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第9章 ハデス神殿での求愛

5 恋人同士であれば

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 そうかたくなまでに拒絶も同時に湧くのは、なぜなのか。
 記憶がないせいなのか。

(オレの過去には…一体なにがあるんだろうか…)

 ぞわりとした不安がこみあげてきて、先ほどとは異質な震えに襲われた。
 記憶がない自分がかつて何をしでかしたのかを考えるとこわくてたまらない。
 その、まるで糸が切れた凧のように行く先を失った心情を察知されたのか、そっと身を離したオルフェウスから、体調はどうだ?と尋ねられた。

「えっ…」
「足は痛まないか?」
「あ、うん…特に…」
「そうか、おそらくは問題なく治っているはずだ」

 脚の状態を確かめようとして毛布クヴェルタを握られるが、直ぐに手を引かれた。

「君は…再生の泉カナートスの霊気で…今回は柔らかみを失うことなく眠っていたからな」
 
 配慮を見せた相手からのさりげなく伝えられた事実に、えっ…と驚き、そうだと思い至る。
 即座に尋ねた。

「あれから…どのくらい経ってるんだ?」

 昨晩の感覚でいたが神殿の中にいるのだ。
 しかもアルペイオス河沿いのハデス神殿と言っていたはずだ。
 その場所であるならば一両日いちりょうじつでは着かないはずだ。

「…少し散策しないか」
「あっ…」

 脇と膝裏に手を素早く入れられ、毛布ごと横向きに抱きかかえられるや否や、パシャン、パシャン、パシャンと水面に浮かぶ岩の上を移動し始めた。

「アレイ、服は持ってきたか」
「ブルルッ」

 岸で待っていた大型の魔獣が咥えていたカゴを差し出すと、地面へと優しく降ろされ、一人で着替えられるかと尋ねられる。

「そ、そんなの、できるに決まってるだろっ」

 とアタフタして返した。
 噛み痕も治っていれば、いろいろされた肉体だって再生の泉のおかげで復活しているのだ。
 なんの問題もない。
 ちょっと後ろを向いてくれないかと告げると、青灰色の瞳を楽しそうに細めた後に背を向けられた。
 そそくさとカゴに入っていた衣服を身に付けると律儀に振り向くことなく待っていた者の横へと並び、あえて念を押した。

「歩いて行こう」

 こうでも伝えておかないと抱きかかえられる可能性が高い相手なのだ。
 主導権を取って先に足を踏み出すとすぐさま追いかけてきた指に指を絡められ、手を繋がれた。

(あっ…)

 それは愛し合っている恋人同士であれば自然な行為なのかもしれない。
 けれども記憶を失った身には初めての経験だ。
 トクトクンッ、トクトクンッと鼓動が乱れて直ちに下を向いてしまう。

憩いの場セラピアが近くにある」

 一歩前へと歩き出した背中を、手を引かれながらそっと見上げた。

(オルフェウス…)

 この雄々しい肉体に抱かれたのだ、意識を手放すほどに激しく。
 この申し分ないアルファの男にだ。

(あぁ…)

 そのうえ番いになりたいと求愛もされていて。
 やはり嬉しいと、どうにも否定できない甘美な悦びに浸る。
 このまま使命が無事に終わったら、素直に身を任せてしまえばいいじゃないかと心の片隅でもう一人の自分がつぶやいた。
 求められるままに。
 過去へのこだわりなど、もう捨て去ってしまえと。
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