36 / 71
34 別れ
しおりを挟む
マハ王国の王位継承権を持つ者だけが使える秘術があった。
マハの大地より聖なる気を集め、口づけにより相手に気を送り込み、重篤な病をも癒す術だ。
ただし、マハ王国では口づけは婚姻相手のみ許される聖なる儀式とされていたため、この術も婚約者か配偶者のみに発動が許可されるものだった。
私は王太子とは婚姻できない運命だ。それなのにこの術を使ってしまった。もうここにはいられない、と翡翠は去る覚悟を決めていた。
「王女!!!!」
あの術のおかげで、すっかり回復した王太子が翡翠の部屋に飛び込んできた。
「あの、王女が、その──」
侍女たちに聞いたのだろう。銀光をまとった翡翠の口づけにより王太子が劇的に回復したいきさつを。
「感謝する。王女のおかげだ」
紅潮する顔で興奮気味に語る言葉はよく分からなかったが、自分に感謝を述べているのだろう。再び王太子の元気な姿を見ることができて翡翠は涙が出そうになるのをこらえながら、やっとの思いで微笑んだ。
「なぜ、悲しげなのだ?」
王太子は翡翠の異変を敏感に察知した。目に力がない。どうしたのだ。あの不思議な術を使い疲れているのか?
王女、と言いかけたところで、翡翠が何かマハ語で語り始めた。王太子はマハ語を理解できない、はずだった。
その時、わんわんと耳の奥でずっと聞こえていたような歪んだ音が、さあっと晴れる感覚がおりてくる。
それと同時に、頭に雷のごとく閃いてきたある光景。
威風堂々たる玉座に座すマハ王。並んで粛然たる美しき王妃。その周りに第一王子から第五王子までが一堂に介している。第三王子と第四王子との間に、凛とした佇まいの王女が座っている。
絹糸のようになめらかな黒髪に深い湖水のように透き通った緑眼。
そうだ、なぜ私は忘れていた? 王女は、古来よりこの大陸を統べ守って来たマハ王家の姫だ。
いつの間にか王太子は自然と翡翠の前で両膝をつき、神にも等しい存在に対して臣下の礼を取っていた。
自分が15歳になったとき、拝謁を賜るため、マハの王宮を訪ねていたではないか。まだ13歳の王女に見とれるあまり、マハ王に頭を垂れるのが遅れ、肝を冷やしたのではなかったか。
どうして自分達は、高貴なるマハ王家を蛮族などと思い込んでいたのか──!?
ひりつくように当時の記憶が蘇るのと同じくして、翡翠のマハ語がその耳にだんだんと聞こえてきた。
<……殿下。私……去ります。マハの禁忌、犯……した。あなた……こと……私……愛し始め……とても苦し──>
え? と顔をあげたとき、すでに翡翠の姿はどこにもなかった。
∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
王太子の目には翡翠が消えたかのように見えただろうが、厳密には翡翠は消えていなかった。空気に溶けこんだだけであった。
王太子に施した癒しの術は大変な体力を消費した。マハの聖なる気の力を使い、自身の魂を削って相手に与えるという秘術なのだ。
マハ王家の者は半神のような存在であるため、体力を大量に消費した時、人の姿を保てず、一時的に霊体のような姿になることがある。翡翠は今、その状態にあった。
このままここから立ち去り、マハに帰ろう。父上と母上の待つ愛しき祖国へ。
目の前から突然消えた翡翠を必死に探し始めた王太子をしばらく目で追った後、気持ちを断ち切るように背を向け、翡翠は風に乗って王宮から離れ始めた。
遠ざかる王宮。
たまらず振り返ると、庭園の銀木犀に目が止まった。銀木犀の前に降り、見上げる。王太子との思い出の木だ。さまざまなふたりの思い出が胸に去来し、翡翠の頬に幾筋もの涙が伝っては落ちた。
∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
兵や侍女たちと共に王宮中を必死に探し回った王太子が再び翡翠の部屋に戻った時、床に一枝の銀木犀が置かれているのに気づく。
王太子はよろよろと床に座り込み、銀木犀の枝を手に取る。去ったのか──王太子はそう悟った。
うずくまる王太子の悲しげな嗚咽はしばらく止まなかった。
涙をこらえながら高い空に向かっていく翡翠の霊体。もう王宮を振り返ることはなかった。
銀木犀の花言葉は、”初恋”──
殿下
私たちはいつの頃からか
決して実ることのない初恋を
ただひたすらに
追いかけていたのかもしれない──
マハの大地より聖なる気を集め、口づけにより相手に気を送り込み、重篤な病をも癒す術だ。
ただし、マハ王国では口づけは婚姻相手のみ許される聖なる儀式とされていたため、この術も婚約者か配偶者のみに発動が許可されるものだった。
私は王太子とは婚姻できない運命だ。それなのにこの術を使ってしまった。もうここにはいられない、と翡翠は去る覚悟を決めていた。
「王女!!!!」
あの術のおかげで、すっかり回復した王太子が翡翠の部屋に飛び込んできた。
「あの、王女が、その──」
侍女たちに聞いたのだろう。銀光をまとった翡翠の口づけにより王太子が劇的に回復したいきさつを。
「感謝する。王女のおかげだ」
紅潮する顔で興奮気味に語る言葉はよく分からなかったが、自分に感謝を述べているのだろう。再び王太子の元気な姿を見ることができて翡翠は涙が出そうになるのをこらえながら、やっとの思いで微笑んだ。
「なぜ、悲しげなのだ?」
王太子は翡翠の異変を敏感に察知した。目に力がない。どうしたのだ。あの不思議な術を使い疲れているのか?
王女、と言いかけたところで、翡翠が何かマハ語で語り始めた。王太子はマハ語を理解できない、はずだった。
その時、わんわんと耳の奥でずっと聞こえていたような歪んだ音が、さあっと晴れる感覚がおりてくる。
それと同時に、頭に雷のごとく閃いてきたある光景。
威風堂々たる玉座に座すマハ王。並んで粛然たる美しき王妃。その周りに第一王子から第五王子までが一堂に介している。第三王子と第四王子との間に、凛とした佇まいの王女が座っている。
絹糸のようになめらかな黒髪に深い湖水のように透き通った緑眼。
そうだ、なぜ私は忘れていた? 王女は、古来よりこの大陸を統べ守って来たマハ王家の姫だ。
いつの間にか王太子は自然と翡翠の前で両膝をつき、神にも等しい存在に対して臣下の礼を取っていた。
自分が15歳になったとき、拝謁を賜るため、マハの王宮を訪ねていたではないか。まだ13歳の王女に見とれるあまり、マハ王に頭を垂れるのが遅れ、肝を冷やしたのではなかったか。
どうして自分達は、高貴なるマハ王家を蛮族などと思い込んでいたのか──!?
ひりつくように当時の記憶が蘇るのと同じくして、翡翠のマハ語がその耳にだんだんと聞こえてきた。
<……殿下。私……去ります。マハの禁忌、犯……した。あなた……こと……私……愛し始め……とても苦し──>
え? と顔をあげたとき、すでに翡翠の姿はどこにもなかった。
∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
王太子の目には翡翠が消えたかのように見えただろうが、厳密には翡翠は消えていなかった。空気に溶けこんだだけであった。
王太子に施した癒しの術は大変な体力を消費した。マハの聖なる気の力を使い、自身の魂を削って相手に与えるという秘術なのだ。
マハ王家の者は半神のような存在であるため、体力を大量に消費した時、人の姿を保てず、一時的に霊体のような姿になることがある。翡翠は今、その状態にあった。
このままここから立ち去り、マハに帰ろう。父上と母上の待つ愛しき祖国へ。
目の前から突然消えた翡翠を必死に探し始めた王太子をしばらく目で追った後、気持ちを断ち切るように背を向け、翡翠は風に乗って王宮から離れ始めた。
遠ざかる王宮。
たまらず振り返ると、庭園の銀木犀に目が止まった。銀木犀の前に降り、見上げる。王太子との思い出の木だ。さまざまなふたりの思い出が胸に去来し、翡翠の頬に幾筋もの涙が伝っては落ちた。
∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
兵や侍女たちと共に王宮中を必死に探し回った王太子が再び翡翠の部屋に戻った時、床に一枝の銀木犀が置かれているのに気づく。
王太子はよろよろと床に座り込み、銀木犀の枝を手に取る。去ったのか──王太子はそう悟った。
うずくまる王太子の悲しげな嗚咽はしばらく止まなかった。
涙をこらえながら高い空に向かっていく翡翠の霊体。もう王宮を振り返ることはなかった。
銀木犀の花言葉は、”初恋”──
殿下
私たちはいつの頃からか
決して実ることのない初恋を
ただひたすらに
追いかけていたのかもしれない──
1
お気に入りに追加
106
あなたにおすすめの小説
婚約破棄された検品令嬢ですが、冷酷辺境伯の子を身籠りました。 でも本当はお優しい方で毎日幸せです
青空あかな
恋愛
旧題:「荷物検査など誰でもできる」と婚約破棄された検品令嬢ですが、極悪非道な辺境伯の子を身籠りました。でも本当はお優しい方で毎日心が癒されています
チェック男爵家長女のキュリティは、貴重な闇魔法の解呪師として王宮で荷物検査の仕事をしていた。
しかし、ある日突然婚約破棄されてしまう。
婚約者である伯爵家嫡男から、キュリティの義妹が好きになったと言われたのだ。
さらには、婚約者の権力によって検査係の仕事まで義妹に奪われる。
失意の中、キュリティは辺境へ向かうと、極悪非道と噂される辺境伯が魔法実験を行っていた。
目立たず通り過ぎようとしたが、魔法事故が起きて辺境伯の子を身ごもってしまう。
二人は形式上の夫婦となるが、辺境伯は存外優しい人でキュリティは温かい日々に心を癒されていく。
一方、義妹は仕事でミスばかり。
闇魔法を解呪することはおろか見破ることさえできない。
挙句の果てには、闇魔法に呪われた荷物を王宮内に入れてしまう――。
※おかげさまでHOTランキング1位になりました! ありがとうございます!
※ノベマ!様で短編版を掲載中でございます。
婚約破棄されて辺境へ追放されました。でもステータスがほぼMAXだったので平気です!スローライフを楽しむぞっ♪
naturalsoft
恋愛
シオン・スカーレット公爵令嬢は転生者であった。夢だった剣と魔法の世界に転生し、剣の鍛錬と魔法の鍛錬と勉強をずっとしており、攻略者の好感度を上げなかったため、婚約破棄されました。
「あれ?ここって乙女ゲーの世界だったの?」
まっ、いいかっ!
持ち前の能天気さとポジティブ思考で、辺境へ追放されても元気に頑張って生きてます!
身代わりの公爵家の花嫁は翌日から溺愛される。~初日を挽回し、溺愛させてくれ!~
湯川仁美
恋愛
姉の身代わりに公爵夫人になった。
「貴様と寝食を共にする気はない!俺に呼ばれるまでは、俺の前に姿を見せるな。声を聞かせるな」
夫と初対面の日、家族から男癖の悪い醜悪女と流され。
公爵である夫とから啖呵を切られたが。
翌日には誤解だと気づいた公爵は花嫁に好意を持ち、挽回活動を開始。
地獄の番人こと閻魔大王(善悪を判断する審判)と異名をもつ公爵は、影でプレゼントを贈り。話しかけるが、謝れない。
「愛しの妻。大切な妻。可愛い妻」とは言えない。
一度、言った言葉を撤回するのは難しい。
そして妻は普通の令嬢とは違い、媚びず、ビクビク怯えもせず普通に接してくれる。
徐々に距離を詰めていきましょう。
全力で真摯に接し、謝罪を行い、ラブラブに到着するコメディ。
第二章から口説きまくり。
第四章で完結です。
第五章に番外編を追加しました。
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
婚約破棄から始まる恋~捕獲された地味令嬢は王子様に溺愛されています
きさらぎ
恋愛
テンネル侯爵家の嫡男エドガーに真実の愛を見つけたと言われ、ブルーバーグ侯爵家の令嬢フローラは婚約破棄された。フローラにはとても良い結婚条件だったのだが……しかし、これを機に結婚よりも大好きな研究に打ち込もうと思っていたら、ガーデンパーティーで新たな出会いが待っていた。一方、テンネル侯爵家はエドガー達のやらかしが重なり、気づいた時には―。
※『婚約破棄された地味令嬢は、あっという間に王子様に捕獲されました。』(現在は非公開です)をタイトルを変更して改稿をしています。
お気に入り登録・しおり等読んで頂いている皆様申し訳ございません。こちらの方を読んで頂ければと思います。
聖獣の卵を保護するため、騎士団長と契約結婚いたします。仮の妻なのに、なぜか大切にされすぎていて、溺愛されていると勘違いしてしまいそうです
石河 翠
恋愛
騎士団の食堂で働くエリカは、自宅の庭で聖獣の卵を発見する。
聖獣が大好きなエリカは保護を希望するが、領主に卵を預けるようにと言われてしまった。卵の保護主は、魔力や財力、社会的な地位が重要視されるというのだ。
やけになったエリカは場末の酒場で酔っ払ったあげく、通りすがりの騎士団長に契約結婚してほしいと唐突に泣きつく。すると意外にもその場で承諾されてしまった。
女っ気のない堅物な騎士団長だったはずが、妻となったエリカへの態度は甘く優しいもので、彼女は思わずときめいてしまい……。
素直でまっすぐ一生懸命なヒロインと、実はヒロインにずっと片思いしていた真面目な騎士団長の恋物語。
ハッピーエンドです。
この作品は、他サイトにも投稿しております。
表紙絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品(写真ID749781)をお借りしております。
求職令嬢は恋愛禁止な竜騎士団に、子竜守メイドとして採用されました。
待鳥園子
恋愛
グレンジャー伯爵令嬢ウェンディは父が友人に裏切られ、社交界デビューを目前にして無一文になってしまった。
父は異国へと一人出稼ぎに行ってしまい、行く宛てのない姉を心配する弟を安心させるために、以前邸で働いていた竜騎士を頼ることに。
彼が働くアレイスター竜騎士団は『恋愛禁止』という厳格な規則があり、そのため若い女性は働いていない。しかし、ウェンディは竜力を持つ貴族の血を引く女性にしかなれないという『子竜守』として特別に採用されることになり……。
子竜守として働くことになった没落貴族令嬢が、不器用だけどとても優しい団長と恋愛禁止な竜騎士団で働くために秘密の契約結婚をすることなってしまう、ほのぼの子竜育てありな可愛い恋物語。
家出したとある辺境夫人の話
あゆみノワ@書籍『完全別居の契約婚〜』
恋愛
『突然ではございますが、私はあなたと離縁し、このお屋敷を去ることにいたしました』
これは、一通の置き手紙からはじまった一組の心通わぬ夫婦のお語。
※ちゃんとハッピーエンドです。ただし、主人公にとっては。
※他サイトでも掲載します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる