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しおりを挟む事務所棟が完成した。
仮事務所が取り払われ、数台分の営業車と来客用の駐車スペースが整備された。三名の営業と赤堀を加えた三名の事務員たちの仕事の内容も、営業方法の変化に伴ってこれまでの予備的なものから次第に戦略的なものへと変わっていった。
とりわけ最も大きな比重を占める設備建設と、それまで各営業所単位で行っていた経理業務の統合に関しては、多恵子が構築していたシステムが業務効率を飛躍的に高め、有効に機能することが実証された。これが、
「東遠州に業務を統合すれば売上と効率はむしろ今までより上がる」
という目論見を裏付ける結果となり松谷も治夫も大きく胸を撫で下ろした。多恵子が他の社員たちに構築したシステムの習熟を熱心に指導してくれたことも大きかった。
赤堀はごく自然に事務所に馴染んでいった。彼女の家は兼業農家で、度々野菜や自家製の漬物や煮物を持参して営業マンや事務員達にふるまった。昼時になるとタッパーウエアが行き来し、毎日旨そうな香りが新築の事務所に立ち込めるようになった。事務員たちは母親のような年齢の赤堀を尊敬を込めて「ミヨシさん」と呼ぶようになり、いつしか男性社員の間にもそれが浸透していった。
多恵子は以前と変わらない態度で振舞っていた。治夫も努めて平静を装った。あと一年。そうすれば体制も落ち着くだろう。それまではこのまま何事もなく過ごせればいい。心からそう願った。
そんな中、東京の本社に出張していた松谷から急な呼び出しを受けた。
全国で最も早く再編成を完了する静岡地区の業績を披露するためだった。本来なら松谷一人が報告すれば済む話なのに、彼は治夫の存在を上層部に印象付けようと居並ぶ役員たちの前で松谷の代りを務めさせた。
会議は無事済んだ。終了後、二人は社長と専務に呼び止められ親しく言葉を掛けられた。直接会社の経営幹部と言葉を交わしたのは初めてだった。上昇志向のない治夫には特に感慨は無かったが、松谷との親し気な話ぶりから彼が今出世への階段を驀進しているのを実感した。
帰りの新幹線に意外にも松谷が乗り込んできた。彼の自宅は名古屋だからいつも本社からの帰りはのぞみに乗る。旧事務所の残務が若干残っているのだろうと思い、明日はどこの営業所に行くのかと尋ねた。
「いや。今日はこのまままっすぐ家に帰る。ここのところ出張続きだからな。家に帰って女房に煩がられないと忘れられちまう。たまにゃあこだまもいいかなと思ってな。君とゆっくり話もしたかったし」
松谷は豪快に笑いながらコートのポケットから缶ビールを取り出し治夫に勧めた。
週末の自由席はいつもより混んでいた。車内は治夫たちと同じように東京で仕事をこなして家に帰る勤め人が吐く灰色の吐息で充満していた。
「今日はご苦労さん。チト気が早いが計画の成功を祝して乾杯だ。本当によくやってくれた。これで君に対する上の覚えは確実になったぞ。俺は腹黒いと自他共に認める男だが約束は必ず守る。間違いなく君が次期所長だ。目障りな桑田一派も全て大掃除したしな。これからは君の自由な手腕を思う存分発揮してくれ。おめでとう」
このような至近距離で松谷と差向うのは気が引けた。が、治夫はあまり酒が飲めない。頭を下げて缶ビールを取り、形だけ口を付けた。勝利の美酒は治夫にはいささか苦かった。
桑田たちの大半は全国に散らされた。桑田自身も無錫の現地法人に転籍させられた。そこを退職してもハカマダが受け入れることはない。増田常務は顔色一つ変えずに馬謖を切って捨てた。
小柳津だけはもう一度現場を勉強させたうえで残したい。治夫はそう思っていた。桑田のやり方が全て間違っていたわけではない。復讐などという考えは治夫の中には全くなかった。しかし、松谷がそれを許さなかった。それに小柳津自身が残留を望まなかった。
「俺は松任さんの元に残る資格はありませんから」そう言って会社を去って行った。
品川駅を出てしばらくは松谷の雑談に耳を傾けた。松谷は車内販売でビールやつまみを買い足し、熱海に着くころにはすっかり酔いが回ってさらに饒舌になっていた。
「まあ、仕事の話だから事務所でもよかったんだが、ここんとこ忙しいだろ。最近は土屋君がかなり遅くまで頑張ってるようだし。中々落ち着けんしな」と相手の手札を探るような目を治夫に向けた。
「言っておくが、最初書類選考で君は彼女を落とそうとした。拾ったのは俺だからな」そう言ってスルメを齧りながら嬉しそうに治夫の膝を叩いた。
「所長の慧眼にはいつも敬服しています」
松谷は三人掛けの窓際に頬杖をつき、溜息を付いて流れる夜景にちらと視線を向けた。
「あのなあ。そろそろ、もう少し、何ていうか、その、砕けようや、な?」
松谷は嬉しいような、そして困ったような表情を浮かべ、吐息をついた。
「俺は今、一人の男だ。正直に言う。土屋君を採用したのは彼女をモノにしたかったからだ。結果論だが、俺たちはいい人材を得た。それは君も同意するだろう。もう一つ。彼女が最初から松任君、君を狙っていたのも知っていた」
彼はまだ酩酊するほどには飲んでいない。空になった缶を握りつぶし、別のプルリングを引いて煽った。無理やり酒の力を借りて喋ろうとしている。そんな風にも見えた。もっと飲め、と迫られた。
「あまり飲めないんです」たまらず頭を下げた。
彼はそれ以上勧めようとはしなかった。しょうがねえな、と言っただけだった。
「狙っていた、なんて言い方するのは彼女に悪いな。彼女は普通に入社してきて君と出会い、俺など眼中になく君に惚れたんだと思う」
「あの、誤解があるようなんですが私と土屋さんとは別に・・・」
「隠さなくてもいいさ。俺は咎めてるんじゃないんだ。俺は妻子持ちだが君たちはいい大人の独り身同士だ。誰にも誹られることはないさ」
松谷は今まで見せなかった柔和な表情を浮かべた。それは人生経験豊富な兄がカタブツの弟の面倒を見るようなものだった。
「所長代理に指示されている仕事がありますから・・・。所長代理が戻られるまでに仕上げておきたいんで・・・。あれだけ言われりゃ馬鹿でもわかるさ。彼女は君にゾッコンなんだ。俺は彼女から手を引くぞ。後は君に任せた」
「おっしゃる意味がわかりません」
松谷は再び大きな溜息をついた。
「俺とお前は水と油みたいに性格も違うし考え方も違う。俺はお前が俺を嫌っているのを知ってたし、俺もお前とはどうにもソリが合わないのを感じていた。俺は見ての通りで欲の塊だ。だがこれが結構いいコンビだったと思わないか」
ここで松谷はぐっと表情を引き締め、いつもの野心満々のヤリ手の顔に戻った。
「俺はお前がやりたい様にやらせることで結果的に会社に利益をもたらし、それなりの評価も得た。俺たちは、勝ったんだ。全てお前のお陰だ」
治夫は黙って頭を下げた。
「俺は再来月東京本社に戻ることになった。総務部の副部長だから同期では一番の出世だ。だがお前にも何かで報いたい。この後、お前は何がしたい? 俺はなあ、お前を腹心にしたいんだよ。お前ぐらい仕事が出来るヤツはなかなかいないからな。だがそのためにはお前のハラの中を知っておかなけりゃならん」
連れていきたいならそうすればいい。そこが東京だろうとどこか別の地方だろうと外国だろうと構わない。飽きたら打ち捨ててくれればいい。そう思っていた。だから黙っていた。松谷は唇を噛んだ。ネクタイを寛げ後ろを気遣いながら座席を倒した。
「お前は俺の部下として配属されてきてすぐに、俺が以前から感じてきたことを見抜き、あっという間に計画を立案して実行に移した。俺は素直に喜んだ。俺が今までやろうとしてもやれなかったのは、いろんな柵があったし血を見る結果がわかっていたからだ。俺は返り血を浴びたくなかった。だから全てお前にやらせた。正直に言おう。マズいことになったらお前に責任を負わせて逃げることさえ考えていた。そんな俺のハラなんてとっくに見抜いてたろ? それなのにお前は嫌がりもせず、愚痴も言わず、進んで鉈を振るい血を浴び続けた。一体こいつは何なんだと思った。お前が鋳物屋のガキから襲われたとき、それみろと思った。これでお前も少しはビビッて慎重になるだろうと。しかしその予想は外れた。お前はそんなことなど無かったように淡々としていた。
俺は嫉妬した。同時に猛然とお前のウラが知りたくなった。お前には悪いと思ったが同業の知人や人を使って調べさせた。それでやっとお前の強さの秘密がわかった」
缶の残りを飲み干して握り潰し、松谷は一息ついた。
「大変だったんだなあ。会社が潰れた上に間男に嫁と子供を取られたら俺だって狂う。自暴自棄になるのもわかるよ。だがな、今のままではお前はいつか折れてしまうぞ。
俺はそんな下らんことでお前を失いたくない。俺は今まで心底他人を尊敬したことも信頼したことも無い。だが、お前に出会って見方が変わった。俺はお前に惚れた。もっとお前を使いたい。お前を縦横無尽に駆け回らせたい。だがそのためにはお前にもっと強くなってもらわねばならん。人としてな。
俺は能力ではお前に数段劣る。だが人としては数倍デカイし強い。何故かわかるか? 生きているのが楽しいからだ。俺が楽しいから、人が集まってくる。男も女も皆おれを慕ってくれる。俺自身は何の能力もないのに俺の周りで皆が勝手に力を発揮してくれる。だから俺は上に上がって来れた。勢い余って妻以外の女に手を出したりもしたが、妻を愛しているし子供も可愛い」
松谷は身を乗り出した。そして真直ぐに治夫に訴えた。
「敢てお前のために言う。俺と同じように生きろとは言わん。ただ、過去に拘りすぎるのはお前にとってマイナスだ。一日も早く忘れろ。それが出来れば苦労は無いと言うだろう。でも出来るぞ。早く嫁を貰え。お前のすぐ傍にお前を待っている女がいるじゃないか。また裏切られたらなんて考えるな。見返りを求めるな。そうすれば自然に自分が与えた以上のものが帰ってくる」
松谷の脂ぎった暑苦しい顔が余計に熱を帯びていた。
「赤堀さんに変わらなければ生き残れないと言ったそうだな。だがな、一番変わらなければならないのはお前自身じゃないのか。違うか?」
自分の事をそこまで調べ上げていたことに驚いた。豪放にして細心。全て人任せにしているようでいて、細部に気を配ることのできる人物。治夫は漸く松谷という人間を真正面から捉えてみる気になった。
静岡を過ぎ乗り込んでくる客も少なくなった。車内はいつの間にか空席が増えていた。松谷は鼾を掻いていた。その手から飲みかけの缶を取ってごみをまとめた。
一番変わらなければならないのは自分自身。それは判っている。判っているのだ。しかし変わるには力がいる。その力を自分はとうに失っていた。自分一人では、無理だ。だから、もう一度信じてみろと。でも、もしまた裏切られたら・・・。思考が堂々巡りから抜け出せなかった。
減速し始めた車両に腰を浮かしかけた時、眠っていたはずの松谷が目を閉じたまま口を開いた。
「いいな。出来るだけ早く新しい営業所を固めるんだ。俺は二年で営業に戻る。その時はお前を本社に呼ぶぞ。じゃあ、後は頼むな」
治夫は一礼して乗降口に向かった。
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