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30 古武士の魂

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 泣く以外に何ができたでしょう。

 ひとしきり泣いて、それでも収まらなかった俺は、クローゼットの奥にしまってあった一振りの日本刀を取りだしました。

 それはじいちゃんの形見でした。無銘だが家宝だと、死ぬ間際のじいちゃんから直接授けられたものでした。

 高校三年の春、じいちゃんは、インターハイでの俺の姿を見ることなく、亡くなりました。
 危篤の連絡を受けて病院に駆けつけたとき、じいちゃんは眠っていました。俺が来たらどんなことをしても起こせとオヤジに言っていたらしく、オヤジは無理を押してじいちゃんを起こしました。じいちゃんは死の床にありながら大層な桐の箱に収まっていたこの刀を取り出して俺に手渡し、はっきりした口調で謂れを教えてくれました。


「幕末、先祖の家に一人のサムライがやってきた」と。

 相模と武蔵の野で幕府軍と官軍との壮絶ないくさがあったころのことです。
 サムライは体中に刀傷を負っていました。先祖は彼を手厚く看護して本復させたそうです。
 ところが、
「これ以上ご厚意に甘えるは御家に禍をもたらす」
 そう言って家を辞し、その折にこの刀を置いて行ったのだそうです。
「命より大切なものだったが、もう自分には不要になった。御家の恩に報いるには到底足りないが、自分の気持ちとして受け取ってもらいたい」
 と。
 幕末から明治にかけて、多くの幕臣が困窮のために己の魂である刀を金に換えたそうですが、その幕臣と思しきサムライは士魂を持っていたのでしょう、最後まで主君に殉じようとしたのです。
 先祖はそのサムライの言い様に痛く感動しそのような大切なものは受け取れないと固辞したそうですが、彼はにっこり笑い、刀を置きました。
 せめてお名前をという先祖の言葉にも、
「名乗るほどの者ではありません」
 ニッコリ笑ってそう言い残し、今はダムの底に沈んでしまった川べりに行って自刃したそうです。
 先祖はこの無名のサムライを天晴れとし寺に金を渡して遺骸を丁重に葬り、以降この刀を家宝として代々受け継いできたのだと言いました。
「わかるか、孝。家宝とはこの刀に込められた謂れだ。いまじいちゃんが話した教えだ。その教えをよく胸に刻め。刀はその徴として必ず謂れと共にお前の子に継がせよ。ただし」とじいちゃんは言いました。
「戯れに刀身を検むること勿れ。教えを無視し、邪な気持ちで扱えばお前に害をなす。心を安んじ無念無想にて取り扱うべし」
 じいちゃんは侍みたいな言い方で俺を睨みつけました。ちょっとたじろぎました。
「本来は孝三に継がせるべきところだが、お前のオヤジはその器ではなかった。だから孫である孝、お前に託す。いいか。繰り返すが、必ずお前の子に継がせよ。わかったか」
 それだけ言って、残っていた力を使い果たしたのか、また目を閉じて眠りにつき二度と目覚めませんでした。
 病室で久々に会ったオヤジは、
「そういうことらしいから、貰っておけ」と言っただけでした。
 そういう刀です。

 生前、じいちゃんは頭に来ることがあるとよくこの刀の刃紋を眺めて怒りを鎮めていたのです。俺はそれを期待してマネをしてみたかっただけでした。
 初めてその刀を抜きました。
 多少剣道ができるだけに過ぎなかった俺は、刀剣の知識はほとんどありませんでした。居合もじいちゃんから型だけ教わっただけで全くの素人と変わりありません。修練を積んだじいちゃんとは違い、妖しく鈍い光を放つ刃紋を眺めているうちに怒りを鎮めるどころか余計にムラムラと怒りが増してきて、どうにもたまらなくなってきてしまいました。
 抜身の刀を持ち左手に鞘を掴むと縁側から庭に躍り出ました。幾重にも巻かれた柄糸の柄は手にしっかりと馴染んでいました。糸の間からかつての持ち主の怨念が染み出していたのでしょうか。重い刀身を一度鞘に納め正座した後、右足を前に踏み出し一気に前に振り出しました。
 鈍く光る切っ先の向こうに、主とかいう顔の無い腐れ野郎が浮かび、もう型どころではなくなってしまいました。奇声と共にめったやたらに振り回しました。切っ先が張り出した松の枝や金木犀の葉に触れるたびに木の葉や枝切れが散りました。長い刃が空気を切り裂く度に鎬(しのぎ)を流れる風が震え、ひゅっ、ぶひゅ、と鳴きました。もしご近所の誰かが回覧板か何かを持って訪れてきていたら、間違いなく斬り殺していたでしょう。
 目の前にオフクロのオヤジや見ず知らずのオフクロを弄んだ男たちやらが、戊辰戦争で幕府を滅ぼした官軍の兵士たちに交じって湧いて出て、俺を襲ってきました。俺はそいつらを次から次に斬り殺してゆきました。その刀には官軍の兵士たちの血が沁み込んでいたのかもしれません。俺が見たのはその怨念が作り出した幻影だったのかもしれません。
 どのくらいの間そうしていたかわかりません。結果的に俺は殺人犯にならなくて済みました。
 幻影たちがことごとく倒れた後、抜き身の刀をぶら下げて庭の真ん中に放心したようにボーっと突っ立っていました。
 と、ふいに一陣の風が背後から襲いものすごい勢いで襲ってきて危うく突き飛ばされるところでした。風は俺をどやしつけた後、天高く昇って行きました。風の中で誰かの囁きが聞こえたような気がしました。辺りを見回しましたがもちろん庭には俺だけで、他には誰もいませんでした。もしかすると、この刀の持ち主だったのかも知れません。
 剣道九段、居合道五段のじいちゃんだったなら、例えどんな憤懣や憤怒、怨念や憎悪があったとしても、俺みたいにたった一人の大立ち回りなどしなくとも波紋を眺めるだけで心を静めることが出来たことでしょう。自分の息子を二人までも御国のために死なせた無念もそうして忍耐したのかもしれません。
 でも未熟者の俺には大暴れが必要だったのです。そして最後に残ったわだかまりは、もしかすると刀に宿った幕臣の霊が風と共に天に持って行ってくれたのかも知れません。
「そんなものは持っていても無駄だから持って行ってやる」
 とでもいうように。
 じいちゃんはオヤジを「器ではなかった」と切って捨てましたが、むしろオヤジの方が俺なんかよりもずっとこれを持つのに相応しかったんじゃないかと、今は思います。

 長年会わなかったのに、何故オヤジは俺のことを事細かに知っていたのか。
 何故オヤジはお義母さんに会いに行ったのか。
 何故オヤジは車の中のマユに向かって土下座をしたのか。
 何故オヤジはマユと別れたのか。
 そして、何故オヤジは息子の嫁となったマユと再びまぐわい、それを俺に見せつけたのか。
 俺はこの半年間に見聞きした全てを想い出し、理解し、受け入れることにしたのです。言葉や理屈ではなく、です。
 俺の中のわだかまりは、跡形もなく消えていました。
 そしてその後に深い悔恨が残りました。

 左の腿と左手の親指の腹とから血が流れていました。少し切ってしまったようでした。流れた血を見てやっと我に帰りました。日本刀と言うのは危険な武器なのです。みだりに扱うと俺のように自らを傷つけてしまいます。まあ、武器というものはすべからくそういうものではあるのですが。
 じいちゃんに教わった通り刀の手入れをして仕舞い、傷が浅かったので簡単にタオルを巻いて止血をし終わると、急速に眠くなって寝室に引き上げて寝ました。
 一時間ほど眠ったようでした。
 夢も見ない深い眠りにおちていました。階下からのトントン、というまな板の音で目が覚めました。
 キッチンに降りると、マユがいつものTシャツにショートパンツという格好で包丁を使っていました。その日常の佇まいにまずはホッとしました。
 ボブカットというのでしょうか。セルフカッティングで少しギザギザになっていた毛先が整えられ、肩の上でやや内側にくるんと丸くなった可愛らしい後姿です。ふくよかなヒップとムチムチの太股と共に、その後姿は少し、俺を萌えさせました。
 あまり長い時間俺が後ろに立っていたので、もう切るものが無かったと思うのですが、それでもマユはまな板を打ち続けていました。見ると肩が微かに震えていました。
 たまらなくなって、マユを背中から抱きしめました。マユの柔らかな身体から漂う香りが、俺を心から和ませました。
「キャッ」
 まるで女の子みたいに、マユは小さな叫び声をあげ、包丁の手を止めました。強張っていたマユの体から力が抜けて行くのがわかりました。
「・・・アッブネーなあ・・・。手切ったらどうすんだよ、ばか!」
 声までが震えていました。
「・・・ごめん」
 ことん、と包丁が置かれ、マユの温かく濡れた手が俺の右手を掴み、Tシャツの下の裸の胸に導きました。手の平にさらに温かでふくよかな乳房がありました。激しい鼓動が伝わってきました。
「わかる?・・・とっても、怖かったんだよ」
 くるっと振り返ったマユは俺の首に腕を回し抱きついてきました。
「だってさ、たー君、刀振り回して暴れてるんだもん! 目なんか血走っちゃってさ。すぱすぱ枝切っちゃってさ。もう怖くて怖くて、近寄れなかったんだよ」
 大きな目いっぱいに涙を溜めて俺を睨んでいました。なんだか、とても申し訳ない気持ちになったものです。
「・・・見てたのか。・・・ごめん」
「今もだよ。たー君、ずっと後ろに立ってるし。
 やっぱあたし、斬られちゃうのかな、って。
 お義父さん、『あいつが本当に怒ったら何するかわからんぞ』って。『人を殺しかねないぞ』って。そう言ってた。『お前、その覚悟あるのか』って。
 あたし、たー君になら、いいやって思ったから、うんって言った。そう言ったよね? 
 だけど、本当にたー君が怒ってるとこ見ちゃったら、もう・・・。恐くて・・・。
 いつもと全然別人なんだもん。鬼みたいだった。
 お義父さんが言ってたのはこういうことなんだなって。今日、あたし、切られて死ぬんだな、って」
 すん、すんと鼻をすすり、唇を震わせて涙ぐんでいたとおもうと、えーん、と泣き出しました。
「・・・ごめん。ごめんよ、マユ」
「あ”ーん。怖かったよー。やっぱり、まだ死にたくないよー。あ”ーん・・・」
 えーん。えーん。
 子供のように肩を引きつらせながら大泣きするマユを強く抱きしめました。彼女は強く抱き返してきました。
「ごめん。本当に、ごめんよ、マユ!」
「昨日の朝晩と今朝の分。お料理無駄にしたんだよ」
「・・・ごめん」
「一生懸命、作ったんだよ」
「・・・ごめん」
「もっとかわいくなろうと思って、たー君に見てもらおうと思ってさっき美容院にも行ったんだよ」
「・・・ごめん。かわいくなった。前よりずっと」
「・・・絶対戻ってきてくれるって信じてた」
「・・・ごめん」
「チクショー、このヤロウ」
 無茶苦茶に俺を叩くマユ。俺を貪るように乱暴にキスし、俺の頭を掻き毟りました。俺は黙ってそれを耐えました。
「もう、絶対、あんなコト言わないでよ!」
「・・・うん」
「スンゴい、悲しかったんだからねっ!」
「・・・うん」
「あたしが大好きなのは、たー君だけなんだからねっ!」
「・・・うん」
「罰として、今夜は朝までだからねっ!」
「・・・え?」
 やっぱりそうなるのか、と思いました。
「その前にさ、マユに見てほしいものがあるんだ。というか、読んでほしいものが」

 俺はマユを促して寝室に上がりました。
 床に正座しました。俺に従い、マユも無言で正座し、俺たちはお見合いみたいに向かい合いました。
 オフクロの手紙を示しました。俺の雰囲気を察したのか、彼女も居住まいを正して手紙を手に取りました。
「これからマユと一緒にずっと暮らしてゆくために、是非読んで欲しいんだ。長いし、内容がちょっとキツイかもだけど、できれば最後まで読んで欲しい」
 マユは恐る恐る封筒から手紙を取り出し、広げました。
 暫く黙読していた彼女は、やがて俺の側に擦り寄ってきました。
 胡坐の中に入れてやりました。
 半分ぐらい読み進んだあたりから様子がおかしくなりました。
 肩が震え溜息を洩らしTシャツの裾でしきりに顔を拭いました。
 それでも読み進めていましたが、
「もう、無理。もう、読めないよ!」
 と泣きが入りました。
 俺にしがみつき俺の肩に歯を立てて嗚咽を我慢していました。
 彼女の頬を伝った涙と洟が俺のシャツを濡らし、俺は手紙を読むマユの背中を擦り、彼女が手紙を読んでいる間中、髪を撫でてやりました。
 マユは何も言いませんでした。ですが、俺の耳には耳朶を弄る彼女の嗚咽が響いていたのです。マユは俺の心の中にだけ響く周波数で絶叫していたのです。隣り合った弦の振動が伝播するように、俺の心の振幅がマユに伝わり、また反ってきてより大きく共振していました。
 それは深い哀しみの色を帯びていました。
 手紙を読み終えたマユは、か細い声で絞り出すように、こう言いました。
「お義母さんが、可哀想過ぎるよォ。切ないよォ。たー君、切ないよォ」
 しゃくりあげる彼女を、俺はずっと抱きしめていました。
 ふいにマユは涙を拭いて立ち上がり、ショートパンツのポケットからケータイを取りだしてフリップを開きました。
「おい、」
 と、俺は言いました。
「どこに電話するんだ」
「お義父さんのとこ!」
「電話してどうするんだ」
「決まってるでしょ。お義母さんの居所聞くの。お義母さん連れ戻して来るんだよ」

 この女だけが俺の女だ。
 心底そう思いました。

 この女と結婚してよかった。
 この時ほど嬉しかったことは、後にも先にもありません。
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