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第二話「一ツ目石人の謡」
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一ツ目石人の謡
一
元朝が中原を征して百余年。
この王朝は二つの政治的支点を持ち、振り子のように揺れ続けた。そのため常に政治は不安定であった。
一つは国粋派と言うべき蒙古至上主義である。国粋派の一人に「李・王・趙・張・劉の五姓を持つ漢民族を皆殺しにせよ」と、提議したバヤンがいる。バヤンほどでなくとも、漢民族を農奴のように考えていた皇帝や宰相が度々現れ、権勢を振るった。
もう一つは、漢民族の文化や政治手法を積極的に取り入れようとする漢地派である。漢地派の代表は南宋を滅ぼし、蒙古帝国から中原王朝・元へと転化させた世祖フビライハーンであった。
漢地派は科挙を実施し、身分を問わず有能な人材を登用した。元朝が曲がりなりにも中原王朝として百年間、君臨出来たのは漢地派の指導によるところが大きい。このように元朝は両極端の支点を持たねばならなかったのは征服王朝であったからだ。
元朝設立時は卓越した政治家であったフビライハーンによって政治的均衡を保っていた。しかしフビライ崩御後は彼を越える皇帝が現れず、権臣たちがそれぞれの派閥を率いて権力闘争を繰り返してきた。
極端な政策転向は世にひずみをもたらす。国粋派が力を得れば漢地派を、漢地派が力を得れば国粋派を弾圧した。やがて両派は仇敵のように憎しみ合い、血で血を争う大粛清が繰り広げられてきた。元朝は血にまみれながら中原に君臨し、ただ人民から富を、時には生命すら搾取し続けてきたのだ。
至正(しせい)年間。江南地方の疲弊度は極限の域に達していた。
原因は旱魃に伴った飢饉、つまり天災によるものである。しかし災害に対して、元朝は有効な救済策を実施せず、そのため被害が拡大した。江南を苦しめた最大の原因は、天災というよりも元朝の無策、すなわち人災によることころが大きい。
人々は飢えに苦しんだ。その上、元朝は更なる税を徴収したため、人々は郷里を捨て流浪するしかなかった。気の弱い者は乞食となるか、それとも死ぬほか道がなかった。気の強い者は盗賊となって各地を荒らし回り、弱者から奪い尽くす、この世の地獄であった。
だが「賊に会っても官に会うな」という言葉がある。賊による被害は小さくはないが、それでも官による徴収の方が民にとって被害が大きかった。そのため民は賊よりも官に会うことを恐れた。
「このままではならぬ」
このような状況の中、敢然と元朝建て直しを志した人物が丞相トクトであった。
国粋派バヤンの甥であるが、彼自身は漢地派の首魁である。トクトは賢明で、権力を握るまでは、ひたすら漢地派であることを隠し続けた。バヤンの手足となり、誠心誠意、彼を補佐した。トクトは政治家として優秀であり、バヤンもつい気を許し、重用するようになった。バヤンは行動力があったが、諸事やることが粗雑で、力で抑えつけているために反感を抱く者は少なくなく、ついには皇帝でさえバヤンに嫌悪感を抱いてしまうほどであった。
皇帝にまで忌み嫌われてはバヤンの命運は尽きたのも同然であった。トクトはこの気運を逃すことなく、バヤンを失脚に追い込んだのだ。
トクトはこの伯父と違い、繊細で理路整然としている。粗暴なバヤンがトクトの動きを察知出来たのは政権の座から追い落とされた時であった。
「豎子(じゅし)(小僧)め、恩を忘れ……よくも不義を働きおったな」
漢地派を憎んでいたはずのバヤンが思わず儒学的な「不義」という言葉を遣わざるをえなかったのは皮肉な話であったが、それほどトクトの政権奪取は完璧であった。
こうしてトクトは伯父に代わって丞相となり、政治改革に着手したのである。
トクトはフビライ以来の傑物であった。五歳にして四書を諳んじ、成人してからはいかなる学者とも互角に論じ合えるほど学問に通じている。武芸も達者で、馬術で彼の右に出る者はいなかった。力も人並はずれていて、チンギスハーンが尚武のため推奨していた蒙古相撲で人に負けたことがない。
だが彼が最も優れていたのは個人的な文武ではない。彼の最大の財産は人を惹きつける才能――そう、人望であった。
彼は人蕩しと言って良いほど、人心をつかむことが巧みで、粗暴な伯父でさえ彼を信用したのは血縁者であるということだけが理由ではなかった。頼りにしたいと思わせるような人格的な光彩に満ちあふれていたからである。
トクトは決して不義の男ではない。むしろ何よりも人にとって最も大事なるは恩義であることをこの若き丞相は心得ている。
伯父への恩は軽からずものだということは百も承知していた。だが彼が最も大事にしたには国家への恩であった。たとえ伯父に不義を働こうとも国家を救うことこそ、元朝の貴族としての絶対的な義務だと固く信じていた。
「国家を支えるは逸材なり。あまねく在野の賢人を登用すべし」
として、長らく廃止となっていた科挙を復活させた。
一方で武芸の奨励も怠らなかった。当時、蒙古貴族は堕落しきっており、乗馬すら出来ない者が数多いた。蒙古族が世界を席巻した最大の強みは卓越した騎射術にある。その蒙古族が馬にも乗れず、ただ江南から毟り取った富で享楽を貪っているようでは、元朝の滅亡は火を見るより明らかである。蒙古族に尚武の心を叩き込むことも急務であった。
ただ武芸のみを鍛えたところで軍を強化することは出来ない。軍は指揮する将によって強くもなれば弱くもなるものだ。兵法に通暁しているトクトは自らを教師として、見込みある若者を見出しては彼らを指南した。この時トクトに教えを受けた若者たちが、この後、斜陽の国家を支えていくことになるのである。
復活された科挙で合格した文人の中に賈魯(かろ)という人物がいた。河東高平(かとうこうへい)の人で、字(あざな)を友恒(ゆうかん)という。科挙を首席で合格した文人であるが、身の丈七尺の偉丈夫であった。学問だけでなく槍術にも優れ、武芸者としても、その名が知れ渡っている。
彼が頭角を現したのは、トクトが命じた宋史編纂事業においてであった。
編纂事業に求められるのは知識だけでなく、史実を収集し、その正誤を見極める鑑識眼が必要となる。賈魯の才は編纂事業を司る者たちの中で抜きん出ていた。
「友恒よ」
ある日、トクトは賈魯を宮廷の廊下で呼び止めた。トクトは礼に篤く、配下といえども賢人に対しては決して名で呼ぶことはしない。
中国の男性は成人すると字を名乗る。いわゆる言霊思想で、妄りに諱(いみな)を呼ぶことは不吉とされていた。そのため諱を呼んで良いのは親や君主など身上の者に限られ、それ以外の者は字で呼ぶことが礼儀とされた。
トクトは位人臣を極めた最高権力者のため、賈魯を諱で呼んでも差し支えはない。しかしトクトは賈魯の才を尊び、字で呼ぶ気遣いを見せたのだ。
「君に対して愚問だと思うのだが、余が史書の編纂を命じている真意は存じていような」
賈魯は恭しく拱手(きょうしゅ)し、その問いに答えた。
「丞相は己が眼をお持ちです。他人の眼ではなく、ご自身の眼で物事を見極めようとされておりまする」
「何事も己の眼で見て、己の耳で聞き、そして己の脚で確かめねば気がすまぬ。何とも面倒な性分だ」
「君子たる者の心得でござりましょう。良きご性分にござりまする」
「おだてるな。それよりも余の質問に答えられよ」
「史書編纂は……武則天(ぶそくてん)に倣われたものではないでしょうか」
トクトはにやりと笑い、賈魯の顔を見つめた。
武則天とは中国史上唯一の女帝である。彼女が採用した人材が次代の玄宗皇帝に引き継がれ、開元という唐全盛期を開花させた。彼女が人材登用に利用したのが史書編纂であり、トクトは武則天に倣ったのだ。
「天下の逸材を見出すに、編纂ほど良い方法がござりませぬ。それに――」
賈魯は目許を笑ませた。
「人材登用だけではござりませぬ。史料を収集するためには各地に赴き、古老たちの話を聞かねばなりませぬ。古老の話は何も古のものばかりではありますまい」
「さすがは友恒。全て見通しておる。ならば尋ねよう。そなたは何を見て、何を聞き、何を感じたか」
「お聞きいただけるのですか」
「申すまでもない」
「ならば――」
喜色を浮かべ、自室にトクトを招いた。
賈魯の部屋には各地の地図が無数に所蔵されている。
趣味と言っていいほど地図を集めており、賈魯の部屋にいれば天下が見えるとさえ噂されたほどであった。
部屋に入るや、賈魯は一枚の地図を机の上に広げた。地図は黄河流域のもので、事細やかに詳細な情報が書き込まれている。
「龍(黄河)であるな」
「御意。近年、龍が暴れ回り、人々は途端の苦しみにあえいでおります」
「古より龍を治める者こそ――」
「天下を治める、と申します」
「つまり天下を再建するために龍を治めよと申すのだな」
「政は乱れ、龍が気ままに暴れる。そのため河北・河南は疲弊し、江南のみに頼るようになっております。大元の命運を江南のみに託すは剣呑至極」
「このままでは江南に乱が起きる、か」
賈魯は無言でうなずいた。
この推測は的中していた。江南は中国全土を支えることが出来るほど豊穣の地である。しかし江南以外は生産がままならず、一地方のみに国家の歳入の大半を元朝は頼っていた。 その江南も大飢饉が襲い、生産が減少したために民衆の不満が高まっている。黄河流域を開拓することにより、河北・河南の生産力が復活する。その結果、江南のみに頼る現状を打破し、元朝を復興させることが出来ると賈魯は考えたのだ。
「友恒、そなたの官職は何か」
「都漕運使(とそううんし)でござりまする」
都漕運使とは治水担当官であるが、権限はさほど持たされていない。トクトは腕を組み、長考した。やがて腕を解き、笑みを浮かべた。
「君ほどの人物を都漕運使に留めるは国家の損害だ。明日より工部尚書(こうぶしょうしょ)に任ずる。卿が全権をもって龍を治めるのだ」
これは破格の人事であった。工部尚書とは建設大臣のことで、土木部門最高の役職である。あまりのことに賈魯は呆然としていたが、転がるようにして平伏し、厚恩に感謝した。
「卿にはわかっていようが、大元は危急存亡の秋にある。余は陛下より国家を託された。その余が倶に天下を語ることが出来る人物は少ない。前途多難であるが、国家のために命を捧げてくれ」
賈魯はその言葉を聞くと、なぜか憤然とした。
「閣下は万巻の書に通じられ、賢明なるお方だと思っておりましたが、賈魯の思い違いであったようで。士たる者、己を知る者のために死すもの。この賈魯、徳なく才なき小人でございますが、ご厚恩に報いず、国家の大事を座視するような卑怯者ではござりませぬ。閣下が死ね、と仰せなら喜んでこの命を差し出しましょう」
トクトはこの決意に感動し、みるみる満面を涙で濡らした。
「平安楽土の世を倶に築こうぞ」
賈魯は言葉もなく、トクトと同じく大粒の涙を流した。かくして賈魯はトクトの期待と国家復興を志し、勇躍黄河開拓に身を投じるのであった。
賈魯は工部尚書の印綬を身に帯びた。
工部尚書となるや否や、日を置かずにすぐさま計画を実行した。部下任せにせず、自ら現場に赴き、陣頭指揮を執ったのである。賈魯は志が高く、能吏であったことは疑うべくもない。また彼を抜擢したトクトの人物選定力が卓越していたことは間違いなかった。
だがトクトは大きな誤算をしていた。千の賢あろうとも、一つの愚が全てを崩壊させてしまうことがある。トクトは卓越した人物であったが、一つ欠点があった。
貴人情を知らず――。
トクトがいかに英明であり、人心掌握に長けていたとしても、根底で苦しむ庶民の心まで読みきることができていなかった。もちろんこれはトクト個人の問題ではなく、貴族に生まれし者の宿命的な欠点であった。
トクトと賈魯の盲点とは何であったのか。いかに優れていようとも時と場合を違えた政策は、人々にとって災害でしかないということであった。
賈魯は在野の頃より黄河開拓についてよく研究していた。だがその研究はいわば机上の空論であり、実情を把握したものではなかったのだ。実情とは、大事業を支えるべき民衆が困窮しきっていたということである。この事業を手掛ける前に元朝が成すべきことは善政を敷き、人民の生活を安定させることであった。その後、この事業の意味を理解させることが出来たならば成就したに違いない。しかしこの百余年、あまりにも長く悪政が続いており、民衆から発せられる怨恨の声はトクトたちの予想を遥かに上回っていた。賈魯は起死回生を期したが、皮肉にもこの事業が元朝を崩壊に導くきっかけとなってしまうのである。
「妙な謡が流行っております」
そのような報告がなされたのは、現地に着任して半月ほどのことであった。
賈魯自身も幾度かその謡を耳にしている。だがこうした謡が流行することはさほど変わったことではない。古より民は労役に駆り出されると、苦痛を和らげるために謡を口ずさんだものであったからだ。そのため賈魯は意にも介していなかった。だが、この謡こそ元朝を破滅に追い込む死の呪文になろうとは、賈魯は予想だにしていなかった。
二
庶民は迷信・予言の類に弱い。庶民にとって至正年間は稀に見る嗜虐の年月であった。虐げられている民衆にとって正しかろうと間違っていようとも信仰が一縷の希望になってしまうのもやむをえなかった。黄河開拓に駆り出されている民に広がった奇妙な謡とは次のようなものであった。
一ツ目石人現れ、黄河揺るがす
天下に反乱起こるであろう
人々はたがいに顔を見合わせ、ささやいた。
「一ツ目石人とは何だ」
「天下が乱れるのか」
「いや、とっくの昔に乱れている。生きていても苦しいだけの世の中だ。一ツ目石人だろうが何だろうが、こんな世はひっくり返ればいい」
そう人々は言い合った。
くだらぬ噂に惑わされてはかなわぬ、と賈魯は噂を放置し続けた。だが日が経つにつれ、謡と共に不穏な空気が蔓延し、やがて不穏な空気は工事に支障をきたした。賈魯が調査を命じたのは、十日も後のことであった。
調べさせたものの、誰が広めたのか、雲をつかむように一向にわからなかった。
さらにひと月。賈魯はようやく大都のトクトへ報告することにした。
賈魯は学者としては一流だが、政治家としては失格であった。政治家にとって最も大事なのは機を見ることにあり、彼は極めて鈍であった。火は小さなうちに消し止めることが肝要であることを知らなかったのだ。賈魯が取るべき措置は一刻も早くトクトに相談すべきであったが、事態を甘く見すぎており、報告を受けたトクトは瞬時に顔色を変えた。
「あれはただの学者であったか」
書状を読み終えるや、すぐさま腹心の呉直方(ごちょくほう)を丞相府に呼びつけた。
呉直方とは集権大学士(しゅうけんだいがくし)の地位にあり、トクトの知恵袋としてその名を馳せていた。学識があるだけでなく、政治的感覚にも優れた人物であった。ただ土木知識がなく、今回の黄河開拓には携わってはいなかった。
「妙な謡が流行っているそうですな」
「さすがは直方。友恒からの書状だ」
トクトはすぐさま賈魯の書状を手渡し、直方は拝読した。読み進むにつれて、やがて直方の表情は険しくなっていった。
「工部尚書殿は能吏かもしれませぬが、政を成す者としての目はないようですな。閣下、一刻の猶予もなりませぬぞ。早く手を打たねば、火の手が上がりましょう」
「火の手だと?」
「このような妖謡には必ず謀反人の影があるもの。太平道(黄巾軍)しかり、陳勝・呉広(秦末の農民反乱)しかり」
史書に通じているトクトはぎくりとした。たしかに反乱者は予言めいた謡を流行らせ、民衆を扇動する。
「すでに一ツ目石人とやらが掘り起こされているかもしれませぬ」
この言葉を聞き、トクトの背中に一筋の冷や汗が流れた。すぐさま賈魯に警戒させねばならない。だが直方は手遅れだと見ていた。もしこの謡の影に反乱の意志があるなら、すでに挙兵の手筈が整えられているはずである。
――燎原は乾ききっている。そこに火がつけば……。
瞬く間に天下騒乱となり、元朝は滅亡の道に突き進んでしまうであろう。杞憂であれ、と直方は願ったが、同時に虚しい祈りだと自嘲した。
この直方の予感は不幸にも的中してしまった。大都からの急使がたどり着く前に、一ツ目石人が発掘されてしまったのだ。発見されたのは開拓現場であった。
「神人が、降臨された」
発掘した人夫たちは口々にわめき、現場は騒然となった。この事態を前に賈魯はどこまでも無能であった。右往左往するのみで、何も手を打つことが出来ないでいた。
三
河北・永年県。
郊外二十里に沼池に囲まれた雑木林があり、雑木林の中ほどに、倒壊しつつあった北魏時代からの寺院が建っている。その寺院にいつの頃からか、夜な夜な老若男女が集うようになっていた。本堂からは香が漂い、怪しげな読経の声が聞こえてくる。夜が明けると人目を避けるように人々は去っていく。
寺院から一ツ目石人が発掘された現場は近い。現場で発掘に立ち会った人夫もこの寺院に集っていた。それらの人々を四十近くの男が何やら熱っぽく説法をしており、
「韓大師様」
と、人々から尊称されていたのは韓山童(かんさんどう)と言って、立派な髭を蓄えた風格が漂う男であった。
「大師様は天子の気あり」
ある者は本気で言い、山童を神のように拝んだ。
彼の話し方には独特な調べがある。そのため聴く人々を魅了させた。新しい信者は山童のことを「大師様」と呼ぶが、古くからの信者は「三代様」と敬称している。
山童は代々「不殺、不盗、不淫、不妄、不酒」の五戒を説く白蓮教の三代目教主であったからだ。白蓮教では現世を暗とし、やがて明が暗を打ち破って皆を救うと説いている。この教えは唐代から庶民の間に広がり、信者の数は万を数える。三代様こと韓山童は教えを展開させて、妙なことを口にするようになっていた。
「この世は過去、すなわち初際(しょさい)、今を示す中際(ちゅうさい)、そして未来を表す後際(こうさい)に分かれている。今は悪しき暗が世を蓋い、皆を苦しめているが、安心するが良い。きっと明王(めいおう)が現れ、暗の世を滅ぼし、皆をお救いになるであろう」
山童はさらに説く。
「明王の御為に我らは命を懸けて戦わねばならぬ。もし命落とそうとも、魂は明王によって救われよう」
そう言って人々を焚きつけていった。白蓮教は唐代から清代に至るまで常に反乱の温床として朝廷から警戒され続けてきた。世が乱れると腫れ物のように世の膿を孕んで王朝に反旗を翻すことになるのである。
白蓮教はたしかに邪教であった。だが、「衣食足りて礼節を知る」という言葉がある。 衣なく、食なく、居もない。おまけに黄河開拓という大事業にまで駆り出される。今日、明日の暮らしが成り立たない者にとって邪教であろうと何であろうと、現状を打破出来るなら何でも良かった。山童はそのような貧民を取り入れて急激に力を増していったのだ。
人々の不満は決壊寸前で、反乱の気運は極限にまで高まりつつある。
山童は不満という焔に「一ツ目石人」という油(きっかけ)を注いでやった。一ツ目石人を埋めさせたのは他ならぬ山童であったのだ。山童が扇動者として一流であったことは、石人が発掘された当初、わざととぼけてみせたことでもわかる。
暗の世を打ち破ろうと挙兵に逸る宗徒たちを、
「軽挙妄動は弥勒様の望むところにあらず」
と言って、たしなめたのである。しかし興奮した宗徒たちは制止されればかえっていきり立つ。宗徒たちは「命など不要」と息巻いたが、山童は、
「命を粗末にするでない」
と、哀しげな表情で皆の心を鎮めようとした。宗徒たちは激しくかぶりを振り、一緒に立ち上がるよう半ば強制した。山童は深く悩み、そして静かに「弥勒仏下生」と読経を上げた。宗徒たちもそれに倣い、同じく読経した。やがて読経が終わると、山童は顔を涙で濡らしながら、一同の顔を見回した。
「今……弥勒様とお話をした」
宗徒たちはたがいに顔を見合せながら、歓呼の声を上げた。
山童は涙を拭いながら続ける。
「先日、土から出た石人は皆の申す通り、弥勒様のお使いであるとのこと。一ツ目石人に宿りし神力は黄河を蓋い、暗から皆をお救いになる明王を中際にお遣わしになるのだ。我らは救われるのだ」
この言葉に宗徒たちは声を上げ、涙しながら歓喜した。その声は堂を蓋い、熱狂の渦となった。
「余は日々、弥勒様に祈願しておった。いつの日か朝廷に明王が降臨し、民をお済いになるようにと。だが朝廷とは名ばかりの、その正体は野蛮なる蒙古族にすぎぬ。中原を力のみで支配した暗王であった。このままでは暗の世で我らはただ死を待つのみ。だが弥勒様は我らを憐れみ、一ツ目石人をこの地上にお遣わしになったのだ」
「大師様。明王様はまだ石人の中におられるのでしょうか」
「それは余にもわからぬ。あるいは余よりも皆の方が知っているのではないかな」
山童は首を振りながら、そのまま座を立ってしまった。
残された宗徒たちは騒然となった。一体どこに明王が下生しているのか、と話し合った。すると誰彼なしに、
「大師様こそが明王様なのではあるまいか」
という声が、上がった。座はざわめき、宗徒たちは、それぞれ顔を見合わせた。
明王は民を率いて世を済う存在である。今まで自分たちを導いてくれた山童こそ明王ではないか――宗徒たちはそう考えるのも無理はなかった。
宗徒たちは急ぎ、山童を堂に連れ戻した。そして全員で明王に即いていただくよう懇願した。
「余は徳なく才ない者だ」
と言って、推戴されることを固辞した。しかし宗徒たちは収まらない。三度に渡り、頭を床に叩きつけるようにして懇願した。山童は大きく息を吸って、そして瞑目した。
「皆は命が惜しくないのか」
「このままでは皆、餓死いたしましょう。餓死せずとも蒙古どもに全てを奪われ、殺されるだけでござります」
「余では力が及ばぬ。皆が心を一つにしなければどうしようもない」
「大師様は明王様。明王様は明の世に導いてくださる我らが主。明王様のために身命を賭し戦いまする」
「わかった……。皆の為ならこの命、惜しくない。共に暗の世を打ち破るべく戦おう」
そう叫ぶと、異様なまでに高騰した空気が堂を支配した。山童の扇動は見事成功したのである。
山童は明王と称し、皆に紅い頭巾を被らせた。このため彼らは「紅巾軍(こうきんぐん)」と称されることとなる。
教祖として――いや扇動家として山童の才覚はたしかに卓越していた。しかし残念ながら軍を指揮する能力は乏しい。そのことは彼自身が一番よく知っており、そのため紅巾軍を指揮する人材を求めなければならない。
山童は皆に人物を探すよう命じたが、実は腹中に案があった。
明王を称した翌朝。山童は一人の信者を呼び、一通の書状を託した。
「昨夜、お告げがあった」
何をするにしても山童の所作は神掛っている。
「西に劉という大人がいる。この大人こそ明王を輔弼する義人である」
「劉大人とは」
「西にいる劉大人……余は劉福通(りゅうふくつう)殿ではないか、と考えるが、どうか」
その名を聞き、宗徒は声を上げ、そしてうなずいた。
劉福通とは、千名以上の子分を抱える侠客として、その名を馳せていた人物であった。財を散じ、困民を助ける義侠の人として信望を得ている。また熱烈な白蓮教の信奉者であり、山童を師として仰いでいた。
宗徒は興奮気味に、
「仰せの如く、きっと劉公でございましょう」
と相槌を打った。山童は「そうか」とうなずいた。宗徒は早速、書状を持って福通の許へと駆けていったのである。
山童は福通が来るまでに自分で出来ることをやっておこうと考えた。しかし彼の出来る事と言えば、ひたすら人々を扇動することだけであった。開拓工事に携わる人夫たちに、
「明王様が降臨した」
「明王様は立ち上がり、暗たる蒙古を攻め滅ぼす」
と、噂を流布させたのである。
また自身を徽宗(きそう)皇帝七世の孫だとも触れまわった。
徽宗皇帝とは北宋末期の皇帝で、女真族・金に中原を奪われた人物である。北宋が中原を追われて二百年。南宋が滅ぼされて百年の歳月が過ぎ去っているが、未だ漢民族の心に宋朝こそ正統なる王朝という気持ちが残っていた。山童はその心も利用しようとした。世を済う明王であり、漢民族正統の主である宋王朝の末裔という二つの権威を得ようと目論んだ訳である。
生活にあえいでいる人々は一縷の望みを山童に抱き、
「韓山童様こそ我らを救う英雄」
と、はやしたてた。山童の扇動は成功したかに見えた。だが山童は大きな誤算をしていることに気付かなかった。
扇動には成功した。反乱を起こす大事な要素はまず民を扇動させること、そして同じく鎮圧されないための戦力は必須であった。だが最も危険なのは戦力のない状態で烽火を上げてしまうことである。山童は布教者としては優れていたかもしれないが、反乱指導者としては失格であった。
元朝も決して甘くはない。大都のトクトから、
「怪しき者は捕らえ、斬首せよ」
と、厳命が下されている。賈魯は政治家としては二流であったかもしれないが、官吏としては一流であった。事務能力に卓越しているため、トクトの厳命を即座に実行したのである。
山童の活動はすぐさま露顕し、瞬く間に逮捕されてしまった。捕われた山童は有無を言わさず処刑され、梟首されてしまったのである。大々的に反乱の烽火を上げた韓山童のあっけない最期であった。賈魯はこれにて反乱が収束すると考えていたが、実に甘い認識であった。むしろ打倒蒙古の気運は燎原の火の如く、全中国に広がっていくのである。
四
これにて落着――。
賈魯は安堵したが、都のトクトと直方は種火を辛うじて消しただけだと考えていた。 各地に不穏な空気が流れ、そこに火が放たれたのである。トクトの許に各地から反乱の兆しが報告され、その対応に追われた。
山童という火種こそ消されたが、その火は実行能力を有した福通へと引き継がれることになった。むしろ山童よりも福通が健在であることは元朝にとって深刻であった。
山童の使いはその頃、福通の許にたどり着いていた。福通は同志である杜遵道(とじゅんどう)、羅文素(らぶんそ)、盛文郁(せいぶんいく)たちを召集し、山童の「詔勅」を受け取った。そして恭しく詔勅を戴き、拝礼した。
「大師様がついにお立ちになるのですな。明王立てば暗王たる蒙古どもを駆逐するはそう遠くはござりますまい」
と叫ぶと、感涙した。福通は使者を別室にて歓待し、遵道たちを自室へと誘った。
四人は人払いをし、これからのことを協議した。
「ようやく韓山童が立ち上がりましたな」
遵道は細い目をさらに細める。彼もまた白蓮教徒であるが、なぜか山童を呼び捨てにしている。少なくともその言動に山童を崇拝する気配はない。それは福通も同様であった。先ほどとは別人のように不遜な笑みを浮かべている。
「おだてて、おだててようやくだ。腰の重い男よな。さて戦の支度は整っているか」
遵道たちは力強くうなずいた。人前でこそ福通たちは教主として敬慕していたが、山童とその教団を利用していたにすぎなかった。実を言えば彼ら四人は白蓮教など頭から信じていない。
一ツ目石人であるが、山童に知恵を授けたのは福通であり、黄河開拓の現場に石人を埋めたのも彼の子分であったのだ。福通は世の流れを見るに敏で、今こそ天下を我が手にする絶好の機会だと見ている。しかし相手は腐っても天下を治める王朝である。侠客如きがいくら民衆をけしかけてもどうにもならない。そこで白蓮教を利用し、反乱の気運を高めようとしたのだ。
福通が山童を選んだことには理由がある。山童は野望家であったが、思慮が浅く、おだてに乗りやすい。旗印とするにはこれほど都合の良い男はいないだろう。福通の目論み通り山童は動き、事が進んだ。一ツ目石人が掘り出され、山童は明王として皆に推戴された。あとは山童を主として四方に檄を飛ばし、蒙古打倒の兵を挙げるだけであった。しかし早くも山童が補殺されていようとは、さしもの福通も予想することは出来なかった。
七日が過ぎた。
――どうもおかしい。
福通は胸騒ぎがしていた。
詔勅が届いてから、明王の動きが全く知らされてこないからだ。福通はすぐさま三名を呼び、相談を持ちかけた。
「様子がおかしい。ここは韓山童を待たずに動くべきだな」
この提案に神経質な文素は不安がり、小心な文郁は恐怖した。しかし遵道だけは二人を叱咤激励し、福通の案を支持した。
「頭の勘は百発百中だ。それにこの期に及んで躊躇すれば我らにあるは死のみ。先んずれば即ち人を制す。ぐずぐずしていれば機を逃してしまう」
二人は顔を見合わせ、遵道の言葉に従った。福通の勘はよく当たり、何よりも洞察力に優れている。この直感と洞察力こそが福通を一大侠客に成長させた原動力であり、それを信じているからこそ文素や文郁もついてきたのだ。
この日、福通を盟主として四人は意を決した。
動き出した福通は素早かった。矢継ぎ早に指示を出し、遵道たちもよくこれに応えた。
福通はまず遵道に永年県に向かうよう命じた。
「韓大師の消息を調べてもらいたい。もし大師が無事ならば、お連れせよ」
挙兵を決めてから福通は山童を呼び捨てにせず、敬称している。遵道はすぐさま永年県へと急いだ。
次に文素に指示を出した。
「かねてより用意していた紅い巾があったろう。皆の頭に巻かせ、香を焚かせよ。そして口々に南無弥勒仏と唱えさせるのだ。皆にはかく申せ。我らは明王を奉じ、暗の世を覆す。明るき後際を目指して命を賭そう、とな」
文素は力強くうなずいた。
最後に文郁に声をかけ、一つの鍵を投げ渡した。
「我が邸にある宝物庫の鍵だ。宝物庫を開き、金銀のみならず穀物も残らず、参集した者たちに分け与えてしまえ。残らず全て、だ」
「全て?」
文郁は目を丸くした。しかし福通は不敵な笑みを浮かべている。
「染みたれたことはするな。参集する兵が多ければ多いほど力になる。力があれば官庫や蒙古側についた土豪どもから財物を奪うことが出来るのだ。そうなれば天下の富は思うがまま。我が財物などたかが知れている」
そう言うと福通は高らかに笑った。文郁は改めて自分たちの頭が只者でないと感服し、喜色を浮かべて、すぐさま行動に移った。
立ち上がった福通は水を得た魚のように活発に動き出した。適材適所に同志を配置し、参集する人々のやる気を起こさせた。短期間で兵たちを組織し、近隣の官吏たちが手出し出来ないほど勢力を増大させたのである。また弁舌にも長け、その演説は人々を魅了した。
「志同じくする方々よ。この劉福通、畏れ多くも明王様の詔勅を賜った。だが詔勅は福通一人のものにあらず。暗の世を破り、明の世を開かんとする皆のものなり」
さらに続ける。
「ここに集まりしは天下無双の英雄ばかり。数多の英雄たちよ。この福通が共に戦う値がないと思われるならこの場を去られよ。福通と共に明の世を開かんと気概あらば、力をお貸し願いたい。英雄は大事のために命を惜しまぬと聞くが、ここに集いし者は英雄か否か」
福通はそう叫ぶと涙しながら衆徒を見渡した。興奮した人々は眼を輝かせ、福通の檄に喚声をもって応えた。
「ここに集いしは英雄ばかり。まさに群英――」
再び叫ぶと皆に拱手し、福通は紅い巾を頭に巻いた。
そして「天下大乱 弥勒仏下生」と大書された紅旗をかかげた。
「紅き巾こそ聖兵の証。紅き色に弥勒様が宿り、我らをお護りになる。また明王様も我らの主となるべくご動座なされておる。明王様の許、心を一つにして戦おう。長き間、我らを苦しめた蒙古どもへの恨みを今こそ晴らすのだ。天下大乱、弥勒仏下生」
力強く腕を突き出し、福通は何度も「天下大乱、弥勒仏下生」を連呼した。
人々も紅巾を巻き、同じく、
「天下大乱、弥勒仏下生」
と、叫んだ。黄河開拓に駆り出されていた人夫たちの多くも紅巾軍に参加し、開拓作業は中止せざるをえなかった。大地は民衆の怒りを体現したが如く紅巾軍によって朱に染まったのである。
破竹の勢い――とは、まさにこのことであった。
紅巾軍は氾濫した水の如く、猛然と各地の蒙古軍や土豪たちを襲った。兵の数は日を追うごとに増えていった。何しろ生きる術を失っていた人々が江南には充満しているのである。受け入れてくれる場所があれば、いくらでも武器を手にする者がその身を投じてくるのだ。紅巾軍は蒙古軍や土豪たちから奪った金銀財宝や食糧を全て配布したため、兵士たちは歓喜し、その勢いは天を衝くばかりであった。
古より中国人は食べることに執着してきた。もちろん生きるためにどの民族でも食を大事にするものなのだが、漢民族の食べることへの執着は尋常ではない。人を数えるにしても「一口人」と称するのだが、これだけでも食に対する想いがうかがい知れよう。
人民にとって為政者とは衣食住を約束する者のことで、これを確保出来ない為政者は「天命去りし者」とされる。逆に反乱者であっても衣食住を約束出来る者は「天命享けし者」とされ、人民の推戴を受けることが出来るのだ。紅巾軍の急激な成長は人民に食を与えたためで、元朝がそれほど人民から食を奪ってきたために起きた現象であった。
元朝の官吏たちは右往左往するのみで、紅巾軍が来れば全てを投げ捨てて逃げ去ってしまう。土豪たちは元朝を頼りにすることが出来ず、私費を投じて自衛する他なかった。
かくして勢力を得た紅巾軍であったが、前途洋々かと言えば決してそうではない。
挙兵して一ヶ月。福通たち紅巾軍幹部にとって驚天動地の情報がもたらされた。彼らが主として推戴すべき山童がすでに処刑されていたという情報である。
「偽りではあるまいな」
剛腹な福通もさすがに蒼白となった。山童補殺の情報は永年県に出向いた遵道から知らされたのだ。福通と遵道の間にはしばらく沈黙の空気が流れた。しかしいつまでも絶望している場合ではない。挙兵した以上、今さら後には引けないのだ。
「どうしたものか……」
福通は懸命に思案した。このまま明王の死が伝われば、紅巾軍は瓦解する恐れがあった。何か手はないか、打開策を打ち出さなければならない。
「そう言えば……」
福通はあることを思い出した。
「大師に子がいただろう?」
「いるにはいる。だが牛の世話しか出来ないただの牧童だ。何の役にも立たぬ」
遵道が吐き捨てるように言ったが、福通は目を輝かせながら哄笑した。
「牧童でも何でも良い。そのお子はいずこにおわすのか」
「いずこにとは……念の為にこちらへ連れて参っているが」
福通は跳ね上がるようにして立ち上がり、遵道の手を強く握った。
「好(ハオ)、好ッ。さすがは遵道、でかした、でかしたぞ」
「何を喜んでいる。あんな牧童が何だと言うのだ」
「何を喜んでいるかだと?」
福通は苦笑した。
「役に立たぬと申すなら、親父の山童も同じではないか。我らに必要なのは明君ではない。旗印よ」
そう言うと、遵道が怯えるほど福通は不敵な笑みを浮かべた。
「神が己を神だと称しても神にはなれぬ。人が神と呼ぶから神になるのだ。だがな。神が才を有し、己が望みを抱くは厄介至極。意のままに動かせぬ神などは無用の長物だ」
「神にしては……あの牧童ではどうにもみすぼらしい」
「いかなる鳥でも羽毛が美しければ見栄えがするものさ。牧童でも煌びやかな龍袍(天子の装束)を着せれば、天子様に見えるものだ」
「な、なるほど……」
「さて、その牧童だが、皆に敬われる尊称を考えねばならぬ」
「ならば明王の倅ゆえ小明王(しょうみょうおう)でどうか」
「小明王様か。それは良い」
満足げに福通はうなずいた。
「小明王様の母御はどうされておる。確か山童には冴えない嬶(かかあ)がいただろう」
「山童が捕縛された折、その妻は小明王様を連れて山奥に逃げていた。こちらへはついでに小明王様と連れて参った」
「好ッ」
福通は手を叩いて狂喜した。
「祝着至極。それでその嬶の姓は何と申す」
「楊だ」
「ならば楊太后とお呼びしよう」
「た、太后? ならば小明王は皇帝か」
驚く遵道に福通は「当然ではないか」と、苦笑した。
「山童は徽宗皇帝七世の孫と触れまわっていた。ならば小明王様は八世の孫だ。大宋の正統を引き継ぐ方が天子ならば、その母は太后様であろう」
「天子様に太后様、か」
福通の大胆不敵さに遵道は半ば呆れ、半ば敬服した。
「嘘も最後まで信じきれば真実となる。反対に真実も疑えば嘘となる。半端は身を滅ぼす。一人でも多く信じさせれば、どんな無茶でも大きな力となる。そのためにまず俺たちが信じ込まねばならぬ。韓山童の息子は牧童ではない。大宋皇帝の末裔にして、弥勒菩薩の化身であらせられる。努々、疑うべからず」
福通は不気味な眼光をほとばしらせ、強く遵道の肩を握りしめた。その強さに思わず声を上げてしまったが、遵道は苦笑しながら何度もうなずいた。
「ところで小明王様の名は何と申されたかな」
今さらながら福通は小明王の名を尋ねた。遵道は苦笑しながら、懐紙を出してその名をしたためた。
「韓林児(かんりんじ)、か。山童も冴えた名を付ければ良いものを。まあ良い。どうせ天子様を諱で呼ぶは不敬であるからな」
こう言いながら、福通は誰よりも不遜な顔つきで大笑いした。やがて笑いを収めると、小明王母子を連れてくるよう遵道に命じた。
韓林児は遵道の言った通り、冴えない少年であった。
瓜のようで、豆粒の如き目鼻がついているような容貌であった。何よりも気に入らないのは眼に何の力もないことであった。あまりに冴えない容貌に福通が思わず舌打ちしてしまったが、とにかくこの少年を皇帝に仕立て上げなければならない。
だがこの林児少年に意外な部分があった。自分の意志をはっきりと言えるところであった。小刻みに震えながらも、皇帝になることを拒絶したのである。とても自分のような牧童が皇帝になれないと自覚していたのだ。福通は困惑したが、引き下がる訳にはいかない。殺気を含んだ威圧感にて即位することを強要した。拒否すれば神意を汚す者として殺してしまうつもりであった。
「古より『天の与うる物を受けざるは、かえってその咎(とが)を受ける』と申しまする。太后様は――」
福通は言葉を止め、楊氏をにらみ据えた。
「天命に背くことがいかに危ういことか……ご存じでござりましょう。それでも天命を拒まれますかな」
異様な殺気が場を覆った。楊氏はごく普通の女性である。福通の形相に怯え、今にも失神しそうになった。楊氏はすがりつくように林児へ懇願した。
「林児よ。お願いです。母への孝養だと思い、劉公の申し出を受けてくださりませ。母は……母はまだ死にとうない」
この母の哀願に林児も承知せざるをえなかった。己の未来に地獄が待っているだけだと思いながらも、ここで福通たちに同意せねば母子ともども命を絶たれてしまう。命あっての物種で福通たちの推戴を受けるしかなかった。
福通は満面に笑みを浮かべながら「万歳、万歳、万々歳」と三唱して拝礼した。
並び立つ遵道たちも同様に三唱し、小明王即位を賀した。やがて文素と文郁が黄衣を持参し、林児の背後に回った。
「龍袍でござりまする」
二人は微笑しながら林児に着せ、そしてその場にひれ伏した。
福通は龍袍を着用した林児を見て感嘆の声を上げ、
「おお、その昔――陛下の祖であらせられる太祖皇帝(宋朝始祖・趙匡胤)もかように黄衣を群臣に薦められ、天子の御位にお即きになられた。小明王様も太祖皇帝に倣い、天下万民をお導きいただきますよう、伏して願い奉りまする」
と、再び拝礼をした。
林児と楊氏にとってこの即位は悪夢としか言いようがない。しかし夢は覚めず、林児母子にとって地獄の日々が始まるのであった。
――我が志は破れた。
賈魯は失意の中にいた。紅巾軍が跳梁跋扈する今、黄河開拓の夢は砕け散った。今はあきらめて大都に戻る他ない。
――いつか必ず、我が志を遂げてみせる。
賈魯はそう自分に言い聞かせて都へ帰還していった。だが賈魯はまたしても大きな失敗を重ねてしまった。それは人夫たちを全て解雇してしまったのである。
解雇された人夫たちはたちまち職にあぶれてしまい、紅巾軍のため帰郷すら出来ない。行き場を失った彼らに残された道は反乱軍に身を投じることしかなく、紅巾軍はさらに勢力を増してしまった。賈魯は後悔したものの、手遅れであり、逃げるようにして黄河を後にした。彼の失策は取り返しの付かない打撃を元朝に与えてしまったのだ。
反乱の渦は広がり続け、江南全域を巻き込みつつある。
徐州という幾筋の街道が行きかう要衝がある。その徐州では小明王とは別系統であるが白蓮教徒が紅巾軍として旗揚げをした。
この徐州に芝麻李(しまり)という人望厚き男がいる。芝麻李は本名を李二(りじ)と言い、熱狂的な白蓮教徒であった。彼は困窮していた民衆に私財を投げ打って胡麻を振舞い、そのため「芝麻(胡麻)李」と敬慕されていた。
その芝麻李が同志である彭大(ほうだい)と趙均用(ちょうきんよう)らと兵を挙げ、十数万の兵を集めた。徐州はたちまち彼らの手に落ちてしまい、ここにもまた紅巾軍の一大勢力が築かれることになった。
この徐州の乱に五人の男たちが連動し、近郊の濠州で挙兵した。
その五人の中に、定遠の郭子興がおり、彼らもまた紅巾軍と称して挙兵した。濠州を奪った後、子興たちは小明王に使いを出し、元帥号を賜ったのである。
反乱の烽火はあらゆる方面で無数に上がった。
東では闇塩商人である張九四(ちょうくし)や方国珍(ほうこくちん)たちが反旗を翻し、元朝の重要な資金源である塩田を制圧してしまった。塩田からの収入は元朝の生命線であり、大都は一種の恐慌状態に陥ってしまった。
都の恐慌は直方の働きもあって何とか収拾出来たものの、燃え上がった各地の反乱を鎮圧することは不可能に近かった。それでもトクトはあきらめず、考えうる限りの手段を講じていった。
そんな頃――。
二十二歳になった朱重八は路頭に迷っていた。相変わらず食を求めて各地を彷徨っていたのだが、兵乱のため托鉢が出来なくなっていたのだ。
――無駄かもしれぬが……。
重八は思い悩んだが、故郷の鐘離に戻ることを決意した。
このまま見知らぬ地で果てるよりも父母たちの眠る故郷で死んだ方がましだと思ったからである。故郷を目指す重八の足はあくまで重く、そして悲しみに満ちていた。
一
元朝が中原を征して百余年。
この王朝は二つの政治的支点を持ち、振り子のように揺れ続けた。そのため常に政治は不安定であった。
一つは国粋派と言うべき蒙古至上主義である。国粋派の一人に「李・王・趙・張・劉の五姓を持つ漢民族を皆殺しにせよ」と、提議したバヤンがいる。バヤンほどでなくとも、漢民族を農奴のように考えていた皇帝や宰相が度々現れ、権勢を振るった。
もう一つは、漢民族の文化や政治手法を積極的に取り入れようとする漢地派である。漢地派の代表は南宋を滅ぼし、蒙古帝国から中原王朝・元へと転化させた世祖フビライハーンであった。
漢地派は科挙を実施し、身分を問わず有能な人材を登用した。元朝が曲がりなりにも中原王朝として百年間、君臨出来たのは漢地派の指導によるところが大きい。このように元朝は両極端の支点を持たねばならなかったのは征服王朝であったからだ。
元朝設立時は卓越した政治家であったフビライハーンによって政治的均衡を保っていた。しかしフビライ崩御後は彼を越える皇帝が現れず、権臣たちがそれぞれの派閥を率いて権力闘争を繰り返してきた。
極端な政策転向は世にひずみをもたらす。国粋派が力を得れば漢地派を、漢地派が力を得れば国粋派を弾圧した。やがて両派は仇敵のように憎しみ合い、血で血を争う大粛清が繰り広げられてきた。元朝は血にまみれながら中原に君臨し、ただ人民から富を、時には生命すら搾取し続けてきたのだ。
至正(しせい)年間。江南地方の疲弊度は極限の域に達していた。
原因は旱魃に伴った飢饉、つまり天災によるものである。しかし災害に対して、元朝は有効な救済策を実施せず、そのため被害が拡大した。江南を苦しめた最大の原因は、天災というよりも元朝の無策、すなわち人災によることころが大きい。
人々は飢えに苦しんだ。その上、元朝は更なる税を徴収したため、人々は郷里を捨て流浪するしかなかった。気の弱い者は乞食となるか、それとも死ぬほか道がなかった。気の強い者は盗賊となって各地を荒らし回り、弱者から奪い尽くす、この世の地獄であった。
だが「賊に会っても官に会うな」という言葉がある。賊による被害は小さくはないが、それでも官による徴収の方が民にとって被害が大きかった。そのため民は賊よりも官に会うことを恐れた。
「このままではならぬ」
このような状況の中、敢然と元朝建て直しを志した人物が丞相トクトであった。
国粋派バヤンの甥であるが、彼自身は漢地派の首魁である。トクトは賢明で、権力を握るまでは、ひたすら漢地派であることを隠し続けた。バヤンの手足となり、誠心誠意、彼を補佐した。トクトは政治家として優秀であり、バヤンもつい気を許し、重用するようになった。バヤンは行動力があったが、諸事やることが粗雑で、力で抑えつけているために反感を抱く者は少なくなく、ついには皇帝でさえバヤンに嫌悪感を抱いてしまうほどであった。
皇帝にまで忌み嫌われてはバヤンの命運は尽きたのも同然であった。トクトはこの気運を逃すことなく、バヤンを失脚に追い込んだのだ。
トクトはこの伯父と違い、繊細で理路整然としている。粗暴なバヤンがトクトの動きを察知出来たのは政権の座から追い落とされた時であった。
「豎子(じゅし)(小僧)め、恩を忘れ……よくも不義を働きおったな」
漢地派を憎んでいたはずのバヤンが思わず儒学的な「不義」という言葉を遣わざるをえなかったのは皮肉な話であったが、それほどトクトの政権奪取は完璧であった。
こうしてトクトは伯父に代わって丞相となり、政治改革に着手したのである。
トクトはフビライ以来の傑物であった。五歳にして四書を諳んじ、成人してからはいかなる学者とも互角に論じ合えるほど学問に通じている。武芸も達者で、馬術で彼の右に出る者はいなかった。力も人並はずれていて、チンギスハーンが尚武のため推奨していた蒙古相撲で人に負けたことがない。
だが彼が最も優れていたのは個人的な文武ではない。彼の最大の財産は人を惹きつける才能――そう、人望であった。
彼は人蕩しと言って良いほど、人心をつかむことが巧みで、粗暴な伯父でさえ彼を信用したのは血縁者であるということだけが理由ではなかった。頼りにしたいと思わせるような人格的な光彩に満ちあふれていたからである。
トクトは決して不義の男ではない。むしろ何よりも人にとって最も大事なるは恩義であることをこの若き丞相は心得ている。
伯父への恩は軽からずものだということは百も承知していた。だが彼が最も大事にしたには国家への恩であった。たとえ伯父に不義を働こうとも国家を救うことこそ、元朝の貴族としての絶対的な義務だと固く信じていた。
「国家を支えるは逸材なり。あまねく在野の賢人を登用すべし」
として、長らく廃止となっていた科挙を復活させた。
一方で武芸の奨励も怠らなかった。当時、蒙古貴族は堕落しきっており、乗馬すら出来ない者が数多いた。蒙古族が世界を席巻した最大の強みは卓越した騎射術にある。その蒙古族が馬にも乗れず、ただ江南から毟り取った富で享楽を貪っているようでは、元朝の滅亡は火を見るより明らかである。蒙古族に尚武の心を叩き込むことも急務であった。
ただ武芸のみを鍛えたところで軍を強化することは出来ない。軍は指揮する将によって強くもなれば弱くもなるものだ。兵法に通暁しているトクトは自らを教師として、見込みある若者を見出しては彼らを指南した。この時トクトに教えを受けた若者たちが、この後、斜陽の国家を支えていくことになるのである。
復活された科挙で合格した文人の中に賈魯(かろ)という人物がいた。河東高平(かとうこうへい)の人で、字(あざな)を友恒(ゆうかん)という。科挙を首席で合格した文人であるが、身の丈七尺の偉丈夫であった。学問だけでなく槍術にも優れ、武芸者としても、その名が知れ渡っている。
彼が頭角を現したのは、トクトが命じた宋史編纂事業においてであった。
編纂事業に求められるのは知識だけでなく、史実を収集し、その正誤を見極める鑑識眼が必要となる。賈魯の才は編纂事業を司る者たちの中で抜きん出ていた。
「友恒よ」
ある日、トクトは賈魯を宮廷の廊下で呼び止めた。トクトは礼に篤く、配下といえども賢人に対しては決して名で呼ぶことはしない。
中国の男性は成人すると字を名乗る。いわゆる言霊思想で、妄りに諱(いみな)を呼ぶことは不吉とされていた。そのため諱を呼んで良いのは親や君主など身上の者に限られ、それ以外の者は字で呼ぶことが礼儀とされた。
トクトは位人臣を極めた最高権力者のため、賈魯を諱で呼んでも差し支えはない。しかしトクトは賈魯の才を尊び、字で呼ぶ気遣いを見せたのだ。
「君に対して愚問だと思うのだが、余が史書の編纂を命じている真意は存じていような」
賈魯は恭しく拱手(きょうしゅ)し、その問いに答えた。
「丞相は己が眼をお持ちです。他人の眼ではなく、ご自身の眼で物事を見極めようとされておりまする」
「何事も己の眼で見て、己の耳で聞き、そして己の脚で確かめねば気がすまぬ。何とも面倒な性分だ」
「君子たる者の心得でござりましょう。良きご性分にござりまする」
「おだてるな。それよりも余の質問に答えられよ」
「史書編纂は……武則天(ぶそくてん)に倣われたものではないでしょうか」
トクトはにやりと笑い、賈魯の顔を見つめた。
武則天とは中国史上唯一の女帝である。彼女が採用した人材が次代の玄宗皇帝に引き継がれ、開元という唐全盛期を開花させた。彼女が人材登用に利用したのが史書編纂であり、トクトは武則天に倣ったのだ。
「天下の逸材を見出すに、編纂ほど良い方法がござりませぬ。それに――」
賈魯は目許を笑ませた。
「人材登用だけではござりませぬ。史料を収集するためには各地に赴き、古老たちの話を聞かねばなりませぬ。古老の話は何も古のものばかりではありますまい」
「さすがは友恒。全て見通しておる。ならば尋ねよう。そなたは何を見て、何を聞き、何を感じたか」
「お聞きいただけるのですか」
「申すまでもない」
「ならば――」
喜色を浮かべ、自室にトクトを招いた。
賈魯の部屋には各地の地図が無数に所蔵されている。
趣味と言っていいほど地図を集めており、賈魯の部屋にいれば天下が見えるとさえ噂されたほどであった。
部屋に入るや、賈魯は一枚の地図を机の上に広げた。地図は黄河流域のもので、事細やかに詳細な情報が書き込まれている。
「龍(黄河)であるな」
「御意。近年、龍が暴れ回り、人々は途端の苦しみにあえいでおります」
「古より龍を治める者こそ――」
「天下を治める、と申します」
「つまり天下を再建するために龍を治めよと申すのだな」
「政は乱れ、龍が気ままに暴れる。そのため河北・河南は疲弊し、江南のみに頼るようになっております。大元の命運を江南のみに託すは剣呑至極」
「このままでは江南に乱が起きる、か」
賈魯は無言でうなずいた。
この推測は的中していた。江南は中国全土を支えることが出来るほど豊穣の地である。しかし江南以外は生産がままならず、一地方のみに国家の歳入の大半を元朝は頼っていた。 その江南も大飢饉が襲い、生産が減少したために民衆の不満が高まっている。黄河流域を開拓することにより、河北・河南の生産力が復活する。その結果、江南のみに頼る現状を打破し、元朝を復興させることが出来ると賈魯は考えたのだ。
「友恒、そなたの官職は何か」
「都漕運使(とそううんし)でござりまする」
都漕運使とは治水担当官であるが、権限はさほど持たされていない。トクトは腕を組み、長考した。やがて腕を解き、笑みを浮かべた。
「君ほどの人物を都漕運使に留めるは国家の損害だ。明日より工部尚書(こうぶしょうしょ)に任ずる。卿が全権をもって龍を治めるのだ」
これは破格の人事であった。工部尚書とは建設大臣のことで、土木部門最高の役職である。あまりのことに賈魯は呆然としていたが、転がるようにして平伏し、厚恩に感謝した。
「卿にはわかっていようが、大元は危急存亡の秋にある。余は陛下より国家を託された。その余が倶に天下を語ることが出来る人物は少ない。前途多難であるが、国家のために命を捧げてくれ」
賈魯はその言葉を聞くと、なぜか憤然とした。
「閣下は万巻の書に通じられ、賢明なるお方だと思っておりましたが、賈魯の思い違いであったようで。士たる者、己を知る者のために死すもの。この賈魯、徳なく才なき小人でございますが、ご厚恩に報いず、国家の大事を座視するような卑怯者ではござりませぬ。閣下が死ね、と仰せなら喜んでこの命を差し出しましょう」
トクトはこの決意に感動し、みるみる満面を涙で濡らした。
「平安楽土の世を倶に築こうぞ」
賈魯は言葉もなく、トクトと同じく大粒の涙を流した。かくして賈魯はトクトの期待と国家復興を志し、勇躍黄河開拓に身を投じるのであった。
賈魯は工部尚書の印綬を身に帯びた。
工部尚書となるや否や、日を置かずにすぐさま計画を実行した。部下任せにせず、自ら現場に赴き、陣頭指揮を執ったのである。賈魯は志が高く、能吏であったことは疑うべくもない。また彼を抜擢したトクトの人物選定力が卓越していたことは間違いなかった。
だがトクトは大きな誤算をしていた。千の賢あろうとも、一つの愚が全てを崩壊させてしまうことがある。トクトは卓越した人物であったが、一つ欠点があった。
貴人情を知らず――。
トクトがいかに英明であり、人心掌握に長けていたとしても、根底で苦しむ庶民の心まで読みきることができていなかった。もちろんこれはトクト個人の問題ではなく、貴族に生まれし者の宿命的な欠点であった。
トクトと賈魯の盲点とは何であったのか。いかに優れていようとも時と場合を違えた政策は、人々にとって災害でしかないということであった。
賈魯は在野の頃より黄河開拓についてよく研究していた。だがその研究はいわば机上の空論であり、実情を把握したものではなかったのだ。実情とは、大事業を支えるべき民衆が困窮しきっていたということである。この事業を手掛ける前に元朝が成すべきことは善政を敷き、人民の生活を安定させることであった。その後、この事業の意味を理解させることが出来たならば成就したに違いない。しかしこの百余年、あまりにも長く悪政が続いており、民衆から発せられる怨恨の声はトクトたちの予想を遥かに上回っていた。賈魯は起死回生を期したが、皮肉にもこの事業が元朝を崩壊に導くきっかけとなってしまうのである。
「妙な謡が流行っております」
そのような報告がなされたのは、現地に着任して半月ほどのことであった。
賈魯自身も幾度かその謡を耳にしている。だがこうした謡が流行することはさほど変わったことではない。古より民は労役に駆り出されると、苦痛を和らげるために謡を口ずさんだものであったからだ。そのため賈魯は意にも介していなかった。だが、この謡こそ元朝を破滅に追い込む死の呪文になろうとは、賈魯は予想だにしていなかった。
二
庶民は迷信・予言の類に弱い。庶民にとって至正年間は稀に見る嗜虐の年月であった。虐げられている民衆にとって正しかろうと間違っていようとも信仰が一縷の希望になってしまうのもやむをえなかった。黄河開拓に駆り出されている民に広がった奇妙な謡とは次のようなものであった。
一ツ目石人現れ、黄河揺るがす
天下に反乱起こるであろう
人々はたがいに顔を見合わせ、ささやいた。
「一ツ目石人とは何だ」
「天下が乱れるのか」
「いや、とっくの昔に乱れている。生きていても苦しいだけの世の中だ。一ツ目石人だろうが何だろうが、こんな世はひっくり返ればいい」
そう人々は言い合った。
くだらぬ噂に惑わされてはかなわぬ、と賈魯は噂を放置し続けた。だが日が経つにつれ、謡と共に不穏な空気が蔓延し、やがて不穏な空気は工事に支障をきたした。賈魯が調査を命じたのは、十日も後のことであった。
調べさせたものの、誰が広めたのか、雲をつかむように一向にわからなかった。
さらにひと月。賈魯はようやく大都のトクトへ報告することにした。
賈魯は学者としては一流だが、政治家としては失格であった。政治家にとって最も大事なのは機を見ることにあり、彼は極めて鈍であった。火は小さなうちに消し止めることが肝要であることを知らなかったのだ。賈魯が取るべき措置は一刻も早くトクトに相談すべきであったが、事態を甘く見すぎており、報告を受けたトクトは瞬時に顔色を変えた。
「あれはただの学者であったか」
書状を読み終えるや、すぐさま腹心の呉直方(ごちょくほう)を丞相府に呼びつけた。
呉直方とは集権大学士(しゅうけんだいがくし)の地位にあり、トクトの知恵袋としてその名を馳せていた。学識があるだけでなく、政治的感覚にも優れた人物であった。ただ土木知識がなく、今回の黄河開拓には携わってはいなかった。
「妙な謡が流行っているそうですな」
「さすがは直方。友恒からの書状だ」
トクトはすぐさま賈魯の書状を手渡し、直方は拝読した。読み進むにつれて、やがて直方の表情は険しくなっていった。
「工部尚書殿は能吏かもしれませぬが、政を成す者としての目はないようですな。閣下、一刻の猶予もなりませぬぞ。早く手を打たねば、火の手が上がりましょう」
「火の手だと?」
「このような妖謡には必ず謀反人の影があるもの。太平道(黄巾軍)しかり、陳勝・呉広(秦末の農民反乱)しかり」
史書に通じているトクトはぎくりとした。たしかに反乱者は予言めいた謡を流行らせ、民衆を扇動する。
「すでに一ツ目石人とやらが掘り起こされているかもしれませぬ」
この言葉を聞き、トクトの背中に一筋の冷や汗が流れた。すぐさま賈魯に警戒させねばならない。だが直方は手遅れだと見ていた。もしこの謡の影に反乱の意志があるなら、すでに挙兵の手筈が整えられているはずである。
――燎原は乾ききっている。そこに火がつけば……。
瞬く間に天下騒乱となり、元朝は滅亡の道に突き進んでしまうであろう。杞憂であれ、と直方は願ったが、同時に虚しい祈りだと自嘲した。
この直方の予感は不幸にも的中してしまった。大都からの急使がたどり着く前に、一ツ目石人が発掘されてしまったのだ。発見されたのは開拓現場であった。
「神人が、降臨された」
発掘した人夫たちは口々にわめき、現場は騒然となった。この事態を前に賈魯はどこまでも無能であった。右往左往するのみで、何も手を打つことが出来ないでいた。
三
河北・永年県。
郊外二十里に沼池に囲まれた雑木林があり、雑木林の中ほどに、倒壊しつつあった北魏時代からの寺院が建っている。その寺院にいつの頃からか、夜な夜な老若男女が集うようになっていた。本堂からは香が漂い、怪しげな読経の声が聞こえてくる。夜が明けると人目を避けるように人々は去っていく。
寺院から一ツ目石人が発掘された現場は近い。現場で発掘に立ち会った人夫もこの寺院に集っていた。それらの人々を四十近くの男が何やら熱っぽく説法をしており、
「韓大師様」
と、人々から尊称されていたのは韓山童(かんさんどう)と言って、立派な髭を蓄えた風格が漂う男であった。
「大師様は天子の気あり」
ある者は本気で言い、山童を神のように拝んだ。
彼の話し方には独特な調べがある。そのため聴く人々を魅了させた。新しい信者は山童のことを「大師様」と呼ぶが、古くからの信者は「三代様」と敬称している。
山童は代々「不殺、不盗、不淫、不妄、不酒」の五戒を説く白蓮教の三代目教主であったからだ。白蓮教では現世を暗とし、やがて明が暗を打ち破って皆を救うと説いている。この教えは唐代から庶民の間に広がり、信者の数は万を数える。三代様こと韓山童は教えを展開させて、妙なことを口にするようになっていた。
「この世は過去、すなわち初際(しょさい)、今を示す中際(ちゅうさい)、そして未来を表す後際(こうさい)に分かれている。今は悪しき暗が世を蓋い、皆を苦しめているが、安心するが良い。きっと明王(めいおう)が現れ、暗の世を滅ぼし、皆をお救いになるであろう」
山童はさらに説く。
「明王の御為に我らは命を懸けて戦わねばならぬ。もし命落とそうとも、魂は明王によって救われよう」
そう言って人々を焚きつけていった。白蓮教は唐代から清代に至るまで常に反乱の温床として朝廷から警戒され続けてきた。世が乱れると腫れ物のように世の膿を孕んで王朝に反旗を翻すことになるのである。
白蓮教はたしかに邪教であった。だが、「衣食足りて礼節を知る」という言葉がある。 衣なく、食なく、居もない。おまけに黄河開拓という大事業にまで駆り出される。今日、明日の暮らしが成り立たない者にとって邪教であろうと何であろうと、現状を打破出来るなら何でも良かった。山童はそのような貧民を取り入れて急激に力を増していったのだ。
人々の不満は決壊寸前で、反乱の気運は極限にまで高まりつつある。
山童は不満という焔に「一ツ目石人」という油(きっかけ)を注いでやった。一ツ目石人を埋めさせたのは他ならぬ山童であったのだ。山童が扇動者として一流であったことは、石人が発掘された当初、わざととぼけてみせたことでもわかる。
暗の世を打ち破ろうと挙兵に逸る宗徒たちを、
「軽挙妄動は弥勒様の望むところにあらず」
と言って、たしなめたのである。しかし興奮した宗徒たちは制止されればかえっていきり立つ。宗徒たちは「命など不要」と息巻いたが、山童は、
「命を粗末にするでない」
と、哀しげな表情で皆の心を鎮めようとした。宗徒たちは激しくかぶりを振り、一緒に立ち上がるよう半ば強制した。山童は深く悩み、そして静かに「弥勒仏下生」と読経を上げた。宗徒たちもそれに倣い、同じく読経した。やがて読経が終わると、山童は顔を涙で濡らしながら、一同の顔を見回した。
「今……弥勒様とお話をした」
宗徒たちはたがいに顔を見合せながら、歓呼の声を上げた。
山童は涙を拭いながら続ける。
「先日、土から出た石人は皆の申す通り、弥勒様のお使いであるとのこと。一ツ目石人に宿りし神力は黄河を蓋い、暗から皆をお救いになる明王を中際にお遣わしになるのだ。我らは救われるのだ」
この言葉に宗徒たちは声を上げ、涙しながら歓喜した。その声は堂を蓋い、熱狂の渦となった。
「余は日々、弥勒様に祈願しておった。いつの日か朝廷に明王が降臨し、民をお済いになるようにと。だが朝廷とは名ばかりの、その正体は野蛮なる蒙古族にすぎぬ。中原を力のみで支配した暗王であった。このままでは暗の世で我らはただ死を待つのみ。だが弥勒様は我らを憐れみ、一ツ目石人をこの地上にお遣わしになったのだ」
「大師様。明王様はまだ石人の中におられるのでしょうか」
「それは余にもわからぬ。あるいは余よりも皆の方が知っているのではないかな」
山童は首を振りながら、そのまま座を立ってしまった。
残された宗徒たちは騒然となった。一体どこに明王が下生しているのか、と話し合った。すると誰彼なしに、
「大師様こそが明王様なのではあるまいか」
という声が、上がった。座はざわめき、宗徒たちは、それぞれ顔を見合わせた。
明王は民を率いて世を済う存在である。今まで自分たちを導いてくれた山童こそ明王ではないか――宗徒たちはそう考えるのも無理はなかった。
宗徒たちは急ぎ、山童を堂に連れ戻した。そして全員で明王に即いていただくよう懇願した。
「余は徳なく才ない者だ」
と言って、推戴されることを固辞した。しかし宗徒たちは収まらない。三度に渡り、頭を床に叩きつけるようにして懇願した。山童は大きく息を吸って、そして瞑目した。
「皆は命が惜しくないのか」
「このままでは皆、餓死いたしましょう。餓死せずとも蒙古どもに全てを奪われ、殺されるだけでござります」
「余では力が及ばぬ。皆が心を一つにしなければどうしようもない」
「大師様は明王様。明王様は明の世に導いてくださる我らが主。明王様のために身命を賭し戦いまする」
「わかった……。皆の為ならこの命、惜しくない。共に暗の世を打ち破るべく戦おう」
そう叫ぶと、異様なまでに高騰した空気が堂を支配した。山童の扇動は見事成功したのである。
山童は明王と称し、皆に紅い頭巾を被らせた。このため彼らは「紅巾軍(こうきんぐん)」と称されることとなる。
教祖として――いや扇動家として山童の才覚はたしかに卓越していた。しかし残念ながら軍を指揮する能力は乏しい。そのことは彼自身が一番よく知っており、そのため紅巾軍を指揮する人材を求めなければならない。
山童は皆に人物を探すよう命じたが、実は腹中に案があった。
明王を称した翌朝。山童は一人の信者を呼び、一通の書状を託した。
「昨夜、お告げがあった」
何をするにしても山童の所作は神掛っている。
「西に劉という大人がいる。この大人こそ明王を輔弼する義人である」
「劉大人とは」
「西にいる劉大人……余は劉福通(りゅうふくつう)殿ではないか、と考えるが、どうか」
その名を聞き、宗徒は声を上げ、そしてうなずいた。
劉福通とは、千名以上の子分を抱える侠客として、その名を馳せていた人物であった。財を散じ、困民を助ける義侠の人として信望を得ている。また熱烈な白蓮教の信奉者であり、山童を師として仰いでいた。
宗徒は興奮気味に、
「仰せの如く、きっと劉公でございましょう」
と相槌を打った。山童は「そうか」とうなずいた。宗徒は早速、書状を持って福通の許へと駆けていったのである。
山童は福通が来るまでに自分で出来ることをやっておこうと考えた。しかし彼の出来る事と言えば、ひたすら人々を扇動することだけであった。開拓工事に携わる人夫たちに、
「明王様が降臨した」
「明王様は立ち上がり、暗たる蒙古を攻め滅ぼす」
と、噂を流布させたのである。
また自身を徽宗(きそう)皇帝七世の孫だとも触れまわった。
徽宗皇帝とは北宋末期の皇帝で、女真族・金に中原を奪われた人物である。北宋が中原を追われて二百年。南宋が滅ぼされて百年の歳月が過ぎ去っているが、未だ漢民族の心に宋朝こそ正統なる王朝という気持ちが残っていた。山童はその心も利用しようとした。世を済う明王であり、漢民族正統の主である宋王朝の末裔という二つの権威を得ようと目論んだ訳である。
生活にあえいでいる人々は一縷の望みを山童に抱き、
「韓山童様こそ我らを救う英雄」
と、はやしたてた。山童の扇動は成功したかに見えた。だが山童は大きな誤算をしていることに気付かなかった。
扇動には成功した。反乱を起こす大事な要素はまず民を扇動させること、そして同じく鎮圧されないための戦力は必須であった。だが最も危険なのは戦力のない状態で烽火を上げてしまうことである。山童は布教者としては優れていたかもしれないが、反乱指導者としては失格であった。
元朝も決して甘くはない。大都のトクトから、
「怪しき者は捕らえ、斬首せよ」
と、厳命が下されている。賈魯は政治家としては二流であったかもしれないが、官吏としては一流であった。事務能力に卓越しているため、トクトの厳命を即座に実行したのである。
山童の活動はすぐさま露顕し、瞬く間に逮捕されてしまった。捕われた山童は有無を言わさず処刑され、梟首されてしまったのである。大々的に反乱の烽火を上げた韓山童のあっけない最期であった。賈魯はこれにて反乱が収束すると考えていたが、実に甘い認識であった。むしろ打倒蒙古の気運は燎原の火の如く、全中国に広がっていくのである。
四
これにて落着――。
賈魯は安堵したが、都のトクトと直方は種火を辛うじて消しただけだと考えていた。 各地に不穏な空気が流れ、そこに火が放たれたのである。トクトの許に各地から反乱の兆しが報告され、その対応に追われた。
山童という火種こそ消されたが、その火は実行能力を有した福通へと引き継がれることになった。むしろ山童よりも福通が健在であることは元朝にとって深刻であった。
山童の使いはその頃、福通の許にたどり着いていた。福通は同志である杜遵道(とじゅんどう)、羅文素(らぶんそ)、盛文郁(せいぶんいく)たちを召集し、山童の「詔勅」を受け取った。そして恭しく詔勅を戴き、拝礼した。
「大師様がついにお立ちになるのですな。明王立てば暗王たる蒙古どもを駆逐するはそう遠くはござりますまい」
と叫ぶと、感涙した。福通は使者を別室にて歓待し、遵道たちを自室へと誘った。
四人は人払いをし、これからのことを協議した。
「ようやく韓山童が立ち上がりましたな」
遵道は細い目をさらに細める。彼もまた白蓮教徒であるが、なぜか山童を呼び捨てにしている。少なくともその言動に山童を崇拝する気配はない。それは福通も同様であった。先ほどとは別人のように不遜な笑みを浮かべている。
「おだてて、おだててようやくだ。腰の重い男よな。さて戦の支度は整っているか」
遵道たちは力強くうなずいた。人前でこそ福通たちは教主として敬慕していたが、山童とその教団を利用していたにすぎなかった。実を言えば彼ら四人は白蓮教など頭から信じていない。
一ツ目石人であるが、山童に知恵を授けたのは福通であり、黄河開拓の現場に石人を埋めたのも彼の子分であったのだ。福通は世の流れを見るに敏で、今こそ天下を我が手にする絶好の機会だと見ている。しかし相手は腐っても天下を治める王朝である。侠客如きがいくら民衆をけしかけてもどうにもならない。そこで白蓮教を利用し、反乱の気運を高めようとしたのだ。
福通が山童を選んだことには理由がある。山童は野望家であったが、思慮が浅く、おだてに乗りやすい。旗印とするにはこれほど都合の良い男はいないだろう。福通の目論み通り山童は動き、事が進んだ。一ツ目石人が掘り出され、山童は明王として皆に推戴された。あとは山童を主として四方に檄を飛ばし、蒙古打倒の兵を挙げるだけであった。しかし早くも山童が補殺されていようとは、さしもの福通も予想することは出来なかった。
七日が過ぎた。
――どうもおかしい。
福通は胸騒ぎがしていた。
詔勅が届いてから、明王の動きが全く知らされてこないからだ。福通はすぐさま三名を呼び、相談を持ちかけた。
「様子がおかしい。ここは韓山童を待たずに動くべきだな」
この提案に神経質な文素は不安がり、小心な文郁は恐怖した。しかし遵道だけは二人を叱咤激励し、福通の案を支持した。
「頭の勘は百発百中だ。それにこの期に及んで躊躇すれば我らにあるは死のみ。先んずれば即ち人を制す。ぐずぐずしていれば機を逃してしまう」
二人は顔を見合わせ、遵道の言葉に従った。福通の勘はよく当たり、何よりも洞察力に優れている。この直感と洞察力こそが福通を一大侠客に成長させた原動力であり、それを信じているからこそ文素や文郁もついてきたのだ。
この日、福通を盟主として四人は意を決した。
動き出した福通は素早かった。矢継ぎ早に指示を出し、遵道たちもよくこれに応えた。
福通はまず遵道に永年県に向かうよう命じた。
「韓大師の消息を調べてもらいたい。もし大師が無事ならば、お連れせよ」
挙兵を決めてから福通は山童を呼び捨てにせず、敬称している。遵道はすぐさま永年県へと急いだ。
次に文素に指示を出した。
「かねてより用意していた紅い巾があったろう。皆の頭に巻かせ、香を焚かせよ。そして口々に南無弥勒仏と唱えさせるのだ。皆にはかく申せ。我らは明王を奉じ、暗の世を覆す。明るき後際を目指して命を賭そう、とな」
文素は力強くうなずいた。
最後に文郁に声をかけ、一つの鍵を投げ渡した。
「我が邸にある宝物庫の鍵だ。宝物庫を開き、金銀のみならず穀物も残らず、参集した者たちに分け与えてしまえ。残らず全て、だ」
「全て?」
文郁は目を丸くした。しかし福通は不敵な笑みを浮かべている。
「染みたれたことはするな。参集する兵が多ければ多いほど力になる。力があれば官庫や蒙古側についた土豪どもから財物を奪うことが出来るのだ。そうなれば天下の富は思うがまま。我が財物などたかが知れている」
そう言うと福通は高らかに笑った。文郁は改めて自分たちの頭が只者でないと感服し、喜色を浮かべて、すぐさま行動に移った。
立ち上がった福通は水を得た魚のように活発に動き出した。適材適所に同志を配置し、参集する人々のやる気を起こさせた。短期間で兵たちを組織し、近隣の官吏たちが手出し出来ないほど勢力を増大させたのである。また弁舌にも長け、その演説は人々を魅了した。
「志同じくする方々よ。この劉福通、畏れ多くも明王様の詔勅を賜った。だが詔勅は福通一人のものにあらず。暗の世を破り、明の世を開かんとする皆のものなり」
さらに続ける。
「ここに集まりしは天下無双の英雄ばかり。数多の英雄たちよ。この福通が共に戦う値がないと思われるならこの場を去られよ。福通と共に明の世を開かんと気概あらば、力をお貸し願いたい。英雄は大事のために命を惜しまぬと聞くが、ここに集いし者は英雄か否か」
福通はそう叫ぶと涙しながら衆徒を見渡した。興奮した人々は眼を輝かせ、福通の檄に喚声をもって応えた。
「ここに集いしは英雄ばかり。まさに群英――」
再び叫ぶと皆に拱手し、福通は紅い巾を頭に巻いた。
そして「天下大乱 弥勒仏下生」と大書された紅旗をかかげた。
「紅き巾こそ聖兵の証。紅き色に弥勒様が宿り、我らをお護りになる。また明王様も我らの主となるべくご動座なされておる。明王様の許、心を一つにして戦おう。長き間、我らを苦しめた蒙古どもへの恨みを今こそ晴らすのだ。天下大乱、弥勒仏下生」
力強く腕を突き出し、福通は何度も「天下大乱、弥勒仏下生」を連呼した。
人々も紅巾を巻き、同じく、
「天下大乱、弥勒仏下生」
と、叫んだ。黄河開拓に駆り出されていた人夫たちの多くも紅巾軍に参加し、開拓作業は中止せざるをえなかった。大地は民衆の怒りを体現したが如く紅巾軍によって朱に染まったのである。
破竹の勢い――とは、まさにこのことであった。
紅巾軍は氾濫した水の如く、猛然と各地の蒙古軍や土豪たちを襲った。兵の数は日を追うごとに増えていった。何しろ生きる術を失っていた人々が江南には充満しているのである。受け入れてくれる場所があれば、いくらでも武器を手にする者がその身を投じてくるのだ。紅巾軍は蒙古軍や土豪たちから奪った金銀財宝や食糧を全て配布したため、兵士たちは歓喜し、その勢いは天を衝くばかりであった。
古より中国人は食べることに執着してきた。もちろん生きるためにどの民族でも食を大事にするものなのだが、漢民族の食べることへの執着は尋常ではない。人を数えるにしても「一口人」と称するのだが、これだけでも食に対する想いがうかがい知れよう。
人民にとって為政者とは衣食住を約束する者のことで、これを確保出来ない為政者は「天命去りし者」とされる。逆に反乱者であっても衣食住を約束出来る者は「天命享けし者」とされ、人民の推戴を受けることが出来るのだ。紅巾軍の急激な成長は人民に食を与えたためで、元朝がそれほど人民から食を奪ってきたために起きた現象であった。
元朝の官吏たちは右往左往するのみで、紅巾軍が来れば全てを投げ捨てて逃げ去ってしまう。土豪たちは元朝を頼りにすることが出来ず、私費を投じて自衛する他なかった。
かくして勢力を得た紅巾軍であったが、前途洋々かと言えば決してそうではない。
挙兵して一ヶ月。福通たち紅巾軍幹部にとって驚天動地の情報がもたらされた。彼らが主として推戴すべき山童がすでに処刑されていたという情報である。
「偽りではあるまいな」
剛腹な福通もさすがに蒼白となった。山童補殺の情報は永年県に出向いた遵道から知らされたのだ。福通と遵道の間にはしばらく沈黙の空気が流れた。しかしいつまでも絶望している場合ではない。挙兵した以上、今さら後には引けないのだ。
「どうしたものか……」
福通は懸命に思案した。このまま明王の死が伝われば、紅巾軍は瓦解する恐れがあった。何か手はないか、打開策を打ち出さなければならない。
「そう言えば……」
福通はあることを思い出した。
「大師に子がいただろう?」
「いるにはいる。だが牛の世話しか出来ないただの牧童だ。何の役にも立たぬ」
遵道が吐き捨てるように言ったが、福通は目を輝かせながら哄笑した。
「牧童でも何でも良い。そのお子はいずこにおわすのか」
「いずこにとは……念の為にこちらへ連れて参っているが」
福通は跳ね上がるようにして立ち上がり、遵道の手を強く握った。
「好(ハオ)、好ッ。さすがは遵道、でかした、でかしたぞ」
「何を喜んでいる。あんな牧童が何だと言うのだ」
「何を喜んでいるかだと?」
福通は苦笑した。
「役に立たぬと申すなら、親父の山童も同じではないか。我らに必要なのは明君ではない。旗印よ」
そう言うと、遵道が怯えるほど福通は不敵な笑みを浮かべた。
「神が己を神だと称しても神にはなれぬ。人が神と呼ぶから神になるのだ。だがな。神が才を有し、己が望みを抱くは厄介至極。意のままに動かせぬ神などは無用の長物だ」
「神にしては……あの牧童ではどうにもみすぼらしい」
「いかなる鳥でも羽毛が美しければ見栄えがするものさ。牧童でも煌びやかな龍袍(天子の装束)を着せれば、天子様に見えるものだ」
「な、なるほど……」
「さて、その牧童だが、皆に敬われる尊称を考えねばならぬ」
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「小明王様か。それは良い」
満足げに福通はうなずいた。
「小明王様の母御はどうされておる。確か山童には冴えない嬶(かかあ)がいただろう」
「山童が捕縛された折、その妻は小明王様を連れて山奥に逃げていた。こちらへはついでに小明王様と連れて参った」
「好ッ」
福通は手を叩いて狂喜した。
「祝着至極。それでその嬶の姓は何と申す」
「楊だ」
「ならば楊太后とお呼びしよう」
「た、太后? ならば小明王は皇帝か」
驚く遵道に福通は「当然ではないか」と、苦笑した。
「山童は徽宗皇帝七世の孫と触れまわっていた。ならば小明王様は八世の孫だ。大宋の正統を引き継ぐ方が天子ならば、その母は太后様であろう」
「天子様に太后様、か」
福通の大胆不敵さに遵道は半ば呆れ、半ば敬服した。
「嘘も最後まで信じきれば真実となる。反対に真実も疑えば嘘となる。半端は身を滅ぼす。一人でも多く信じさせれば、どんな無茶でも大きな力となる。そのためにまず俺たちが信じ込まねばならぬ。韓山童の息子は牧童ではない。大宋皇帝の末裔にして、弥勒菩薩の化身であらせられる。努々、疑うべからず」
福通は不気味な眼光をほとばしらせ、強く遵道の肩を握りしめた。その強さに思わず声を上げてしまったが、遵道は苦笑しながら何度もうなずいた。
「ところで小明王様の名は何と申されたかな」
今さらながら福通は小明王の名を尋ねた。遵道は苦笑しながら、懐紙を出してその名をしたためた。
「韓林児(かんりんじ)、か。山童も冴えた名を付ければ良いものを。まあ良い。どうせ天子様を諱で呼ぶは不敬であるからな」
こう言いながら、福通は誰よりも不遜な顔つきで大笑いした。やがて笑いを収めると、小明王母子を連れてくるよう遵道に命じた。
韓林児は遵道の言った通り、冴えない少年であった。
瓜のようで、豆粒の如き目鼻がついているような容貌であった。何よりも気に入らないのは眼に何の力もないことであった。あまりに冴えない容貌に福通が思わず舌打ちしてしまったが、とにかくこの少年を皇帝に仕立て上げなければならない。
だがこの林児少年に意外な部分があった。自分の意志をはっきりと言えるところであった。小刻みに震えながらも、皇帝になることを拒絶したのである。とても自分のような牧童が皇帝になれないと自覚していたのだ。福通は困惑したが、引き下がる訳にはいかない。殺気を含んだ威圧感にて即位することを強要した。拒否すれば神意を汚す者として殺してしまうつもりであった。
「古より『天の与うる物を受けざるは、かえってその咎(とが)を受ける』と申しまする。太后様は――」
福通は言葉を止め、楊氏をにらみ据えた。
「天命に背くことがいかに危ういことか……ご存じでござりましょう。それでも天命を拒まれますかな」
異様な殺気が場を覆った。楊氏はごく普通の女性である。福通の形相に怯え、今にも失神しそうになった。楊氏はすがりつくように林児へ懇願した。
「林児よ。お願いです。母への孝養だと思い、劉公の申し出を受けてくださりませ。母は……母はまだ死にとうない」
この母の哀願に林児も承知せざるをえなかった。己の未来に地獄が待っているだけだと思いながらも、ここで福通たちに同意せねば母子ともども命を絶たれてしまう。命あっての物種で福通たちの推戴を受けるしかなかった。
福通は満面に笑みを浮かべながら「万歳、万歳、万々歳」と三唱して拝礼した。
並び立つ遵道たちも同様に三唱し、小明王即位を賀した。やがて文素と文郁が黄衣を持参し、林児の背後に回った。
「龍袍でござりまする」
二人は微笑しながら林児に着せ、そしてその場にひれ伏した。
福通は龍袍を着用した林児を見て感嘆の声を上げ、
「おお、その昔――陛下の祖であらせられる太祖皇帝(宋朝始祖・趙匡胤)もかように黄衣を群臣に薦められ、天子の御位にお即きになられた。小明王様も太祖皇帝に倣い、天下万民をお導きいただきますよう、伏して願い奉りまする」
と、再び拝礼をした。
林児と楊氏にとってこの即位は悪夢としか言いようがない。しかし夢は覚めず、林児母子にとって地獄の日々が始まるのであった。
――我が志は破れた。
賈魯は失意の中にいた。紅巾軍が跳梁跋扈する今、黄河開拓の夢は砕け散った。今はあきらめて大都に戻る他ない。
――いつか必ず、我が志を遂げてみせる。
賈魯はそう自分に言い聞かせて都へ帰還していった。だが賈魯はまたしても大きな失敗を重ねてしまった。それは人夫たちを全て解雇してしまったのである。
解雇された人夫たちはたちまち職にあぶれてしまい、紅巾軍のため帰郷すら出来ない。行き場を失った彼らに残された道は反乱軍に身を投じることしかなく、紅巾軍はさらに勢力を増してしまった。賈魯は後悔したものの、手遅れであり、逃げるようにして黄河を後にした。彼の失策は取り返しの付かない打撃を元朝に与えてしまったのだ。
反乱の渦は広がり続け、江南全域を巻き込みつつある。
徐州という幾筋の街道が行きかう要衝がある。その徐州では小明王とは別系統であるが白蓮教徒が紅巾軍として旗揚げをした。
この徐州に芝麻李(しまり)という人望厚き男がいる。芝麻李は本名を李二(りじ)と言い、熱狂的な白蓮教徒であった。彼は困窮していた民衆に私財を投げ打って胡麻を振舞い、そのため「芝麻(胡麻)李」と敬慕されていた。
その芝麻李が同志である彭大(ほうだい)と趙均用(ちょうきんよう)らと兵を挙げ、十数万の兵を集めた。徐州はたちまち彼らの手に落ちてしまい、ここにもまた紅巾軍の一大勢力が築かれることになった。
この徐州の乱に五人の男たちが連動し、近郊の濠州で挙兵した。
その五人の中に、定遠の郭子興がおり、彼らもまた紅巾軍と称して挙兵した。濠州を奪った後、子興たちは小明王に使いを出し、元帥号を賜ったのである。
反乱の烽火はあらゆる方面で無数に上がった。
東では闇塩商人である張九四(ちょうくし)や方国珍(ほうこくちん)たちが反旗を翻し、元朝の重要な資金源である塩田を制圧してしまった。塩田からの収入は元朝の生命線であり、大都は一種の恐慌状態に陥ってしまった。
都の恐慌は直方の働きもあって何とか収拾出来たものの、燃え上がった各地の反乱を鎮圧することは不可能に近かった。それでもトクトはあきらめず、考えうる限りの手段を講じていった。
そんな頃――。
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――無駄かもしれぬが……。
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東北大地震が発生した1週間後、小笠原清秀と言う青年と長岡与一郎と言う老人が道路巡回車で仕事のために東北自動車道を走っていた。
この1週間、長岡は震災による津波で行方不明となっている妻(玉)のことを捜していた。この日も疲労困憊の中、老人の身体に異変が生じてきた。徐々に動かなくなる神経機能の中で、老人はあることを思い出していた。
長岡が青年だった頃に出会った九鬼大佐と大和型戦艦4番艦桔梗丸のことを。
~1941年~大和型戦艦4番艦111号(仮称:紀伊)は呉海軍工廠のドックで船を組み立てている作業の途中に、軍本部より工事中止及び船の廃棄の命令がなされたが、青木、長瀬と言う青年将校と岩瀬少佐の働きにより、大和型戦艦4番艦は廃棄を免れ、戦艦ではなく輸送船として生まれる(竣工する)ことになった。
船の名前は桔梗丸(船頭の名前は九鬼大佐)と決まった。
輸送船でありながらその当時最新鋭の武器を持ち、癖があるが最高の技量を持った船員達が集まり桔梗丸は戦地を切り抜け輸送業務をこなしてきた。
その桔梗丸が修理のため横須賀軍港に入港し、その時、長岡与一郎と言う新人が桔梗丸の船員に入ったが、九鬼船頭は遠い遥か遠い昔に長岡に会ったような気がしてならなかった。もしかして前世で会ったのか…。
それから桔梗丸は、兄弟艦の武蔵、信濃、大和の哀しくも壮絶な最後を看取るようになってしまった。
~1945年8月~日本国の降伏後にも関わらずソビエト連邦が非道極まりなく、満洲、朝鮮、北海道へ攻め込んできた。桔梗丸は北海道へ向かい疎開船に乗っている民間人達を助けに行ったが、小笠原丸及び第二号新興丸は既にソ連の潜水艦の攻撃の餌食になり撃沈され、泰東丸も沈没しつつあった。桔梗丸はソ連の潜水艦2隻に対し最新鋭の怒りの主砲を発砲し、見事に撃沈した。
この行為が米国及びソ連国から(ソ連国は日本の民間船3隻を沈没させ民間人1.708名を殺戮した行為は棚に上げて)日本国が非難され国際問題となろうとしていた。桔梗丸は日本国から投降するように強硬な厳命があったが拒否した。しかし、桔梗丸は日本国には弓を引けず無抵抗のまま(一部、ソ連機への反撃あり)、日本国の戦闘機の爆撃を受け、最後は無念の自爆を遂げることになった。
桔梗丸の船員のうち、意識のないまま小島(宮城県江島)に一人生き残された長岡は、「何故、私一人だけが。」と思い悩み、残された理由について、探しの旅に出る。その理由は何なのか…。前世で何があったのか。与一郎と玉の古の愛の行方は…。
大日本帝国領ハワイから始まる太平洋戦争〜真珠湾攻撃?そんなの知りません!〜
雨宮 徹
歴史・時代
1898年アメリカはスペインと戦争に敗れる。本来、アメリカが支配下に置くはずだったハワイを、大日本帝国は手中に収めることに成功する。
そして、時は1941年。太平洋戦争が始まると、大日本帝国はハワイを起点に太平洋全域への攻撃を開始する。
これは、史実とは異なる太平洋戦争の物語。
主要登場人物……山本五十六、南雲忠一、井上成美
※歴史考証は皆無です。中には現実性のない作戦もあります。ぶっ飛んだ物語をお楽しみください。
※根本から史実と異なるため、艦隊の動き、編成などは史実と大きく異なります。
※歴史初心者にも分かりやすいように、言葉などを現代風にしています。
日本が危機に?第二次日露戦争
杏
歴史・時代
2023年2月24日ロシアのウクライナ侵攻の開始から一年たった。その日ロシアの極東地域で大きな動きがあった。それはロシア海軍太平洋艦隊が黒海艦隊の援助のために主力を引き連れてウラジオストクを離れた。それと同時に日本とアメリカを牽制する為にロシアは3つの種類の新しい極超音速ミサイルの発射実験を行った。そこで事故が起きた。それはこの事故によって発生した戦争の物語である。ただし3発も間違えた方向に飛ぶのは故意だと思われた。実際には事故だったがそもそも飛ばす場所をセッティングした将校は日本に向けて飛ばすようにセッティングをわざとしていた。これは太平洋艦隊の司令官の命令だ。司令官は黒海艦隊を支援するのが不服でこれを企んだのだ。ただ実際に戦争をするとは考えていなかったし過激な思想を持っていた為普通に海の上を進んでいた。
なろう、カクヨムでも連載しています。
蒼海の碧血録
三笠 陣
歴史・時代
一九四二年六月、ミッドウェー海戦において日本海軍は赤城、加賀、蒼龍を失うという大敗を喫した。
そして、その二ヶ月後の八月、アメリカ軍海兵隊が南太平洋ガダルカナル島へと上陸し、日米の新たな死闘の幕が切って落とされた。
熾烈なるガダルカナル攻防戦に、ついに日本海軍はある決断を下す。
戦艦大和。
日本海軍最強の戦艦が今、ガダルカナルへと向けて出撃する。
だが、対するアメリカ海軍もまたガダルカナルの日本軍飛行場を破壊すべく、最新鋭戦艦を出撃させていた。
ここに、ついに日米最強戦艦同士による砲撃戦の火蓋が切られることとなる。
(本作は「小説家になろう」様にて連載中の「蒼海決戦」シリーズを加筆修正したものです。予め、ご承知おき下さい。)
※表紙画像は、筆者が呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)にて撮影したものです。
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
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