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書庫-2
しおりを挟む「なんだ、ゾイか…」
室内には二人の男がいた。ヴィルヘルムと、見慣れぬ大男。
客人用のソファにだらしなく腰掛けた男は、ゾイの姿を見て意味ありげに目を細めた。
日に焼けた健康的な肌と、太陽を思わせる臙脂色の髪。太い眉や大きな口が、荒々しい印象を作りあげている。一般的には男前と評価される容貌だろう。この甘いマスクで愛を囁けば、女性ならひとたまりもない。
しかし、ゾイは直感的に男の本性を見抜いていた。
───男が、今までの主人たちと同じ目をしていたからだ。
「中に入っておいで。…紹介しよう、こいつは従兄弟のマーカスだ。マーカス、彼はゾイ。うちで働いてもらっている」
手招きでゾイを室内に呼び込んだヴィルヘルムは、気乗りしない様子で男を紹介した。言い争いの後だからだろうか。ぶすっとした顔で、いじけているように見える。従兄弟がいたことも驚きだが、彼らの間に流れる空気は重く冷たく、関係は良好ではなさそうだ。
従兄弟だと紹介されたマーカスの方は眉を上げて応じた。いちいち動作が鼻につく男だ。
「ゾイです…よろしくお願いします」
「なるほどなあ…」
マーカスはニヤニヤと笑っている。
「ヴィルヘルム、こういうのが好みだったのか」
「どういう意味だ」
「おかしいと思ってたんだ…人払いまでして、こいつと毎晩ヨロシクやってるんだろう?道理で隈ができるわけだ」
「言いがかりだ。彼は私の使用人だ」
「使用人?おいおい、誤魔化すなよ。こいつはどう見たって奴隷あがりだろ。いやあ、お前の好みが浅黒い肌の移民だったとはなあ。そんなに下の具合がいいのかい?」
マーカスの下卑た笑いが響くのと、ヴィルヘルムが机を拳でぶったのは同じタイミングだった。
ヴィルヘルムは激怒し、マーカスに部屋を出ていくように命じた。普段の温厚さからは想像もつかないような剣幕でマーカスを責め立てる。
侮辱されたゾイよりも彼の方が感情的なのが不思議だった。
「おぉ、怖怖。邪魔者は帰るとするか」
ヴィルヘルムの怒りに触れても尚、マーカスはふてぶてしい。ゆっくり腰をあげると扉の方へ向かい始めた。ゾイとてなよなよした体格という訳ではない。長年の肉体労働で、身体は程よく鍛えられている。
しかし、マーカスを前にするとゾイなど幼い子供にすら見える。それほど彼は筋骨隆々とした大男だった。
「ま、サロンのことは考えてくれよ。お前にとっても悪い話じゃないはずだ」
マーカスは去り際に侮蔑を込めた眼差しでゾイを睨みつけてから、部屋を後にした。
緊張感がほぐれ、ゾイはほうっと止めていた息を吐く。
経験で分かる。マーカスのような人間は人を人とも思わない『悪魔』だ。立場の弱い人間を甚振ることが趣味で、口答えする者には容赦しない。吐き気がする。ゾイは会って間もないマーカスのことを、心底嫌いになった。
──平和で静かな二人だけの空間が戻ってきた。沈黙の中に、ヴィルヘルムの呟きがぽつりと落ちる。
「ゾイ………すまなかった。あいつの言うことは気にしないでくれ」
何故か、ヴィルヘルムが一番落ち込んでいるようだった。悪いのはマーカスなのに。
「気にしないでください。慣れてますから」
事実を告げて慰めたつもりだったのに、ヴィルヘルムはまた顔を顰めた。何か不快になるようなことを言ってしまっただろうか、と首を傾げて考えるが分かりそうにもない。それよりも気になることがあった。
「あの…さっき、公爵様って…」
「え?ああ…。ゾイには言ってなかったか。まあ、爵位などあっても何の役にも立たない…」
ゾイは慌てて首を振った。公爵といえば、上位貴族の中でも最も位の高い爵位だ。その高貴さは、学のないゾイですら理解できた。
普通に生きていただけならお目にかかる機会すらなかっただろう。公爵と奴隷の間には、大きな壁のように立ちはだかる「身分差」がある。
しかし、ヴィルヘルムはこうしてゾイの目の前にいる。この館で働き出して早一週間。この短い間でも、ヴィルヘルムの人柄を知るには充分な長さだった。
口数こそ少ないが、温厚で、真っ直ぐな性格で、何よりゾイのような身分の人間にも優しい。
「貴族」は高慢ちきで奴隷を虐げる、というゾイの認識を彼は大きく変えたのだった。
「…お腹空いてないですか?」
「そういえば…何も食べてないな」
自分のことのように心を傷める主人を励ましたかった。ゾイは笑顔を浮かべる。
「それじゃ、一緒に夜ご飯にしましょう」
ゾイのことで怒ってくれた人間なんて、彼が初めてだ。
ゾイは、ヴィルヘルムのことを好きになり始めていた。
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