羅針盤の向こう

一条 しいな

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 僕は休憩に入ると、ベンチに腰を下ろした。コーヒーを買って、ゆっくり飲む。冷たい風だと思っていたのに、気がつけば温かい。ぬるいというか、そんな風。気持ち悪い風だと思う。火照っている体には、生ぬるい風呂に入っているような心地がした。
 喜一さんはこちらに来ておっという顔をしている。
「暖かくなったな」
「ええ」
 そんな会話をする。喜一さんがいなくなる。それが信じられない。そうしたら、僕のパン作りの情熱はなくなるのかと考えていた。そんなことを考えている。
「ああ、いい天気になるか」
 スマホのアプリを見ている喜一さんが言う。
「夜は寒いのですよ」
 そんなことを言っている。もっと語ることがあったのに、なぜか話さない。そういうものかもしれないと僕は考えていた。お互いにどこに働く? とか、どんなことをしたいのですか? とか、言葉にすれば恥ずかしい。なぜ恥ずかしいのかわからない。ただ、面と向かって言うことではない。それこそ、画面のメッセージで終わらせることに似ている。
「拓磨はパン職人の夢はどうした?」
「わかりません」
「ふうん」
 まあ、がんばれよと言われた。相談に乗ってくれると考えていたから少し拍子抜けしている僕がいた。ブーンと自動販売機が唸っている。ベンチの上には僕が座って隣には喜一さんがいる。そんなことはわかっているのに、遠い人だと思った。
「おまえさ。自分がわからなくなったなら、自分に問いかけるのが一番だ」
「えっ」
「なにが楽しいのか、つまらないのか」
 それだけでいいんだと言われた。僕はぽかんとした顔をしている。そう、まるでアドバイスだ。そんなことを言われるのは驚いた。
 静かに車が走り、そうして、人の気配がない薄明かりの中で僕はぼんやりとした。そうして、紙が水に濡れるような、そんな速さで喜一さんの言葉を理解する。
「ありがとうございます」
「なんだよ。独り言だよ」
 まあ、いいさと言われた。僕は楽しいのか、よくわからない。でも嫌いじゃないのはわかる。辛いときもある。腰が痛いときもある。
「好きなんだろう」と言われたような気がした。それは僕の心に風を吹かせる。そんな簡単なことに気がつかなかった。
 はたして楽しいだろうか、義務になっている自分に気がついた。楽しいばかりが仕事ではない。そんなことを知っている大人は多い。自分はどうなんだろう。
 喜一さんにとって、僕はどうしてほしいのかと初めて考えていた。僕は僕で自由にやってほしいのだろう。
「あっ」
「なんだ」
「どこに勤めるんですか」
 ××町のパン屋だよ。そう言われた。スマホで早速検索しようとすると「なんでそんなことを聞くんだ?」と言われた。
「どんなパン屋か知りたいんです」
「そっか」
 そう言われた。僕はなぜか体が疲れているのに、ワクワクとした気持ちになっていた。そう、僕は黙っていた。喜一の顔を眺めていた。喜一さんの険しい顔を。そうして顔がほころぶ、それがくすぐったい気持ちになった。
 なにを笑っているんだと僕自身思うのだ。だからあえてなにも言わない。ただ、心地よい空間にいるということがわかる。暖かい風が吹いている。それは火照った体には気持ち悪いが、体の奥底で新しいなにかが始まるという気持ちさせる。なぜパン屋にバイトしているのか、一番楽そうだからと思ったが、意外とハードだった。
 売り場の担当がいきなり製造担当になったことを恨めしく考えていた。でも、それだけじゃなかった。喜一さんのおかげで楽しくなった。そんなことがわかる。ちょっとしたきっかけかもしれないけど。そんなことを考えていた。僕は。
「春が近いな」と喜一さんがつぶやく。僕はうなずいた。
 春の季節、それはきっとどんなパンになるか、喜一さんの頭の中に描かれているのだろう。それはどんなパンなのか、知りたかった。
「パン屋の名前は」
「××××」
 そう言っていた。僕はスマホで検索すると、ちゃんと出てきたのでブックマークをした。喜一さんは照れ臭いのか、恥ずかしのか、まあ気が向いたらなと言っていた。
 多分僕のことは勤めている店に来ても、気がつかないだろうと僕は考えていた。気がつかないから、どうするつもりもないのだ。
「多分、気がつきませんよ」
  僕のことなんてと言われて喜一さんはなにも言わない。きっと仕事に夢中で大変だと思う。
「まあ! あんた達、こんな暗い中にいたの?」
 おばちゃんが言う。ほら、中に入った、入ったと言われた。僕と喜一さんは顔を見合わせて苦笑した。
「なに、あんた達、できているの?」
「できていません。彼女、いますから」
「あら」
「へえ。意外とやるんだな」
 おばちゃん達に根掘り葉掘りと彼女のことを聞かれた。悩みとかないのとか言われたけど、ないって言ったら「そのうちできるわね」と言われた。もうできているので、あえて言わない。
「喜一さんはいるの、彼女?」
「まあ、それなりに」
「いやだ。なんだ。あたしったら。姪がね。ボーイズラブのドラマにハマっていたんだけど。あたしもはまってね」
「やだ。そんなのもやるの」
 ×××の心臓が懐かしいわとか話していた。僕と喜一さんはなにも言わない。お互いに黙っていた。
「じゃあ、仕事再開するから」
 鈴さんの一言でおばちゃん達は静かになった。やるべきことはまだまだたくさんある。パン生地を休ませていただけである。またやらなければならない工程もあるのだが、それをしている。二次発酵という奴である。パンをオーブンにいれている。それを取り出した喜一さんや鈴さんが目だけで確認して、指で触る。
「うん。大丈夫だな」
「そっちは平気ね。こっちも平気だよ」
 朝日が見えている。厨房には朝日が薄日しか入らない。そうして、僕はパンを分けていく作業に入る。それぞれのパン。惣菜用のパンも菓子パンも同じ生地ではないのだ。だから、発酵する時間も違う。
 それぞれ二人が確認する。たまに僕達も確認するがそれは経験あるおばちゃんに任せられ、僕はパン生地を一つ一つ仕分けていく作業に、没頭していた。


「ふう」と鈴さんができあったパンを店頭に並べていく。スタッフ総出でやる。小さなパン屋だからか、そんなに人はいない。
 そうして、オープンとして扉を開ける。まばらであるが人が入ってくる。スーツの男の人がいた。疲れて顔をしているスーツの男の人が真剣な顔でパンを買っていく。トングにパンを差し込む。それだけなのに、僕にはドキドキすることだった。食パンが上がる。焼きたてでそれを買い求める人がいる。
 ナイフを入れれば、甘い香りが広がる。ナイフを入れるのは、店内だ。みんながこちらに向いた。
「いい香りね」
「ありがとうございます。焼きたてです」
「あら」
 試食しますかと尋ねると女の人はうなずいた。人が集まる。それぞれに小さく切った食パンを渡す。これも鈴さんに言われたことだ。小さく切ったパンを頬張る人達の目が大きくなり、口元が緩んだ。
「美味しい」
「麦も国産で、新潟の×××を使っています。この小麦は香りが甘くて、口どけも優しくて、優しい甘さが特徴なんです。もちろん、バターやマーガリン、チーズ、ジャムにも合います」
 これ、ちょうだいと言われた。切っていくという作業になった。食べた人は買っていく人もいるが、買わない人もいる。それらそれで構わない。他のパンを買うからだ。
「ここのあんパンすきなのよ」
「あんこがたくさん入っているから」
 そんな会話が聞こえる。
「あんた、最近見なくなったね。どうしたのか、心配したよ」
 お会計を手伝っていると、いきなり老人に言われた。僕は笑っていた。マスクと言っても、ビニール製の硬いマスクをしている、笑った顔が見えるだろう。
「ご心配をかけてすみません。製造になりました。裏方でがんばっています」
「そうなんだ。いや、いいね」
 なにがいいのか、僕にはわからなかった。パンを一個か二個を買っていた。そんな老人はちょっとだけまぶしそうな顔をしていた。
「次の方、どうぞ」
 待ち人は多いのだ。混雑した店内に人が溢れていた。
「ありがとう、みんな。お疲れ様」
「やっぱり朝は混むな」
「朝にしてよかったわ」
 それはそうだ。ライバル店とは違うようにした。ライバル店は遅くまで稼働している。手作りではないが、工場で作っている。しかし、最近の技術の進歩で、パン自体の鮮度を落とさない冷凍技術や保存を考慮している。添加物もその分多いと思うが、昔のように大量ではないのだ。
 あーと鈴さんが肩を回す。疲れたという。
「疲れたなら、休めよ。新しいパンなんか考えるな」
「あんたが言う?」
 まったくとお互いにそう思っているのだろう。鈴さんと喜一さんの会話は肉親の親しみがある。お互いに遠慮がないのだが、そこには優しいものがあるのだ。だから、聞いていて気持ちいい。
「僕は帰ります。お疲れ様でした」
「ああ、いたんだ」
「いました」
「冗談だよ。がんばっているのは知っているから。ハグしてやろう」
「いいです。結構です」
「みんな、よく頑張った。中華麺を奢るぞ」
「焼肉がいいわ」
「そんなのは無理よ」
 そんな会話が聞こえる。温かいラーメンが食べたいなと思った。体が火照っているが、ラーメンの塩辛さが美味しそうに思える。
「話したいこともあるから」
 僕は鈴さんの言葉に黙っていた。
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