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しおりを挟む由梨は風呂桶の中でスポンジを握りしめて毒づいた。
「早く帰って来たなら風呂ぐらい洗えっつーの。あんのクソオヤジ。ムカつく!」
「何か言ったかー」
キッチンから間延びした父の声が応えた。
「何でもないよー」
ふん。悪口だけは聞こえるんだ。
電話が鳴りだした。治夫が何か叫んでいる。
「由梨、出てくれ。今手が離せん」
「無ー理ー」
わざと間延びした声で言ってやった。
キッチンで、治夫は秋刀魚に切り込みを入れ塩を振っていた。風呂場からのんきな声をあげる娘に舌打ちをし、小声で悪態をついた。
「ったく。フザケンなよ、あんのクソ娘!」
「何か言ったー?」
すかさず風呂場から返答が来たのには面喰らった。
「何でもありませんよー」
何故離れていても悪口は聞こえるのだろう。悪口伝播の法則みたいなものがあるのだろうか。仕方なく手を洗いタオルで拭きながら小走りに電話に駆け寄った。
「もしもし、松任ですが・・・」
「義兄さん?」
受話器の向こうの相手は、懐かしさを覚えるにはいささか冷たすぎる声で呼びかけてきた。
「康雄か?」
「長いこって。元気そうやね」
久方ぶりの故郷の言葉。それが体内に染み透った。電話は別れた妻、律子の弟の康雄だった。
康夫は万事シニカルな男だった。
人の神経を逆撫でするようなことを平気で言う。律子と付き合いだした頃から彼の高校受験の勉強を見てやったりもしたのに、いざ結婚する段になると、
「なんや、姉さん。片親の人と結婚すんのけ」
それでも未だに治夫を義兄さんと呼ぶ。律子と別れて十五年も経っていてしかも再婚しているのに。ここ数年は年賀状のやりとりだけで直接の行き来や電話も疎かになってはいたけれども。
「ほんま、長いこって」
「おう。ほーやわなあ。長いこってなあ」
親しみを込めて、治夫は応じた。
「義兄さん。今、電話しとって邪魔ないけ?」
「おう、どした?」
「今日、晃がそっちへ行ったやろ」
まるでいつも行き来のあるような、そんな親し気な気安い口ぶりで康夫は言った。十五年ぶりに突然実の息子の来訪を受けた父親に何の忖度もせずに。
「・・・何で知っとる。そうながや。いきなりびっくりした。でも何でや。律子の事も知らんかったがや」
「わざと知らせんかったさけな」
悪びれもせずにそんな言い方をする。
根は悪い奴では無かった。律子と別れる際、妻の係累たちは頻繁に家を空け家族を顧みないと治夫を非難した。その中で康雄だけがただ一人治夫を庇った。
「確かに義兄さんは甲斐性なしかも知れん。けど、姉さんには勿体ないぐらいの男や」
金沢の老舗の呉服屋の長男『あんさま』としてプライド高く育てられ、早くに両親を亡くし家を継がねばならなかった。そのせいか、康夫は筋を通すことを尊び家を守ろうとする気概が強かった。家格を汚した姉を家の守護者として受け入れることができなかったのだ。彼は男を作り不貞を働いて離婚した姉を許さなかった。
そんな、古風で律儀な男だけに律子の訃報をくれなかったことは意外に思った。
「言えるかいな、義兄さんに。あれは・・・、自業自得がや」
自嘲の混じった声が受話器から聞こえた。
晃のことでまだ聞きたいことがたくさんあった。が、後からかけ直すとだけ言い、電話を切って秋刀魚に戻った。由梨に聞かせる話ではなかったからだ。
「ハルオ?」
湯上がりで頭にタオルを巻いたまま。由梨は秋刀魚を毟りつつテーブルの向かいの父に呼び掛けた。食卓の向こう側でさっきからぼーっとしてあらぬ方を向いている父が気になっていた。
明らかに今日の治夫はいつもと違った。どこかおかしかった。
ビミョーに、キモイ。
「治夫ってば!」
疲れているのだろうか。ちょっとこれは重傷だと思い、向う脛を軽く蹴ってみた。
「痛っ。何すんだ! 親に向かって」
治夫は痛みに顔を歪ませながら脛を擦った。
「何ぼーっとしてるだか・・・。あのさ、さっきの電話、誰?」
「なんでもないの。しかしお前、だんだん母さんに似てきたな」
由梨は大袈裟に舌打ちをした。本当に人をイラつかせるオヤジだ。
「まさか、美奈と何かあったじゃないらね」
サイドボードの上の二つの写真立てに目が留まった。一つは今は亡き母と一緒に撮った最後の家族写真。
そしてもう一枚が今年の夏に遊びに来た美奈と一緒に海に行って撮った記念写真だった。由梨が真ん中。両側に治夫と美奈。ナイスバディーで派手でキワドいビキニの美奈に気が引け、慌ててラッシュガードを身に着けた。治夫はこの写真が大のお気に入りで由梨が伏せておいてもいつの間にかきちんと立てていた。
由梨はわざわざ席を立って再び写真を伏せた。
そのせいで先週の祭りの日の一件を思い出した。それは未だに腹に据えかねる、ムカつく事件だった。
祭は突き抜けるような秋晴れの好天に恵まれた。
去年は部活が忙しいことを口実に出なかった。それなのに今年渋々ながら祭りに出たのは、はるばる大阪から親友の美奈が遊びに来たからだった。
ご丁寧にも股引や腹掛けまで持参し、おまけに美容院の予約まで既に取ってあった。そこまでされれば断れなかった。交友は広い由梨だが、やはり一番の、唯一無二の親友と言えば小学校からのこの、古くて深い友達だった。
だが、美奈そのものは放っておいてもよかった。会う度に美しくなる美少女だからだ。祭装束を鯔背に着こなしキリリと髪を結い上げた彼女は、予想通りたちまち青年衆に囲まれていた。中老や大老のオジサンまでもが口々に「あれは誰だ」と由梨に訊いた。
「メッチャ可愛いら。前は隣の区に住んでただよ。中二のとき転校してきて今は大阪の高校行ってる友達。しょっちゅうナンパされるし、モデル事務所とかにもスカウトされるらしいに。ウザいから全部断ってるって。ちなみに胸、デカイに。Fカップだに」
訊かれるたびに一々そのように説明した。出来るだけ多くの男が美奈に付き纏うように少し話も盛った。しかし相手がどんなイケメンであれ金持ちであれ、美奈が決して靡かないのもわかっている。美奈が、正月だ夏休みだGWだ祭だと頻繁に、まるで帰省先でもあるかのようにこの東遠州に帰ってくる本当の目的を知っていたからだ。
美奈の視線の先にはいつも治夫がいた。
彼女がこれほどに足繁く遠路はるばるやってくるのは、由梨の父に、治夫に会いたいがためなのだ。こいつは親友なのだが、自分の父に恋をしている。
「部活忙しいなら無理して祭付き合わなくていいでね。ウチおじさんと一緒にいるもんで」
来るなと言っても美奈は来る。由梨と旧交を温めるためと言う。そんな見え透いたウソを言うときの美奈はきまってニヤニヤ笑っている。
治夫に美奈が祭に来ることを話した。その時の父の態度がまた癪に障った。
「そうかあ。また美奈ちゃん来るのかあ」
父は相好を崩して手を叩いた。
「じゃあ俺も土日で出るかなあ。法被とか肉襦袢とか、どこにしまったっけなあ」
「次の日から出張じゃん。最近忙しいから祭はパスして骨休めしたいなって言ってたくせに!」
「お前の友達だろう。折角来てくれるのに、可哀そうじゃないか」
そう言いながらウキウキいそいそと箪笥をかき回し始める父がどうにも許せなかった。美奈のアホ。治夫のバカ。娘の自分を差し置いて。娘の前でイチャイチャしやがって。本当に頭に来る。
「いいじゃん別に。おじさん独身なんだよ。ウチらもう十七だし。立派に結婚できるんだから。あんた娘でしょ、ム・ス・メ。ヤキモチ妬くの、おかしくね?」
そう言って揶揄う美奈の顔を見ていると殴ってやりたくなる。まったくこんなどこにでもいるオッサンのどこがいいんだか。とりたててイケメンでも金持ちでもなく、地方の、ごく普通の会社の営業所を任されているだけの中年男に過ぎないのに。
「じゃあ、そのどこにでもいるオッサンに年がら年中ベタベタ付き纏っているウザイ娘は誰?」
美奈にそう言われると何も言えなくなる。
昼間町内の練りを終えた屋台と呼ばれるヒノキ造りの巨大なリヤカーのような山車。夕闇が迫ると左右にぶら下げた無数の提灯に灯が入れられ、山車に群がる男女の若衆が増え練りが勢いを増す。提灯を揺らしながら右に左に激しく舞う山車は祭囃子の笛太鼓や掛け声に合わせて前後にも大きく躍動する。
「治夫さん、手木入ってや」
中老の世話役の声に屋台を引く綱を曳いていた由梨は振り向いた。
最も激しく揺さぶられる把手の部分は手木と呼ばれ青年衆を終えた四十から五十代の中老が担う習わしになっている。
ふるまい酒でほろ酔い加減の治夫が加わり、横に並んだ四人の法被姿が雪駄が飛ばされるほど激しく右へ左へ揺さぶられる。隣にいた筈の美奈がいつの間にか手木に最も近い綱の根元にいた。屋台を大きく左右に揺らす役目で主に青年衆が当たる。美奈を追って数人の若衆が彼女を取り囲んだ。屋台と人が一体になって田舎道の道幅いっぱいに蠢く。揺れる提灯の灯りの下で大勢の若い男女が熱気と汗を散らす様は華やかで淫靡な感じさえした。
終盤、屋台は神社の参道を曳き上げられて境内に据えられる。大勢の若衆が口々に囃子を喚きながら屋台に群がる。祭のクライマックスを迎え、由梨も自然に屋台に押し上げられた。ドサクサに体のあちこちを触られた。それでも抗わなかったのは美奈から目を離せなかったからだ。
ところが肝心の美奈と治夫をいつの間にか見失ってしまった。揉みくちゃになり手木から滑り落ちそうになりながら、やっとの思いで抜け出して急いで家に戻った。
案の定、玄関には二人の雪駄が脱いであった。嫌な予感がしてリビングに通じるガラスの嵌った格子戸を勢いよく引いた。まだ肉襦袢姿のままの父と美奈が、ダイニングテーブルで額をくっつけるようにして向かい合っていた。
「ハルオさん、アーンして」
「お! 美奈ちゃん気が利くねえ。飲まされ過ぎちゃってさ、こういうさっぱりしたもん食いたかったんだあ」
十七歳の女子高生に棒付きアイスを咥えさせてもらって、鼻の下を伸ばし蕩けまくっている父。
このスケベ親父が!
一気に頭に血が昇り、癇筋がブチ切れた。
「おい! なにイチャイチャしてるだ! 離れろ。ひとの親父勝手に名前で呼ぶなや」
「いいじゃん別に。ねーハルオさん♡」
「そうだぞ。何怒ってるんだ。ヘンなヤツだなあ。しかし美奈ちゃん。祭装束もキマってるねえ。カッコよかったよ。アレ、もしかしてしばらく見ないうちにまたオッパイ大きくなったかあ」
「やだーあ。それ、セクハラー。ハルオさんのえっちぃ♡」
由梨を横目で見ながらワザと品を作る美奈。明らかに自分を揶揄い、挑発して楽しんでいるのがわかってしまう。それだけに、余計に腹が立つ!
「黙れ酔っ払いがあ! 美奈、お前も嬉しそうにしてるんじゃねえよ! 変態かっつうの。いいから離れろ。離れろって言ったら、離れ、ろーォッ!」
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