万華鏡商店街

一条 しいな

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 むき出しの山肌がある。明かりもない、洋吉は月明かりだけを頼りに歩いていく。不思議なことに三津堂を見失うことはなかった。竹藪は獣道から見えた。その辺りでふわふわとホタルの淡い光が点滅させている。青い色が幻想的だったが、三津堂はそれを見ることもなく、前を歩いていく。辺りは暗闇が広がって、まるで目隠しをしているようだ。怖くなった洋吉を振り返ることもなく、三津堂は進んでいる。
「いつの間にか、明かりを取り出すのを忘れていました」
 明かり、ランプをつける。腰にランプをつけていた。少しだけ洋吉はほっとした。赤い火が小さく燃えているが、辺りを少しだけ明るくするだけだった。暗闇だからか、木に足をぶつかることが情けない。三津堂は黙っていた。洋吉は三津堂の明かりを頼りにした。
 気がつけば、三津堂は止まった。その頃には暗闇に目も慣れたのかうっすら、なにかが見える。
 木々に抱かれた湖が見えた。白い月が水面に映る。水草が生え、辺りは鬱蒼としている。ゲコゲコとカエルの鳴き声が聞こえた。ようやく洋吉は知らない山に入ったと気がついた。
 山は異界とつながると言われている。だから、洋吉はこれが現実の世界ではないと思った。
 青く湖が光っている。遠くまで見渡せるわけではなく、小さな湖である。紺色の空の下、青く光っている。まるで星を閉じ込めたように。
 洋吉はそれをじっと見つめていた、瞬きを忘れていた。
「座りませんか」
 三津堂に言われ、びくりと体に震わした洋吉がいた。ランプの火を消した三津堂は酒を杯に入れる。
「そろそろかな」
 湖の月と天上の月から光が出てきた。その光はお互いに光って、道のように見える。白い光は輝いている。不思議とやわい絹のような、光だった。天の月と湖の月の光、お互いの光が交わったとたん、強い光がはじけた。まるで稲光のような。洋吉は目を閉じた。
 クスクスと笑い声が聞こえてきた。女、子供の笑い声だ。洋吉はぼんやりとそれを見つめていた。
 紗(うすきぬ)を纏った、女のような、子供のような、中間のものがいた。ふくらみがあるからかろうじて女だと洋吉は気がついた。女達はクスクスと洋吉を見て笑い始めた。
 なにかの拍子に、急に一人の女が歌い始めていた。それは外つ国の歌とは違う。不思議な歌だった。なめらかに洋吉の耳を触る。女の一人が琵琶を鳴らす。また一人、歌い出す。気がつけば女達は踊り出した。紗がふわふわと女の怪しい部分を隠している。それがなんともなまめかしい。見えそうで見えない。
「さあ。歌いましょう。客人」
 洋吉はこわごわと歌い始めた。西洋人が歌う音階を出していた。洋吉の歌声に合わせて、女達を歌うが、洋吉に合わせてではなく、女達が勝手に歌を声に出していた。光の中、女達は舞うものや楽器を鳴らすものがいた。
「ああ楽しい」という声が聞こえてきた。洋吉がガチガチだった体がほぐれていくようだった。光の中は暗い思考も訪れることがない。
「そろそろかな」
 三津堂が言った。ふわふわ女達は浮かぶ、女達は三津堂や洋吉をつかんだ。そうして、洋吉は無重力を感じた。足に力が入らず、まるでどんなに力を入れてもクルクルとでんぐり返りをしてしまうような。
「なんだ、いったい、これは」
「なんだいって、遊びですよ」
 三津堂は酒を飲みながら言った。酒に酔ったのか笑い出していた。
 女達も笑い出す。うふふ。という声だ。夜空を飛んでいる洋吉は月を見た。いつも小さな月が間近で見れば大きく、穴ぼこだらけだ。白い月は、輝いて目にまぶしい。目をほめている洋吉に眼下には、月明かりに照らせた町が見える。洋吉はもしかしたら神川がいるかもなと思った。
 ふわふわと体を泳がせる。冷たい風が気持ちいい。女達は歌い出す。銀河を思わせるような瞳を女はしていた。キラキラと輝いている。それは怪しいのだが、美しい情景に似ている。
 ふわりと洋吉は眠くなる自分に気がついた。なかなか眠れなかったのだ。洋吉は目をつぶる。このまま布団にもぐりたいと考えていた。



「おはようございます」
 布団の中で声をかけられた。三津堂がいた。布団の外から、ヨイショと洋吉をのぞいていた。洋吉は昨日の服装のまま、眠っていた。
「晩酌をしたら、疲れていたんでしょう。よく眠っていましたよ」
 三津堂は笑っていう。じゃあ、あの湖のことは夢なのかと洋吉は問いかけそうになった。確かに自分は三津堂と一緒に山を登ったはずだ。
「せんにょは」
「仙女。いたらいいですね。私としては膝枕をしてもらいたいです。桃のいい香りがするんでしょうね」
「桃」
「まあある話によると、そんな匂いがするらしいですよ。いやあ。いいですね。仙女」
 洋吉はしばらく考えていたが、大真面目にこう思った。やはりあれは夢なのか。狐に化かされたような気分である。確かに三津堂と一緒にいたはずである。しかし、三津堂には夢と言われる。あんな夢があるだろうか。
「おや、顔色がいい。ご飯を用意したので食べましょう」
 と言われて、三津堂は自分の布団をたたむ。洋吉も習う。丸い円卓を出して、遅い朝食を食べた。



 雨である。憂鬱な梅雨の季節だ。洋吉は学区内を歩いていた。コウモリ傘は重いが丈夫である。洋吉の腕にはぐっとのしかかるように傘の重みが乗っていた。土が雨に濡れて、泥になり、まるで米ぬかのようにねっとりとしている。そこを靴で歩く、安価なものせいか、ビチャビチャである。皮の鞄は高いものを使っているから安心だが、靴までは手入れできない。
「洋吉君」
 雨粒が傘を叩く音からわずかに聞こえる声で洋吉は立ち止まった。洋吉を呼んだのは神川である。神川は長い髪を湿気のせいで髪がふわふわさせていた。女子学生がほうっておかない男のあまさに洋吉はげんなりした。
「君、顔色がいいね」
「なんだい藪から棒に」
 洋吉があきれているとクスクスとおかしそうに神川が笑い出している。神川の様子を見て外国人のように、洋吉は肩をすくめた。
「意味がわからないよ。君はどうしたいんだい。こんな雨の日に。僕に用かい」
「いやあ。君、意外と字がうまいんだなと」
「代筆はお断りだ、予約がいっぱいだ」
「どうやら玲子さんのことは吹っ切れたようだね。あの後、心配したよ」
「そうだね。君には悪いことをした」
 そんな会話をしながら、洋吉はまたあの遊びを思い出した。きらびやかな時間だった。玲子のときとは違う。
 女達の歌は不思議な響きがあった。柔らかく、しなやかな歌声だった。外国では夜にはナイチンゲールが鳴るというが、ナイチンゲールを知らない洋吉には、あれはナイチンゲールなのかわからない。不気味なカラスとは違う。鳥なのかわからない。
「どうしたんだい。ぼーっとして」
「いや。気にしないでくれ。それで君のあの後どうしたんだい」
「ああ一人で飲んでいたよ。隣の人からホッピーをおごってもらって」
「まさか、君。女性じゃないよね」
「まず違うね。女性はそんな夜遅くに出歩かないよ」
「それもそうだが」
 職業婦人もいるだろうとは洋吉には言えなかった。洋吉の気持ちを読み取った神川は「会ってみないか」と言われた。洋吉は驚いていると「代筆をやるから」と言い訳めいたことを言った。
「仕方ないね」
 神川は残念そうに言うから、洋吉は悪いことをしたような気持ちになった。


 神川と洋吉は部屋に戻った。その頃にはポツポツと雨が降り始めていた。ポツポツが本格的な雨になると、洋吉は雨戸をしめに一階に戻る。下宿先の奥さんが悪いねえと言いながら夕食を作っていた。
 庭に植えた紫陽花が揺れていた。可憐なうす紅が暗闇から見られた。小さな飾りのような、菱形の花弁に見えるのは雄しべ、小さく丸い雄しべは花弁の上で揺れている。雨はザーザーと降りながらも、辺りを暗くする。湿気と寒さを家まで入れないよう雨戸をしっかり閉める。洋吉が閉めると下宿先の奥さんが隣の部屋から現れた。
「今日は贅沢をする日だから、みんなでご飯を食べましょう、神川さんも呼んできてちょうだい」
 ご飯と聞いて洋吉は驚いた。そんな外食でもなかなか食べられないと思っていると「今日は闇でたくさん食べ物があったの。私の作る料理は意外と美味しいものだからいらっしゃい」と言われた。洋吉は階段を登って、神川の部屋に入る前に、ノックをした。西洋かぶれをしてみたかったのだ。神川は笑いながら「どうぞ」と言った。
「夕食を奥さんが作ったから食べよう」
 神川はちょっとだけ目を丸くした。
「いいのかい。そんなことをして」
「そうだとも」
「それはたいしたものだね。食べ物は不足しているからありがたいよ」
「まあ、そうだが。ご馳走とは言えないと思う」
「いや、知らないが、食べ物は食べ物だ」
 神川は困ったような顔をした。腕を組んだまま、まあ行ってみようかなと言った。神川は言葉を聞きながら、洋吉は階段を下りた。かすかに夕飯の匂いがする。洋吉は円卓に座る。洋吉の分と神川の分、奥さん、旦那さんの分もある。旦那さんは顔を上げて「君達も食べなさい」とだけ言った。
 神川はおかしそうに笑った。くすぐったい笑みである。洋吉は今にも箸を取りたくなる。そうして食べたかった。
「洋吉さん。緊張しているの」
 おかしそうに奥さんは言った。
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