上 下
7 / 54
本編

(8)初めての朝

しおりを挟む

 ぱしゃり、と音が聞こえました。
 小さな音でしたが、私はうっすらと目を開けました。

 見慣れない天蓋。見慣れない天井。暗い部屋の中はいい香りがしていて、枕元には三色のリボンがありました。
 外から、かすかにニワトリの声が聞こえました。
 まだ早い時間のようです。鎧戸を開ければ、空がほんのり白くなったのが見えるくらいでしょうか。

 また、ぱしゃりと音がしました。
 水の音に似ています。
 まだぼんやりしている私は、横たわったまま顔だけを動かしました。

 寝台から少し離れた台の前に、背の高い人影が見えました。一瞬びっくりしましたが、その人は洗面器に移した水で顔を洗っているようです。
 一つだけ灯っている明かりのおかげで、その人物の髪が黒いこともわかりました。


 ……思い出しました。
 ここは私の部屋ではありません。お姉様夫婦のために特別に調度を揃えた南側の客間です。
 そして、顔を洗っている人はグロイン侯爵様。
 昨夜の主役の一人で……私の夫……!


 眠気が一気に飛び、がばりと起き上がりました。
 その音に、グロイン侯爵様が濡れた顔を拭きながら振り返りました。

「起こしてしまったか」
「い、いえ、あの、その、……おはようございますっ!」
「ああ、おはよう」

 グロイン侯爵様は僅かに眉を動かしましたが、私に朝の挨拶を返してくれました。
 そのことに少しホッとして、でもすぐに色々思い出して慌てました。

「わ、私、先に眠ってしまって……その、こちらにおいでになったのに少しも気付きませんでした。申し訳ありません!」
「……気にするな。明け方近くまで飲んでいたから」

 その言葉に、寝台に目を戻しました。
 私が眠っていたのは寝台の半分。残りの半分はきれいに整ったままです。誰かが横たわったような痕跡はありません。

 改めて室内を見回すと、テーブルの前の椅子に軽く畳まれた男物の上着がかかっています。グロイン侯爵様はあの椅子に座っていたのでしょうか。
 使用済みのコップがあるのは、水を飲んだからでしょう。

 そんなことを考えていたら、グロイン侯爵様が部屋のすみにある棚から丁寧にたたまれた衣服を無造作に取り出し、手早く着替え始めます。
 私が慌てて目を逸らす前に、着替えは終わってしまいました。

「エレナ殿、だったか」
「あ、はい!」

 突然声をかけられ、慌てて背筋を伸ばしました。まだ寝台の上にいることを思い出して下りましたが、立ち上がると大きすぎる寝間着の肩が半分するりと落ちました。
 お姉様サイズの寝間着は、やはり大きいです。
 慌てて肩を戻した私に、侯爵様はテーブルの上にあった肩掛けをかけてくれました。

「まだあなたが起きるには早い時間だ。もう一眠りするといい」
「でも、侯爵様はもう起きていらっしゃいます」
「……任務がある」

 そう言うと、侯爵様は椅子に立てかけていた剣を腰に帯びました。
 装飾のない実用的な剣です。
 髪をやや乱暴に手櫛でかきあげると、昨日は隠れていた額の傷があらわになりました。
 思わず凝視してしまった私に、侯爵様は少し慌てたように額を隠す様に前髪をおろしました。

「見苦しいものを見せしてしまったな。今後は気をつけよう」
「いえ、あの……」

 少し驚いただけで、不快に思ったわけではありません。
 そう言おうとしましたが、侯爵様はマントを羽織ろうとしています。どうやらすぐにお出掛けになるようです。
 慌てた私は、もっと優先すべきことを質問してみました。

「これから王宮へ行かれるのでしょうか。今日のお戻りは遅くなりますか?」

 今私たちがいるのは、メリオス伯爵家の屋敷です。
 この屋敷は広くて庭もきれいで、客間も十分にあるのですが、王都の中心部からは遠くて、王宮に赴くとなると少々不便です。
 出仕のために日の出前の時間から出掛けるということは、帰りにも時間がかかると言うことです。お忙しさによっては、すっかり暗くなってしまうでしょう。
 そう思って伺ったのですが。

「こちらには戻らない」

 いきなりそう言われてしまいました。
 驚いていると、侯爵様は一瞬眉を動かしましたが、すぐに何事もなかったように続けました。

「良い部屋を整えていただいたのには感謝している。だが、しばらくここに来ることはないだろう」
「では、侯爵様のお屋敷にお戻りになるのですか?」
「……いや、王宮の騎士兵舎に部屋を持っていて、いつもそこに泊まっている」
「そ、そうでしたか」

 なんとか頷きましたが、寝起きのせいもあって、頭が話についていけません。
 そんな私に呆れてしまったのでしょう。侯爵様は私に背を向けて、鏡を覗き込んで身支度の確認を始めました。

「今後のことはすでに確認済みだったと思うが、エレナ殿は聞いていないのか?」
「それは、その…いろいろと、ゴタゴタしていましたので……」
「……まあ、いい。私はそれなりに忙しい。だから、エレナ殿はご実家でゆっくりしていてくれ」

 それだけ言うと、グロイン侯爵様は扉へと向かいました。

 特に慌ただしい動きではないのですが、侯爵様は歩調の大きな男性。
 姿勢のいいお姿は、あっという間に消えてしまいました。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

前世の祖母に強い憧れを持ったまま生まれ変わったら、家族と婚約者に嫌われましたが、思いがけない面々から物凄く好かれているようです

珠宮さくら
ファンタジー
前世の祖母にように花に囲まれた生活を送りたかったが、その時は母にお金にもならないことはするなと言われながら成長したことで、母の言う通りにお金になる仕事に就くために大学で勉強していたが、彼女の側には常に花があった。 老後は、祖母のように暮らせたらと思っていたが、そんな日常が一変する。別の世界に子爵家の長女フィオレンティーナ・アルタヴィッラとして生まれ変わっても、前世の祖母のようになりたいという強い憧れがあったせいか、前世のことを忘れることなく転生した。前世をよく覚えている分、新しい人生を悔いなく過ごそうとする思いが、フィオレンティーナには強かった。 そのせいで、貴族らしくないことばかりをして、家族や婚約者に物凄く嫌われてしまうが、思わぬ方面には物凄く好かれていたようだ。

よくある婚約破棄なので

おのまとぺ
恋愛
ディアモンテ公爵家の令嬢ララが婚約を破棄された。 その噂は風に乗ってすぐにルーベ王国中に広がった。なんといっても相手は美男子と名高いフィルガルド王子。若い二人の結婚の日を国民は今か今かと夢見ていたのだ。 言葉数の少ない公爵令嬢が友人からの慰めに対して放った一言は、社交界に小さな波紋を呼ぶ。「災難だったわね」と声を掛けたアネット嬢にララが返した言葉は短かった。 「よくある婚約破棄なので」 ・すれ違う二人をめぐる短い話 ・前編は各自の証言になります ・後編は◆→ララ、◇→フィルガルド ・全25話完結

愛情がないと婚約破棄された聖女は、ある日『真実の鏡』で公爵様の本心を知りました

冬月光輝
恋愛
「メリルリア。君の功績は素晴らしいものがある。だが、それだけではダメなんだ。なんというか、君からは俺に対する愛情を感じない」 婚約をして半年。メリルリアは婚約者であるベルダンデ公爵の邸宅に呼ばれる。 アレンデール・ベルダンデ――先代の公爵が亡くなりその爵位を引き継いだ若き公爵。 そんな彼はメリルリアが自分を愛していないとして婚約を破棄したいと口にする。 当然抗議するメリルリアだが、アレンデールはそれを聞き入れない。 「これは『真実の鏡』だ。この鏡は本当の気持ちを見ることができる」 それどころか『真実の鏡』というモノまで持ち出して、メリルリアに愛情がないことを証明しようとする。 「やはりそうか。お前は人を愛することを知らないのだ」 『真実の鏡』はメリルリアに人を愛する心がないと証明した。 アレンデールの意思は変わらず彼女は強引に婚約破棄されてしまった。 しかし数日後、メリルリアはひょんなことから本物の『真実の鏡』を手に入れる。そう、アレンデールの『真実の鏡』は偽物だったのだ。 そしてメリルリアは知ることとなるアレンデールが強引に婚約破棄した驚愕の理由を……。

【完結】本日、貴方を愛するのをやめます~王妃と不倫した貴方が悪いのですよ?~

なか
恋愛
 私は本日、貴方と離婚します。  愛するのは、終わりだ。    ◇◇◇  アーシアの夫––レジェスは王妃の護衛騎士の任についた途端、妻である彼女を冷遇する。  初めは優しくしてくれていた彼の変貌ぶりに、アーシアは戸惑いつつも、再び振り向いてもらうため献身的に尽くした。  しかし、玄関先に置かれていた見知らぬ本に、謎の日本語が書かれているのを見つける。  それを読んだ瞬間、前世の記憶を思い出し……彼女は知った。  この世界が、前世の記憶で読んだ小説であること。   レジェスとの結婚は、彼が愛する王妃と密通を交わすためのものであり……アーシアは王妃暗殺を目論んだ悪女というキャラで、このままでは断罪される宿命にあると。    全てを思い出したアーシアは覚悟を決める。  彼と離婚するため三年間の準備を整えて、断罪の未来から逃れてみせると……  この物語は、彼女の決意から三年が経ち。  離婚する日から始まっていく  戻ってこいと言われても、彼女に戻る気はなかった。  ◇◇◇  設定は甘めです。  読んでくださると嬉しいです。

お幸せに、婚約者様。私も私で、幸せになりますので。

ごろごろみかん。
恋愛
仕事と私、どっちが大切なの? ……なんて、本気で思う日が来るとは思わなかった。 彼は、王族に仕える近衛騎士だ。そして、婚約者の私より護衛対象である王女を優先する。彼は、「王女殿下とは何も無い」と言うけれど、彼女の方はそうでもないみたいですよ? 婚約を解消しろ、と王女殿下にあまりに迫られるので──全て、手放すことにしました。 お幸せに、婚約者様。 私も私で、幸せになりますので。

転生おばさんは有能な侍女

吉田ルネ
恋愛
五十四才の人生あきらめモードのおばさんが転生した先は、可憐なお嬢さまの侍女でした え? 婚約者が浮気? え? 国家転覆の陰謀? 転生おばさんは忙しい そして、新しい恋の予感…… てへ 豊富な(?)人生経験をもとに、お嬢さまをおたすけするぞ!

強面な騎士の彼は、わたしを番と言い張ります

絹乃
恋愛
わたしのことを「俺の番だ」「運命の相手だ」という大人な彼は、強面でとても怖いんです。助けて、逃げられないの。

義妹を溺愛するクズ王太子達のせいで国が滅びそうなので、ヒロインは義妹と愉快な仲間達と共にクズ達を容赦なく潰す事としました

やみなべ
恋愛
<最終話まで執筆済。毎日1話更新。完結保障有>  フランクフルト王国の辺境伯令嬢アーデルは王家からほぼ選択肢のない一方的な命令でクズな王太子デルフリと婚約を結ばされた。  アーデル自身は様々な政治的背景を理解した上で政略結婚を受け入れるも、クズは可愛げのないアーデルではなく天真爛漫な義妹のクラーラを溺愛する。  貴族令嬢達も田舎娘が無理やり王太子妃の座を奪い取ったと勘違いし、事あるごとにアーデルを侮辱。いつしか社交界でアーデルは『悪役令嬢』と称され、義姉から虐げられるクラーラこそが王太子妃に相応しいっとささやかれ始める。  そんな四面楚歌な中でアーデルはパーティー会場内でクズから冤罪の後に婚約破棄宣言。義妹に全てを奪われるという、味方が誰一人居ない幸薄い悪役令嬢系ヒロインの悲劇っと思いきや……  蓋を開ければ、超人のようなつよつよヒロインがお義姉ちゃん大好きっ子な義妹を筆頭とした愉快な仲間達と共にクズ達をぺんぺん草一本生えないぐらい徹底的に叩き潰す蹂躙劇だった。  もっとも、現実は小説より奇とはよく言ったもの。 「アーデル!!貴様、クラーラをどこにやった!!」 「…………はぁ?」  断罪劇直前にアーデル陣営であったはずのクラーラが突如行方をくらますという、ヒロインの予想外な展開ばかりが続いたせいで結果論での蹂躙劇だったのである。  義妹はなぜ消えたのか……?  ヒロインは無事にクズ王太子達をざまぁできるのか……?  義妹の隠された真実を知ったクズが取った選択肢は……?  そして、不穏なタグだらけなざまぁの正体とは……?  そんなお話となる予定です。  残虐描写もそれなりにある上、クズの末路は『ざまぁ』なんて言葉では済まない『ざまぁを超えるざまぁ』というか……  これ以上のひどい目ってないのではと思うぐらいの『限界突破に挑戦したざまぁ』という『稀にみる酷いざまぁ』な展開となっているので、そういうのが苦手な方はご注意ください。  逆に三度の飯よりざまぁ劇が大好きなドS読者様なら……  多分、期待に添えれる……かも? ※ このお話は『いつか桜の木の下で』の約120年後の隣国が舞台です。向こうを読んでればにやりと察せられる程度の繋がりしか持たせてないので、これ単体でも十分楽しめる内容にしてます。

処理中です...