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しおりを挟む由梨は六時前には帰って来た。
心配になった治夫が様子を見に行こうとするのを、
「あの子はちゃんと帰って来るに」
と落ち着いていた多恵子だった。母と娘の強い絆を感じた。
それなのに、
「何か言うことないだ?」
玄関で由梨を迎えた多恵子の怒りはまだ収まっていなかった。
「ないなら、思い出すまで部屋にいなさい。ご飯も食べなくていい」
人並みに仕事の悩みを抱えて帰ることもある。そんな時、多恵子は決まって、笑って励ましてくれた。
「会社クビになっただ? 大丈夫。イザとなったら私が養ってあげるで」
だから家で仕事の話はしない。かつて部下だっただけに多恵子は治夫が一を言うと十を察する。余計な心配をさせたくないからだ。
久々に家族そろって夕飯を食べられると思っていたのに。由梨のいない食卓は寂しかった。
とても仲人の話など持ち出せる雰囲気ではなかった。こういう時は下手に刺激しない方がいいのをこの十年間の結婚生活で学んでいた。
「頑固だなあ。そっくりだよ。由梨とお前。頑固で気が強くて、意地っ張りでさ」
「ホントにね。似なくていいところばっか似るだよね」
「今日は意外に素直じゃないか」
「そお? いつもだに」
すまし顔で妻は言った。
「あのさ、前から思ってたんだが、治療、少し休まないか」
数年前から不妊治療を受けていた。
俗に「二人目不妊症」というらしいが、治夫と多恵子にとっては「一人目」だ。それがなかなか出来なかった。気丈な質だから表には出さないが、それが彼女のストレスになっているのではと、ずっと心にかかっていたのだ。
転勤の多い会社だ。営業の慣例では四五年ほどで営業所と本社支社を異動しながらステップアップして行く。それを十年近くも一所に居座り続ける治夫のようなケースは異例だった。
営業本部長に昇進した松谷からも再三内示を受けていた。それをことごとく断ってきた。退職までも仄めかしたせいで一時期松谷との関係も悪化した。
「いいのか。今後課長以上に上がれなくなってしまうぞ」
それでもいいと思った。
「あまり出世しようとも思いませんし。本部長のお勧めに従って自分を変えてみたんです。そのきっかけを作ってくださった本部長には大変感謝しています」
去年漸く松谷が折れ、月に一度本社管轄分の国内外のブランチを巡察する短期出張を受け入れることで手打ちになった。つまり掛け持ちだ。海外支社の市場には今まで自分が開拓してきた顧客や取引先が多い。自分の管轄の商談と大差ない。そのせいでより多忙にはなった。
だが治夫の中心軸にはあくまでも多恵子と由梨との生活がある。それは十年経った今でも変わらない。「クビになったら」という多恵子の言葉の裏にはそんな経緯があったのだった。
「気晴らしにパートにでも出るか? 環境を変えてみるのもいいかもしれないよ。由梨も大きくなったしさ。二三時間でいい。なんならウチの事務所でいろいろ雑用してくれてもいいし・・・」
「もしかして、由梨の事?」
「それだけじゃ、ないけどさ」
ここのところ由梨への叱り方が激しさを増してきたように感じていた。子育てを丸投げせざるを得ない立場だから強くは言えないが、これまでも二言三言触れたことはある。子育てと不妊治療とでストレスになっているのでは。妻を思い遣ってのことだったが、多恵子は勘がいい。治夫の意中を察したのだろう。
「うん。そうだね。それもいいかもね」
多恵子は頷いた。
「やってみようかな。由梨が帰って来るまでの間ならいいかもね。でも務まるかやあ。しばらくキーボードも触ってないに」
「大丈夫だよ。電話番からリハビリすれば」
「ちょっとだけ、私も飲もうかな」
多恵子はキッチンからビールとグラスを持って来た。グラスに注いでやった。しばらく泡を見つめ、それからごくごくと一息に飲み干した。
「おいしい・・・」
治療中だからと控えていたから格別なのだろう。妻は和らいだ長い吐息を漏らした。
「ねえ、もしかして何か言いたかったこん、あるじゃない?」
やっぱりお見通しか。相変わらずの妻の勘の良さに舌を巻いた。
「だって、帰って来た時、あなたニコニコしてたもん。修羅場だったけん、ちゃんと見てるんだよ、大事なダンナ様のこんは」
「ありがと。さすが俺のカーチャンだ」
一口飲んで、切り出した。
「さっちゃんからね、仲人頼まれたんだ」
多恵子は切れ長の目を大きく見開いた。
「そーお! さっちゃん、決めただね・・・。相手は小柳津さんだら」
「・・・参ったね。知ってたの」
「言わんかったけんね、前から相談されてただよ。いい歳だもんね、彼女。で、寿退社するだ?」
「いや、仕事は続けたいそうだ」
「そお・・・。でも、子供は早めに作った方がいいと思うけんね」
その言葉には実感がこもっていた。こもらざるを得ないだろう。
「いいよ。仲人なんて初めてだし、どうすればいいかよくわからんけん。ミヨシさんに聞きゃあいいら」
グラスを置き、身を乗り出して声を潜めた。
「あのね、このごろ由梨ね」
「うん?」
「『あたし、本当にお母さんの子なの』って。言うだよ」
「え? なんでまた・・・」
「由梨もそういう年頃になったってこんだら。でも安心して」
妻は初めて会った面接の時と同じ、自信に溢れた瞳で治夫を見つめた。
「由梨は他の誰よりもあなたを信頼してる。母親の私より。あなたは体を張って由梨と私を守ってくれた。この世でただ一人の由梨の父親なんだから」
多恵子はキッチンに立ち炊飯ジャーの蓋を開いた。柔らかな湯気が沸き上がった。
「おにぎり、後で持って行ってやってね。あなたの言うことなら素直に聞くもんで。私じゃ余計拗れちゃうでさ」
あれは由梨が小学校に上がる前だった。
家族の団欒に突然暴漢が襲撃してきたのだ。
暴漢は酷く酔っていた。その特徴ある顔立ちから彼が何者であるか治夫にはすぐにわかった。多恵子の前の夫で、由梨の実の父親だった。
彼の暴力から逃れ実家に戻って由梨を出産した多恵子は、弁護士を通じ法的な対応はしていた。しかし彼が尚も密かに自分を探し回っていることを知り、治夫の会社に採用されたのを機に由梨を連れて実家を出た。それをさらに追いかけ、ついにかつての妻を見つけ出した、というわけだった。その全ての経緯を、治夫は多恵子から聞いて知っていた。
金属バットを振り回し入居したばかりの新居の玄関を破壊し、挙句に庭に面した掃き出しの窓を割り侵入してきた。凄まじい執念を感じた。
生まれて初めての大立ち回りを演じねばならなかった。もう一度やれと言われても絶対に無理だ。今でも当時の記憶を反芻する度に身震いする。自分も手傷を負ったものの、多恵子も由梨も守ることが出来た。
その大乱闘が起こった舞台の目の前のカウンターに、叱られて夕飯に降りて来られなかった娘のために妻が作った、愛情の籠った夜食が載っている。海苔を巻いたおにぎりが三つ、白い皿に多恵子の手作りのパッチワークコースター。おにぎりが盛られた笊はその上にちょこんと置かれていた。愛する妻は今、ゆっくりと風呂に浸かり今日一日の疲れを癒している。そして夫であり父である自分はこうして夕飯の後の食器を洗っている。
いずれ由梨は知ることになるだろう。治夫が実の父親ではないことを。
それは多恵子と折に触れ話し合っていた。
由梨が高校を卒業するまではこのまま。真実は由梨が自分の足で世の中を歩き始める前に、自分が知らせてやろう。それが実の父親を撃退し、今こうして素晴らしい妻と愛しい娘と生きる幸せを享受しているステップファーザーたる自分の務めだと思っていた。
「由梨、入るぞ」
ベッドの上で膝を抱えていた娘は父の顔を見て俄かに泣き顔になった。
「腹減ったろ」
トレーをベッドに置いた。由梨は泣き顔のままおにぎりに飛びつき頬張り始めた。隣に座りノートを返してやった。
「反省したな。それならいい。もう泣くな。これからはもう授業中にマンガ描いたりケンカなんかしちゃダメだぞ。わかったな」
「・・・うん」
「お母さん、悲しむから。お母さんはお前が大好きなんだ。可愛くて仕方ないんだ。だから叱るんだぞ。わかるな?」
やはり頑固だ。返事をしようとしない娘の頭を撫でた。
「マンガ、上手く描けてた。お父さんビックリした。御褒美に今度の休み、デートに行こう」
「え、ホント?」
「ホント。だからもう泣くな」
「お父さん」
「うん?」
「お父さんはお母さんのどこが好きなの。顔? 胸?」
咄嗟に答に窮した。
「芯が強くて、心がきれいだから、かな。それにお父さんの大切な由梨のただ一人のお母さんだ。だからだよ」
由梨のリクエストで浜松に行った。
治夫の手を握って振り回しながら、楽しそうに歩く由梨。
どうして浜松なのか。遊園地ではないのか。引き摺られるようにしてとある宝石店に入った。
飾られていたローマ字のМに似ている蠍座のペンダントを見て思い出した。小学校に上がったばかりの頃、由梨が店先のショウケースに張り付くように眺めていた。
「由梨ね、大人になったらお父さんと結婚する」
幼い娘からこんなことを言われて嬉しくない父親はいない。
「お父さんも由梨が大好きだよ。でも奥さんはもういるしなあ」
「お母さんが奥さんで、あたしはお嫁さんだで。それでいいら」
とりあえず笑ってやった。すると小指を突き出してきた。
「約束だでね」
誕生日は十一月六日。メレダイヤではあるが多数の美しい石が散りばめられたそれは結構な値段がした。
「まだ早いだろ。誕生日にも、お前にも」
いつになく真剣な目をして由梨は言った。
「一年生の時の約束、覚えてる? 破ったら許さんでね」
娘の機嫌をとるつもりがかえって自分の首を絞める結果になっていた。この既成事実を積み上げて相手を追い込んでゆく肉食獣のような性質は遺伝ではないだろうか。ひょっとすると母親以上かもしれない。
初夏を迎えつつある繁華街の賑やかな舗道を娘に連れられながら、治夫は何故か悪寒を覚えた。
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