隣の家

午後野つばな

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 源の名前が初めて世間を騒がせたのは、彼がまだ大学四年生のとき。後に源の代表作にもなる一枚の絵が、海外の大きな賞を取ったことがきっかけだった。才能にあふれた若い作家は世間から注目され、ある週刊誌が源の複雑な生い立ちをスクープしたことから、その注目度は本人の望まぬ形でますますヒートアップすることになったーーというのを、篤郎は随分後になってようやく知った。というのも、源が隣の家に越してきたとき、篤郎はまだ八歳かそこらで、当然そんな事情は知らなかった。ただちょっと変わったやつがやってきたなあという感覚でしかなかった。
 源の代表作にタイトルはない。シンプルに「UNTITLED」とつけられたその絵は、恐らく夜の海を描かれたといわれている。
 横に配置されたキャンバスの一面が黒の濃淡で塗られている。波はほとんどなく、月の光がまるで一本の光の道のようにまっすぐ手前に伸びている。それはまるでほの暗い闇の中に光が浮かび上がるように、儚くあえかなきらめきだ。静かで寂しい絵なのに、どこか見る人の心を包み込む、不思議な絵でもある。
 ーーこれは源そのものだ。
 なぜそんなふうに思ったのかはわからない。モチーフ自体がはっきりと描かれたものではないし、源自身は作品について詳しく語ることを好まないので、ひょっとしたら篤郎の勘違いかもしれない。それでも初めてその絵を目にしたとき、篤郎はその場から動くことができなかった。それまで感じたことのない深い感動が、篤郎の胸を揺さぶった。
 日本画や洋画に拘らない源の生み出す作品は独特で、見る人の心にどこか切ない爪痕を残しながらも、その印象はあくまでも美しく、やさしい。その作品が某有名車メーカーのCMに使われてからは、それまでイロモノという扱いでしかなかった源の作品に対する人々の印象を、大きく変えることとなった。いまや源の新作を待ち望むコレクターは国内を問わず、海外にも多く存在する。源の作品のマネンジメントを一切取り仕切っているのが、花園画廊だ。
 源の描く絵は美しい。篤郎は素直にそう思う。
 人としては大いに問題ありの、欠点だらけの源の人間性を知ったいまでも、篤郎は彼の作品を見るたびに、ハッと心を奪われてしまう。言葉を失ってしまう。もちろん照れくさくて直接本人に言ったことはないけれど、篤郎は日高源という作家が生み出す絵の、熱烈なファンなのであった。
 みーんみんみんみー・・・・・・。
 じっとしているだけでも汗ばむ暑さだ。篤郎は額から伝う汗を拭った。きらりと光る青空に、目を細める。
 三和土で靴を脱いで家に上がると、母が庭で水を撒いていた。濡れた木々の緑がキラキラときらめく。リビングからテレビの音が漏れ聞こえていた。篤郎はキッチンで冷蔵庫を開けると、二リットルのミネラルウォーターに直接口をつけた。そのとき、母が縁側から家に上がってきた。手には、切ったばかりのピンク色の蔓バラが握られている。
「あら、帰ってたの?」
「うん、おはよう」
「おはようって、もう昼じゃない」
 母は呆れた声を出しながら、篤郎の手にあるペットボトルに目を止めた。
「もう、直飲みは止めなさいって言っているでしょう。あのねえ、直接口をつけると中に菌が入って・・・・・・」
「あー、はいはい」
 母の小言が始まりそうな気配を感じて、篤郎はペットボトルのキャップを閉めると、バスルームへ逃げた。海水でべたついた身体をシャワーで洗い流し、濡れた身体をバスタオルで拭う。
 篤郎の身長は170センチそこそこといったところだが、顔が小さいため、もっと大きく見られる。筋肉質な細身の身体は、サーフィンをしていることもあって無駄がない。内面を写し取ったような気の強そうな瞳、あっさりとした純和風の顔立ち。左耳のシンプルなピアスと趣味で作った皮のブレスレットは、いまや篤郎の身体の一部のように馴染んでいる。篤郎は海水で色の抜けた髪を指でつかむと、洗面所の鏡に向かってじいっと目を眇めた。
 だいぶ伸びてきたし、そろそろ切りにいくかな。
 そのとき、やけに美しい容姿をしたひとりの男の姿が浮かんで、篤郎は顔をしかめた。
 くそっ。せっかく考えないようにしていたのに。
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