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本編
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半年前の夏---
その日は立っているだけでもクラクラするような息をするのも苦しくなる酷暑日だった。
ただでさえ暑い酷暑をさらに燃え上がらせる陸上競技場。誰の声かなんてもう判別のしようもないほど一心不乱に入り乱れる声援たち。
こんなこと言ってしまっては他の競技に失礼かもしれないのだけれど、陸上競技というスポーツの中で最もメジャーであり、陸上競技を代表する100メートル走の地区予選決勝が今まさに行われようとしていた。
勝ち上がったこの地区で最も速い九人がスタート位置につくと、嵐のように行き交っていた声たちはどこへやらと、まさに嵐の前の静けさと例えられるような静寂が、沈黙が、競技場内を包み込んだ。
《オンユアマーク》
お馴染みの合図とともに選手たちがスタート位置でクラウチングスタートの体勢に入る。
《セット》
静まり返った競技場の誰しもが、誰も彼もが、たった一つの音のために耳を澄ませる。
選手たちの緊張感が極限に達し、応援席まで押し寄せてくる。この緊張だけは慣れるものではないだろう。
《パァン》
待ち侘びた音に合わせて九人が出遅れることなく一斉にスタートダッシュを決める。
真ん中の第五レーンを走る紺色のユニフォーム、初姫高校の選手が頭ひとつ抜け出すと、そのまま加速して独走し始めるかと思いきや、必死に食らいつき肩を並べる第七レーン、オレたち能羽高校の三年生、岡元先輩だ。
その二人を追いかけるように同じく能羽高校、陸上部部長の北瀬先輩がスピードを上げていく。
例年、地区予選を突破し、インターハイに駒を進めるのはこの辺りでは有名なスポーツの名門校、初姫高校だった。
それを打倒するのが能羽の長年の悲願であった。
能羽高校始まって以来、初の自己ベスト10秒台を叩き出した岡元先輩と部長ならば、ついに初姫を下すことができるのではないかと、オレを含めた部員たちは皆、期待を寄せていた。
オレたちの期待を背負って走る二人の姿はとてもカッコ良くて輝いて見える。残念ながらオレにはそんな輝きはない。
10秒あれば決着がつく、短距離走の世界。
そうなことを考えているうちに、三人の選手がほぼ同時にゴールした。
誰が最初にゴールしたのか、それを確認するために電光掲示板に目を向ける。
電光掲示板の一着には初姫高校の選手の番号が刻まれていた。
「二人の力を持ってしても、初姫高校には勝てないのか……」
絶望感を漂わせた声がどこかから聞こえてくる。
二人のエースの敗戦によって、能和高校陸上部の夏が終わりを告げたのだった。
それから数ヶ月が経過して、三年生の先輩たちが引退し、新チームとして二年生の中峰先輩を部長とし、来年の夏に向けて練習を開始するはずだった。
しかし、だがしかし、そうはならなかった。
三年生を失った事実が相当大きかったのか、中峰先輩はその後一度たりとも練習に姿を現すことはなくなり、それと時を同じくして他の二年生の先輩たちも、そしてオレの同期メンバーたちも、誰も彼も三年生の引退をきっかけに練習をサボるようになり、次第に退部していったのだった。
オレが二年生に進級する頃には陸上部の部員は俺と幽霊部員二人という廃部間近の状態にまで落ちぶれていた。
授業が終わり、今日も今日とて一人で練習に打ち込む。たった一人の陸上部員、後ろから指を差されることが多くなった。
正直なところ、気持ちはぐちゃぐちゃになっていた。
「さっさと陸上部なんて辞めて、サッカー部入れよ」
サッカー部で同じクラスの月森が俺に言う。
「いやでも、オレ一応部長だしな……」
「お前が陸上部にこだわる必要なんてないだろ」
「まぁ確かにそうなんだけどさ」
そう、どうしてオレがサッカー部に勧誘されているのかというのは、オレが元々、中学まではサッカー部に所属していたからに他ならなかった。
体験入部にも参加し、オレ自身もサッカー部入部を疑っていなかった。もし、この世界がドラマやアニメ、漫画や小説だったとするならば、誰もがオレのサッカー部入部という展開を疑いはしないだろう。
体育の体力測定がオレの全てを変えてしまった。
100メートル走でオレは12秒台という記録を出し、一緒に走っていた中学陸上部の金松を倒してしまったのだ。
そこからの展開は想像できるだろう。
金松が勝手にオレの陸上部への入部届を提出し、オレは不本意ながら陸上部員となった。
そういった経緯もあってか、陸上部には思い入れがあるような、ないようなという気持ちなのだった。
最初は嫌々参加した練習初日だったのだが、当時陸上部のエースだった北瀬部長、そして岡元先輩の走りに惹かれ、オレは陸上の世界にのめり込んでいくことになった。
オレも本当はいなくなった部員たちのように、三年生の先輩に憧れてやっていた陸上部だっただけに三年生がいなくなったことに関してはショックを隠し切れないどころか、部に存在している意味そのものが揺らいでいるのだ。
じゃあ、どうしてオレは辞めないのか。
「サッカー部はいつでもお前を歓迎するぜ」
「ありがとう、気持ちだけは貰っとくよ」
本当は今すぐにでも辞めたいのだけれど、何故オレは辞めてくれないだろうか。
最早、部室すら与えてもらえなくなった陸上部と言ってもオレ一人なのだけれど、部室を失ったオレは学校の多目的トイレで練習着に着替える。
名門校のような区画整理されたグラウンドではないため、同じグラウンドでは野球部やサッカー部が所狭しとせめぎ合っている。
そんな中を細々と身体一つで練習に励む。もちろん、四方八方から球という球が飛んでくる。狙われている可能性まであった。でなければ、股や頭にボールが直撃することはないだろう。
今日も今日とて、股に直撃してうずくまる。
「おのれぇええ………」
そうこうしていると、黒々とした人影がオレの顔を覆う。
「なかなか痛そうだね……」
人影の持ち主がスカートを風に靡かせながら、アンティーク調のカメラを片手に同情した顔でオレを見下ろしている。
「またオレを笑いに来たのか?」
「笑いに来たなんて、そんなわけないじゃない。私はただ君の努力している姿をこのカメラに収めたいだけだよ」
「そんなの収めても仕方ないだろ。もっと綺麗な景色を撮るとかした方がコンテスト的にはいいんじゃないのか?」
「まぁそれはそうなんだけどさ、でも、私はそうじゃない思っている」
「なんじゃそら」
この眼鏡をかけた黒髪の女子生徒は神崎紫織という名前で、オレと同じ二年生である。クラスも同じになったことはないため、彼女との接点などないはずなのだが、部員がオレ一人となった一年生の秋頃からこうして度々オレの前にやってくるようになった。なんでもコンテストで金賞を取れるような写真を撮るのが夢なんだとか。
ただやはりうずくまっている無様なオレを写真に収めているようでは金賞は夢のまた夢だろう。
「冷やかしなら間に合ってる、早く帰れ」
「冷やかしじゃないよ」
「苦しんでいる人間を写真に収めることが冷やかしでないなら一体何が冷やかしだって言うんだよ」
「まぁまぁ、そう言わずに練習頑張って」
最近の練習はいつもこういった感じである。
練習しているところをどこからともなく現れる神崎によって写真に撮られる。
サッカー部や野球部を写真に収めた方が絵になるのではないだろうかと思えてならない。
そういった観点からもどうしても彼女もオレをバカにする連中と同じようにしか見えないのだ。
夕暮れ時、空が橙から紫を経て濃紺へと変わって野球部やサッカー部がいなくなる暗闇の中、オレはようやく狙い撃ちの危険から解放され練習に励むことができる。
「おっ、ふふっ、いいのが撮れた」
彼女は嬉しそうにそう呟くと、
「私もそろそろ帰るね」
カメラをカバンにしまう。
「いなくなって清々するよ」
「あんまり無理しちゃダメだよ」
「お前に言われなくてもわかってるよ」
「なら、いいけどさ」
帰り際に彼女がオレに尋ねる。
「ねえ」
「まだ何かあるのか?」
「どうしてサッカー部に行かないの?」
「月森との話、聞いてたのか。盗み聞きとは趣味が悪いぜ」
「ごめんごめん、通りがかったらたまたま聞こえちゃって。それで? どうして辞めないの?」
「そんなの、、オレにもわかんないよ」
「わからないなら、辞めちゃえばいいのに」
「わからないから辞められないんだよ」
「どういうこと?」
「だから、オレにもよくわからないんだよ。オレを無理矢理、陸上部に入れた金松も幽霊部員だし、憧れてた三年生もいなくなったし、目標もライバルも何もかもがなくなって、走る意味なんてないんだけど、、、もしかしたらって思うことがあるんだ」
「もしかしたら?」
「もし、オレが皆が大好きだった三年生みたいになれれば、皆が戻ってきてくれんじゃないかって」
「それで? それでそれで?」
「それでってお前なぁ」
何故かオレの話に興味津々な神崎に呆れながらも言葉を続ける。
「皆が戻ってくれば、また昔みたいに戻れるんじゃないかって。だから、オレが部長として陸上部という居場所を守るんだ」
「それが君がサッカー部に行かない理由?」
「まぁ皆の居場所になるってのは後付けなんだけどな。本当は勝ちたいんだ」
「勝ちたい? 誰に?」
「初姫高校に」
迷いなく答える。
「初姫高校に勝って、オレをバカにした奴らを見返したいんだ。オレだってやれるんだぞって」
「そっかそっか」
神崎が満足げな顔でオレの顔をスマートフォンのカメラで撮影した。
「なに人の顔、撮ってんだよ」
「いや、夢を語る人の顔はいつだってどこだって、綺麗な景色よりも輝いているものなんだよ。それを撮らないなんて勿体無いでしょう」
「なっ! 何を言ってんだよお前は! もういいから帰れよ!」
そう言われるとなんだか急に頭が、顔が、熱を帯びて爆発しそうなほどに恥ずかしくなってきた。
「ねえ!」
「今度はなんだよ!」
「君が勝つところ、私も見てみたいな」
「え?」
「だ、か、ら! 君が勝つところ、私に見せてって言ってるのよ」
「な、なんでお前なんかに!」
「それじゃあ、また明日!」
彼女は帰っていった。
帰り道、彼女は撮った写真のタイトルを考える。
「何がいいかなー?」
朝練するための早朝の登校中---
道端で写真を撮っている神崎を見かけた。
「あ、おはよう」
オレに気付いた神崎が声をかけてくる。
「お、おう」
彼女は丁度、桜をバックに猫の写真を撮っているところであった。
「風景写真とかも撮るんだな」
「そりゃあ、もちろん、写真家ですから」
彼女は自らを恥ずかしいがることもなく、堂々と胸を張って写真家と名乗るものの、彼女は別に写真部とかに属しているわけではないらしい。
完全なる趣味で写真を撮っている。
何故か自信満々な彼女であるため、彼女のことを変人だとバカにする生徒も多い。
彼女はよくオレの練習を冷やかしに来る変人なのだが、オレはどうしてか彼女をバカにする気にはなれなかった。同族だからだろうか。同族なら嫌悪するものだろう。なら、何故なのか。この気持ちは同族ではなく、同情なのだろうか。本当にそうなのだろうか。
「いつもこの時間に登校してるのか?」
「うん、そうだけど、それが何?」
「いや、何ってわけじゃないんだけれど」
「朝には朝にしか撮れない朝だけの顔があるんだよ。それを逃すわけにはいかない」
「写真家だから?」
「そう! よくわかったね」
彼女は嬉しそうに笑った。
不意の笑顔に少しだけ胸がドキッとした。
「そういう君は? こんな時間に珍しいね。朝練?」
「うん、もうすぐ試合シーズンになるから。追い込みをかけようかと思って」
「朝から夜まで精が出るね。そんな君の顔を一枚」
神崎がオレの顔を撮影する。
「だから、人の顔を撮るな」
「いいじゃない、減るもんじゃないし」
「減るよ!」
「何が?」
「なんかが!」
そんなやり取りを終えてオレは朝練に向かうのだった。
そうしてまた放課後がやってくる。
「そういえば、最近お前、神崎と仲良いよな」
月森がオレに言う。
「そうかな?」
「そうだろ。ひょっとしてお前ら付き合ってるのか?」
「そんなわけないだろ」
「そうなのか? でも、最近お前ら噂になってるぞ?」
「どんな噂だよ?」
「ぼっち同士仲良いってな」
「誰がぼっちだよ」
「ぼっちだろ、部員一人なわけだし」
「オレとアイツをひとまとめにするな」
「神崎もあの変人なキャラじゃなきゃ顔は良いし、モテると思うんだけどな。残念な美人ってやつだな、あれは」
神崎に対する月森の言葉をオレは返さなかった。
その日の練習は何故か集中できなかった。そんな中、サッカーボールや野球の球が身体に直撃する。
「どうしたの? なんか集中できてないね」
いつものようにうずくまっていると、いつものように神崎が姿を現す。いつもと何も変わらないはずなのに、どうしていつものように気持ちが晴れないのだろうか。
「なあ、一つ聞いていいか?」
「ダメ」
「なんでだよ」
「なに?」
「お前はどうして写真を撮るんだ?」
「あれ? 言ってなかったっけ?」
「何も聞いてねえよ」
「そうだっけ? このカメラ、まぁ見るからにアンティークなんだけれど、お父さんに買ってもらったカメラなんだよ」
どこか遠くを見るような目で神崎が語り始めた。
「どこにでもある一般的な家庭。それが神崎家だった。父親は会社員、母親は専業主婦だった。ある日、家族でフラワーガーデンに出かけた時、アンティークカメラを片手に一人旅をしていた女性に出会った。私はその人のことをカッコいいと思った。私もあんな風に生きてみたいって。だから、その手始めとしてお父さんにあの人と同じアンティークカメラをおねだりした」
「それで買ってもらったのか?」
「そう。その時の私はまだ小学生だったんだけれど、あまりに私がねだるものだからお父さんは根負けして買ってくれたんだ。それがこのカメラ」
神崎は手元のカメラを優しくペットを可愛がるように撫でた。
「このカメラを手に入れてからの私はまぁ多分想像できると思うけれど、とにかく片っ端から写真を撮りまくってた」
「ま、まぁ想像できるな」
「でしょ?」
彼女が困ったように笑う。
「大きな幸せもないけど、大きな不幸もない。ささやかな日常が永遠に流れていくかに見えた神崎家にとある不幸が訪れました」
オレは固唾を飲んで彼女の言葉に目をこらし、耳を傾ける。
すると、彼女の気持ちでも表したかのようにポツリポツリと雨が降り始まると、その勢いは増し、瞬く間にグラウンドに大きな水溜りを作り上げた。
グラウンドにいたオレたちは慌てて校舎に避難する。
雨に濡れた神崎は濡れた身体を気にすることなく続ける。
「なんと父親はリストラに遭い、会社をクビになりました。それ以来、父親は荒み、口を開いたかと思えば怒号。動いたと思えば暴力を振るうようになりました。それに耐えかねた母親は父親に離婚届を提出し、晴れて離婚が成立すると、今度は別の問題が」
彼女は自らの不幸話をまるで絵本でも読むかのような口調で話していく。
「なんだと思う?」
「え、」
「さて、ここで問題です。その問題とはなんでしょう?」
「親、権?」
「正解! 子供の親権問題が発生したのです。怒号に暴力と明らかに破綻した父親に女の子一人を預けられるわけもなく、当然、母親に親権が渡るものだと誰もが思ったでしょう。しかし、なんと母親は“疲れた”と親権を放棄したのでした」
「それじゃあ、お前は今どうしてるんだよ」
「私は今、母親の母親、祖母のところに預けられてるんだよ」
「そうだったのか」
「なに暗い顔してるの?」
「いや、だって、明るい話ではないだろ」
「まぁそれもそうだね。まぁそんなこんなで父親からのプレゼントはこのカメラが最後なんだ」
手元のカメラに視線を落とす。
「私もね、君と一緒なんだよ」
「?」
「もしかしたら、何かの拍子にまた両親が仲直りして、再婚して、家族が揃うことだってあるかもしれないって。君が部員たちの帰りを待ってるように、私も家族の帰りを待ってるんだ」
「そっか。待つのって大変だよな」
「ほんとそれ」
「「いつまで待たされんのかなって感じ」」
オレたちは無邪気に笑った。
その頃には雨は止み、夕日と共に虹がかかる。
この日を境に神崎との仲が深まったように思えた。
それからも練習の日々は続いた。
陸上部の練習は修行と呼ばれることがある。練習ではなく修行。己を身体を走り込みや筋トレでとにかくひたすらに追い込むこと。それこそが練習であり、それしか練習ではない速さを追い求める世界。目に見える成果のない日々は心が折れそうになる。ただ己を信じて鍛え上げるしかない修行の日々。それが報われるかどうかなんてわからない。報われないかもしれない。努力すれば報われるわけではないことはもうわかっている。だから、報われるまで努力し続けなければならないのだ。
走り込みを終え、グラウンドの隅で腰掛けていると、
「精が出るな」
という声が何処かから聞こえた。
声の主に目を向けると、そこには憧れの人が立っていた。元部長、卒業して大学生となった北瀬さんだった。
「部長!」
「部長はお前だろ」
「そう、でしたね……。先輩はもう知ってるんですね」
「まぁな。中峰から聞いたよ」
「連絡取ってるんですね」
「一応、中学からの付き合いだからな。しっかし、まさか部員がお前だけになってるとはなぁ」
「そうですよね、オレも想像できませんでした」
「一番辞めそうだったお前が残って部長とはな。なんだか感慨深い気がするよ」
「そうなんですか?」
「だってそうだろ? そもそも陸上をやってたわけじゃないお前が今は陸上に熱くなってるわけだ。それって凄いことだろ」
「は、はあ……」
「なんだか俺が一年生だった頃を思い出すよ」
「?」
「いや実はな、この陸上部は一年生の頃に俺と池城マネージャーの二人で始めたものなんだ」
「え、そうなんですか!?」
「たった二人で始まった陸上部だったから、よくまわりからバカにされたり、茶化されたりしてたもんだな。いつも放課後は二人で練習しているから、付き合ってるとかなんとかな」
「そうでしたか」
「今のお前はその時の俺によく似ている。だから、お前の気持ちもよくわかるんだよ。岡元たちが入部し始めたのは二年になってからのことだ」
「へぇー、これまたどうして?」
「岡元は変態だったからなー。自分を追い込むことができればなんでもよかったらしいんだが、うちの学校は武道系の部活がないだろ? それで己の身一つでできることってなった時に陸上部にしたんだとさ」
「そ、それは変態ですね……」
「だろ? よくあんな変態と一緒にやってたもんだ。色々あったが楽しかったよ。能羽での陸上部生活も。お前は一体どんな陸上部生活を送るのかな。まぁそれはそれとして、今日はお前に渡すものがあったんだ」
リュックサックからある物を取り出した。
「じゃーん」
と、袋を開け、中から出てきたのは北瀬先輩が試合で使用していた真っ赤に輝くスパイクと赤い鉢巻だった。
「これをオレに?」
「ああ、確かに陸上部は俺とマネージャーで発足したんだが、前にもあったらしい」
「というのは?」
「一度廃部になったってことだな」
「なるほど」
「俺もこのスパイクと鉢巻は顧問の先生から部の発足時に渡されたものなんだ。代々、陸上部のエースが引き継いできた大切な物だってな。これをお前に渡す」
「どうしてオレに?」
「どうしたってお前。お前しかいないからに決まってるだろ」
「それもそうですね」
「歴代、このスパイクを引き継いできたらしいが、このスパイクの持ち主とその部員たちは一度たりとも初姫高校を倒せたことはない。お前が俺たちの悲願を達成しろ」
「オレが」
「それじゃあ、確かに渡したからな」
そう言って北瀬先輩は帰路に着く。
「待ってください」
そんな先輩の背中をオレは呼び止めた。
「オレと一本だけ走ってくれませんか? 先輩と走ったことは一度もなかったので、スパイクを引き継いだ記念に」
「そう来なくっちゃな」
そして遂に記録会当日---
選手登録を済ませ、100メートル走の順番を静かに待つ。静かに待っているのはオレだけだった。
他校の選手たちは皆、仲間同士で激励し合っている。己を奮い立たせている。
それに比べてオレは顧問すら見に来ることはない。
「なに、しみったれた顔してんの」
どこか聞き覚えのある声がして慌てて振り抜くと、カメラを構えた神崎がいた。
「なんでお前がここにいるんだよ!?」
「なんでって、いい絵が撮れるんじゃないかと思って」
「いい絵ってお前……」
「せっかく美少女が応援しに来たんだから、もっと嬉しそうにしたらどうなの?」
「自分で美少女言うな」
「ちょっとは気持ちがほぐれた?」
彼女に返事を返そうとした時、100メートル走に出場する選手の招集が行われる。
「オレ、行かなきゃ」
そんなオレの腕を彼女が掴む。
歩みを止められたオレは少しだけ戸惑う。
「いい写真、撮らせてよね」
「こういう時って普通頑張れとかじゃないのか?」
「そっちの方が私らしいでしょ?」
「まぁそれもそうか」
「私は私らしく行くから。君は君らしく、勝てばいい。でしょ?」
「オレは、、オレらしく、か」
彼女の言葉を口の中で咀嚼する。
招集に合わせて、引き継がれた赤いスパイクを履く。
「そうだな。んじゃあまぁ、行ってくるよ」
「うんうん、いつもの顔だ」
彼女は笑顔でオレを送り出した。
《オンユアマーク》
聞き慣れた合図でスタート位置につく。
会場が静寂に包まれると、自分の心臓の音がうるさいくらいによく聞こえるようになった。
《セット》
あとは銃声を残すだけなのだが、自分がスタートに位置にいると、この時間がとても長く感じられる。待ちかねて聞こえるはずのない銃声を聞いて、フライングする人の気持ちもわかるというものだ。
『自分らしく勝て』
神崎に言われたことを思い出した時だった。
銃声が静まり返った空気に鳴り響く。
鳴った、なんてことは考えていない。鳴った時には身体が勝手に前へ前へと走り出していた。
前傾姿勢のまま風を切ってトップスピードまでギアを上げていくと、身体を起こして胸を張る。前を向いた時、視界には誰の姿もいない。先頭の景色。先頭だけが見ることを許される最高の景色。
このまま、このまま。ずっとこのまま。
球を追いかけることを辞め、ただ単純に速く走ることを追い求めてきたのは、この瞬間を味わうためだったに違いない。間違いない。
スピードの世界はあっという間にゴールを迎えた。
レースを終え、一位でゴールしたことは嬉しいことだが、それ以上に気になることがある。故に、それ故に、オレは電光掲示板を凝視する。目を凝らす。
オレの付けていたゼッケン番号と共にタイムが表示される。
《10.98》
電子的な文字で表示されていた。
「やった、、、よし、よし、よし」
上手く上手に言い表せない喜びが頭の先から足の先という身体中を支配していた。
「やったじゃん」
神崎がカメラを首からぶら下げて言う。
「カッコよかったよ」
「お、おう」
「なに、照れてんの? らしくないなー」
「べ、別に照れてなんかない!」
「本当に?」
「本当だよ!」
「まぁでも、毎日一人で頑張った甲斐があったね」
「でも、まだこれからだ。今日のこの日はスタートラインに立っただけ。オレの目標は」
「初姫高校を倒すこと、だったかな?」
「うん。だから、今日は目標に向けての第一歩なんだよ」
「そっか。じゃあ、第一歩の記念」
彼女はそう言うと、迷うことなくオレの写真を撮った。
「だから、撮るなっての」
「ええー、いいじゃん別に」
オレはまだ知らない。
この会場に能羽の陸上部員が二人見に来ていたこと、そしてこの先に待ち受けていることも。
それからの記録会でも安定した10秒台をマークすることができるようになり、もうすぐインターハイ地区予選が開催されようかという頃。
「よう」
「金松か。戻ってくる気になったのか?」
「今度のインターハイ予選、俺も出るから。それを伝えにきただけだ。お前、北瀬さんと岡元さんのタイムを超えたみたいだしな」
「それがなんだって言うんだよ?」
「お前倒して、俺が能羽最速になるんだよ」
「練習にも来ないお前がそんなことできるわけ」
「できるさ」
「?」
「確かに俺は部の練習には参加していない幽霊部員だが、別に特訓していないわけじゃない」
「独自にトレーニングしてたってことか?」
「そうだ。だから、俺はお前を超える」
「………」
返す言葉が思いつかない。
「俺が能羽最速になって能羽の悲願である初姫の打倒を達成する。どっちが悲願を達成するに相応しいか勝負だ。逃げるなよ」
一方的に言い残して金松は姿を消した。
「一緒に戦うってのじゃダメなのか……?」
オレはボソリとつぶやいた。
金松がいなくなって間も無くして、いつものように、いつも通り、神崎がやってきた。
「ん? なんかあった?」
「えっと」
「元気ないじゃん」
「そう見えるか?」
「うん、そう見える」
「そっかあ」
オレは事の顛末を神崎に話すことにした。
「そんなことがあったんだ」
「おかしいよな。帰ってきて欲しいって思ってた部員がまさかこんな形で戻ってくることになって。オレはそれを素直に喜べない」
深いため息が抑えきれない。
「なんでこんなことになっちゃったんだ」
「私には君の気持ちがわからないのだけれど、でも、励ますことはできる」
「え?」
「今日は練習をオフにして、遊びに行こっ?」
「いや、でも、試合近いし、練習しないと」
「そんな状態で練習したって身に付かないし、集中できてない時はかえって危ないよ。もしかしたら怪我するかも」
「それはそうなんだけど」
「でしょ? なら、今日は思いっきり遊んで、今日をちゃんと切り替えて、明日の自分に頑張ってもらうんだよ。ほら、陸上のリレーのバトンと一緒だよ」
「お前って本当に変わってるよな」
「そうかな?」
「そうだよ。でも、ありがとう。今日はやめておこう」
「よおし、そうと決まれば出発だね」
「それでどこに行くんだよ?」
「特に決めてないけど。思いつきで言っただけだし」
「そうなのか」
肩の力が抜けた気がした。
彼女はどうやら本気でオレのことを元気付けるためだけに行動を起こしてくれたようであった。
「じゃあ、ショッピングでも行こうかな」
「わかった」
そうやって訪れたショッピングモール。
「何か買いたいものでもあるのか?」
「うーん、服とか? そうだ! せっかくだから。君が私の服をコーディネートしてみてよ」
「え」
「なにその嫌そうな顔」
「いや、嫌そうじゃない。嫌なんだ」
「どうして?」
「どうしてって、センスがないからに決まってるだろ」
「そんなのやってみないとわからないじゃん。案外、そういうのに向いてたりするかもよ?」
「うーん………」
半ば押し切られる形でオレは彼女の服を選ぶことになった。
試着室で着替え終えた彼女がカーテンを明け、姿をオレに見せる。
「フリルブラウスにロングスカート。へぇー、君はこういう服の子が好みなのかー」
「ち、違っ! そういうことじゃ」
「いいのよ、いいのよ、好みは人それぞれなのだから」
「変な言い方やめろ!」
「何も恥ずかしがることはないのよ」
神崎の穏やかな顔と口調がオレを苦しめる。
「だから、違うって!」
「それで?」
「それでって?」
「似合ってる?」
「そ、それは」
「それは?」
「に、」
「に?」
「似合ってる、と、思う、」
「そっかー、似合っちゃってるのかー」
「なんだよ」
「ううん、なんでもないよ」
試着室を出ると彼女は迷うことなく真っ直ぐにレジへと向かった。
「すいませーん、この服買います」
「え、おい、いいのか?」
「うん、私も気に入ったし」
「………」
呆然とするオレをよそに彼女は会計を進めていく。
「この服、このまま来て行ってもいいですか?」
「かまいませんよ。それでは、タグを切らせていただきますね」
「ありがとうございます」
彼女は本当にオレの選んだ服を購入してしまった。
「本当にそんな服でよかったのか?」
「ええー、そんな服って言い方もないでしょう。私は結構気に入っているよ?」
「オレが適当に選んだ服なのにか?」
「適当? 逆に本当かなー? 私には君がちゃんと選んでくれたように思うのだけれど。違う?」
「違う!」
「まぁそれならそれでもいいんだけれど」
彼女の不敵な笑みがこちらに向けられる。
「今日はありがとう。私の遊びに付き合ってもらって」
満足げな彼女を見て我に返る。
「いや、違う」
「まだ何か違うの?」
「ああ、違う」
「何が?」
「お礼を言うのはオレの方だ」
「どうして?」
「オレの気分転換に君が付き合ってくれたからだ」
「あれ? そうだっけ?」
「そうだよ。ありがとう」
「ふふっ、どういたしまして。まわりの世界がどうなっても、君は君らしく君の世界を生きればいい」
「オレの世界」
「そうだよ。人は皆、自分の世界があるんだよ。あれが好きとか、これが嫌いとか、それは全て自分を作っている大事なこと。つまり世界なんだ。そんな自分の世界を生きているのだから、自己を優先して当たり前だし、自己中心的になるのも当然と言えば当然だ。それでも、人は誰かと世界を共有したい生き物でもあるんだから、面倒な生き物だよね。だからね、私は風景じゃなくて、その人のその人が持っている世界を撮りたいんだよ。今はね、君の世界が気になるんだ。速さの世界で生きる男の世界。今の顔、一枚、いただき!」
シャッター音が鳴る。
これは暑くてでもまだ風は冷たくて、そんな夏の一枚だった。
それからまた何日かの時が過ぎたある日のこと。
何やら人通りの少ない階段の踊り場で騒がしい声が鳴り響いていた。
オレも偶然そこに通りかかることになった。
「アンタ、何?」
「何って何が何? 何が何だかさっぱりなのだけれど」
「舐めた口聞きやがってよ」
「いや、舐めてるというか、事実を言っているだけだけれど。私に何か用なの?」
口論になっていたのは、元陸上部のマネージャーである植木侑香と神崎だった。
「最近アンタ、アイツと仲良いみたいじゃない」
「アイツって誰?」
「アイツはアイツだよ!」
「ああ、彼ね。別に私が誰と仲良くなろうと私の勝手じゃないかしら」
「はあ? 関係大アリなんだけど」
「意味わからん」
彼女は自分でそう言ったものの、すぐに植木の言葉の意味を理解したかのように続けて話す。
「ああ、そういうことね。好きなんだ。彼のことが。そんなに好きなら今すぐ陸上部に戻ってあげたら? 彼も戻ってきてくれること願ってるみたいだし、脈あるんじゃない?」
「ムカつく女!」
植木は怒りのまま、神崎が首から下げていたカメラを強引に奪い取る。
「ちょっ、それだけはダメ! 返して!」
「アンタなんてこうしてやる!!」
植木が何をしようとしているのかなんてことはすぐにわかった。
オレは慌ててそれを止めに入ろうとするが、時はすでに遅かった。
植木はカメラを地面に強く壊れるようにという悪意を込めて投げつける。
カメラはいとも容易く無数の破片を飛び散らせ破壊された。
「おい、何やってんだよ!」
たまらずオレは植木に怒鳴り声を上げる。
「なんでここに」
植木が驚いたような声で答える。
「たまたま通りかかったんだ。植木、お前はそんな奴じゃなかっただろ? どうしてこんな酷いことをするんだ」
「なにそれ、アンタたちが仲良くしてるからでしょ! 私の気持ちも知らないで!」
「いなくなったんだからわかるわけないだろ」
「止めて欲しかったのに!!」
植木はどうやら本気で辞める気はなかったようだった。しかし、だがしかし、オレの制止が弱かったようで植木は辞めざるを得ない状態に陥ってしまったのだったという。
「本気で辞める気はなかったのに!」
「だったら、今からでも間に合うだろ。こんなことしなくたって、オレはいつでもみんなの帰りを待ってるよ!!!」
「もう無理じゃん!!」
泣き叫んで植木は走り去っていった。
本当なら彼女を追いかけなければならないのだろうが、今はそれどころではない。今は神崎のことが何よりも心配だったからだ。
「大丈夫か?」
「追いかけなくていいの? 君が何よりも大事に思ってきた部員だよ?」
「追いかけないさ」
「そう」
地面に無惨に叩き付けられ、酷く壊れたアンティークカメラを見下ろしながら彼女は重々しく口を開く。
「そういえばね、お父さんからお母さんに連絡があったんだ。それから私にも」
「え、」
「すぐに前みたいにはいかないだろうけど、また家族三人でやり直していきたいって」
「それはよかったじゃないか! 待った甲斐があったってもんだ!」
「うん、そうだね」
「あまり嬉しそうじゃないけど、何かあったのか?」
「私ね、この町から引っ越すことになったんだ」
「は、え? あ、え?」
「お父さん、今こことは別の県で働いているらしくて、そこに来て欲しいって言われてるんだ」
「学校はどうするんだよ?」
「もちろん、転校する」
「そんな、、」
「なに、こんな私を寂しがってくれるの?」
彼女はオレの顔を見ると、いつものように笑って見せた。けれど、その笑顔はとても無理をしている。
「さ、さ、寂しいわけないだろ」
「そうだよね、君は私なんかに気を取られてる暇ないもんね」
「そ、そうだよ。オレはお前なんか!」
「言ってくれるじゃん。しっかし、カメラが壊されて父親との思い出がなくなったかと思えば、まさかそんな父親とやり直せるチャンスが貰えるなんて、まさに人生、山あり谷ありだね。すごいね、私の世界も」
「それでいつ引っ越すんだよ」
「善は急げってことでもう来月からだって。だから、もうすぐお別れだね」
「そうなるのか」
「そうなるね」
「お、お、お、お前がい、いなくなって清々するよ」
どうして正直に思っている言葉を彼女に言えないのだろうか。
「そっか」
彼女は力なくその言葉だけを吐き出すと、壊れたカメラを拾い始めた。
オレも手伝いをしようとするが、彼女がそれを止めた。
「触るな」
「おい」
「いいから。あっちいけ」
「………わかった。ごめん」
記録会で思うように記録が出なくなった頃、もう間も無くしてインターハイ地区予選が開催されようかという中、神崎の転校も迫っていた。
教室の窓から外を眺めているカメラを失った彼女は普通の女子高校生になった。と、言えば聞こえはいいのかもしれないが、オレにはどちらかと言えば輝きを失ったもぬけの殻のように見えた。
彼女から見た部に一人だけ残されてしまったオレも、今の彼女のように見えていたのだろうか。
オレは彼女に勇気付けられたにも関わらず、オレは彼女に何もしてあげられないことが、歯痒かった。
カメラが壊れたあの日以来、オレは神崎と話していない。部活にも姿を現さなくなった。
どうしてオレはこんなにも彼女のことを考えているのだろうか。そんなことを考えながら、あることを思い付いた。
いよいよ、今日で神崎がいなくなるその日、オレは神崎を呼び止める。
「神崎」
「どうしたの? 君から声をかけてくれるなんて今までで初めてじゃない? 最初で最後、かな」
「お前に渡したいものがあるんだ」
オレは部活の合間を縫って短期バイトで貯めたお金で買ったカメラを神崎に渡す。
「これ、どうしたの?」
「オレからの餞別だ」
「え?」
「これからもカメラでお前にしか撮れない世界を映してくれ」
神崎はオレの手からカメラを受け取る。
「私にしか撮れない世界、か。カメラを貰うのは人生で二度目だ。二人とも私にとってとても大切な人。大好きな二人」
彼女はカメラを抱き締める。
「ありがとう。大切にするね。でも、どうして私のためにここまで? 私のこと煙たがってたじゃない」
「最初は本当にウザい奴だと思ってたさ。野球部やサッカー部、その他諸々のオレをバカにする奴らと変わらない冷やかしでオレの写真を撮ってるんだろうってな。でも、時間が経つにつれて、お前のことを知るにつれて、その気持ちは変わっていった。そんな時、お前のカメラが壊れて、お前の引っ越しが決まって、お前の苦しい姿を見て、オレはずっとお前のことを考えていることに気が付いたよ。オレも君のことがいつの間にか好きになってたんだ」
「好きって。友達として? それとも異性として?」
「異性としてに決まってるだろ」
「そっか。嬉しい。私も最初は君なんてただの被写体ぐらいにしか思ってなかったんだよ」
「酷い言われようだな」
「ふふっ。でもね、一枚だけいい写真が撮れたんだ。見る?」
そう言って彼女はカバンから一枚の写真を取り出した。そこには夕暮れ時、日没がすぐそこに迫るほどの遅い時間まで行っていた練習中の紫がかった夕日をバックにしたオレの横顔だった。
「この写真、よく見て」
「ん?」
「泣いてる」
「な!? 泣いてない!!」
「汗と涙。部員を失おうとも未来を信じて走る男の子の等身大の姿。普通なら投げ出したって、投げやりになったっておかしくない。それでも前だけを見ているこの写真に映る君に惚れたんだ。私は。だから、私は執拗に君に付き纏うことにしたんだ。いい写真が撮れると思って」
「結局、写真のためじゃねぇかよ」
「嘘嘘。冗談だよ。見てみたくなったんだ。隣で。一緒に。君の世界を。私は君と世界を共有したかったんだ」
「そっか。そうだったのか。好きです、付き合ってください。。。もう、遅いかな?」
「うん、遅い。ごめんなさい。その申し出は受けられません」
「だよな」
「でも、一つだけ救済措置があります」
神崎が人差し指を立て、一を表示する。
「私と連絡先を交換すること」
「そうだな。そういえば、オレたちってまだ連絡先も交換してないんだっけ」
あまりに遅い恋の始まりと終わりに笑いながらオレたちは連絡先を初めて交換した。
「それで、これが救済措置なのか?」
「いいえ、違います」
「それじゃあ、なに?」
「この連絡先に連絡をしてはなりません」
「じゃあ、なんで交換したんだよ!?」
「この連絡先に連絡できるかどうかは君次第」
「オレ次第?」
「そう。君が日本代表になった、その時に初めて連絡することを許します」
「日本代表!? オレが!? いや、そこまでは考えなかったかも……」
「じゃあ、考えてください。私のために」
「神崎のために」
「うん。待ってるよ」
「わかった。やってみるよ」
これがオレと彼女の最後の会話になった。
インターハイ地区予選会当日、この町にもう神崎紫織はいない---
「逃げずに来たか」
金松と控え室で再会する。
「俺とお前は同じレースだ。勝った方が決勝で初姫と戦うことができる」
「オレはお前にだけは負けない」
「いいぜ。かかってこいよ」
招集が行われ、オレと金松はついにスタート位置に並び立つ。
《オンユアマーク》
《セット》
銃声と共に走り出す。
金松は想像以上に速かった。
並ばれている。もしかすると、金松の方が少しだけ前にいるのかもしれない。
負けない。負けたくない。
違うそうじゃない。負けから始まる言葉じゃダメだ。勝ちたいでもない、勝つんだ。
どちらが勝ったかどうかは最後の最後までわからなかった。それほど実力が拮抗していたということだった。
勝負を決めるのは電光掲示板。
オレと金松が息切れの中、電光掲示板を見守る。
電光掲示板の文字が動く。そこには一着にオレの数字が表示され、二着に金松が表示されていた。
「くそ! なんでだ! なんだ俺は勝てない!!」
「強かったよ。本当に」
「なんだよ、勝ち逃げか」
「違うそうじゃないさ。またさ、一年の時みたいに一緒に走れないのか? オレたちは」
「なんだと?」
「オレはまたみんなと一緒に走りたいんだ。もちろん、お前とも。オレに走ることの楽しさを教えてくれたのはお前だったじゃないか! オレはお前と一緒に強くなりたいんだ!」
「くそが!」
吐き捨てたあとで、金松は、
「考えといてやるよ」
つまりはツンデレなのであった。
「ありがとう、金松。初姫はオレが倒す」
決勝進出を決め、初姫高校のユニフォームを身につけた選手を発見する。
「なんだよ? そんなに睨むなよ。俺なんかしたか?」
初姫高校の選手がオレを見て言う。
「オレはアンタたちを超えることが夢だった。いや、違うな。それはオレの夢じゃない」
「はあ?」
「お前たちはオレの夢の通過点だ」
「言ってくれるねぇ。んじゃあ、この決勝で勝負だ」
「望むところだ」
控え室での待機時間。
決勝の出場選手たちはそれぞれのマネージャーやら、同じ部の選手やらに鼓舞されている。
しかし、だがしかし、オレには相変わらず誰もいない。
「なあ、オレ勝てるかな? 神崎。君に会いたいよ」
「なに、しみったれた顔してるんだか」
いつかそんなことを言われたような気がして、思わず一人で笑ってしまった。
「オレはオレらしく勝てばいいんだよな。勝って約束を守るよ。必ずだ」
オレは北瀬先輩から託された真っ赤な鉢巻を取り出す。鉢巻には小さな文字で何か書かれている。
「これって北瀬先輩の字だ」
鉢巻には、
『勝つことよりも走ることを楽しめ』
と、書かれている。
鉢巻とスパイクをもらったあの日、北瀬先輩と勝負した後に言われたことを思い出していた。
---
「お前は誰よりも楽しそうに走るよな」
「そうですかね?」
「そうだとも。それはとてもいいことだ。勝負ってのは強い方が勝つんじゃない。ノリに乗ってる方が勝つんだ。だから、流れってのが大事になるわけだな。お前なら勝てるかもしれないな勝負に」
---
鉢巻を頭に巻きつけ、しっかりと気合いが入るように力強く縛る。
「みんなの力でオレは勝つ」
クラウチングスタートの体勢に入ると、いつもとは違う怖さに襲われた。緊張しているのだった。
北瀬先輩と岡元先輩と今同じ舞台に立っていることに緊張しているのだった。
そんな中、観客席ではというと、植木とその横で野球帽にサングラスをかけたいかにもお忍びな女の子が席に座った。
「あ、植木」
「げっ、神崎。なんでアンタがここにいんのよ」
「そりゃあ、好きな男が走るから見に来たに決まってるでしょう」
「相変わらず、ムカつく女」
「まぁまぁ、そんなこと言ってないで、ほら、始まるよ」
《セット》
その音が全てを黙らせる。
オレは鳴っていない銃声を聞いて走り出した。
フライングをしてしまったのだ。
「警告。次は失格です。気を付けて」
「すいません」
様子を見ていた神崎が呟く。
「らしくないことをしているな。ダメだ、君は君らしくないと」
そう言って、神崎は席から立ち上がり、大きな声で叫んだ。
「君は君らしく勝て!!!」
その声はよく聞こえた。
そして何よりも聞きたかった声だった。
《セット》
銃声と共に走り出す。
何も考えられずに無我夢中で走っていた。気が付いた時にはレースは終わっていて、電光掲示板に結果がデカデカと載せられている。
オレの勝利が。
「勝った? オレが勝ったのか?」
実感湧かない勝利に呆然と立ち尽くしていると、
「おい!」
と、声をかけられた。
神崎紫織だった。
「なんでここにいるんだよ? 幻覚か? てか、オレ勝ったのか。え、なに、どうなってんだ? 夢?」
「夢じゃない」
「そっか! 夢じゃないのか! やった! 勝った! オレの勝ちだ!!」
勢い余って神崎を持ち上げる。
「ちょっと! 君、はしゃぎすぎだ!! おろせ!!」
彼女を下ろすと、彼女は少し怒っている。
「もうまだ道半ばなのにはしゃぎ過ぎだ君は」
「ごめん……」
「でも、今日はよく頑張った。だから、ご褒美をあげる」
「え?」
呆気に取られていると、彼女の唇がオレの唇に重なった。
「引き続き励むように」
「お、おう」
「すいませーん」
何が起きたのかわけがわからないでいると、神崎が通りがかった運営スタッフにカメラを預け、撮影をお願いしている。
「何してんだよ?」
「ほら、そこに立つ」
「ここ?」
「そうそこ。いいですよ、お願いします」
カメラマンに合図を送ると、カメラマンが
「それじゃあ、撮りますよー」
そう言ってシャッターが切られた。
「そういえば、この間見せた写真」
「ああ、オレの?」
「そうそう、あれ金賞取ったから」
「へぇー、えええ!!?」
「すごいでしょ?」
「凄いな!」
「タイトルはね」
《たった一人の勇者》
fin.
その日は立っているだけでもクラクラするような息をするのも苦しくなる酷暑日だった。
ただでさえ暑い酷暑をさらに燃え上がらせる陸上競技場。誰の声かなんてもう判別のしようもないほど一心不乱に入り乱れる声援たち。
こんなこと言ってしまっては他の競技に失礼かもしれないのだけれど、陸上競技というスポーツの中で最もメジャーであり、陸上競技を代表する100メートル走の地区予選決勝が今まさに行われようとしていた。
勝ち上がったこの地区で最も速い九人がスタート位置につくと、嵐のように行き交っていた声たちはどこへやらと、まさに嵐の前の静けさと例えられるような静寂が、沈黙が、競技場内を包み込んだ。
《オンユアマーク》
お馴染みの合図とともに選手たちがスタート位置でクラウチングスタートの体勢に入る。
《セット》
静まり返った競技場の誰しもが、誰も彼もが、たった一つの音のために耳を澄ませる。
選手たちの緊張感が極限に達し、応援席まで押し寄せてくる。この緊張だけは慣れるものではないだろう。
《パァン》
待ち侘びた音に合わせて九人が出遅れることなく一斉にスタートダッシュを決める。
真ん中の第五レーンを走る紺色のユニフォーム、初姫高校の選手が頭ひとつ抜け出すと、そのまま加速して独走し始めるかと思いきや、必死に食らいつき肩を並べる第七レーン、オレたち能羽高校の三年生、岡元先輩だ。
その二人を追いかけるように同じく能羽高校、陸上部部長の北瀬先輩がスピードを上げていく。
例年、地区予選を突破し、インターハイに駒を進めるのはこの辺りでは有名なスポーツの名門校、初姫高校だった。
それを打倒するのが能羽の長年の悲願であった。
能羽高校始まって以来、初の自己ベスト10秒台を叩き出した岡元先輩と部長ならば、ついに初姫を下すことができるのではないかと、オレを含めた部員たちは皆、期待を寄せていた。
オレたちの期待を背負って走る二人の姿はとてもカッコ良くて輝いて見える。残念ながらオレにはそんな輝きはない。
10秒あれば決着がつく、短距離走の世界。
そうなことを考えているうちに、三人の選手がほぼ同時にゴールした。
誰が最初にゴールしたのか、それを確認するために電光掲示板に目を向ける。
電光掲示板の一着には初姫高校の選手の番号が刻まれていた。
「二人の力を持ってしても、初姫高校には勝てないのか……」
絶望感を漂わせた声がどこかから聞こえてくる。
二人のエースの敗戦によって、能和高校陸上部の夏が終わりを告げたのだった。
それから数ヶ月が経過して、三年生の先輩たちが引退し、新チームとして二年生の中峰先輩を部長とし、来年の夏に向けて練習を開始するはずだった。
しかし、だがしかし、そうはならなかった。
三年生を失った事実が相当大きかったのか、中峰先輩はその後一度たりとも練習に姿を現すことはなくなり、それと時を同じくして他の二年生の先輩たちも、そしてオレの同期メンバーたちも、誰も彼も三年生の引退をきっかけに練習をサボるようになり、次第に退部していったのだった。
オレが二年生に進級する頃には陸上部の部員は俺と幽霊部員二人という廃部間近の状態にまで落ちぶれていた。
授業が終わり、今日も今日とて一人で練習に打ち込む。たった一人の陸上部員、後ろから指を差されることが多くなった。
正直なところ、気持ちはぐちゃぐちゃになっていた。
「さっさと陸上部なんて辞めて、サッカー部入れよ」
サッカー部で同じクラスの月森が俺に言う。
「いやでも、オレ一応部長だしな……」
「お前が陸上部にこだわる必要なんてないだろ」
「まぁ確かにそうなんだけどさ」
そう、どうしてオレがサッカー部に勧誘されているのかというのは、オレが元々、中学まではサッカー部に所属していたからに他ならなかった。
体験入部にも参加し、オレ自身もサッカー部入部を疑っていなかった。もし、この世界がドラマやアニメ、漫画や小説だったとするならば、誰もがオレのサッカー部入部という展開を疑いはしないだろう。
体育の体力測定がオレの全てを変えてしまった。
100メートル走でオレは12秒台という記録を出し、一緒に走っていた中学陸上部の金松を倒してしまったのだ。
そこからの展開は想像できるだろう。
金松が勝手にオレの陸上部への入部届を提出し、オレは不本意ながら陸上部員となった。
そういった経緯もあってか、陸上部には思い入れがあるような、ないようなという気持ちなのだった。
最初は嫌々参加した練習初日だったのだが、当時陸上部のエースだった北瀬部長、そして岡元先輩の走りに惹かれ、オレは陸上の世界にのめり込んでいくことになった。
オレも本当はいなくなった部員たちのように、三年生の先輩に憧れてやっていた陸上部だっただけに三年生がいなくなったことに関してはショックを隠し切れないどころか、部に存在している意味そのものが揺らいでいるのだ。
じゃあ、どうしてオレは辞めないのか。
「サッカー部はいつでもお前を歓迎するぜ」
「ありがとう、気持ちだけは貰っとくよ」
本当は今すぐにでも辞めたいのだけれど、何故オレは辞めてくれないだろうか。
最早、部室すら与えてもらえなくなった陸上部と言ってもオレ一人なのだけれど、部室を失ったオレは学校の多目的トイレで練習着に着替える。
名門校のような区画整理されたグラウンドではないため、同じグラウンドでは野球部やサッカー部が所狭しとせめぎ合っている。
そんな中を細々と身体一つで練習に励む。もちろん、四方八方から球という球が飛んでくる。狙われている可能性まであった。でなければ、股や頭にボールが直撃することはないだろう。
今日も今日とて、股に直撃してうずくまる。
「おのれぇええ………」
そうこうしていると、黒々とした人影がオレの顔を覆う。
「なかなか痛そうだね……」
人影の持ち主がスカートを風に靡かせながら、アンティーク調のカメラを片手に同情した顔でオレを見下ろしている。
「またオレを笑いに来たのか?」
「笑いに来たなんて、そんなわけないじゃない。私はただ君の努力している姿をこのカメラに収めたいだけだよ」
「そんなの収めても仕方ないだろ。もっと綺麗な景色を撮るとかした方がコンテスト的にはいいんじゃないのか?」
「まぁそれはそうなんだけどさ、でも、私はそうじゃない思っている」
「なんじゃそら」
この眼鏡をかけた黒髪の女子生徒は神崎紫織という名前で、オレと同じ二年生である。クラスも同じになったことはないため、彼女との接点などないはずなのだが、部員がオレ一人となった一年生の秋頃からこうして度々オレの前にやってくるようになった。なんでもコンテストで金賞を取れるような写真を撮るのが夢なんだとか。
ただやはりうずくまっている無様なオレを写真に収めているようでは金賞は夢のまた夢だろう。
「冷やかしなら間に合ってる、早く帰れ」
「冷やかしじゃないよ」
「苦しんでいる人間を写真に収めることが冷やかしでないなら一体何が冷やかしだって言うんだよ」
「まぁまぁ、そう言わずに練習頑張って」
最近の練習はいつもこういった感じである。
練習しているところをどこからともなく現れる神崎によって写真に撮られる。
サッカー部や野球部を写真に収めた方が絵になるのではないだろうかと思えてならない。
そういった観点からもどうしても彼女もオレをバカにする連中と同じようにしか見えないのだ。
夕暮れ時、空が橙から紫を経て濃紺へと変わって野球部やサッカー部がいなくなる暗闇の中、オレはようやく狙い撃ちの危険から解放され練習に励むことができる。
「おっ、ふふっ、いいのが撮れた」
彼女は嬉しそうにそう呟くと、
「私もそろそろ帰るね」
カメラをカバンにしまう。
「いなくなって清々するよ」
「あんまり無理しちゃダメだよ」
「お前に言われなくてもわかってるよ」
「なら、いいけどさ」
帰り際に彼女がオレに尋ねる。
「ねえ」
「まだ何かあるのか?」
「どうしてサッカー部に行かないの?」
「月森との話、聞いてたのか。盗み聞きとは趣味が悪いぜ」
「ごめんごめん、通りがかったらたまたま聞こえちゃって。それで? どうして辞めないの?」
「そんなの、、オレにもわかんないよ」
「わからないなら、辞めちゃえばいいのに」
「わからないから辞められないんだよ」
「どういうこと?」
「だから、オレにもよくわからないんだよ。オレを無理矢理、陸上部に入れた金松も幽霊部員だし、憧れてた三年生もいなくなったし、目標もライバルも何もかもがなくなって、走る意味なんてないんだけど、、、もしかしたらって思うことがあるんだ」
「もしかしたら?」
「もし、オレが皆が大好きだった三年生みたいになれれば、皆が戻ってきてくれんじゃないかって」
「それで? それでそれで?」
「それでってお前なぁ」
何故かオレの話に興味津々な神崎に呆れながらも言葉を続ける。
「皆が戻ってくれば、また昔みたいに戻れるんじゃないかって。だから、オレが部長として陸上部という居場所を守るんだ」
「それが君がサッカー部に行かない理由?」
「まぁ皆の居場所になるってのは後付けなんだけどな。本当は勝ちたいんだ」
「勝ちたい? 誰に?」
「初姫高校に」
迷いなく答える。
「初姫高校に勝って、オレをバカにした奴らを見返したいんだ。オレだってやれるんだぞって」
「そっかそっか」
神崎が満足げな顔でオレの顔をスマートフォンのカメラで撮影した。
「なに人の顔、撮ってんだよ」
「いや、夢を語る人の顔はいつだってどこだって、綺麗な景色よりも輝いているものなんだよ。それを撮らないなんて勿体無いでしょう」
「なっ! 何を言ってんだよお前は! もういいから帰れよ!」
そう言われるとなんだか急に頭が、顔が、熱を帯びて爆発しそうなほどに恥ずかしくなってきた。
「ねえ!」
「今度はなんだよ!」
「君が勝つところ、私も見てみたいな」
「え?」
「だ、か、ら! 君が勝つところ、私に見せてって言ってるのよ」
「な、なんでお前なんかに!」
「それじゃあ、また明日!」
彼女は帰っていった。
帰り道、彼女は撮った写真のタイトルを考える。
「何がいいかなー?」
朝練するための早朝の登校中---
道端で写真を撮っている神崎を見かけた。
「あ、おはよう」
オレに気付いた神崎が声をかけてくる。
「お、おう」
彼女は丁度、桜をバックに猫の写真を撮っているところであった。
「風景写真とかも撮るんだな」
「そりゃあ、もちろん、写真家ですから」
彼女は自らを恥ずかしいがることもなく、堂々と胸を張って写真家と名乗るものの、彼女は別に写真部とかに属しているわけではないらしい。
完全なる趣味で写真を撮っている。
何故か自信満々な彼女であるため、彼女のことを変人だとバカにする生徒も多い。
彼女はよくオレの練習を冷やかしに来る変人なのだが、オレはどうしてか彼女をバカにする気にはなれなかった。同族だからだろうか。同族なら嫌悪するものだろう。なら、何故なのか。この気持ちは同族ではなく、同情なのだろうか。本当にそうなのだろうか。
「いつもこの時間に登校してるのか?」
「うん、そうだけど、それが何?」
「いや、何ってわけじゃないんだけれど」
「朝には朝にしか撮れない朝だけの顔があるんだよ。それを逃すわけにはいかない」
「写真家だから?」
「そう! よくわかったね」
彼女は嬉しそうに笑った。
不意の笑顔に少しだけ胸がドキッとした。
「そういう君は? こんな時間に珍しいね。朝練?」
「うん、もうすぐ試合シーズンになるから。追い込みをかけようかと思って」
「朝から夜まで精が出るね。そんな君の顔を一枚」
神崎がオレの顔を撮影する。
「だから、人の顔を撮るな」
「いいじゃない、減るもんじゃないし」
「減るよ!」
「何が?」
「なんかが!」
そんなやり取りを終えてオレは朝練に向かうのだった。
そうしてまた放課後がやってくる。
「そういえば、最近お前、神崎と仲良いよな」
月森がオレに言う。
「そうかな?」
「そうだろ。ひょっとしてお前ら付き合ってるのか?」
「そんなわけないだろ」
「そうなのか? でも、最近お前ら噂になってるぞ?」
「どんな噂だよ?」
「ぼっち同士仲良いってな」
「誰がぼっちだよ」
「ぼっちだろ、部員一人なわけだし」
「オレとアイツをひとまとめにするな」
「神崎もあの変人なキャラじゃなきゃ顔は良いし、モテると思うんだけどな。残念な美人ってやつだな、あれは」
神崎に対する月森の言葉をオレは返さなかった。
その日の練習は何故か集中できなかった。そんな中、サッカーボールや野球の球が身体に直撃する。
「どうしたの? なんか集中できてないね」
いつものようにうずくまっていると、いつものように神崎が姿を現す。いつもと何も変わらないはずなのに、どうしていつものように気持ちが晴れないのだろうか。
「なあ、一つ聞いていいか?」
「ダメ」
「なんでだよ」
「なに?」
「お前はどうして写真を撮るんだ?」
「あれ? 言ってなかったっけ?」
「何も聞いてねえよ」
「そうだっけ? このカメラ、まぁ見るからにアンティークなんだけれど、お父さんに買ってもらったカメラなんだよ」
どこか遠くを見るような目で神崎が語り始めた。
「どこにでもある一般的な家庭。それが神崎家だった。父親は会社員、母親は専業主婦だった。ある日、家族でフラワーガーデンに出かけた時、アンティークカメラを片手に一人旅をしていた女性に出会った。私はその人のことをカッコいいと思った。私もあんな風に生きてみたいって。だから、その手始めとしてお父さんにあの人と同じアンティークカメラをおねだりした」
「それで買ってもらったのか?」
「そう。その時の私はまだ小学生だったんだけれど、あまりに私がねだるものだからお父さんは根負けして買ってくれたんだ。それがこのカメラ」
神崎は手元のカメラを優しくペットを可愛がるように撫でた。
「このカメラを手に入れてからの私はまぁ多分想像できると思うけれど、とにかく片っ端から写真を撮りまくってた」
「ま、まぁ想像できるな」
「でしょ?」
彼女が困ったように笑う。
「大きな幸せもないけど、大きな不幸もない。ささやかな日常が永遠に流れていくかに見えた神崎家にとある不幸が訪れました」
オレは固唾を飲んで彼女の言葉に目をこらし、耳を傾ける。
すると、彼女の気持ちでも表したかのようにポツリポツリと雨が降り始まると、その勢いは増し、瞬く間にグラウンドに大きな水溜りを作り上げた。
グラウンドにいたオレたちは慌てて校舎に避難する。
雨に濡れた神崎は濡れた身体を気にすることなく続ける。
「なんと父親はリストラに遭い、会社をクビになりました。それ以来、父親は荒み、口を開いたかと思えば怒号。動いたと思えば暴力を振るうようになりました。それに耐えかねた母親は父親に離婚届を提出し、晴れて離婚が成立すると、今度は別の問題が」
彼女は自らの不幸話をまるで絵本でも読むかのような口調で話していく。
「なんだと思う?」
「え、」
「さて、ここで問題です。その問題とはなんでしょう?」
「親、権?」
「正解! 子供の親権問題が発生したのです。怒号に暴力と明らかに破綻した父親に女の子一人を預けられるわけもなく、当然、母親に親権が渡るものだと誰もが思ったでしょう。しかし、なんと母親は“疲れた”と親権を放棄したのでした」
「それじゃあ、お前は今どうしてるんだよ」
「私は今、母親の母親、祖母のところに預けられてるんだよ」
「そうだったのか」
「なに暗い顔してるの?」
「いや、だって、明るい話ではないだろ」
「まぁそれもそうだね。まぁそんなこんなで父親からのプレゼントはこのカメラが最後なんだ」
手元のカメラに視線を落とす。
「私もね、君と一緒なんだよ」
「?」
「もしかしたら、何かの拍子にまた両親が仲直りして、再婚して、家族が揃うことだってあるかもしれないって。君が部員たちの帰りを待ってるように、私も家族の帰りを待ってるんだ」
「そっか。待つのって大変だよな」
「ほんとそれ」
「「いつまで待たされんのかなって感じ」」
オレたちは無邪気に笑った。
その頃には雨は止み、夕日と共に虹がかかる。
この日を境に神崎との仲が深まったように思えた。
それからも練習の日々は続いた。
陸上部の練習は修行と呼ばれることがある。練習ではなく修行。己を身体を走り込みや筋トレでとにかくひたすらに追い込むこと。それこそが練習であり、それしか練習ではない速さを追い求める世界。目に見える成果のない日々は心が折れそうになる。ただ己を信じて鍛え上げるしかない修行の日々。それが報われるかどうかなんてわからない。報われないかもしれない。努力すれば報われるわけではないことはもうわかっている。だから、報われるまで努力し続けなければならないのだ。
走り込みを終え、グラウンドの隅で腰掛けていると、
「精が出るな」
という声が何処かから聞こえた。
声の主に目を向けると、そこには憧れの人が立っていた。元部長、卒業して大学生となった北瀬さんだった。
「部長!」
「部長はお前だろ」
「そう、でしたね……。先輩はもう知ってるんですね」
「まぁな。中峰から聞いたよ」
「連絡取ってるんですね」
「一応、中学からの付き合いだからな。しっかし、まさか部員がお前だけになってるとはなぁ」
「そうですよね、オレも想像できませんでした」
「一番辞めそうだったお前が残って部長とはな。なんだか感慨深い気がするよ」
「そうなんですか?」
「だってそうだろ? そもそも陸上をやってたわけじゃないお前が今は陸上に熱くなってるわけだ。それって凄いことだろ」
「は、はあ……」
「なんだか俺が一年生だった頃を思い出すよ」
「?」
「いや実はな、この陸上部は一年生の頃に俺と池城マネージャーの二人で始めたものなんだ」
「え、そうなんですか!?」
「たった二人で始まった陸上部だったから、よくまわりからバカにされたり、茶化されたりしてたもんだな。いつも放課後は二人で練習しているから、付き合ってるとかなんとかな」
「そうでしたか」
「今のお前はその時の俺によく似ている。だから、お前の気持ちもよくわかるんだよ。岡元たちが入部し始めたのは二年になってからのことだ」
「へぇー、これまたどうして?」
「岡元は変態だったからなー。自分を追い込むことができればなんでもよかったらしいんだが、うちの学校は武道系の部活がないだろ? それで己の身一つでできることってなった時に陸上部にしたんだとさ」
「そ、それは変態ですね……」
「だろ? よくあんな変態と一緒にやってたもんだ。色々あったが楽しかったよ。能羽での陸上部生活も。お前は一体どんな陸上部生活を送るのかな。まぁそれはそれとして、今日はお前に渡すものがあったんだ」
リュックサックからある物を取り出した。
「じゃーん」
と、袋を開け、中から出てきたのは北瀬先輩が試合で使用していた真っ赤に輝くスパイクと赤い鉢巻だった。
「これをオレに?」
「ああ、確かに陸上部は俺とマネージャーで発足したんだが、前にもあったらしい」
「というのは?」
「一度廃部になったってことだな」
「なるほど」
「俺もこのスパイクと鉢巻は顧問の先生から部の発足時に渡されたものなんだ。代々、陸上部のエースが引き継いできた大切な物だってな。これをお前に渡す」
「どうしてオレに?」
「どうしたってお前。お前しかいないからに決まってるだろ」
「それもそうですね」
「歴代、このスパイクを引き継いできたらしいが、このスパイクの持ち主とその部員たちは一度たりとも初姫高校を倒せたことはない。お前が俺たちの悲願を達成しろ」
「オレが」
「それじゃあ、確かに渡したからな」
そう言って北瀬先輩は帰路に着く。
「待ってください」
そんな先輩の背中をオレは呼び止めた。
「オレと一本だけ走ってくれませんか? 先輩と走ったことは一度もなかったので、スパイクを引き継いだ記念に」
「そう来なくっちゃな」
そして遂に記録会当日---
選手登録を済ませ、100メートル走の順番を静かに待つ。静かに待っているのはオレだけだった。
他校の選手たちは皆、仲間同士で激励し合っている。己を奮い立たせている。
それに比べてオレは顧問すら見に来ることはない。
「なに、しみったれた顔してんの」
どこか聞き覚えのある声がして慌てて振り抜くと、カメラを構えた神崎がいた。
「なんでお前がここにいるんだよ!?」
「なんでって、いい絵が撮れるんじゃないかと思って」
「いい絵ってお前……」
「せっかく美少女が応援しに来たんだから、もっと嬉しそうにしたらどうなの?」
「自分で美少女言うな」
「ちょっとは気持ちがほぐれた?」
彼女に返事を返そうとした時、100メートル走に出場する選手の招集が行われる。
「オレ、行かなきゃ」
そんなオレの腕を彼女が掴む。
歩みを止められたオレは少しだけ戸惑う。
「いい写真、撮らせてよね」
「こういう時って普通頑張れとかじゃないのか?」
「そっちの方が私らしいでしょ?」
「まぁそれもそうか」
「私は私らしく行くから。君は君らしく、勝てばいい。でしょ?」
「オレは、、オレらしく、か」
彼女の言葉を口の中で咀嚼する。
招集に合わせて、引き継がれた赤いスパイクを履く。
「そうだな。んじゃあまぁ、行ってくるよ」
「うんうん、いつもの顔だ」
彼女は笑顔でオレを送り出した。
《オンユアマーク》
聞き慣れた合図でスタート位置につく。
会場が静寂に包まれると、自分の心臓の音がうるさいくらいによく聞こえるようになった。
《セット》
あとは銃声を残すだけなのだが、自分がスタートに位置にいると、この時間がとても長く感じられる。待ちかねて聞こえるはずのない銃声を聞いて、フライングする人の気持ちもわかるというものだ。
『自分らしく勝て』
神崎に言われたことを思い出した時だった。
銃声が静まり返った空気に鳴り響く。
鳴った、なんてことは考えていない。鳴った時には身体が勝手に前へ前へと走り出していた。
前傾姿勢のまま風を切ってトップスピードまでギアを上げていくと、身体を起こして胸を張る。前を向いた時、視界には誰の姿もいない。先頭の景色。先頭だけが見ることを許される最高の景色。
このまま、このまま。ずっとこのまま。
球を追いかけることを辞め、ただ単純に速く走ることを追い求めてきたのは、この瞬間を味わうためだったに違いない。間違いない。
スピードの世界はあっという間にゴールを迎えた。
レースを終え、一位でゴールしたことは嬉しいことだが、それ以上に気になることがある。故に、それ故に、オレは電光掲示板を凝視する。目を凝らす。
オレの付けていたゼッケン番号と共にタイムが表示される。
《10.98》
電子的な文字で表示されていた。
「やった、、、よし、よし、よし」
上手く上手に言い表せない喜びが頭の先から足の先という身体中を支配していた。
「やったじゃん」
神崎がカメラを首からぶら下げて言う。
「カッコよかったよ」
「お、おう」
「なに、照れてんの? らしくないなー」
「べ、別に照れてなんかない!」
「本当に?」
「本当だよ!」
「まぁでも、毎日一人で頑張った甲斐があったね」
「でも、まだこれからだ。今日のこの日はスタートラインに立っただけ。オレの目標は」
「初姫高校を倒すこと、だったかな?」
「うん。だから、今日は目標に向けての第一歩なんだよ」
「そっか。じゃあ、第一歩の記念」
彼女はそう言うと、迷うことなくオレの写真を撮った。
「だから、撮るなっての」
「ええー、いいじゃん別に」
オレはまだ知らない。
この会場に能羽の陸上部員が二人見に来ていたこと、そしてこの先に待ち受けていることも。
それからの記録会でも安定した10秒台をマークすることができるようになり、もうすぐインターハイ地区予選が開催されようかという頃。
「よう」
「金松か。戻ってくる気になったのか?」
「今度のインターハイ予選、俺も出るから。それを伝えにきただけだ。お前、北瀬さんと岡元さんのタイムを超えたみたいだしな」
「それがなんだって言うんだよ?」
「お前倒して、俺が能羽最速になるんだよ」
「練習にも来ないお前がそんなことできるわけ」
「できるさ」
「?」
「確かに俺は部の練習には参加していない幽霊部員だが、別に特訓していないわけじゃない」
「独自にトレーニングしてたってことか?」
「そうだ。だから、俺はお前を超える」
「………」
返す言葉が思いつかない。
「俺が能羽最速になって能羽の悲願である初姫の打倒を達成する。どっちが悲願を達成するに相応しいか勝負だ。逃げるなよ」
一方的に言い残して金松は姿を消した。
「一緒に戦うってのじゃダメなのか……?」
オレはボソリとつぶやいた。
金松がいなくなって間も無くして、いつものように、いつも通り、神崎がやってきた。
「ん? なんかあった?」
「えっと」
「元気ないじゃん」
「そう見えるか?」
「うん、そう見える」
「そっかあ」
オレは事の顛末を神崎に話すことにした。
「そんなことがあったんだ」
「おかしいよな。帰ってきて欲しいって思ってた部員がまさかこんな形で戻ってくることになって。オレはそれを素直に喜べない」
深いため息が抑えきれない。
「なんでこんなことになっちゃったんだ」
「私には君の気持ちがわからないのだけれど、でも、励ますことはできる」
「え?」
「今日は練習をオフにして、遊びに行こっ?」
「いや、でも、試合近いし、練習しないと」
「そんな状態で練習したって身に付かないし、集中できてない時はかえって危ないよ。もしかしたら怪我するかも」
「それはそうなんだけど」
「でしょ? なら、今日は思いっきり遊んで、今日をちゃんと切り替えて、明日の自分に頑張ってもらうんだよ。ほら、陸上のリレーのバトンと一緒だよ」
「お前って本当に変わってるよな」
「そうかな?」
「そうだよ。でも、ありがとう。今日はやめておこう」
「よおし、そうと決まれば出発だね」
「それでどこに行くんだよ?」
「特に決めてないけど。思いつきで言っただけだし」
「そうなのか」
肩の力が抜けた気がした。
彼女はどうやら本気でオレのことを元気付けるためだけに行動を起こしてくれたようであった。
「じゃあ、ショッピングでも行こうかな」
「わかった」
そうやって訪れたショッピングモール。
「何か買いたいものでもあるのか?」
「うーん、服とか? そうだ! せっかくだから。君が私の服をコーディネートしてみてよ」
「え」
「なにその嫌そうな顔」
「いや、嫌そうじゃない。嫌なんだ」
「どうして?」
「どうしてって、センスがないからに決まってるだろ」
「そんなのやってみないとわからないじゃん。案外、そういうのに向いてたりするかもよ?」
「うーん………」
半ば押し切られる形でオレは彼女の服を選ぶことになった。
試着室で着替え終えた彼女がカーテンを明け、姿をオレに見せる。
「フリルブラウスにロングスカート。へぇー、君はこういう服の子が好みなのかー」
「ち、違っ! そういうことじゃ」
「いいのよ、いいのよ、好みは人それぞれなのだから」
「変な言い方やめろ!」
「何も恥ずかしがることはないのよ」
神崎の穏やかな顔と口調がオレを苦しめる。
「だから、違うって!」
「それで?」
「それでって?」
「似合ってる?」
「そ、それは」
「それは?」
「に、」
「に?」
「似合ってる、と、思う、」
「そっかー、似合っちゃってるのかー」
「なんだよ」
「ううん、なんでもないよ」
試着室を出ると彼女は迷うことなく真っ直ぐにレジへと向かった。
「すいませーん、この服買います」
「え、おい、いいのか?」
「うん、私も気に入ったし」
「………」
呆然とするオレをよそに彼女は会計を進めていく。
「この服、このまま来て行ってもいいですか?」
「かまいませんよ。それでは、タグを切らせていただきますね」
「ありがとうございます」
彼女は本当にオレの選んだ服を購入してしまった。
「本当にそんな服でよかったのか?」
「ええー、そんな服って言い方もないでしょう。私は結構気に入っているよ?」
「オレが適当に選んだ服なのにか?」
「適当? 逆に本当かなー? 私には君がちゃんと選んでくれたように思うのだけれど。違う?」
「違う!」
「まぁそれならそれでもいいんだけれど」
彼女の不敵な笑みがこちらに向けられる。
「今日はありがとう。私の遊びに付き合ってもらって」
満足げな彼女を見て我に返る。
「いや、違う」
「まだ何か違うの?」
「ああ、違う」
「何が?」
「お礼を言うのはオレの方だ」
「どうして?」
「オレの気分転換に君が付き合ってくれたからだ」
「あれ? そうだっけ?」
「そうだよ。ありがとう」
「ふふっ、どういたしまして。まわりの世界がどうなっても、君は君らしく君の世界を生きればいい」
「オレの世界」
「そうだよ。人は皆、自分の世界があるんだよ。あれが好きとか、これが嫌いとか、それは全て自分を作っている大事なこと。つまり世界なんだ。そんな自分の世界を生きているのだから、自己を優先して当たり前だし、自己中心的になるのも当然と言えば当然だ。それでも、人は誰かと世界を共有したい生き物でもあるんだから、面倒な生き物だよね。だからね、私は風景じゃなくて、その人のその人が持っている世界を撮りたいんだよ。今はね、君の世界が気になるんだ。速さの世界で生きる男の世界。今の顔、一枚、いただき!」
シャッター音が鳴る。
これは暑くてでもまだ風は冷たくて、そんな夏の一枚だった。
それからまた何日かの時が過ぎたある日のこと。
何やら人通りの少ない階段の踊り場で騒がしい声が鳴り響いていた。
オレも偶然そこに通りかかることになった。
「アンタ、何?」
「何って何が何? 何が何だかさっぱりなのだけれど」
「舐めた口聞きやがってよ」
「いや、舐めてるというか、事実を言っているだけだけれど。私に何か用なの?」
口論になっていたのは、元陸上部のマネージャーである植木侑香と神崎だった。
「最近アンタ、アイツと仲良いみたいじゃない」
「アイツって誰?」
「アイツはアイツだよ!」
「ああ、彼ね。別に私が誰と仲良くなろうと私の勝手じゃないかしら」
「はあ? 関係大アリなんだけど」
「意味わからん」
彼女は自分でそう言ったものの、すぐに植木の言葉の意味を理解したかのように続けて話す。
「ああ、そういうことね。好きなんだ。彼のことが。そんなに好きなら今すぐ陸上部に戻ってあげたら? 彼も戻ってきてくれること願ってるみたいだし、脈あるんじゃない?」
「ムカつく女!」
植木は怒りのまま、神崎が首から下げていたカメラを強引に奪い取る。
「ちょっ、それだけはダメ! 返して!」
「アンタなんてこうしてやる!!」
植木が何をしようとしているのかなんてことはすぐにわかった。
オレは慌ててそれを止めに入ろうとするが、時はすでに遅かった。
植木はカメラを地面に強く壊れるようにという悪意を込めて投げつける。
カメラはいとも容易く無数の破片を飛び散らせ破壊された。
「おい、何やってんだよ!」
たまらずオレは植木に怒鳴り声を上げる。
「なんでここに」
植木が驚いたような声で答える。
「たまたま通りかかったんだ。植木、お前はそんな奴じゃなかっただろ? どうしてこんな酷いことをするんだ」
「なにそれ、アンタたちが仲良くしてるからでしょ! 私の気持ちも知らないで!」
「いなくなったんだからわかるわけないだろ」
「止めて欲しかったのに!!」
植木はどうやら本気で辞める気はなかったようだった。しかし、だがしかし、オレの制止が弱かったようで植木は辞めざるを得ない状態に陥ってしまったのだったという。
「本気で辞める気はなかったのに!」
「だったら、今からでも間に合うだろ。こんなことしなくたって、オレはいつでもみんなの帰りを待ってるよ!!!」
「もう無理じゃん!!」
泣き叫んで植木は走り去っていった。
本当なら彼女を追いかけなければならないのだろうが、今はそれどころではない。今は神崎のことが何よりも心配だったからだ。
「大丈夫か?」
「追いかけなくていいの? 君が何よりも大事に思ってきた部員だよ?」
「追いかけないさ」
「そう」
地面に無惨に叩き付けられ、酷く壊れたアンティークカメラを見下ろしながら彼女は重々しく口を開く。
「そういえばね、お父さんからお母さんに連絡があったんだ。それから私にも」
「え、」
「すぐに前みたいにはいかないだろうけど、また家族三人でやり直していきたいって」
「それはよかったじゃないか! 待った甲斐があったってもんだ!」
「うん、そうだね」
「あまり嬉しそうじゃないけど、何かあったのか?」
「私ね、この町から引っ越すことになったんだ」
「は、え? あ、え?」
「お父さん、今こことは別の県で働いているらしくて、そこに来て欲しいって言われてるんだ」
「学校はどうするんだよ?」
「もちろん、転校する」
「そんな、、」
「なに、こんな私を寂しがってくれるの?」
彼女はオレの顔を見ると、いつものように笑って見せた。けれど、その笑顔はとても無理をしている。
「さ、さ、寂しいわけないだろ」
「そうだよね、君は私なんかに気を取られてる暇ないもんね」
「そ、そうだよ。オレはお前なんか!」
「言ってくれるじゃん。しっかし、カメラが壊されて父親との思い出がなくなったかと思えば、まさかそんな父親とやり直せるチャンスが貰えるなんて、まさに人生、山あり谷ありだね。すごいね、私の世界も」
「それでいつ引っ越すんだよ」
「善は急げってことでもう来月からだって。だから、もうすぐお別れだね」
「そうなるのか」
「そうなるね」
「お、お、お、お前がい、いなくなって清々するよ」
どうして正直に思っている言葉を彼女に言えないのだろうか。
「そっか」
彼女は力なくその言葉だけを吐き出すと、壊れたカメラを拾い始めた。
オレも手伝いをしようとするが、彼女がそれを止めた。
「触るな」
「おい」
「いいから。あっちいけ」
「………わかった。ごめん」
記録会で思うように記録が出なくなった頃、もう間も無くしてインターハイ地区予選が開催されようかという中、神崎の転校も迫っていた。
教室の窓から外を眺めているカメラを失った彼女は普通の女子高校生になった。と、言えば聞こえはいいのかもしれないが、オレにはどちらかと言えば輝きを失ったもぬけの殻のように見えた。
彼女から見た部に一人だけ残されてしまったオレも、今の彼女のように見えていたのだろうか。
オレは彼女に勇気付けられたにも関わらず、オレは彼女に何もしてあげられないことが、歯痒かった。
カメラが壊れたあの日以来、オレは神崎と話していない。部活にも姿を現さなくなった。
どうしてオレはこんなにも彼女のことを考えているのだろうか。そんなことを考えながら、あることを思い付いた。
いよいよ、今日で神崎がいなくなるその日、オレは神崎を呼び止める。
「神崎」
「どうしたの? 君から声をかけてくれるなんて今までで初めてじゃない? 最初で最後、かな」
「お前に渡したいものがあるんだ」
オレは部活の合間を縫って短期バイトで貯めたお金で買ったカメラを神崎に渡す。
「これ、どうしたの?」
「オレからの餞別だ」
「え?」
「これからもカメラでお前にしか撮れない世界を映してくれ」
神崎はオレの手からカメラを受け取る。
「私にしか撮れない世界、か。カメラを貰うのは人生で二度目だ。二人とも私にとってとても大切な人。大好きな二人」
彼女はカメラを抱き締める。
「ありがとう。大切にするね。でも、どうして私のためにここまで? 私のこと煙たがってたじゃない」
「最初は本当にウザい奴だと思ってたさ。野球部やサッカー部、その他諸々のオレをバカにする奴らと変わらない冷やかしでオレの写真を撮ってるんだろうってな。でも、時間が経つにつれて、お前のことを知るにつれて、その気持ちは変わっていった。そんな時、お前のカメラが壊れて、お前の引っ越しが決まって、お前の苦しい姿を見て、オレはずっとお前のことを考えていることに気が付いたよ。オレも君のことがいつの間にか好きになってたんだ」
「好きって。友達として? それとも異性として?」
「異性としてに決まってるだろ」
「そっか。嬉しい。私も最初は君なんてただの被写体ぐらいにしか思ってなかったんだよ」
「酷い言われようだな」
「ふふっ。でもね、一枚だけいい写真が撮れたんだ。見る?」
そう言って彼女はカバンから一枚の写真を取り出した。そこには夕暮れ時、日没がすぐそこに迫るほどの遅い時間まで行っていた練習中の紫がかった夕日をバックにしたオレの横顔だった。
「この写真、よく見て」
「ん?」
「泣いてる」
「な!? 泣いてない!!」
「汗と涙。部員を失おうとも未来を信じて走る男の子の等身大の姿。普通なら投げ出したって、投げやりになったっておかしくない。それでも前だけを見ているこの写真に映る君に惚れたんだ。私は。だから、私は執拗に君に付き纏うことにしたんだ。いい写真が撮れると思って」
「結局、写真のためじゃねぇかよ」
「嘘嘘。冗談だよ。見てみたくなったんだ。隣で。一緒に。君の世界を。私は君と世界を共有したかったんだ」
「そっか。そうだったのか。好きです、付き合ってください。。。もう、遅いかな?」
「うん、遅い。ごめんなさい。その申し出は受けられません」
「だよな」
「でも、一つだけ救済措置があります」
神崎が人差し指を立て、一を表示する。
「私と連絡先を交換すること」
「そうだな。そういえば、オレたちってまだ連絡先も交換してないんだっけ」
あまりに遅い恋の始まりと終わりに笑いながらオレたちは連絡先を初めて交換した。
「それで、これが救済措置なのか?」
「いいえ、違います」
「それじゃあ、なに?」
「この連絡先に連絡をしてはなりません」
「じゃあ、なんで交換したんだよ!?」
「この連絡先に連絡できるかどうかは君次第」
「オレ次第?」
「そう。君が日本代表になった、その時に初めて連絡することを許します」
「日本代表!? オレが!? いや、そこまでは考えなかったかも……」
「じゃあ、考えてください。私のために」
「神崎のために」
「うん。待ってるよ」
「わかった。やってみるよ」
これがオレと彼女の最後の会話になった。
インターハイ地区予選会当日、この町にもう神崎紫織はいない---
「逃げずに来たか」
金松と控え室で再会する。
「俺とお前は同じレースだ。勝った方が決勝で初姫と戦うことができる」
「オレはお前にだけは負けない」
「いいぜ。かかってこいよ」
招集が行われ、オレと金松はついにスタート位置に並び立つ。
《オンユアマーク》
《セット》
銃声と共に走り出す。
金松は想像以上に速かった。
並ばれている。もしかすると、金松の方が少しだけ前にいるのかもしれない。
負けない。負けたくない。
違うそうじゃない。負けから始まる言葉じゃダメだ。勝ちたいでもない、勝つんだ。
どちらが勝ったかどうかは最後の最後までわからなかった。それほど実力が拮抗していたということだった。
勝負を決めるのは電光掲示板。
オレと金松が息切れの中、電光掲示板を見守る。
電光掲示板の文字が動く。そこには一着にオレの数字が表示され、二着に金松が表示されていた。
「くそ! なんでだ! なんだ俺は勝てない!!」
「強かったよ。本当に」
「なんだよ、勝ち逃げか」
「違うそうじゃないさ。またさ、一年の時みたいに一緒に走れないのか? オレたちは」
「なんだと?」
「オレはまたみんなと一緒に走りたいんだ。もちろん、お前とも。オレに走ることの楽しさを教えてくれたのはお前だったじゃないか! オレはお前と一緒に強くなりたいんだ!」
「くそが!」
吐き捨てたあとで、金松は、
「考えといてやるよ」
つまりはツンデレなのであった。
「ありがとう、金松。初姫はオレが倒す」
決勝進出を決め、初姫高校のユニフォームを身につけた選手を発見する。
「なんだよ? そんなに睨むなよ。俺なんかしたか?」
初姫高校の選手がオレを見て言う。
「オレはアンタたちを超えることが夢だった。いや、違うな。それはオレの夢じゃない」
「はあ?」
「お前たちはオレの夢の通過点だ」
「言ってくれるねぇ。んじゃあ、この決勝で勝負だ」
「望むところだ」
控え室での待機時間。
決勝の出場選手たちはそれぞれのマネージャーやら、同じ部の選手やらに鼓舞されている。
しかし、だがしかし、オレには相変わらず誰もいない。
「なあ、オレ勝てるかな? 神崎。君に会いたいよ」
「なに、しみったれた顔してるんだか」
いつかそんなことを言われたような気がして、思わず一人で笑ってしまった。
「オレはオレらしく勝てばいいんだよな。勝って約束を守るよ。必ずだ」
オレは北瀬先輩から託された真っ赤な鉢巻を取り出す。鉢巻には小さな文字で何か書かれている。
「これって北瀬先輩の字だ」
鉢巻には、
『勝つことよりも走ることを楽しめ』
と、書かれている。
鉢巻とスパイクをもらったあの日、北瀬先輩と勝負した後に言われたことを思い出していた。
---
「お前は誰よりも楽しそうに走るよな」
「そうですかね?」
「そうだとも。それはとてもいいことだ。勝負ってのは強い方が勝つんじゃない。ノリに乗ってる方が勝つんだ。だから、流れってのが大事になるわけだな。お前なら勝てるかもしれないな勝負に」
---
鉢巻を頭に巻きつけ、しっかりと気合いが入るように力強く縛る。
「みんなの力でオレは勝つ」
クラウチングスタートの体勢に入ると、いつもとは違う怖さに襲われた。緊張しているのだった。
北瀬先輩と岡元先輩と今同じ舞台に立っていることに緊張しているのだった。
そんな中、観客席ではというと、植木とその横で野球帽にサングラスをかけたいかにもお忍びな女の子が席に座った。
「あ、植木」
「げっ、神崎。なんでアンタがここにいんのよ」
「そりゃあ、好きな男が走るから見に来たに決まってるでしょう」
「相変わらず、ムカつく女」
「まぁまぁ、そんなこと言ってないで、ほら、始まるよ」
《セット》
その音が全てを黙らせる。
オレは鳴っていない銃声を聞いて走り出した。
フライングをしてしまったのだ。
「警告。次は失格です。気を付けて」
「すいません」
様子を見ていた神崎が呟く。
「らしくないことをしているな。ダメだ、君は君らしくないと」
そう言って、神崎は席から立ち上がり、大きな声で叫んだ。
「君は君らしく勝て!!!」
その声はよく聞こえた。
そして何よりも聞きたかった声だった。
《セット》
銃声と共に走り出す。
何も考えられずに無我夢中で走っていた。気が付いた時にはレースは終わっていて、電光掲示板に結果がデカデカと載せられている。
オレの勝利が。
「勝った? オレが勝ったのか?」
実感湧かない勝利に呆然と立ち尽くしていると、
「おい!」
と、声をかけられた。
神崎紫織だった。
「なんでここにいるんだよ? 幻覚か? てか、オレ勝ったのか。え、なに、どうなってんだ? 夢?」
「夢じゃない」
「そっか! 夢じゃないのか! やった! 勝った! オレの勝ちだ!!」
勢い余って神崎を持ち上げる。
「ちょっと! 君、はしゃぎすぎだ!! おろせ!!」
彼女を下ろすと、彼女は少し怒っている。
「もうまだ道半ばなのにはしゃぎ過ぎだ君は」
「ごめん……」
「でも、今日はよく頑張った。だから、ご褒美をあげる」
「え?」
呆気に取られていると、彼女の唇がオレの唇に重なった。
「引き続き励むように」
「お、おう」
「すいませーん」
何が起きたのかわけがわからないでいると、神崎が通りがかった運営スタッフにカメラを預け、撮影をお願いしている。
「何してんだよ?」
「ほら、そこに立つ」
「ここ?」
「そうそこ。いいですよ、お願いします」
カメラマンに合図を送ると、カメラマンが
「それじゃあ、撮りますよー」
そう言ってシャッターが切られた。
「そういえば、この間見せた写真」
「ああ、オレの?」
「そうそう、あれ金賞取ったから」
「へぇー、えええ!!?」
「すごいでしょ?」
「凄いな!」
「タイトルはね」
《たった一人の勇者》
fin.
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