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終章 親子丼

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 その年の残暑は厳しいものでした。

 九月に入って最終的な調整を終えた合弁プロジェクトは、いよいよ社内外に発表の時を迎えました。
「よもやと思うが、発表までは一切株の取引なんかはするなよ。痛くもない腹を突かれたくないからな」
 プロジェクトがスタートした時に社長から厳命されて早二か月、朝刊の三面にその記事が小さく載り、安堵の溜息がこぼれました。プレス用の発表案を詰めるとき、同席していただけに緊張していたのです。これからはもう、合弁会社に出向していくメンバーと法務を扱う総務に引継をし、プロジェクトとは離れることができます。ミヤモト課長は予定通り合弁会社の取締役として出向していきました。後を襲った係長の空席を俺が埋めることになりました。営業一課の係長となったわけです。

 オヤジの言いつけを守り、俺がオフクロの施設へ行くことはありませんでした。マユも俺の気持ちを察してくれていたのでしょう。何も言いませんでした。オヤジは変わらず週一でオフクロのもとに通い続けました。
 これでやっと普通の日々が戻るな。
 ほっと胸を撫で下ろそうとしたのも束の間。その俺のシマのデスクの一つに、いつの間にか、何故か、マユが座っていたのです。
 係を任された途端、仕事量が増え帰りが遅くなり泊まり込みも増えるようになっていました。どうも昼間俺の不在中に例によってチョコチョコ遊びに来ていたらしいのです。それを社長が、
「お前、そんなに暇なら亭主の仕事の手伝いでもするか」
 身分はアルバイトなのに正社員のアイダや俺の係に配属されたばかりの新卒をアゴでこき使っていました。
「ゴトウクン。これ十部コピー取って」
「エリ、あんた化粧濃すぎ。キャバ嬢じゃないんだからね。外回り行くならトイレで顔洗ってから行きな」
 そのくせ新人がトラブルを起こすと真っ先に嗅ぎつけてあれこれと世話を焼き、一緒に得意先に行って頭を下げたりしてやっているのだそうです。アルバイトのくせに。横暴なふるまいにもかかわらず年下には好かれているのはそんなところに理由があるのでしょう。
「アイダ!」
 もっとも2メートルの巨漢を手懐け傅かれているのを見せつけられては新人も最初から反抗する気すら起きなかったでしょうが。
「ちょうどいいところに来た。肩揉んで」
 ハッキリ言って、やりづらい事この上ありませんでした。
 大男に肩を揉まれて気持ち良さそうにしているマユですが、でも俺にはわかっていたのです。
 昼間あの家に、オフクロの忌まわしい記憶が詰まったあの家に一人でいるのが耐えられなかったのでしょう。
「あー。キクキク~。きんもちいい~」
 アルバイトですから定時の五時には上がります。先に帰って洗濯物を取り込み掃除をして洗濯機を回し食事の支度をしているところに俺が帰って来る。早上がりできる日はそんなふうに夜が来ます。
「なんか新鮮。結婚する前に戻ったみたいだね」
「うん」
 俺が食器を洗い、風呂に入ります。洗濯物を干し終わったマユが入ってくることもあります。二人してエロい洗いっこをし、風呂から上がり寝室へ。
「オヤジは?」
「お泊りだって」
「じゃあ、このまま行くか」
 二人して生まれたままの姿でキャッキャウフフしながらベッドまで行きます。
 そして必ず柔らかなマユの肌と触れ合いながら眠ります。
 俺が疲れてクタクタな時はそのまま朝までぐっすりですし、彼女なりに会社で気を遣っているせいか俺より先に寝てしまうこともあります。大きな体をくるりと丸めて俺の腕の中に納まろうとします。そしてしばらく俺の腕にちゅぱちゅぱ吸い付いていたかと思うと安心するのかいつのまにか自然に寝入ってしまうのです。
 小さいことろから母一人子一人で育ったマユは、何度冷え切った暗い子供部屋の冷たい布団の中で孤独な夜を過ごしたことでしょう。そう思う度に愛しさがつのり、愛する妻の髪を撫でるのでした。
 もちろん、どちらかが嵩まった時は自然に任せて楽しみます。
 まるで処女と童貞のようにおずおずと繋がることもあります。マユとの初体験はあんなでしたけど、それよりずっと緩やかで穏やかな繋がりを楽しみます。
 時には寝室に入るなり相手に襲い掛かることもあります。
 その日、俺は寝室に入るなり背後から不意を突かれ、ベッドに押し倒されました。
「ズルいぞ。不意打ちなんて」
「おぬし、まだまだ修行が足らんのう。うひひ」
 体中を舐められ耳元でエロい言葉を囁かれながら扱かれます。
「なに、こんなにカチカチにしちゃって。変態なの? マゾなの?」
 仕返しにマユの体を舐め回し、耳たぶを甘噛みしながらイジってやります。
「なんだよ。こんなにぐちょぐちょにしちゃって。お前だってイジメられてうれしいくせに」
 すると大抵、堪らなくなったマユの方から「お願い」と言ってくるのです。
 マユは俺にマウントし思うさま動きます。
 マユの中に入ったまま、お互いを愛しみながらいろんな話をします。セックスに関係のあることも、まったく関係のない話も、ごちゃまぜです。
「おい、そんなに締め付けたらすぐ終わっちゃうよ」
「だって、我慢できないんだもん」
 そんな話をしていたら、いつの間にか子供の頃遊んだ話をしています。それからさらに、「ねえ、ヒジキが体にいいんだって」
「じゃあ煮つけって作れる?」
 セックスしながら仕事の話もします。会社の同僚の話をしていたら、
「あ、小さくなっちゃった」
「お前が会社の話なんてするからだろ」
 お互いの体の事も話します。
「なんか前よりずっと、たー君を感じやすくなってるよ。あんっ! 先に逝っちゃっていい?」
 するとまた俺が会社の話をはじめる。せっかく昂まったマユがまた・・・・。
 そんなとりとめもない話をぐだぐだ続け、気が付くと朝になっていた、なんてこともありました。
 時には家に帰る前に待ち合わせてラブホテルに寄ることもあります。
 最近はこのテのホテルも女性に好まれるように工夫を凝らしたものが増えました。名称も「ファッションホテル」とか「ラグジュアリーホテル」といった、意味が分からないものも出てきました。
 ですが、俺もマユもそういうオシャレな所がどうにも馴染めませんでした。
 俺らが行くのはそうしたオシャレ感ゼロの、思いっきり淫靡で下品な昭和の香り漂うゴテゴテの古いホテルです。部屋の照明がドピンクだったり天井にミラーボールがあったり、なんとベッドが回転したり、というような。行くたびに新鮮なエロい気持ちにさせてくれるホテルです。
 マユが一番好きなのは、天井が鏡張りの部屋です。
 部屋の灯りを煌々と点けたまま、お互い素っ裸で俺はベッドの上に仰向けに、マユは仰向けになった俺の上にさらに仰向けになります。俺は下からマユの身体中を触りまくり、胸を揉みまくり、乳首をイジりまくり、マユの濃いもじゃもじゃの陰毛に手を伸ばしてあそこをイタズラしまくりながら、ベッドのスプリングを利用して下からズンズンと突きまくります。そうすると、マユは今まで知らなかった新しいトコロを刺激されて昂奮し、シオまで噴きまくり、乱れまくるのです。その様が天井の鏡に全て映るのです。
「だめ! こんなのダメェ~ん、ああ~ん、めっちゃ、エロい。エロ過ぎるよ~んっ!」
 そのくせ、マユはその艶めかしい肢体をクネクネと動かして俺にキスをせがみます。そうすると、感極まってだいたい一分とかからないうちに、イキます。
「あ、ダメッ、もうっ、も、ダメーッ・・・。・・・んっ!」
 家に帰ってからも昂奮を想い出してもう一回戦することもあります。
 要するに俺たちは「こうじゃなきゃだめだ」「こうしなきゃだめだ」というものを一切、捨てたのです。セックスしてもしなくてもすっぽんぽんの丸裸で抱き合って寝ます。ゴムを使うのもやめました。全て自然に任せることにしたのです。あの日から、俺たちはそんな風に夜を過ごしていました。
 そのせいなのかどうかわかりませんが、寝覚めが全然違うのです。眠りが深いのでしょうか。三四時間しか眠れなくてもスッキリと目が覚めるのです。マユも同じみたいで、激務が続いても二人とも疲れが翌朝に残ることが全くなくなりました。
 帰るなり寝室に直行し俺もマユもお互いの服を剥ぎ取ってベッドになだれ込みます。どうしてそれほどまでに。そんな自分たちへの問いかけも、やめました。

 オフクロの施設に行った日の帰り道。
 俺の問いかけにオヤジが言い淀んだこと。それがずっと気にかかっていました。
 あの、オヤジとマユのまぐわいのシーンは未だに俺の心の中にこびりついています。ですが、嬉しそうにオヤジのモノを頬張り、嬉々としてオヤジに刺し貫かれているシーンをリフレインする度に仕事に貪欲になり、マユに襲い掛かりたくなるのです。マユも、そんな俺に昂奮してどんどん大胆になって自分を曝け出して行くようになりました。
 どうせこびりついて離れないものなら、とことん愉しんでしまえ、と。
 そう思うようになったのです。
 オヤジとマユはたくさんエロいことをしたと。だったら、俺はもっともっとたくさんエロいことをしてやろうと。
 するとマユはそんな俺の心の中を読んだかのように、さらに大胆に、エロくなってゆくのでした。まるで、性欲の権化みたいに。

 オヤジが言い淀んだこと。
 かつてオフクロの中にあって、今はもう失われてしまったもの。「それ」は間違いなく俺やマユの中にもあると思うのです。
 オヤジはマユの中にオフクロの中にあったのと同じ、「それ」を見つけました。ですが、マユは「それ」を使って俺のビョーキを直し、俺はオヤジとマユのまぐわいを見て「それ」を復活させ、俺は知らず知らずのうちに仕事とマユとのまぐわいに「それ」を利用している。
 ですが、オヤジとオフクロの間では「それ」は有用に働かなかったのだ。そんな風に思いました。
 オヤジは疲れたのだと思いました。オフクロとの間で「それ」を制御するのに疲れ果て、制御しきれなかった悔恨があるのだと思いました。そして恐らくはそれが、オヤジがマユから離れた理由ではないか。
 そして、俺は思うのです。
 では、その違いは、何なのだろう。と。
 俺とマユには有用に働き、オヤジとオフクロでは制御しきれずに暴走してしまった、その違いとは、何なのだろう。

 俺の上で思う存分に胸を揺らし腰を使いまくり、立て続けに二三度気をやったマユはぐったりと俺の上に倒れ込みました。そこをさらに下から突き上げてやります。マユの豊かな尻を掴んで思いっきり、何度も。
「え、ウソ! イッたばっかなのにぃ。ダメダメェ・・・」
「まだまだ」
「や~ん」
 でも、そんな能天気全開のエロ夫婦である俺たちでしたが、オフクロのことだけ、それだけは俺にもマユにも、どうにもできませんでした。
 まだ蜩の声が聞こえていました。秋を呼ぶ虫と言われていますが鳴くのは雄だけです。もうすぐ終わる、彼の儚い命の限り雌を呼ぶ声は深い悲しみの色がしました。
「ねえ、たー君・・・」
「ん?」
 まだ息が上がっている汗ばんだマユの首筋にキスし、耳たぶを甘噛みしてやりました。
「あん♡・・・。これ言っちゃうと、たー君イヤかもしれないけどさ、お義父さんの事なんだけどさ」
「うん・・・。オヤジが、何だって?」
「お義母さんのこと、お義父さんの中で深い傷になってたんだね、きっと」
 あー。やっぱ小さくなっちゃったね。まだだったのに、ごめんね。口で、してあげようか。マユは優しくそんなことを言います。
「いいよ。今夜はこのまま寝よう」
 マユの耳に囁きました。マユも、俺とは異なるアプローチながら、俺と同じことを気にしてくれているのだな、と思いました。
「いつも気に掛けてくれてありがとうな、マユ。
 そうだなあ。できれば、何とかしてやりたいとは思うんだけどなあ・・・」
「・・・うん」
 マユは俺の腕の中で丸くなり、安心したのか二の腕をちゅぱちゅぱ吸い始めました。そのお陰で、今では俺の二の腕や胸はマユのキスマークだらけになっています。
「せつないよ、たー君」
「・・・そうだな。せつないな」
 愛する妻のエロくて柔らかな身体を掻き抱き、豊かなプリプリの尻を撫でながら、俺はそう呟きました。
 

 十月十日。
 その日は久々に二人で一緒に帰宅しました。
 オヤジの誕生日です。オヤジの経歴からすればギャグみたいですがホントです。
 昭和39年、1964年のその日東京オリンピックの開会式が行われた日は「体育の日」として長らく祝日になっていましたが、その年から体育の日は十月の第二月曜日に変わっていました。だから普通の日です。そこまでの数日、俺もマユもお互いに忙しくて忘れていたのです。
「ヤバイ。あたし、いっぱいいっぱいになってたよ」
 可哀そうなくらいに萎れた声でした。電話の向こうで肩を落とし落ち込んでしまっているのが見えるようでした。
「俺直帰するから駅で待ち合わせよう」
 オヤジは今日普通に役所に行きました。役所の規定で六十歳の誕生日が退職の日になります。つまり今日、オヤジは定年を迎えたわけです。
 郊外へ帰る電車は混んでいました。
 朝のラッシュ程ではないにしろ、俺はマユを抱きかかえ、窓際に追いつめられてしまいました。ベンチの端のパイプを掴み、もう片方の手で自然にマユの腰を支えていました。薄い生地のスーツの下の、妻の量感のある肌を感じました。マユのシャンプーとファウンデーションの香りの奥にある汗のにおい。それが俺の芯を微妙に刺激しました。俺の肩に顎を載せ、周りから押されるまま俺に体を押し付けてきました。こんな風に二人で電車に乗るのは久しぶりでした。
「ねえ」と俺は問いかけました。
「あれ、用意してあるよな」
 首を曲げ、マユの耳元に囁きました。
「赤いチャンチャンコと真っ赤なネクタイ。ちゃんとラッピングして真っ赤なリボンかけてクローゼット隠してある」
「うん・・・」
 マユのウィスパーが耳をくすぐりました。
「あのさ、今日、タカハシが来たろ」
 マユはフフッと笑いました。
「そうそう。びっくりしたよ。あの二人、まさか結婚してたなんてね」
「うん。とりあえず籍だけ入れたんだって。タキガワが辞表を出した後、俺タカハシに経緯を教えてやったんだ。あいつすぐにタキガワの家に押しかけて、それから一緒に住んでるらしい」
「そう・・・。あの子、タキガワのことホントに好きだったんだね」
「でさ、俺あいつら上手くやれてんのかなってずっと気になってたんでタカハシに聞いたんだ。どうだ、アイツ浮気してないかって」
「そしたら?」
「それは大丈夫ですって自信満々でさ。秘訣があるんですって言うのさ」
「えー。どうしてるんだって?」
「お前、絶対笑うよ」
 と、俺は言いました。
「タカハシさ、タキガワが出かけるとき、玄関先でさ、ナニにマジックでさ『メグミ専用』って書くんだって」
 マユはクスクスと笑い始め、堪えきれずに口を押えました。
「ちょっとーォ、マジでェ?」
「マジマジ。俺さ、あのタキガワ事件の時の写メ、タカハシに送ってあげたんだよ。それに影響されたみたいなんだ。だからもとはと言えばお前なんだよ。あの二人が上手く行ってるのはある意味でマユのお蔭なんだ。
 タキガワにしてみれば、嬉しかったんじゃないか。会社を辞めて失意のどん底で自分を見捨てずに助けてくれた女なんだから。大事にしていくと思うよ。かく言う俺もお前に助けられたしな」
「別にーぃ。なーんにもしてないよ、あたし」
 マユは笑いを収め、両腕を俺の腰に回しました。
 電車がカーブに差し掛かり、よろけかけるマユを支えました。マユのいい香りが、俺のをムクムクと大きくしていきました。
「なあ、マユ」
「んー?」
「オヤジのことだけどさ。お前まだ、ちょっと気持ち残ってるんだろ」
 マユは無言の返事をしました。それから「たー君・・・」と言いました。
「話の持って行き方、上手くなったねえ。あんだけ笑わせられたら、ホンネ、言いやすくなっちゃうよ」
「もう一つ、当ててやろうか」
「・・・いいよ」
「どっかで、オヤジとのことにケリつけたいって、思ってんじゃないのか。
 最期に、もう一回、とか・・・」
 マユは返事の代わりに俺を強く抱きしめました。
「ねえ、キスしたい」
「ここじゃ、ダメ。公共の場所だから」
「じゃ、次で降りよう」
「遅れちゃうよ。オヤジ待たせちゃうぞ」
 少しだけ大人になった俺たちは、それ以上の「おイタ」は止めました。
 結局武相駅まで行き、さり気なく駅の裏の自転車置き場まで歩きました。マユは俺を暗がりに連れ込み、壁際に押し付けるや、強引に強烈に猛烈に俺の唇を奪いました。
「あたし、たー君が大好き。たー君を世界一愛してる。それは絶対変わらない。
 だけど、だから、お義父さんに悪くて。お義父さん利用して、たー君にお義父さん憎ませて・・・。ずっと気になってたんだよ」
「もう憎んでなんかいないよ。むしろ、俺も申し訳ない思いなんだ、オヤジにさ」
「お義父さんが可哀そう。あんなに過酷な目に遭ってきた人なのに。もっと癒してあげたかった。それなのにあたし、お義父さんからもらうばかりで、あたしのことに利用して、それなのに、満足にお礼もできてないんだよ。辛いよ。辛いんだよ、たー君」
「わかるよ、マユ」
 今度は俺がマユの口を塞ぐ番でした。
 マユは応じてくれました。かなり、熱く。
「もし俺が、俺がマユでもオヤジになら、惚れる。それにお前、優しい女だもんな。
 アレだよ。結局さ、俺が寝取られたんじゃなくて、俺がオヤジからマユを寝取っちゃったんだ。知らず知らずのうちに、だけどさ。申し訳ないってのは、それもあるんだ」
 マユは、俺に熱いままの吐息を吹きかけながら、濡れた唇を開きました。
「あたし、コウゾウさんが大好き。
 でも、あたしはたー君のものだから。ホントに好きなのはたー君だから。あたしがホントにつくしたいのは、愛してるのはたー君だけだから。たー君を死ぬほど愛してる!」
「そんなの、わかってるよ。ばかだなあ・・・」
 マユの大きな目から零れ落ちそうになっている涙を指で払ってやりました。
 そう。俺にはわかっていました。俺たちがどう思おうと、オヤジが再びマユを受け入れることはない。そう確信できました。何故なら、それがオヤジという男だからです。
 だから数年の長きにわたってオフクロを支え続け、さらに数年かけてオフクロを追い続け、今も片時もオフクロを忘れることなく、オフクロの意識が退化してゆくのを見守り続けているのです。常人には真似のできない意志の固さです。
 そのオヤジが愛ではなく、憐れみを掛けられるなんて彼のプライドが許さないだろう。そう思うことができました。
 俺はそれをマユには言いませんでした。言ったところで、マユの心の中のオリのようなものは晴れないでしょうし、自分の心と体で確かめないことにはマユ自身納得しないでしょう。
「たー君、して。今、ここでして!」
 マユはズボンの上から俺のを掴み、キスをくれました。
「だって、勃ってるんだもん!」
「そりゃ、勃つよ」
 なんだか前にもこんなやりとりをしたなあ、と思い出しました。
「こんなに魅力的な女房にここまでされりゃ。普通、勃つ。勃たなきゃ男じゃないでしょ」
「ここじゃイヤなら、どっかホテルとか。あたし、お家に帰る前に、たー君に抱いて欲しいの」
 この広い世界には、俺のように、自分の実の父親を恋人にする妻を持つ夫が他にもいるかもしれません。それが、珍しいのかよくあることなのか、罪なのかそうでないのか、よくわかりません。普通の家ではありえないことですが、それが俺とオヤジとマユとの現実なのです。
 ですが、俺にはそれは必要でした。
 あの初夏のマユとの一夜。あのまぐわいは、オヤジの言葉通り、俺を悔しがらせて発奮させようとしたのだ。そう思えました。そして今、現に、あのなんとも悔しい、遣る瀬無い記憶のおかげで、仕事もマユとのセックスライフも順風満帆なのですから。最愛の妻と幸せな日々を送ることが出来ているのもそのお陰だと思っています。
「オヤジには十分返したさ。それでもう充分だよ」
「何が。何の事?」
「おそらく、オヤジにはそれで充分なのさ」

 家に向かうタクシーの中で、ずっとマユの大きくて柔らかくて暖かい、汗ばんだ手を握りしめていました。流れる夜景が次第に暗くなり、家のある田園地帯に入るころにはもう、辺りは真っ暗になっていました。
「だいぶ陽が落ちるのが早くなりましたねえ」
 運転手さんにそう話しかけました。
「そうですねえここのところ急に暗くなりましたねえ」
 車が家に近づいて行くにつれ、マユはさらに手を強く握りしめました。剣道で鍛えた俺の握力を上回る力で、ぎゅっと握り締められました。俺が強く握り返さなければ、骨が折られてしまいそうなほどでした。
 ポツンと小さな門灯が灯った格子戸の前でタクシーを降りました。
 家の前に見慣れない、真っ赤なスポーツタイプのイタリア車が停まっていました。
「おお、凄げえ。ランチアだ」
 WRCでお馴染みのラリー仕様車みたいにフェンダーが張り出し、太いタイヤを穿いていました。湘南ナンバーでした。
 何気なくマユを振り返ると、そこにはさっきまでキスしていた魅惑的な若妻はもういませんでした。
 そこにいたのは、鬼でした。それも、最恐の。
「何でよ!」
 ダンッ!
 足を踏み鳴らし、俺の腕をむんずと掴み、俺はマユに引きずられるようにして格子戸をくぐりました。ガレージにはいつもの真っ赤なロータス・エランが駐まっていました。
 玄関の土間にかかっていた姿見は、もう取り外されてありませんでした。
 マユがオヤジに頼んだのです。オフクロの中の悪魔を映し出した鏡なんて縁起でもない、と。
 オヤジはマユの願いを容れてそれを庭で粉々に粉砕し袋に入れて廃品回収に出しました。今頃はもうどこかの山の中に埋められているでしょうか。他のガラスと一緒に融かされて再利用されているのでしょうか。
 その代わりに一輪挿しが掛けられ、今日は近所の畑のすぐそばに咲いていたコスモスが活けられていました。
 上がり口に女性ものの上品なサンダルが揃えられている玄関を、パンプスを弾き飛ばしながらドスドス上がって行くマユの後を追いリビングに入りました。
 ソファーにオヤジとお義母さんが座っていました。
「よお、お帰り」
 とオヤジは言いました。
「タカシさん。しばらくね」
 とお義母さんが言いました。
 二人の前には豪華なホールケーキとワインのボトルがありました。
 4人の目が、交錯し合っていました。
「何これ!」
 口火を切ったのはマユでした。
「何二人でケーキあーんとかしてラブラブしてんの。大体何でこんな時にママが来んだよ!」
 さっきまでのあの可憐な、恋する乙女のようなマユは、あの恋愛小説のような甘く切ないひと時は、メロドラマのような展開は、一体どこに行ってしまったのでしょう。
 最恐怒髪天モード、とでもいうのでしょうか。ヤクザの姐さんみたいにドスの利いた声でした。
「あら、ご挨拶ね。私が来ちゃいけないの。コウゾウさん還暦だからお祝いしてただけじゃないの」
 お義母さんはどこ吹く風でコーヒーを飲んでいました。
「いやあ、スマンスマン」
 悠然とワイングラスを傾けているオヤジは、ポロシャツの上に赤いチャンチャンコを着てキチンと紐まで結んでいました。お義母さんが用意してくれたものなのでしょう。嬉しそうにニコニコ笑っています。こんなデレデレしたオヤジは初めて見ました。
 お義母さんに誘われてウィンドサーフィンを始めたと聞いてから、もしかするとこんな日が来るかもしれないと漠然と思っていましたが、でも、いざ現実として目の当たりにすると違和感が拭えませんでした。
 なにせ、実の父親とお姑さんですから。
「あなたたち仕事で遅くなりそうだって聞いたから、コウゾウさん一人じゃ可哀そうかなって。そう思っただけですよ」
 俺が黙っていると、急に矛先がこっちに向かってきました。
「もしかして、たー君知ってたの? この二人の事」
「え?」
 冷汗が出てきました。
「いや、まあ・・・その・・・」
「知ってたんだ。知ってて何であたしにこれ、黙ってたの? ヒドイ! どうして教えてくれなかったの!」
「いやあ、スマンスマン」
 なおもニコデレしているオヤジに何故かハラがたってきました。
「まあナンだ、お前らも、でっかい図体して鬱陶しいから、とりあえず座れ」
「何怒ってるのよ」
 お義母さんは怒りまくる娘を涼しげな顔でいなします。
「ウィンドサーフィンは私の趣味。コウゾウさんが興味あるっていうからお誘いして一緒に乗ってたの。それにコウゾウさんも私も独身よ。娘のお舅さんとウィンドサーフィンしちゃいけない法律でもあるの? だいたいあんた何様のつもり」
「まあまあ、サエコさんも。まあナンだ。マユも、なあ。ホントにタカシにゃもったいないほどのイイ嫁だしなあ。俺たち結局、マユに助けてもらったようなもんだし」
 オヤジは意外なことを言い出しました。が、なんとなくオヤジの意図に気付きました。
 マユはようやく矛を収める気になったようで、俺の隣に座りオヤジの話に耳を傾け始めました。
「マユと付き合っていた頃、俺はそのことを話した。失礼かとも思ったが、俺の素直な気持ちだから正直に話した。そうしたら、マユは『そんな風に思ってくれて、うれしい』って言ってくれた。
 素直で、正直で、真面目なところ。何事にも一生懸命で、人を無闇に疑わないところ。全部母さんにそっくりだ。そう思わんか。
 マユを一目見て『この女だけは絶対に他人に渡したくない』と思った。だから多少強引だったかもしれんが、奪うようにしてマユを手に入れた。マユは俺が昔失った大切なものを取り戻させてくれるはずだ、何の根拠もないがそう思った。それは間違っていなかった。マユと母さんに違いがあるとすればそれはたった一つ。マユが親の愛情を一杯に受けて伸び伸び育ったことだ」
「ええー? お義父さん、それはないよ」
 マユは顔を上げお義母さんを睨みつつ反論をはじめました。
「いっつもガミガミ。あたしの顔を見るたびに怒ってたヒトだもん」
「それは違うぞ、マユ」
 オヤジはグラスをテーブルに置きました。
「俺とサエコさんなあ、会うといつもお互いの子供の話、お前らの話してるんだ。
 マユ、お前、小学校の授業参観の時、具合が悪いといってウソついて保健室で寝ていたそうだな。サエコさん、忙しい中時間をやりくりしてきたのに」
「え?」
 マユは俯いているお義母さんを見て一気に戦意を喪失しました。
「運動会の時も、どうしても応援に行けないからって、せめてお弁当だけでもと一生懸命作ったのを、食べずに川に捨てたそうだな。クラス中で自分だけ家の人が来てくれなかったのを逆恨みして、ん? サエコさん、それ見てた他のご父兄から聞いたんだそうだ。あの時はとても傷ついたって言ってたぞ。しかも大学まで行かせてもらったくせに。
 娘が憎くてこれだけのことをする親がいるか? 逆だぞ。サエコさんはお前だけは絶対に幸せにしたいからと必死でがんばってきたんだ。幸せになって欲しいからつい小言が増えるんだ」
 そこで言葉を切ってゆっくりと瞬きをし、ハンカチを目に当てているお義母さんを見やりました。そして続けました。
「マユ。お前もこれから人の親になる。親になれば、さっきみたいな言葉がどれだけ親を傷つけるか、わかるはずだ。お前の欠点はお前のそういう甘えだ。だがお前の幸せもきっとそこにある。目の前の旦那にだけはいつでも本音を言って甘えろ。いつも心を裸にしろ。だがサエコさんには感謝の気持ちを忘れるな。
 ありがとうな、マユ。お前の気持ちはずっとわかってた。だけどお前はもうタカシのものだ。これからはタカシを守って助けてやってくれ。頼むぞ」
「お義父さん・・・」
 マユは涙ぐんで頷きました。
 なんだコイツ。そう思いました。カッコ良過ぎだろうと思いましたが、でもまあ、それでもいいかなと思えるようになっていました。オヤジと言うのはこういう男なのです。だからあんなにモテたのでしょう。昔の恋人たちにも、オフクロにも、そしてお義母さんにも。
「そうだ。忘れてた。タカシ、そこの押入れの小引き出しのなかに茶色い封筒がある。取ってくれ」
 言われた通りに封筒と言うよりは大きめの分厚い書類袋を取り出し、オヤジに差し出しました。ところがオヤジは受け取らず、俺をまっすぐ見ていました。
「何だよ、これ」
「この家といくつかの山や地所の権利書、国債やら社債やらの証券、それから俺の預金通帳だ。要するに俺の全財産だ。全部お前に預ける」
「だって、老後のなんやかやでいろいろ物入りだろう」
「まったく。お前も相変わらずカンの鈍い奴だな。要するにそろそろ俺を養えって言ってるんだ。もう、楽隠居して余生を優雅に過ごしたいんだ、俺は!」
「コウゾウさん。そろそろ、いいかしら?」
 涙を押え、お穏やかな微笑をたたえてオヤジの話を聞いていた義母さんがそう言いました。オヤジは「はい」と応え、きちんと膝をそろえ居住まいを正しました。
「あなた男なんですから、あなたからおっしゃい」
 なんだか全て既にお膳立てされていたみたいでした。
「やあ、こういうのは女性の方が説明しやすいんじゃないかなあ。いいの? ボクが赤裸々に話しちゃっても」
 はあ?「ボク」だと~?
 オヤジが自分を「ボク」なんて言うのは初めて聞きました。お義母さんも、呆れたという顔をして天井を仰いで目を瞑りましたが、俺とマユに向かってこう言いました。
「私とコウゾウさんは同棲することになりました」
「ええーっ? 」
 それまで黙っていたマユが棒立ちになってオヤジとお義母さんを交互に見ていました。「どういうこと?」
「どういうも何も、そういうことですよ。これから私はコウゾウさんと一緒に暮らすということです。自由な女と男としてこれからの人生を共に過ごすということです」
 お義母さんはそう言って微笑んでいました。
 マユは驚いて口を開けていましたが、やがて何かを悟ったように視線を落としテーブルの上の一点を見つめました。
「それからもう一つあるの」
「そこから先はボクが説明するよ」
 とオヤジは言いました。
「あのな、母さんのことなんだがな。
 俺は妻としてヨウコを幸せにできなかった。だが、娘としてならまだヨウコを見ていくことができる。
 これからヨウコはどんどん脳が委縮していく。この先何年持つかわからんが、俺はヨウコを、アイツが好きだったこの家で過ごさせて最後を看取ってやりたい。それでサエコさんに相談した。多少家を改造したり、定期的に専門のスタッフに来てもらったりが必要だが、可能だということだ。これから手続きに入るが、俺はヨウコを養女として迎えようと思う。娘だから、父親だけでなく、母親も必要だ。サエコさんにヨウコの母親になってもらう。そういうことなんだ」
 ウン。と頷き、オヤジは膝を叩きました。
「それでだな、お前ら。すぐにとは言わんが、そろそろこの家から出て暮らせ。これからは俺とヨウコとサエコさんとでやっていくんでな。ヨウコの調子がいい時は呼ぶから、その時は来い」
 マユはずっと下を向いたままでした。
 マユなりにこの家でオヤジと暮らした一年間を想っているのかもしれませんし、かつての恋人が自分の母親と一緒に暮らすことへの葛藤があるのかもしれません。そしてこれで俺とマユが気にかかっていたただ一つのことにようやく道筋がついたわけです。マユが願ったオフクロの帰宅が実現することへの安堵もあるのでしょう。それらの想いを一所懸命整理しようとしているのが俺にはよくわかりました。オヤジもお義母さんも、マユの中で自分たちの言葉が咀嚼されるのを見守っているようでした。
 やがて、マユは突然吹っ切れたようにバンザイして大の字になりソファーにふんぞり返りました。
「あーあ、ハラ減ったあ。たー君、なんか作ってェ」
 マユなりに自分の気持ちに区切りをつけたのだろう、そんな感じがしました。
「まあ! なんなのこの子は。はしたない! あんた専業主婦でしょ」
「今は違うよ。あたしまたOLに戻ったもん。バイトだけど。それにさ、あたしが作るよりたー君が作った方のがおいしいんだもん!」
「まあまあ。その辺で」
 オヤジは立ち上がってキッチンに向かいました。
「今夜は俺が腕に寄りをかけて親子丼でもご馳走してやろうかね」
 俺は頭を抱えました。
「おい! この期に及んで、オヤジギャグかよ」
 義母さんもムッとしてオヤジを睨んでいます。
「・・・まったく。これだから、もうっ!」
 そう言ってヤンチャな子供を叱る母親のような溜息を一つ、吐きました。

 結局、親子丼はまたの機会にということになり、お義母さんは深夜の田舎道に真っ赤に塗装されたランチア・デルタ・インテグラーレのエグゾーストノイズをブンブン響かせ、オヤジを右の助手席に乗せ、湘南のマンションに帰ってゆきました。
 そのテールランプが遠ざかってゆくのを見送りながら、マユは穏やかな微笑みを浮かべていました。
 それは今まで見たことのないマユでした。オヤジが言ったように、赤ん坊のころの俺を見つめるオフクロの表情に似ていたかもしれません。
「ホントにママってば何でこんなタイミングで来たんだろうね」
 マユはお義母さんが来た意味がまだ分かっていないのだろうか。
「マユ・・・」
 俺は愛する妻に呼びかけました。
「ちょっと、寂しい?」
「うん・・・ちょっとだけだけどね」
 俺はマユの両手を取って言いました。
「なんか、お前、大人になったような気がする」
「当たり前じゃん。お義父さんがさっき言ったでしょ。これから母親になるんだから」
 ふんふんと聞いていましたが、あれ、と思いマユに質しました。
「今の話って、・・・ひょっとして、ひょっとするアレか」
 マユはニヤッと笑い俺の腕を引いて家の中に誘いました。
「あのね、明日病院行くけどね、生理がね、一か月くらい、遅れてるの」
「ホントか」
「うん。たぶんそうだと思う」
 マユはそう言って満面の笑みで俺を見上げました。
 ようやく、俺も人の親になるのか。感動がじんわりと湧き上がってきました。
「やったな、マユ!」
「前に言ったけどさ、6人は作ろうね。バレーチーム作りたいからさ」
「すごいな。育てられるかな、俺たち」
「それなんだけどね、あたし思ったの。別居するにしてもこの近くにしよ。ピンチになったらママ頼ればいいんだし。お義父さんも孫と遊びやすくなるじゃん」
「なんか、知らない間にずいぶん先の事考えてたんだな、お前」
 本当に、女ってのはしたたかな生き物だなと思いました。
「だからね、しばらくできなくなるから、今夜は思いっきり濃いーのしたい」
 結局話はそこに行くのか、と思いました。
「スケベだな。そこはいつまでも変わらないんだろうな、きっと。
 でもいいのか? 妊娠初期に」
「大丈夫だよ。あたしとたー君の子だもん。一晩ぐらい、しっかりしがみついてるでしょ。あとが5人つかえてるんだからさっさと生まれてくれないとね」
「そうか。じゃあ、ヤルか」
「うん!」
 マユはにっこり笑って俺の手をギュッと握りました。
 これからやることがなんだか愛の営みというよりは生産行為のように思えてきました。でも、生き物はそうやって子孫を繁殖してゆくのでしょう。思い切りエロいエッチをして大いに生産行為を楽しもう。そう思いました。マユを促して格子戸を潜りました。
「たー君。これからいっぱい稼いできてね。あたしいっぱい美味しいもの作るから、いっぱい精子作ってね。いっぱいサービスするから、いっぱい出してね。そして、いっぱい気持ちよくしてね」
 俺たちはそう言って玄関に入り、引き戸を閉じ、玄関の明かりを消しました。
「でもさあ、一つ聞いていい?」
「うん。どうした?」
「どうして親子丼がオヤジギャグなの?」
 本当に知らないみたいでした。やっぱりマユは天然だなと思いました。








                      了

 
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