口調で湯和は苦笑した。たしかに徐達が愚痴を口にすることは珍しい。
「鼎臣殿は呑気ですね。それにしても……濠州兵の方は実に厄介だ」
「そうだな」
 湯和も濠州兵の者だが、徐達に異論はない。濠州の者たちは経歴の古さを盾にして、とかく揉め事を起こす。
「随分とお諌めしたのです」
 徐達はそのように語った。徳崖受け入れの是非を問われた時、徐達は即座に反対した。徐達だけではなく、善長や馮兄弟、鄧愈や花雲など武骨な連中でさえも首を縦には振らなかった。極端な話をすれば元璋以外、全ての者が反対であった。だが元璋は病的なまでにこの受け入れを敢行しようとした。
「このまま何も起こらなければ良いのだが……」
 徐達はそのようにつぶやいたが、湯和は内心かぶりを振った。何も起こらないはずがなく、間違いなく問題は起こるだろう。
 ――もう天に祈るしかない。
 人事尽くして窮すれば、残された道は天に任せる他ない。人が小賢しく動こうとも天意には逆らえない。元璋や湯和たちに運があるか否か、それを知るは天のみであった。

 この報はすぐさま滁州にもたらされた。
「あのあばた野郎ッ」
 とても王とは思えぬほど子興は口汚く元璋を罵った。この世でもっとも徳崖を憎んでいるのは他ならぬ子興である。出来うるならこの手で彼の首を刎ねてやりたい。その男を受け入れるとはどういう料簡であろうか。即座に殺すべし――子興は幾度も命じたが、元璋は言葉を尽くして従おうとしない。
「孫元帥は濠州以来の同志。豆殻をもって豆を煮ることは出来ませぬ」
 そうかたくなに徳崖排除を拒否し、子興をなだめようとしたのである。だがこの説諭は怒りの火に油を注ぐだけであった。
「あばた顔に出来ぬなら、わしがやってやる」
 周囲の反対を押し切って徳崖討伐の軍が滁州より発せられたのである。軍を発しただけではなく、王たる子興が自らその軍を采配していると云うのだからどうしようもなかった。
 和州は蜂の巣を突いたような騒ぎとなったが、これを加速させたのは元璋その人であった。さらにあろう事か、何と元璋が単身で孫陣へと向かってしまったのだ。
「郭孫の間に和を結ばせる」
 そう言って赴いたのだが、無謀以外何物でもなかった。すでに子興による徳崖追討令が出ているのである。わざわざ殺されにいくようなものであった。
 この行動は孫軍を狂喜させた。実はこの時、孫軍は最大の危機を迎えていた。徳崖は元璋と入れ違うように和州に進攻した郭軍に捕縛されていたのである。郭軍の進攻に恐れをなした徳崖の側近が寝返ったためであった。残された孫軍の者は路頭に迷っていたが、そこに格好の人質がやって来てくれたのである。
 果たして元璋はあえなく捕縛され、和州は混乱の極みに達した。
 元璋を助けるか否か。徐達たち朱軍の者は言わずもがな、徳崖と交換すべしと一決した。 だが天祐たち郭軍の者は猛然と反対したのである。子興は元璋の行動に呆れ果て、叫びに叫んだ。
「ようやく徳崖の瓜頭を胴体から切り離すことが出来るに、余計なことをしおってッ」
 そう地団駄踏んで悔しがった。不倶戴天、積りに積もった恨みがある徳崖を子興は許してやる気など微塵もない。
「朱元帥も王の意に背くは本意ではなかろう。ここは後の憂いを取り除かんがため徳崖を斬首すべし」
 そのように進言したのは天祐であった。
「何を申すかッ」
 湯和は剣の柄に手をかけたが、天祐の兵がそれを防ぐべく槍を構えた。
 この騒動は無論鈴陶たち女子たちにも伝えられた。天祐が強く徳崖処刑を主張していると聞いた夫人は激怒した。
「かつての同志を斬り、婿まで見殺しにする。このようなことが許されると思うのですか」
「姉上のお言葉ですが徳崖は必ず王業の妨げとなりましょう。大義親を滅す。これは奥の者が口を挟むことにあらず」
 かつてないほど天祐は強気であり、思わぬ弟の反抗に夫人は言葉を封じられてしまった。
 結局、最後の判断は王たる子興に委ねられることになった。
 子興は悩んだ。一言「斬れ」と命じれば憎き徳崖をあの世に送ることが出来る。だが元璋という有能なる部下を失うことは手痛い。和州軍にとって大打撃で、下手をすれば和州の軍全てが滅ぼされてしまう危険性があった。
一方でこうも考えた。
 ――鈴陶に恨まれながら生涯を終えるのは敵わぬ。
 子興は夫を失い嘆き悲しむ姿を想像すると何とも切なかった。若き頃はこのような動機で考えを変えるなどしなかったが、子興も歳を取ったということなのだろう。
 それから丸一日悩んだが、それでも決断を下すことが出来ないでいた。やがて子興は何か意を決したらしく、夜になって鈴陶を部屋に呼び寄せた。
 当然であるが夫の危機に鈴陶は焦燥していた。義父の心を変えたい――その一心ですぐさま父の部屋に足を進めたのである。
「相変わらず来るのが速いのう」
 あまりの速さに驚き、子興は笑い転げた。
 ――何だか……。
 子興は険が取れたような優しい顔つきになっており、鈴陶は驚きを隠せないでいた。
「鈴陶よ」
 穏やかな笑みを浮かべながら、子興は椅子に腰掛けるよう手招きした。
「呼んだのはのう。他でもない」
 元璋のことだ、と子興は言わなかった。
「そなたとゆっくりと話したいと思うたのよ」
「義父様……」
 鈴陶はもどかしかった。今はこのようにのんびりと話している暇はないはずだ。遅くなれば元璋は殺されてしまう。だが義父の顔はどこまでも穏やかで、ここは静かにその話に耳をかたむけなければならないと、そんな気を鈴陶に起こさせた。
「お話とは何でございます?」
 努めて穏やかに、焦る気持ちを抑えながら鈴陶は尋ねた。
「そうじゃな……」
 子興は眼を閉じながら終始、上機嫌で昔の話ばかりを始めた。
「鈴陶には随分と手を焼かされたものだ」
 子興は愉快そうに話し、小さな声で笑う。鈴陶は我慢強く義父の言葉に耳を済ませた。やがて思わぬ話題を子興は切り出した。
「母者から聞いたが国瑞の奴、妾に気を取られているそうだな」
 何の話をするのか――鈴陶はそんな表情をしながら無言でうなずいた。
「怪しからん奴だ。乞食坊主の分際で、そなたのような才媛をないがしろにするとは何たる奴か」
 子興は机上に用意していた菓子を無造作につかんで口に放り込んだ。愛娘を泣かせていることに本気で怒っているようであった。そんな義父がどうにも可笑しくなり、鈴陶はつい声を立てて笑ってしまった。
「でも、義父様。国瑞様は仰っていましたよ。自分は舅殿を見習っているのだと」
 意地悪な面持ちでなじるように言うと、子興は弾けるようにして笑い転げた。
「あばた坊主め。わしは古今類なき美丈夫なるぞ。相手が言い寄ってくるので、やむなく情をかけてやっているだけなのだ。あいつのように女子に言い寄ったことは一度もない。一度も……いや違うな」
 菓子を鈴陶に勧めながら、顔を少し赤らめながらかぶりを振った。
「一度だけ、わしが言い寄ったことがあったな」
「あら、それは誰ですの?」
「母者よ。あの者だけはわしが懇願して嫁になってもらったのよ。これは本当のことだ」
 そう言うと、高らかに笑った。抜け抜けとよくもまあ――そう思ったが鈴陶も同じく愉快そうに哄笑した。
 しばらく談笑が続いた。
 だが何を思ったのか、子興は急に真面目な顔つきで鈴陶を見つめた。子興はただ無言で髭をしごいていたが、その髭や髪には白いものが目立つようになっている。
 ――父様もお歳を召されたのだ。
 しみじみと鈴陶は思う。頑固でいつまでも餓鬼大将のような義父であったが、血の繋がりもない自分を実娘以上に可愛がってくれた。長所も短所も含めて、敬慕すべき父であった。
子興は優しく目を笑ませ、静かに穏やかな口調で語り始めた。
「国瑞は身分が卑しく、貌も怪異だ。そのくせ妾作りに精を出し、挙句の果てには子までなす。……鈴陶よ。そんな怪しからん男だが、それでもそなたは国瑞を愛しく想っておるのか?」
 この問いに、鈴陶は自分でも驚くほどはっきりと、
「誰よりもお慕いいたしております」
 と、淀みなく答えた。
「では訊きたい。もしこの父と国瑞のいずれかを取れ、と言われたなら何とする」
「父様と国瑞様、ですか?」
 鈴陶は言葉を詰まらせ、真剣に思い悩んだ。
 どちらかを選べ。
 二人ともかけがえのない人であり、そのような選択が出来るはずがない。そんな娘の様子を子興は楽しげに眺めていた。やがて手を振りながら微笑した。
「許せ、許せ。父が悪かった」
 この時の子興の表情だが、鈴陶は終世忘れることは出来なかった。まるで神仏が宿ったかのような透明感のある穏やかな表情で、鈴陶の心深く刻み込まれた。
 子興は静かに立ち上がると、鈴陶の肩にそっと手を置いた。
「……大事なる人をそなたに返そう」
 染み入るような笑みを浮かべ、そのまま部屋を出て行ってしまった。
 残された鈴陶はしばらく呆然としていたが、父は元璋を助けることを承諾してくれたのであった。
 鈴陶はほおを涙で濡らしながら、何度も姿の見えなくなった父に感謝した。
 翌日。子興は徳崖を開放することを条件に、元璋の釈放を孫軍に求めた。無論、孫軍にとって異存があるはずもなく、即刻元璋を釈放した。
 徳崖と孫軍は追われるようにして和州を出て、いずこかへと去って行った。その後流転を続け、果ては亳州にたどり着いた。だがそこでも野望覚めやらず、彼を疎んじた劉福通によって謀殺されてしまうのである。
 かくして元璋は鈴陶の許に帰り着いた。だが間もなく。和州に一つの訃報が流れた。子興が静かにこの世を去ったのである。徳崖を開放してからは、すっかり覇気を無くしてしまった。言葉数もめっきり減り、別人のようになってしまった。やがて子興はある朝、眠るようにして冥途に旅立ってしまったのである。
「父様が……」
 子興の死を聞いた鈴陶は言葉を失った。足許が崩れ去るような衝撃で、何をどうしたら良いのかわからない。
 ――泣けば良い。
 そんなこともわからないほど茫然自失としてしまった。
 それに対して夫人と芙蓉は人憚りなく号泣した。中国において人の死は号泣をもって送らなければならないのだが、二人は儀式でなく本気で泣くに泣いた。
 その姿を見て鈴陶は、
 ――そうか、泣けば良いんだ。
 と、ごく簡単なことに気付き、ようやく両眼からあふれ出るほどの涙を流した。
 それからは果てることなく父を想い、幼子のように大声で泣きじゃくった。
 頑固であった父。
 偏屈であった父。
 義母を困らせていたばかりの父。
 悪事を多く働いた父。
 だが――この世で最も自分を慈しんでくれた父を鈴陶は誰よりも想い、そして誰よりも涙を流した。この妻の横で呆けたようにただ天を仰ぎ見る元璋の姿があった。
 ――俺はどうしたら良いんだ。
 再び「父」を喪った元璋は途方に暮れていた。それは濠州以来の邵栄や、湯和、鄧愈なども同様であったが、乱世は彼らに悲しむ時を与えてはくれなかった。
 一刻も早く元璋が元璋に戻らなければならない。熾烈な運命を前に名将・元璋の復活を人々は渇望するのであった。
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