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29 母の手紙 全ての終わり そして母は妻と母であることを捨て、俺の元を去った

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 次の日の夕方になって、あなたはダムのほとりの小高い山の頂上で発見されました。

 直ぐ病院に運ばれ診察を受けたところ、少し衰弱してはいるものの、命には別条はないということでした。丸二日間飲まず食わずだったわりには、あなたは強い体を持っていたのです。知らせを聞いた私はすぐに病院に駆け付けました。あなたは点滴を打たれて眠っていました。お父さんはあなたの手を握り、ずっと擦っていました。
「もしかするとある程度の記憶障害が残るかも知れないそうだ。回復を待って専門の先生の診察を受ける」
 お父さんこそ飲まず食わず、そして寝ずにあなたを探し回ってぼろきれの様になっていました。いつも身嗜みのいい人が無精髭に覆われてこけた頬をしていました。
 私が代るから一度家へ帰って着替えを、とお願いしました。お父さんが「大丈夫か」と尋ねたので、市子さんが来てくれたから、と答えました。
 お父さんが病室を出て行き、あなたの手を取りました。
 私のあんな姿を見てどんなにか辛かったでしょう。
 真っ暗闇の中、あんな山の中でどんなにか怖かったでしょう。
 あなたはきっと錯乱状態で彷徨い続けたのでしょうね。そうでなければ、真夜中に、あんな恐ろしいところへ、たった一人で行くわけがないのですから。
「ごめんね、孝」
 何度も繰り返していました。あなたは低く苦しそうに唸り、顔を歪めていました。私の手を強く握ってきました。かすかにあなたの口が動き、何か言いたげに顔を向けました。私は身を乗り出してあなたの口に耳を近づけました。

「お母さん。・・・殺してやる・・・」

 これはうわ言だ。
 何度も自分に言い聞かせました。
 でも駄目でした。もう、耐えられませんでした。市子さんにお父さんを奪われ、最愛のあなたにまで心の深層で拒否されたら、もう生きていけない。そう、思い込んでしまいました。お医者さんにも看護婦さんにも何も言わず、私は病室を出て家に戻りました。お父さんに縋りたかったのです。私は家に戻り、お父さんがお風呂から出てくるのを待ちました。たった十数分のことが何時間にも感じられました。
 病院にいるはずの私が家に居ることにお父さんは驚いた様子でした。孝に何かあったか。そう問いかけるお父さんに抱きつき、孝は大丈夫、私を抱いて下さい、とお願いしました。
 お父さんにそれまでに知ったあらゆる愛し方を全てしました。
 お父さんは観念した様子で私にされるままになっていましたが、私がどんなに頑張っても、私に愛を注ぐ形にはなりませんでした。
 全てが終わり、たった一言、お父さんは言いました。
「気が済んだか」
 私は最低の女です。

 お父さんは自分とあなたの着替えを詰め込みました。
「孝の意識が戻るまでは帰らない。もう何もしなくていい。とにかく家から出るな。わかったな」
 そう言い残し、お父さんは病院に向かいました。
 丸二日間、あなたは深い昏睡とうわ言とを繰り返し、意識を取り戻しました。精神科の先生の診察の結果、あなたは軽度の記憶障害を負っていました。私に何度も打たれたことや暴れて包丁を構え家を飛び出してから発見され病院に担ぎ込まれるまでの記憶を全て失っていました。私についての嫌な記憶をきれいさっぱり失っていたのです。先生によれば、人によるけれども、何か耐えがたいほどの苦痛を受けたとき、自分の心を守るために嫌なことを思いださなくなることがあるのだそうです。思い出すまでに相当時間が掛かったり、一生戻らない人もいるのだそうです。
 あなたは目覚めてから最初にお父さんの顔を見て、嫌そうな顔をして、私のことを尋ねたそうですね。お母さんに会いたいよ。あなたがそう言ってくれたとお父さんが電話で知らせてくれました。すぐにもあなたに会いたくなりました。そう言うとお父さんは疲れた声で、退院したら会える、とだけ言いました。
 無意識下で殺してやると言われていた私は、会いたいと言われて有頂天になり、お父さんの心中を察することができませんでした。あなたを必死で探し、寝ずに看病をしたのはお父さんなのに。あなたを傷つけ、幼い心に殺意まで芽生えさせた原因を作ったのは私なのに。
 退院したら会わせるから、それまでは家に居ろ。繰り返し念を押されました。
 三日後、お父さんはあらかたの荷物を持って帰宅しました。あなたの退院の見通しがついたので、身の回りの持ち込み品と汚れ物を持ち帰り、あなたの洋服を取りにきたのです。私は玄関に走りました。疲れ果てて玄関に立っていたお父さんに私が最初に言った言葉、その言葉が、私とお父さんの別離の言葉になりました。

「今日はお家に居られるの?」

 もし、あなたがごく普通の状態だったなら、こんなありふれた言葉はそれほど重い意味を持たなかったでしょう。でも、私はあなたがどんな状況にあるか知っていました。お父さんがどんなに大変な苦労をしてどんなに打ちひしがれて、それでもどんなに必死であなたの回復に努めていたか知っていました。知っていながら吐いたその言葉がお父さんの胸を切り裂いてしまったことを、お父さんの目で知りました。
 お父さんは黙って目を閉じていました。そして再び目を開いて私を見上げた時、そこにあらゆる苦痛に苛まれた人間の目がありました。目は、私を憐れんでいました。

 私は全てを悟りました。

 框に立ち尽くす私の横を通り過ぎ、無言で手早く支度を済ませ、来た時と同じように私の横を言葉もなく通り過ぎて、お父さんは出てゆきました。
 それからしばらく、閉じられた玄関の引き戸をぼんやり見ていました。ふと額に当てた手の指の匂いで、自分の浅はかさを思い知らされ、絶望しました。
 私はあなたが苦しみながら病床にあるその数日間、独りで自分を慰め弄っていました。お父さんが帰って来て引き戸を開けたその瞬間まで、自分を弄っていたのです。その私の女の匂いが指に残っていました。

 もう、死にたい・・・。
 それしかありませんでした。

 もうこれ以上、あなたやお父さんを苦しめたくない。
 私はあなたを愛していました。愛しているから、もうあなたの目の前から姿を消さなければならない。そう思いました。
 身支度をして戸締りをし、鍵を郵便受けに入れ家を出ました。書置きもしませんでした。靴を履いて三和土に下り立った時、姿見で自分を見ました。
 もうそこに私はいませんでした。一匹の蛇が鎌首をもたげていました。蛇は虚ろな目で私を見て、二つに分かれた舌先を震わせながら下卑た笑いを浮かべていました。
 一度も後ろを振り返りませんでした。歩いて駅まで行き、思い直して病院まで行きました。そして、遠くからあなたの病室を見上げました。
「さようなら、孝」
 あなたに別れを告げ、私は駅に戻りました。


 

 それからこの場所にたどり着くまでのことは書きません。書く価値が無いからです。
 性欲の塊になった女が全てを失い、堕ちるところまで堕ち、行き着いた果てがここだった。それだけです。

 不思議なもので、人妻だったときは多くの男たちが私を求めてくれました。それなのに、人妻であることをを辞め、放浪する三十路を過ぎた女には誰一人近寄ろうとさえしてくれませんでした。

 助けてくれたのは、今の主です。
 私は主への信仰の下、数人の下僕たちと一緒にここで暮らしています。私の毎日は全て主に捧げられています。主を讃え、主に祈り、主の前に跪き、主に奉仕し、主に悦びを与えられ、主の下僕たちの世話をし、日々を過ごしています。

 主は外道に堕ちたこんな私に憐れみと施しを下さいました。その恩に報いるため、私は主に全てを捧げ、主と共に、主の教えに従って生きることを誓いました。主と共にある時、私は悦びに満たされます。主が私を離れ、別の下僕に施しをされるときや、私に別の下僕の奉仕をお命じになるときも、私は苦痛と悦びを同時に感じ、幸福の中にいることができるのです。
 でも、主と共にあるときと眠っている以外の時間は、地獄なのです。
 あなたに別れを告げたのに、結局私はあなたを忘れることが出来ませんでした。
 信仰の妨げになる。何度も主に諭され、忘れるように努めました。でも、忘れようとすればするほど、あなたに会いたい思いが募り、私を苦しめました。
 私の中の家は全て蛇のものになりました。もう、人間も妻の私もどこかへ消え去っていなくなりました。
 でも、驚いたことに母である私はまだ、館の中で怯え、片隅で小さくなりながらも生きていたのです。
 かつて蛇が閉じ込められていた開かずの間は新たに頑丈な扉が取り付けられ、絶対に開かない鍵で封印されています。私の中の母性はそこに閉じ込められているのです。悪魔の蛇が悦びを享受している間、母親は大人しくしています。蛇が享楽に疲れ眠ってしまうと、母親が悲しい声で泣きはじめます。その嗚咽は小さく、か細くて消え入りそうなのに、何故か館中に響き渡り、私を責め苛むのです。
 その苦しみから解放されるために、主への祈りと奉仕に没頭しました。主はそんな私に何かをお感じになり、一際深い悦びをお与えくださいます。けれども、祈るほどに、奉仕するほどに、悦びを与えられるほどに、私の中の母親の悲痛な叫びが私を苦しめるのです。
 それは罰でした。
 私を愛してくれた、私が愛する人たちを苦しめた、その罰なのだ。
 そう思うことで自らを慰めています。そう思わなければ、救われないのです。
 私は主に与えられる悦びと、罰の苦痛に耐えることに、生きる意味を見出したのです。


 そうして数年の時が経ちました。


 昨日のことです。

 突然私の目の前にお父さんが現れました。
 お父さんはあれから方々私を尋ね回り、ついに私を探し当ててしまったのです。主のお命じにより、私はお父さんに会いました。
 テーブルの向こう側のお父さんは以前と全く変わらない姿で立っていました。溌剌として生気に溢れ、出会ったころのようにまっすぐに私を見つめていました。
「洋子、一緒に帰ろう」
 お父さんはそう言ってくれました。
 数年ぶりにその名前で呼ばれ、気が遠くなりそうな感動を覚えました。そして、その名前と共にあった日々の記憶を呼び覚まし、愛でました。ですが、私にはもう、戸惑いはありません。お父さんから何を言われても、私の心が変わることはありません。
「戻ったとして、どうなるの。また同じことを繰り返して、貴方や孝を破滅させてしまうだけ。それは私には耐えられない。仮にもしそうなってしまったら私は自ら命を絶ちます。今でも貴方と孝を愛しているから戻れないんです」
 そう言いました。
「俺はともかく孝は納得しないぞ」

 私以上に、お父さんはあなたを大切に思っているのです。
 だから、あなたにはきちんと説明するべきだと思ったのです。
 お父さんから聞きました。
 あなたが元気で学校に通いおじいちゃんについて剣道を始め高校総体で大活躍したこと。おじいちゃんが亡くなったこと。そして私の父と母が亡くなったことを知りました。
 私は肉親を失ったことを知っても何の感動もしない自分に驚きました。どういう死に様だったのか聞き返しもしませんでした。お父さんにもそれがわかったのでしょう。
 手紙を渡して欲しいと言いました。あなたに、です。明日また来てください。それまでに書いておきます、と。

 それから、私はこの手紙を書いています。
 初めて主の命に逆らい、お召があっても部屋を出ず、書き続けています。書きながら、私は泣きました。泣き続けながら、書きました。手紙は主に見せることなくお父さんに手渡すつもりです。私はそのことで罰を受けるでしょう。でも絶対にお父さんに直接渡します。
 私を邪悪な蛇に変えてしまった女を形づくったのは、紛れもなく父でした。今、主に悦びを与えられる毎日を送りながらそう思うのです。父はそれしか愛し方を知らなかったのでしょう。
 もしも私が、人を愛することを尊ぶ家庭に生まれ、父や母から温かな愛情を一身に浴びて育ち、恋をして愛の悦びを知り、お父さんに出会い、恋愛し、結婚し、あなたやたくさんのあなたの弟妹たちに恵まれていたら・・・。
 そういう問いを幾度も繰り返しました。でも、それは無意味だとその都度思い知らされるのです。そのもしもが無かったから今の私があるのです。そのもしもが現実であれば、今ここでその問いを問う私自身は存在せず、別の私が別の世界で別のもしもを問うていることでしょう。
 あなたに会いたい。あなたを想わない日はありません。
 この世の誰よりもあなたを愛しています。
 どんなに立派な若者になっていることでしょう。きっと剣道に勉強に恋愛に仕事に、一生懸命になっていることでしょう。これからどんな女の子に思いを寄せていくことでしょう。そしてどんな幸せな家庭を築いていくことでしょう。
 一目でいいから、あなたの姿を見たい。一秒でもいいからあなたを抱きしめたい。
 それが、叶わない望みと知りつつ、そう願いながらも決して会ってはならないと自分を戒めながら、あなたのことを想わずには、愛さずにはいられないのです。
 いずれ、ここにも終わりが来るでしょう。その時私は本当に神のもとへ行くための場所へ移ることになるでしょう。神はこんな穢れた外道に落ちた女でも救ってくださると信じているのです。その時は私の中の女である蛇はここに置き去りにし、去って行った人間を呼び戻し、私の中の辛うじて生き延びている母親を大切にして移ることでしょう。

 あなたにお願いがあります。
 これだけは約束してほしいのです。
 この世の仮の住まいである私の体がその役目を終え、私の魂が神のもとへ旅立ったら私のお墓に会いに来てください。でも、それまでは、絶対に会いに来てはいけません。会おうと思ってもいけません。なぜなら、私は私が一番幸せだった幼いあなたと過ごした日々の姿であなたに記憶されたいからです。それが今の私のただひとつの望みなのです。

 朝になりました。もう時間がありません。

 最後に、こんな私にここまで尽くしてくれたお父さんへの感謝と、この世で一番大切なあなたの健やかな成長と幸福な人生を願って、ペンを置きます。



 元気で力一杯生きて下さい。
 さようなら。




 長谷川 孝様            母
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