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過去
02 過去
しおりを挟むその日、ハカマダ産業中部支社静岡営業所の面々は、突然所長の松谷から召集を受けた。
「今度新しくここで営業として動いてもらう松任君だ。金沢の四谷工業にいた男だ」
ドアを圧するほどの堂々たる偉丈夫の松谷の背後から、痩せて顔色の冴えない三十がらみの男が自信のなさそうな風情で進み出た。
「松任治夫です」
生気がない。目にも光がなかった。首筋に張り付いている黒い痣のせいで生白い肌が余計に目立っていた。荒波に揉まれ何度も岩に叩き続けられた挙句砂浜に放置されていた流木がそのまま立っているようにその場の社員たちには見えた。
「四谷工業はあの通り残念なことになったが、彼は営業として抜群の成績を残しており、以前から俺も名前を耳にしていた。それでこの際我が社でその手腕を発揮してもらうことになったわけだ」
松谷はその独特の脂ぎった風貌で周囲を抑えつけるようにして言った。が、当の新人は傍目にも仕事が出来そうには見えず、こんなのに営業が務まるのかと誰もが思った。
「さっそくだが、彼にこの地区の実情を見せたいので誰か営業に同行させてもらえないだろうか。桑田さん、どうかな。誰がいいだろう」
松谷は一番奥の席で松谷を出迎える列にも並ばず一人椅子に掛けたままだった男に声をかけた。松谷よりも年嵩で、痩せて営業焼けした顔には深い皺が刻まれていた。
向かいの机の女性事務員が穏やかならない気配を察して、桑田さんと呼びかけた。そのいかつい目が面倒くさそうに松谷を一瞥し、次いで列の端にいた青年に声を掛けた。
「小柳津、お前今日アンマプラスチックさんに行く予定だったな」
小柳津と呼びかけられた青年は、若く爽やかでエネルギッシュな好感の持てそうな営業マン像を体現していて、この得体の知れない新人とは正反対の極にいた。
「小柳津君、いいか」
松谷が重ねて訊いた。
野心的な面構えの青年は上長に対しいささか礼を欠く態度で顔を上げた。新人は無表情にゆっくりと頭を下げた。
「別に、構いませんよ」
三人はバイパスで西に向かった。ハンドルを握る小柳津はよく喋った。
「先方の担当がうちの親戚なんですわ。高校時代の友達もそこで働いてますしね」
「わかった。わかったから、ちゃんと前を見て運転してくれよ」
笑いながら松谷は応えた。
小柳津は頻繁にバックミラーを見た。自分の話に興味も示そうとせず、黙ってただ窓外を眺めているだけのこの新人がどこか気に食わなかった。
静岡県中部の中堅都市郊外にあるその工場は大手家電メーカーの子会社だった。射出成型機のラインを十数本ほど持っていた。
一行は工場棟の二階に通され構内を見渡せる会議室に入った。そこは商品見本などを保管する倉庫を兼ねているらしく、反対側の壁には天井までの棚が並び、包装のビニール袋がはみ出した段ボールやボール紙の箱がぎっしりと詰まっていた。
担当に松谷と新人を紹介し彼らの名刺交換を待つのももどかしげに、小柳津はここまで来る車内での勢いのまま、その四十半ばぐらいの担当者に親し気に話しかけた。
「今年の中日の開幕戦は野口ですかね山本昌ですかね。星野も五年目ですからね。今年こそは日本シリーズ制して欲しいスよね」
横に居並ぶ上司の松谷や新人を意識してか饒舌に磨きがかかっていた。しかし、担当者はお茶を供した事務員が部屋を出てゆくと、小柳津の饒舌を遮って言った。
「あのね、小柳津君。野球のことなんかより先月から話してある件、どうなってるだ」
「あー、あの件スか」
急に小柳津の気勢が削がれた。
「先月から言ってるら。サンプルも渡したら? ラインのイメージと概算見積り。今日は持ってきてくれたよな?」
「その件ですがね、ちょっといろいろ手こずってまして・・・」
小柳津は押し黙ってしまった。返す材料を何も持っていないせいなのだということは傍目にもわかった。それなのに松谷も何も言わない。自分の部下が窮地に陥ることが予見出来ていたかのように落ち着いて、むしろその沈黙を楽しんでいるかのように見えた。ただ立場上ここは言わねばならない。
「そのサンプル、まだありますか」
担当は壁際の棚の中の無数の箱の中から迷うことなく一つの小さな箱を引き出しテーブルに戻って来た。ビニール袋に包まれた小さな茶色の薄板が入っている。何かの機器のプラスチックボディーを作る際のモックアップだ。担当は幾組もの中から一つの袋を選んでテーブルに置いた。ビニール袋にはマジックでアルファベットと数字が書き込まれ、それぞれの薄板に同じ文字が印字された小さなラベルが貼ってあった。
「来年の年明けに発売予定の携帯のボディーですわ。今年の秋には納入しにゃいかんのですがまだ金型の設計すら出来ていないんです」
担当者は構内を見下ろす窓を顧みて煙草の煙を嘆息と共に吐き出した。
「御覧の通り、ウチは今まで家電オンリーでしてね。洗濯機のパネルボードとか炊飯器のボディーとかね。だけん、今回の要求仕様がキツくて。材料からして今までのPP、ポリプロピレンじゃ駄目そうだし・・・。それで小柳津君に相談しとったんです。これが仕様書ですわ」
松谷は適当に相槌を打ちながらモックアップと仕様書を隣の新人のほうへ押しやった。
新人はいつの間にか鞄からノートPCとポータブルのDVDデッキ、それとA4のコピー用紙を何枚か取り出し、何やら絵を描き始めていた。松谷をチラと一瞥しただけで後はその作業に没頭しだした。
「子会社って言ってもね、株を幾分持ってもらってるだけだもんでね。実際は普通の協力会社と変わらんのです。今の仕事もだいぶ前から中国やら韓国に持ってかれて以前の半分以下になっちゃったしね。今回、なんとか無理言ってチャンス貰っただけん、うまくいかんかったらもうダメかもわからんのですよ。いや、初対面の方に言う話じゃないけんね。おたくの桑田さんとは先代からのお付き合いだから何とかしてもらえると思ってたもんでね・・・」
「そうですか・・・」
肩を落とす担当に、松谷は心底同情する風を装い頷いた。その間にも次々と製品を吐き出す階下の機械音に乗せて、テーブルを叩く鉛筆の芯の音が続いていた。
それが、急に止まった。
「ちょっとこれご覧いただけますか」
新人は小さなビデオデッキのディスプレイをくるりと担当者へ向けPLAYボタンを押した。ある機械が稼動している動画が映し出された。回転するバイトが人の手を借りずに全くの自動で機敏に動き、プラスティックの小さな薄板を削っていた。一分もしないうちにバイトが切削を終え、材料を載せたテーブルが横にスライドして反対側から次のテーブルが滑ってきて定位置に着く。再びバイトがやってきて同じ動作を繰り返し始めた。音声はない。
「これは九州の、ある工場のものです。マシニングセンタという切削機械です。予めプログラムされた通りに完全自動で素材を切削します。削ってるのはポリカーボネイトです。何の部品かは申し上げられませんが、PPより強度が必要な部分に使われる新素材です」
担当がその音声のない映像に魅入っている間、新人は描いた絵を携帯で映し、ボタンをポチポチ押した。松谷や小柳津も椅子を動かして画面をのぞき込んだ。
「部品の形状にもよりますが、この部品の場合、一個切削するリードタイムが換装を含めて五十四秒です。二十四時間連続稼働させて千六百個、刃物を交換したり、必要なメンテナンスをする時間が必要ですが、これ一台で月産四万個です。この工場では同型機を五台稼働させてます。一台約八千万ほどですが、十分採算ライン以上の成果が出ているとのことです。何しろ、射出成型機と違っていちいち金型を設計して鋳造して加工する必要がありません。携帯電話の分野はモデルチェンジが激しいですよね。実に、短納期、小ロットに向いた機械だと思います」
数分で動画は終わった。新人が描いていた絵を担当の前に押しやった。
「失礼だったかもしれませんが、勝手に御社の工場のレイアウトを考えてみました」
一同が動画を見ている間に、今稼働している射出形成機を何台か撤去してマシニングセンターに置き換えた場合の精巧なパース図と平面図が出来上がっていた。担当者が手に取り食い入るように絵を見ていると新人の携帯が鳴った。彼はぼそぼそと会話しながら手元の紙に数字を書き込んでいった。そして携帯を置き、担当者に紙を示しながら説明を始めた。
「材料は予めこのモデルより少し大きめにカットしてもらって仕入れた方がいいでしょう。今材料の業者と話していたんですが、一梱包百個としてワンパレット単位の取引とした場合この数、でこの値段になります。当初はウチを通していただいた方がスムーズだと思いますが、相手は実績次第で直接のお取引させていただいいてもいいと言ってます。こちらが機械本体二台分のリース料金とその設置工事費用。今現在の射出成型機はリースですかね? その処分費用。そしてこちらが月間のランニングコストの概算です」
担当はこの新人、松任という男に額を押しつけんばかりにして話に食い入っていた。
小柳津は顔色を変え、松谷は涼し気にゆったりと椅子に背を預けていた。松任という男は高揚も逡巡もなく、ただ淡々と説明を続けていた。
「動画のキャプション画像を何枚かプリントしておきました。申し訳ありませんが今日は急な話でしたのでパンフレットを持参しておりません。このマシニングセンタのメーカーのURLです。よろしかったら閲覧してみてください。明日にでも正式な仕様書とお見積もりを持参させていただきたいと思いますが、ご都合いかがでしょう」
「俺、明日はちょっと都合が・・・」
小柳津が口を挟んだが、担当はもう彼を顧慮する気さえなさそうだった。
「あの、よろしくお願いします」と治夫に頭を下げた。
「すぐ社長に、っつても俺の兄貴だけんね、この話ししてみますわ。松任さん、だっか。本当に頼みますね。いや~、これで助かるかもしれんわ。今日中に連絡しますで」
担当はあらためて新人の名刺を押し戴き、腰に下げたタオルで額の汗をぬぐった。
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