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34 別れ
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マハ王国の王位継承権を持つ者だけが使える秘術があった。
マハの大地より聖なる気を集め、口づけにより相手に気を送り込み、重篤な病をも癒す術だ。
ただし、マハ王国では口づけは婚姻相手のみ許される聖なる儀式とされていたため、この術も婚約者か配偶者のみに発動が許可されるものだった。
私は王太子とは婚姻できない運命だ。それなのにこの術を使ってしまった。もうここにはいられない、と翡翠は去る覚悟を決めていた。
「王女!!!!」
あの術のおかげで、すっかり回復した王太子が翡翠の部屋に飛び込んできた。
「あの、王女が、その──」
侍女たちに聞いたのだろう。銀光をまとった翡翠の口づけにより王太子が劇的に回復したいきさつを。
「感謝する。王女のおかげだ」
紅潮する顔で興奮気味に語る言葉はよく分からなかったが、自分に感謝を述べているのだろう。再び王太子の元気な姿を見ることができて翡翠は涙が出そうになるのをこらえながら、やっとの思いで微笑んだ。
「なぜ、悲しげなのだ?」
王太子は翡翠の異変を敏感に察知した。目に力がない。どうしたのだ。あの不思議な術を使い疲れているのか?
王女、と言いかけたところで、翡翠が何かマハ語で語り始めた。王太子はマハ語を理解できない、はずだった。
その時、わんわんと耳の奥でずっと聞こえていたような歪んだ音が、さあっと晴れる感覚がおりてくる。
それと同時に、頭に雷のごとく閃いてきたある光景。
威風堂々たる玉座に座すマハ王。並んで粛然たる美しき王妃。その周りに第一王子から第五王子までが一堂に介している。第三王子と第四王子との間に、凛とした佇まいの王女が座っている。
絹糸のようになめらかな黒髪に深い湖水のように透き通った緑眼。
そうだ、なぜ私は忘れていた? 王女は、古来よりこの大陸を統べ守って来たマハ王家の姫だ。
いつの間にか王太子は自然と翡翠の前で両膝をつき、神にも等しい存在に対して臣下の礼を取っていた。
自分が15歳になったとき、拝謁を賜るため、マハの王宮を訪ねていたではないか。まだ13歳の王女に見とれるあまり、マハ王に頭を垂れるのが遅れ、肝を冷やしたのではなかったか。
どうして自分達は、高貴なるマハ王家を蛮族などと思い込んでいたのか──!?
ひりつくように当時の記憶が蘇るのと同じくして、翡翠のマハ語がその耳にだんだんと聞こえてきた。
<……殿下。私……去ります。マハの禁忌、犯……した。あなた……こと……私……愛し始め……とても苦し──>
え? と顔をあげたとき、すでに翡翠の姿はどこにもなかった。
∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
王太子の目には翡翠が消えたかのように見えただろうが、厳密には翡翠は消えていなかった。空気に溶けこんだだけであった。
王太子に施した癒しの術は大変な体力を消費した。マハの聖なる気の力を使い、自身の魂を削って相手に与えるという秘術なのだ。
マハ王家の者は半神のような存在であるため、体力を大量に消費した時、人の姿を保てず、一時的に霊体のような姿になることがある。翡翠は今、その状態にあった。
このままここから立ち去り、マハに帰ろう。父上と母上の待つ愛しき祖国へ。
目の前から突然消えた翡翠を必死に探し始めた王太子をしばらく目で追った後、気持ちを断ち切るように背を向け、翡翠は風に乗って王宮から離れ始めた。
遠ざかる王宮。
たまらず振り返ると、庭園の銀木犀に目が止まった。銀木犀の前に降り、見上げる。王太子との思い出の木だ。さまざまなふたりの思い出が胸に去来し、翡翠の頬に幾筋もの涙が伝っては落ちた。
∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵∵
兵や侍女たちと共に王宮中を必死に探し回った王太子が再び翡翠の部屋に戻った時、床に一枝の銀木犀が置かれているのに気づく。
王太子はよろよろと床に座り込み、銀木犀の枝を手に取る。去ったのか──王太子はそう悟った。
うずくまる王太子の悲しげな嗚咽はしばらく止まなかった。
涙をこらえながら高い空に向かっていく翡翠の霊体。もう王宮を振り返ることはなかった。
銀木犀の花言葉は、”初恋”──
殿下
私たちはいつの頃からか
決して実ることのない初恋を
ただひたすらに
追いかけていたのかもしれない──
マハの大地より聖なる気を集め、口づけにより相手に気を送り込み、重篤な病をも癒す術だ。
ただし、マハ王国では口づけは婚姻相手のみ許される聖なる儀式とされていたため、この術も婚約者か配偶者のみに発動が許可されるものだった。
私は王太子とは婚姻できない運命だ。それなのにこの術を使ってしまった。もうここにはいられない、と翡翠は去る覚悟を決めていた。
「王女!!!!」
あの術のおかげで、すっかり回復した王太子が翡翠の部屋に飛び込んできた。
「あの、王女が、その──」
侍女たちに聞いたのだろう。銀光をまとった翡翠の口づけにより王太子が劇的に回復したいきさつを。
「感謝する。王女のおかげだ」
紅潮する顔で興奮気味に語る言葉はよく分からなかったが、自分に感謝を述べているのだろう。再び王太子の元気な姿を見ることができて翡翠は涙が出そうになるのをこらえながら、やっとの思いで微笑んだ。
「なぜ、悲しげなのだ?」
王太子は翡翠の異変を敏感に察知した。目に力がない。どうしたのだ。あの不思議な術を使い疲れているのか?
王女、と言いかけたところで、翡翠が何かマハ語で語り始めた。王太子はマハ語を理解できない、はずだった。
その時、わんわんと耳の奥でずっと聞こえていたような歪んだ音が、さあっと晴れる感覚がおりてくる。
それと同時に、頭に雷のごとく閃いてきたある光景。
威風堂々たる玉座に座すマハ王。並んで粛然たる美しき王妃。その周りに第一王子から第五王子までが一堂に介している。第三王子と第四王子との間に、凛とした佇まいの王女が座っている。
絹糸のようになめらかな黒髪に深い湖水のように透き通った緑眼。
そうだ、なぜ私は忘れていた? 王女は、古来よりこの大陸を統べ守って来たマハ王家の姫だ。
いつの間にか王太子は自然と翡翠の前で両膝をつき、神にも等しい存在に対して臣下の礼を取っていた。
自分が15歳になったとき、拝謁を賜るため、マハの王宮を訪ねていたではないか。まだ13歳の王女に見とれるあまり、マハ王に頭を垂れるのが遅れ、肝を冷やしたのではなかったか。
どうして自分達は、高貴なるマハ王家を蛮族などと思い込んでいたのか──!?
ひりつくように当時の記憶が蘇るのと同じくして、翡翠のマハ語がその耳にだんだんと聞こえてきた。
<……殿下。私……去ります。マハの禁忌、犯……した。あなた……こと……私……愛し始め……とても苦し──>
え? と顔をあげたとき、すでに翡翠の姿はどこにもなかった。
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王太子の目には翡翠が消えたかのように見えただろうが、厳密には翡翠は消えていなかった。空気に溶けこんだだけであった。
王太子に施した癒しの術は大変な体力を消費した。マハの聖なる気の力を使い、自身の魂を削って相手に与えるという秘術なのだ。
マハ王家の者は半神のような存在であるため、体力を大量に消費した時、人の姿を保てず、一時的に霊体のような姿になることがある。翡翠は今、その状態にあった。
このままここから立ち去り、マハに帰ろう。父上と母上の待つ愛しき祖国へ。
目の前から突然消えた翡翠を必死に探し始めた王太子をしばらく目で追った後、気持ちを断ち切るように背を向け、翡翠は風に乗って王宮から離れ始めた。
遠ざかる王宮。
たまらず振り返ると、庭園の銀木犀に目が止まった。銀木犀の前に降り、見上げる。王太子との思い出の木だ。さまざまなふたりの思い出が胸に去来し、翡翠の頬に幾筋もの涙が伝っては落ちた。
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兵や侍女たちと共に王宮中を必死に探し回った王太子が再び翡翠の部屋に戻った時、床に一枝の銀木犀が置かれているのに気づく。
王太子はよろよろと床に座り込み、銀木犀の枝を手に取る。去ったのか──王太子はそう悟った。
うずくまる王太子の悲しげな嗚咽はしばらく止まなかった。
涙をこらえながら高い空に向かっていく翡翠の霊体。もう王宮を振り返ることはなかった。
銀木犀の花言葉は、”初恋”──
殿下
私たちはいつの頃からか
決して実ることのない初恋を
ただひたすらに
追いかけていたのかもしれない──
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