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11 レインコートのマユ
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次の日は幾分気分が良くなっていました。良くなっていなければ、課長に申し訳ないです。あんなに部下に親身になってくれる上司なんていないのですから。
課長が言っていた通り、俺はリーダーから降格し代わりにタキガワが昇進する辞令が交付されました。俺を追い落として勝ち誇ったように満面の笑みで俺を見下ろしているタキガワにムカつきました。が、仕方ありません。やはり課長の言う通り、初心に戻ってやるべきことを淡々とやるだけだと自分に言い聞かせました。
しかし、うまく行かないときはやっぱり何をしてもうまく行かないものです。
外回りに出てもカラ回りばかりで、もうそんな無駄なことはやめろとでもいうように梅雨の雨が追い立ててきました。今はツキがない。俺は昨日失注したネジ製造業者の再検討だけを収穫に会社に戻りました。
オフィスに入ると同僚達から「ごちそうさまでした」と言われました。何のことだろうと訝っていると、
「今日、奥さんご挨拶に来られたんですよ。お父さんが旅行から戻られてそのお土産、って」
隣の課のタカハシという新卒の女性社員が教えてくれました。
「あ、そうなんだ」
突然のことに戸惑っていると社長から直々に呼ばれました。
オフィスビルのワンフロアにヒラから社長までが一緒にいる、そういう会社です。開発部門だけはその性質上、暗証番号で守られたスペースに隔離されて仕事をしてますが、他の殆どの社員は社長の視線を浴びながら仕事をしています。
「おう、ごくろうさん。お前も食え。お前の嫁が持ってきたクッキーだ。相変わらず元気な奴だなあ、若い連中のケツ蹴り上げて大騒ぎして帰ってったぞ。最後に『夫をよろしくお願いします』ってちゃんと挨拶していった。いい嫁になったな、コタニも。お前ももう少し、頑張らんとな」
開発部にマユが在職中にかわいがっていた後輩がいます。二メートル近い、体重が百キロを超える巨漢です。大学時代はラグビーをしていたそうで、ミヤモト課長の後輩に当たります。若年にもかかわらず開発者としては優秀な男です。グローブのようなゴツくて大きな毛むくじゃらの手をひらひらとキーボードの上で舞わすさまは異様で、未だに違和感が拭えません。聞けば小学生のころからPCを自作したりプログラムを組んで遊んでいたのだそうです。人間、どういう才能を秘めているか、見た目ではわからないものです。
「あ、ハセガワさん。ごちそうさまです」
「おいしかった?」
「ハイ」
アイダはとても嬉しそうでした。結婚前、マユがアイダのデカイ尻を蹴っ飛ばしていたのを何度か見ていました。
「久々にケツ蹴ってもらって良かったな」
「ハイ」
「お前、マゾなの?」
「ハイ。・・・あの」
「何?」
「姐さん、なんかあったんスかね」
「え?」
「なんか、こう、蹴り方が、前と違いました」
「蹴り方? なんだそれ」
「ハイ。・・・うまく説明できないンスけど、前の蹴り方はこう、ずーんって脳髄に響いてくるみたいで快感だったんスが、今日のは響かなかったんス。どうしたんスかね」
何とも返事に困り、自分のデスクに戻りました。息つく間もなくミヤモト課長に呼ばれました。クッキーをぼりぼり食べながら、俺を睨んでいます。
「ネジ屋、どうだった?」
「再検討いたたけることになり、週明けに結論をくれるそうです。金額より性能部分に疑問があったとのことで、使っているドイツ製の工作機械に実装した実績を説明したら乗り気になってくれました。いい返事が聞けると思います」
「そうか。ご苦労さん。じゃ、もう帰れ」
「え? 報告書は」
「来週ネジ屋の受注が決まってからでいい。今日は早く、そして必ず、家に帰れ」
課長は半ばヤケクソ気味にクッキーをコーヒーで流し込んでいました。
「お前なあ。一体嫁にどういう教育してるんだ。コタニの野郎、俺んとこにつかつか来てこれ机に叩きつけて『今日は絶対に残業させないでくださいねッ』ってスゴんでったぞ。何で俺がアイツに怒鳴られなきゃならん? そういうわけだから今日はもう帰れ。これは業務命令だ!」
そう言って課長はニヤと笑い、声を落として続けました。
「向こうが折れて来たんだ。帰って可愛がってやれ、な?」
ひとつ気になったのは、タキガワがフレームレスの眼鏡の奥の細い目を険しくして俺を睨んでいたことです。朝、俺を追い落として勝ち誇っていた男が、何故俺を睨むのだろう。それがとても不可解でした。
ビルの正面から舗道に出ると紫のレインコートを着たマユが傘を差して立っていました。
「お疲れ様、たー君。お仕事ごくろうさまでした」
俺に傘を差し出しながら、儚げな笑みを作ってそう言いました。心なしか、目が腫れているように見えました。いつもはスッピンに近いナチュラルメイクしかしないのに、ファウンデーションを厚塗りしていました。
「・・・うん」
「今日、お義父さんがゴルフから帰ってきて『タカシの会社に持って行ってやれ』って。お土産。いっぱい買ってくるんだもん。一緒に帰れたらなって、一回お家に戻るのもメンドくさかったから、そのへんブラブラして、待ってた」
「・・・うん」
俺が傘を差すとマユは自分の傘を閉じて入ってきました。そして、俺の袖を掴みました。
「・・・ねえ、一緒に帰ろ」
「うん。・・・でも・・・」
「うわーんっ!」
突然、大声で泣き出しました。まだ退社時刻には早く、通りに人は疎らでしたが、それでも二三の視線は確実に浴びました。
「たー君が苛める~」
慌ててマユの口を塞ぎました。
「わかった。わかったから」
「じゃあ、また一緒に暮らしてくれる?」
「うん、・・・今日だけは、帰るよ」
「一緒に暮らすって言ってくれなくちゃヤダ~」
そういってまた大声を出すのです。
「わかった。とにかく帰るから。帰ってから話そう」
まだ不安気な顔をしていましたが、俺が黙っていると諦めたように無理に顔を明るくしました。子供かよ、と思いました。
地下鉄、電車と乗り換えて家に着くまで、マユは俺の腕を掴んで放しませんでした。まるで手を離せば俺がどこかへ行ってしまうとでも思っているかのように。空いた電車のベンチシートに並んで腰かけると、俺の手を膝の上に乗せて抓ったり引っくり返したりして遊んでいます。その仕草はまるで、初めて彼氏ができてうれしくて仕方ない女子中学生のようでした。わざとらしくもあり、憎くもあり、いじらしくもあり、です。
その場で抱きしめてしまいたい気持ちと、抱きしめたいのに、何かが邪魔して、できない。相反する感情に、苦しみました。
二日ぶりに家に帰るとオヤジがいました。
顔を合わせたくなくて足早に二階へ向かおうと階段を昇りかけると、「タカシ」と呼び止められました。
オヤジは居間の奥から廊下へ出てくると、俺の前に膝をつき、頭を床に付けました。
「悪かった。許せ」
そういって頭を上げ、まっすぐに俺を見上げました。
「今回のことは、全て俺が考えてやった」
と、オヤジは言いました。
「お前には黙っていたが、俺は以前、マユと付き合っていた。しかし、お前たちが付き合い始めてからは、マユとは一切関係を絶っていた」
やはり・・・。
だと思いました。
マユとオヤジとのあの関係は俺たちが結婚する以前からのものだったのです。そうでなければ、あんな・・・。
「今回、マユから相談を受けた。お前が潰れそうだという。俺が案を出し、マユに協力してもらった。正直に言う。俺はまだマユを女として見ているし、あの時も、女として抱いた。今でも女としてマユを愛している。
だがもう一度言うが、お前たちが付き合い始めてからは、関係はお前が見たあの一晩だけだ。今後、俺は二度とマユに触れない。お前が出て行けと言うなら、出ていく。だから、頼むからマユを責めるな。
かわいそうに。俺のせいでお前が帰ってこなかった間、ずっと泣き続けていた。俺の事は許さなくてもいい。だが、マユは許してやれ。そして、また一緒に暮らしてやってくれ。
俺は今までお前にずいぶん辛くあたってきたかも知れん。お前を苦しめてきたかも知れん。だから元々こんなことを言える立場ではないことも分かっている。だが、これだけは受け入れてくれ。マユとまた一緒に暮らしてやってくれ。頼む。この通りだ」
そう言って、オヤジはまた床に頭を付きました。
はあ?
俺が潰れそうだから俺の嫁とセックスする?
まるきり理解が出来ませんでした。少しアタマがおかしいんじゃないか? 寝言は寝てから言え、と。
いつのまにかマユは俺の側で膝をついていました。泣いていました。その姿が急に歪みました。俺の爪先にぽたぽたと滴が落ちました。マユの涙が俺のズボンを濡らし、俺の滴が彼女の髪に落ち、流れて消えてゆきました。無意識に彼女の肩に置こうとした手に気付き、掌を見つめました。
黙ってじっと俺たちを見ていたオヤジでしたが、やおら立ち上がって玄関を出て行こうとして、ふと立ち止まりました。
「しかし、お前も情けない奴だな」と呟くように言いました。
「何?」
「自分の最愛の女を盗られて、ただ女に辛く当たって、グチグチぼやいて・・・。それで終わりか?」
框に腰を下ろすと、背中越しに俺を睨んでいました。
「何故俺に向かって来ん。何故俺に文句を言わない。大事なものを盗られたなら、それを盗った奴をぶん殴るのが当たり前だろうが」
オヤジはジャケットの裾の方の内ポケットから折り畳みナイフを取り出し、開いて俺に突き出しました。
驚きました。
当然ナイフにも驚愕しましたが、市役所に勤める普通の一般市民であるオヤジが、映画のスパイとかヤクザみたいにそんなものを持ち歩いていることに。
「ほら」
ナイフをくるりと回し、柄を俺に向けて切っ先を自分の胸に当てました。
「やってみろ。赤の他人に殺られるのは納得いかんが、お前に嫌われようと貶されようと、俺はお前のオヤジだ。親にとっちゃ、いくつになっても子供は子供だ。子供に殺られるなら仕方がない。お前にしてみれば、クソオヤジだ。今までの恨みつらみもあるだろう。いい機会だ。遠慮なく、殺れ」
「もうやめて、お義父さん!」
切羽詰まった声を上げるマユを無視し、オヤジは続けました。
「俺はマユを愛していた。今でもそうだ。愛している女が不幸になるのを見過ごせなかった。ただそれだけだ」
と、オヤジは言いました。
「俺は家庭を顧みなかったクソ野郎だが、自分の息子の性格くらいわかる。
お前は子供のころから自分の大切なものを取られるのを一番嫌ったな。
一度お前がバレーの練習をサボったとき、罰としてお前が大事にしていたプラモデルを二階から放り投げて壊した。そのときお前は椅子を振り回して俺に向かって来たな。俺に放り投げられて吹っ飛んだが、また向かって来た。何度も、何度も。あれは忘れられん。今でもよく覚えている。
だから一計を案じたんだ。
それが、どうだ。
今じゃ腑抜けじゃないか。会社で何が在ったのか知らんが、ちょっとぐらい仕事がキツイからといってグズグズしやがって。おまけに女房にまで心配かけて。男なら、心配かけて済まない、絶対俺がお前を守るから安心しろ。そのぐらい、自信があろうがなかろうが言ってやるぐらい当然だろうが。自分で自分を奮い立たせて女を守るのが男の務めだろうが!
可哀そうに。こんなに可愛い女を泣かせて。自分はコソコソ隠れて・・・。
お前はそんなに情けない奴だったのか。憎んでいる俺にここまで言われて悔しくないのか。恥を知れというのは言い過ぎか。これは、恥だぞ。男なら、恥を雪いでみろッ!」
悔しくてたまりませんでした。
なんでオレが女房を寝取ったヤツから説教されなちゃいけないんだ!
頭に血が上っていました。それなのに何も言えず、身動きも出来ず、ただバカみたいに突っ立っていただけでした。顔が、歪んでいたかもしれません。
「やっぱり腰抜けか。
はあ~・・・。仕方がない。俺は若い頃チンピラがヤクザにケジメを取らされるのを見たことがある。やって見せるから、よく見ておけ」
そう言って床に左手をつき、掌を広げると薬指と小指の間にナイフを突き立てました。
考える前に右足を払ってオヤジのナイフを持った右手を蹴っていました。ナイフが弾け飛んで靴箱の扉に突き刺さりました。
「きゃーっ!」
マユのあげた悲鳴で我に返りました。オヤジは右手を抑えて顔を少し歪めていました。
「バカ野郎! 指骨折したら、どうすんだ!」
普通なら笑うところです。
でもいくら憎いとはいえ自分のオヤジが指を切り落とそうとするのを黙って見ているのはハゲしくバカです。
「もうやめてよォ。たー君もお義父さんも、お願いだから!」
マユが顔を覆って泣き出しました。
オヤジは靴箱に突き刺さったナイフを引き抜き、折り畳んで収めました。
「マユ、悪かったな。こんな息子だが、我慢して面倒みてやってくれ」
オヤジはそう言い残し、出て行きました。
課長が言っていた通り、俺はリーダーから降格し代わりにタキガワが昇進する辞令が交付されました。俺を追い落として勝ち誇ったように満面の笑みで俺を見下ろしているタキガワにムカつきました。が、仕方ありません。やはり課長の言う通り、初心に戻ってやるべきことを淡々とやるだけだと自分に言い聞かせました。
しかし、うまく行かないときはやっぱり何をしてもうまく行かないものです。
外回りに出てもカラ回りばかりで、もうそんな無駄なことはやめろとでもいうように梅雨の雨が追い立ててきました。今はツキがない。俺は昨日失注したネジ製造業者の再検討だけを収穫に会社に戻りました。
オフィスに入ると同僚達から「ごちそうさまでした」と言われました。何のことだろうと訝っていると、
「今日、奥さんご挨拶に来られたんですよ。お父さんが旅行から戻られてそのお土産、って」
隣の課のタカハシという新卒の女性社員が教えてくれました。
「あ、そうなんだ」
突然のことに戸惑っていると社長から直々に呼ばれました。
オフィスビルのワンフロアにヒラから社長までが一緒にいる、そういう会社です。開発部門だけはその性質上、暗証番号で守られたスペースに隔離されて仕事をしてますが、他の殆どの社員は社長の視線を浴びながら仕事をしています。
「おう、ごくろうさん。お前も食え。お前の嫁が持ってきたクッキーだ。相変わらず元気な奴だなあ、若い連中のケツ蹴り上げて大騒ぎして帰ってったぞ。最後に『夫をよろしくお願いします』ってちゃんと挨拶していった。いい嫁になったな、コタニも。お前ももう少し、頑張らんとな」
開発部にマユが在職中にかわいがっていた後輩がいます。二メートル近い、体重が百キロを超える巨漢です。大学時代はラグビーをしていたそうで、ミヤモト課長の後輩に当たります。若年にもかかわらず開発者としては優秀な男です。グローブのようなゴツくて大きな毛むくじゃらの手をひらひらとキーボードの上で舞わすさまは異様で、未だに違和感が拭えません。聞けば小学生のころからPCを自作したりプログラムを組んで遊んでいたのだそうです。人間、どういう才能を秘めているか、見た目ではわからないものです。
「あ、ハセガワさん。ごちそうさまです」
「おいしかった?」
「ハイ」
アイダはとても嬉しそうでした。結婚前、マユがアイダのデカイ尻を蹴っ飛ばしていたのを何度か見ていました。
「久々にケツ蹴ってもらって良かったな」
「ハイ」
「お前、マゾなの?」
「ハイ。・・・あの」
「何?」
「姐さん、なんかあったんスかね」
「え?」
「なんか、こう、蹴り方が、前と違いました」
「蹴り方? なんだそれ」
「ハイ。・・・うまく説明できないンスけど、前の蹴り方はこう、ずーんって脳髄に響いてくるみたいで快感だったんスが、今日のは響かなかったんス。どうしたんスかね」
何とも返事に困り、自分のデスクに戻りました。息つく間もなくミヤモト課長に呼ばれました。クッキーをぼりぼり食べながら、俺を睨んでいます。
「ネジ屋、どうだった?」
「再検討いたたけることになり、週明けに結論をくれるそうです。金額より性能部分に疑問があったとのことで、使っているドイツ製の工作機械に実装した実績を説明したら乗り気になってくれました。いい返事が聞けると思います」
「そうか。ご苦労さん。じゃ、もう帰れ」
「え? 報告書は」
「来週ネジ屋の受注が決まってからでいい。今日は早く、そして必ず、家に帰れ」
課長は半ばヤケクソ気味にクッキーをコーヒーで流し込んでいました。
「お前なあ。一体嫁にどういう教育してるんだ。コタニの野郎、俺んとこにつかつか来てこれ机に叩きつけて『今日は絶対に残業させないでくださいねッ』ってスゴんでったぞ。何で俺がアイツに怒鳴られなきゃならん? そういうわけだから今日はもう帰れ。これは業務命令だ!」
そう言って課長はニヤと笑い、声を落として続けました。
「向こうが折れて来たんだ。帰って可愛がってやれ、な?」
ひとつ気になったのは、タキガワがフレームレスの眼鏡の奥の細い目を険しくして俺を睨んでいたことです。朝、俺を追い落として勝ち誇っていた男が、何故俺を睨むのだろう。それがとても不可解でした。
ビルの正面から舗道に出ると紫のレインコートを着たマユが傘を差して立っていました。
「お疲れ様、たー君。お仕事ごくろうさまでした」
俺に傘を差し出しながら、儚げな笑みを作ってそう言いました。心なしか、目が腫れているように見えました。いつもはスッピンに近いナチュラルメイクしかしないのに、ファウンデーションを厚塗りしていました。
「・・・うん」
「今日、お義父さんがゴルフから帰ってきて『タカシの会社に持って行ってやれ』って。お土産。いっぱい買ってくるんだもん。一緒に帰れたらなって、一回お家に戻るのもメンドくさかったから、そのへんブラブラして、待ってた」
「・・・うん」
俺が傘を差すとマユは自分の傘を閉じて入ってきました。そして、俺の袖を掴みました。
「・・・ねえ、一緒に帰ろ」
「うん。・・・でも・・・」
「うわーんっ!」
突然、大声で泣き出しました。まだ退社時刻には早く、通りに人は疎らでしたが、それでも二三の視線は確実に浴びました。
「たー君が苛める~」
慌ててマユの口を塞ぎました。
「わかった。わかったから」
「じゃあ、また一緒に暮らしてくれる?」
「うん、・・・今日だけは、帰るよ」
「一緒に暮らすって言ってくれなくちゃヤダ~」
そういってまた大声を出すのです。
「わかった。とにかく帰るから。帰ってから話そう」
まだ不安気な顔をしていましたが、俺が黙っていると諦めたように無理に顔を明るくしました。子供かよ、と思いました。
地下鉄、電車と乗り換えて家に着くまで、マユは俺の腕を掴んで放しませんでした。まるで手を離せば俺がどこかへ行ってしまうとでも思っているかのように。空いた電車のベンチシートに並んで腰かけると、俺の手を膝の上に乗せて抓ったり引っくり返したりして遊んでいます。その仕草はまるで、初めて彼氏ができてうれしくて仕方ない女子中学生のようでした。わざとらしくもあり、憎くもあり、いじらしくもあり、です。
その場で抱きしめてしまいたい気持ちと、抱きしめたいのに、何かが邪魔して、できない。相反する感情に、苦しみました。
二日ぶりに家に帰るとオヤジがいました。
顔を合わせたくなくて足早に二階へ向かおうと階段を昇りかけると、「タカシ」と呼び止められました。
オヤジは居間の奥から廊下へ出てくると、俺の前に膝をつき、頭を床に付けました。
「悪かった。許せ」
そういって頭を上げ、まっすぐに俺を見上げました。
「今回のことは、全て俺が考えてやった」
と、オヤジは言いました。
「お前には黙っていたが、俺は以前、マユと付き合っていた。しかし、お前たちが付き合い始めてからは、マユとは一切関係を絶っていた」
やはり・・・。
だと思いました。
マユとオヤジとのあの関係は俺たちが結婚する以前からのものだったのです。そうでなければ、あんな・・・。
「今回、マユから相談を受けた。お前が潰れそうだという。俺が案を出し、マユに協力してもらった。正直に言う。俺はまだマユを女として見ているし、あの時も、女として抱いた。今でも女としてマユを愛している。
だがもう一度言うが、お前たちが付き合い始めてからは、関係はお前が見たあの一晩だけだ。今後、俺は二度とマユに触れない。お前が出て行けと言うなら、出ていく。だから、頼むからマユを責めるな。
かわいそうに。俺のせいでお前が帰ってこなかった間、ずっと泣き続けていた。俺の事は許さなくてもいい。だが、マユは許してやれ。そして、また一緒に暮らしてやってくれ。
俺は今までお前にずいぶん辛くあたってきたかも知れん。お前を苦しめてきたかも知れん。だから元々こんなことを言える立場ではないことも分かっている。だが、これだけは受け入れてくれ。マユとまた一緒に暮らしてやってくれ。頼む。この通りだ」
そう言って、オヤジはまた床に頭を付きました。
はあ?
俺が潰れそうだから俺の嫁とセックスする?
まるきり理解が出来ませんでした。少しアタマがおかしいんじゃないか? 寝言は寝てから言え、と。
いつのまにかマユは俺の側で膝をついていました。泣いていました。その姿が急に歪みました。俺の爪先にぽたぽたと滴が落ちました。マユの涙が俺のズボンを濡らし、俺の滴が彼女の髪に落ち、流れて消えてゆきました。無意識に彼女の肩に置こうとした手に気付き、掌を見つめました。
黙ってじっと俺たちを見ていたオヤジでしたが、やおら立ち上がって玄関を出て行こうとして、ふと立ち止まりました。
「しかし、お前も情けない奴だな」と呟くように言いました。
「何?」
「自分の最愛の女を盗られて、ただ女に辛く当たって、グチグチぼやいて・・・。それで終わりか?」
框に腰を下ろすと、背中越しに俺を睨んでいました。
「何故俺に向かって来ん。何故俺に文句を言わない。大事なものを盗られたなら、それを盗った奴をぶん殴るのが当たり前だろうが」
オヤジはジャケットの裾の方の内ポケットから折り畳みナイフを取り出し、開いて俺に突き出しました。
驚きました。
当然ナイフにも驚愕しましたが、市役所に勤める普通の一般市民であるオヤジが、映画のスパイとかヤクザみたいにそんなものを持ち歩いていることに。
「ほら」
ナイフをくるりと回し、柄を俺に向けて切っ先を自分の胸に当てました。
「やってみろ。赤の他人に殺られるのは納得いかんが、お前に嫌われようと貶されようと、俺はお前のオヤジだ。親にとっちゃ、いくつになっても子供は子供だ。子供に殺られるなら仕方がない。お前にしてみれば、クソオヤジだ。今までの恨みつらみもあるだろう。いい機会だ。遠慮なく、殺れ」
「もうやめて、お義父さん!」
切羽詰まった声を上げるマユを無視し、オヤジは続けました。
「俺はマユを愛していた。今でもそうだ。愛している女が不幸になるのを見過ごせなかった。ただそれだけだ」
と、オヤジは言いました。
「俺は家庭を顧みなかったクソ野郎だが、自分の息子の性格くらいわかる。
お前は子供のころから自分の大切なものを取られるのを一番嫌ったな。
一度お前がバレーの練習をサボったとき、罰としてお前が大事にしていたプラモデルを二階から放り投げて壊した。そのときお前は椅子を振り回して俺に向かって来たな。俺に放り投げられて吹っ飛んだが、また向かって来た。何度も、何度も。あれは忘れられん。今でもよく覚えている。
だから一計を案じたんだ。
それが、どうだ。
今じゃ腑抜けじゃないか。会社で何が在ったのか知らんが、ちょっとぐらい仕事がキツイからといってグズグズしやがって。おまけに女房にまで心配かけて。男なら、心配かけて済まない、絶対俺がお前を守るから安心しろ。そのぐらい、自信があろうがなかろうが言ってやるぐらい当然だろうが。自分で自分を奮い立たせて女を守るのが男の務めだろうが!
可哀そうに。こんなに可愛い女を泣かせて。自分はコソコソ隠れて・・・。
お前はそんなに情けない奴だったのか。憎んでいる俺にここまで言われて悔しくないのか。恥を知れというのは言い過ぎか。これは、恥だぞ。男なら、恥を雪いでみろッ!」
悔しくてたまりませんでした。
なんでオレが女房を寝取ったヤツから説教されなちゃいけないんだ!
頭に血が上っていました。それなのに何も言えず、身動きも出来ず、ただバカみたいに突っ立っていただけでした。顔が、歪んでいたかもしれません。
「やっぱり腰抜けか。
はあ~・・・。仕方がない。俺は若い頃チンピラがヤクザにケジメを取らされるのを見たことがある。やって見せるから、よく見ておけ」
そう言って床に左手をつき、掌を広げると薬指と小指の間にナイフを突き立てました。
考える前に右足を払ってオヤジのナイフを持った右手を蹴っていました。ナイフが弾け飛んで靴箱の扉に突き刺さりました。
「きゃーっ!」
マユのあげた悲鳴で我に返りました。オヤジは右手を抑えて顔を少し歪めていました。
「バカ野郎! 指骨折したら、どうすんだ!」
普通なら笑うところです。
でもいくら憎いとはいえ自分のオヤジが指を切り落とそうとするのを黙って見ているのはハゲしくバカです。
「もうやめてよォ。たー君もお義父さんも、お願いだから!」
マユが顔を覆って泣き出しました。
オヤジは靴箱に突き刺さったナイフを引き抜き、折り畳んで収めました。
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