15 / 37
15
しおりを挟む
「俺は衛さんのことが好きだ。衛さんだって、それはわかっているはずだ」
心の奥まで見透かされそうなまっすぐな瞳に、目をそらしたのは日下のほうだった。
「緒方さん」
「何だい」
徹の呼びかけに、緒方はいつもと変わらないようすで穏やかに応じた。
「俺はあなたのことを知りません。だけど、衛さんの言葉の通りなら、きょうのあなたは普段とは違うのでしょう」
「徹?」
いったい徹がどういうつもりなのかわからず、日下は眉を顰めた。
「……そうだとしたら、何か意味はあるのかい?」
緒方の顔に、きょう初めて徹を認識したような色が浮かんだ。
「確かに叔父は品行方正な人物ではありません。完璧なように見えて、実際はそんなことはないし、いいかげんで問題が多い人だ。この人、家では朝ひとりで起きることもできないし、気がついたら部屋が洗濯物に埋もれていても平気なんですよ」
「徹!」
この場にきてのまさかの徹の暴露に、日下は羞恥を感じながらも苛立ちを募らせる。
「お前、いい加減にしろ。緒方先生もこいつの話を本気にしないでください」
焦る日下とは反対に、緒方は徹の話に興味を引かれたような表情を浮かべている。
「だけど、あなたがおっしゃっていたように、衛さんは信用できる人だ。本当はわかっているんじゃないですか? そしてそれは衛さんにとっても同じだと思います。その信頼を、どうか裏切らないであげてほしい」
「徹……」
まっすぐに緒方の目を見て話す徹に、日下は言葉を失う。つかまれた手が熱かった。さっきまでの激情が消え、頭が冷静になるにつれ、じわりと頬に熱が戻ってくる。
緒方はため息を吐くと、降参するように両手を万歳のかたちに上げた。
「――悪かった。言い過ぎたよ。ついむきになってしまった。衛もすまなかった。どうか許してほしい」
「緒方先生……」
日下を見る緒方の眼差しは、これまで目にしたことのない静かな色が浮かんでいた。緒方が本心から言っていることがわかり、日下はそれ以上怒れなくなる。
「そ、それはもちろんですけど……」
「せっかくの時間を台無しにしたお詫びに、ここは俺が払おう」
思いがけない成り行きに日下がへどもどしている間に、戻ってきたウェイターに緒方が会計をすませてしまう。
店の前で緒方と別れ、日下たちは海沿いの国道を駅に向かって歩く。真っ暗な海の向こうに、小さな街の明かりが見えた。打ち寄せる波の音に、高ぶっていた神経が少しずつ冷静になっていく。街灯に徹の横顔が照らされている。意識して見ていたつもりはないのに、振り向いた徹と目が合ってどきりとする。
「……お前、さっきのは何だよ」
「さっきのって?」
「だからその……」
自分から言い出しておいて、お前が僕を好きだと言ったことだよとは、言葉にしづらい。言い淀む日下に徹が気づいたように、
「ああ、俺が衛さんを好きだって言ったこと? それとも衛さんが俺の気持ちに気づいていて、知らん顔をしていると言ったこと?」
と聞かれ、ぎょっとなった。
「知らん顔なんて人聞きが悪い。……ただ、あり得ないと言っているだけだ」
自分でも歯切れが悪い答えになった自覚はあった。案の定、日下の答えに納得できなかったように、徹が首をかしげる。
「それは衛さんが俺のことを恋愛対象としては見られないって意味? 叔父と甥という関係だから? 俺が衛さんから見たら、まだ子どもだから?」
ひとつでも十分な理由をいくつも挙げられて、日下は言葉に詰まる。お前の言う通りだと言えばすむ話なのに、口にできないのはどうしてだろう。
「それとも、何か別の理由があるの?」
海風が日下の髪をなぶる。手を伸ばせば溶けて消えてしまいそうな暗闇の中で、こちらを見つめる徹の視線を感じた。
――俺は衛さんのことが好きだ。衛さんだって、それはわかっているはずだ。
徹の言葉が甦り、じわりと熱が上がる。そうだ、徹が本気なことくらいとっくに気がついている。日下が思うよりも、徹は子どもじゃない。徹の問いに答えられないのは、日下のほうに不都合があるからだ。日下が気づきたくない何かが――。
潮風で身体が冷える。小さく身震いした日下に、先に徹が気がついた。
「冷えてきたね。うちに帰ろう」
迷いのないようすで先を歩き出した徹に、日下も遅れてついていく。波の音が聞こえた。月明かりに白波が立っている。
「さっきのイタリアン、なんだか緊張して味がよくわからなかった。もったいなかったな。衛さんもあまり食べていなかったね。好みじゃなかった?」
徹におかしなところはどこにもなかった。彼はいつも通りで、むしろ緊張していたのは日下のほうだ。内心でどこがだよと苦々しく思いながら、
「あの空気の中でおいしくて食べていたら神経を疑う」
と日下が返すと、
「それもそうか」
と納得したような答えが返ってきて、日下は人知れずほっと息を吐いた。
さっきまでの張りつめた空気はどこにもなかった。この時間がいつまで続くかはわからない。でもあと少し、タイムリミットまでにはまだ間がある。
「気が抜けたらお腹が空いてきた。帰ったらお茶漬けでも作ろうかな。衛さんも食べる?」
「筧さんからもらった上等な塩昆布を隠してある」
「ああ、いいね」
徹が振り向き、日下を見て笑う。日下は波音に気を取られた振りをして、そっと視線を外した。
心の奥まで見透かされそうなまっすぐな瞳に、目をそらしたのは日下のほうだった。
「緒方さん」
「何だい」
徹の呼びかけに、緒方はいつもと変わらないようすで穏やかに応じた。
「俺はあなたのことを知りません。だけど、衛さんの言葉の通りなら、きょうのあなたは普段とは違うのでしょう」
「徹?」
いったい徹がどういうつもりなのかわからず、日下は眉を顰めた。
「……そうだとしたら、何か意味はあるのかい?」
緒方の顔に、きょう初めて徹を認識したような色が浮かんだ。
「確かに叔父は品行方正な人物ではありません。完璧なように見えて、実際はそんなことはないし、いいかげんで問題が多い人だ。この人、家では朝ひとりで起きることもできないし、気がついたら部屋が洗濯物に埋もれていても平気なんですよ」
「徹!」
この場にきてのまさかの徹の暴露に、日下は羞恥を感じながらも苛立ちを募らせる。
「お前、いい加減にしろ。緒方先生もこいつの話を本気にしないでください」
焦る日下とは反対に、緒方は徹の話に興味を引かれたような表情を浮かべている。
「だけど、あなたがおっしゃっていたように、衛さんは信用できる人だ。本当はわかっているんじゃないですか? そしてそれは衛さんにとっても同じだと思います。その信頼を、どうか裏切らないであげてほしい」
「徹……」
まっすぐに緒方の目を見て話す徹に、日下は言葉を失う。つかまれた手が熱かった。さっきまでの激情が消え、頭が冷静になるにつれ、じわりと頬に熱が戻ってくる。
緒方はため息を吐くと、降参するように両手を万歳のかたちに上げた。
「――悪かった。言い過ぎたよ。ついむきになってしまった。衛もすまなかった。どうか許してほしい」
「緒方先生……」
日下を見る緒方の眼差しは、これまで目にしたことのない静かな色が浮かんでいた。緒方が本心から言っていることがわかり、日下はそれ以上怒れなくなる。
「そ、それはもちろんですけど……」
「せっかくの時間を台無しにしたお詫びに、ここは俺が払おう」
思いがけない成り行きに日下がへどもどしている間に、戻ってきたウェイターに緒方が会計をすませてしまう。
店の前で緒方と別れ、日下たちは海沿いの国道を駅に向かって歩く。真っ暗な海の向こうに、小さな街の明かりが見えた。打ち寄せる波の音に、高ぶっていた神経が少しずつ冷静になっていく。街灯に徹の横顔が照らされている。意識して見ていたつもりはないのに、振り向いた徹と目が合ってどきりとする。
「……お前、さっきのは何だよ」
「さっきのって?」
「だからその……」
自分から言い出しておいて、お前が僕を好きだと言ったことだよとは、言葉にしづらい。言い淀む日下に徹が気づいたように、
「ああ、俺が衛さんを好きだって言ったこと? それとも衛さんが俺の気持ちに気づいていて、知らん顔をしていると言ったこと?」
と聞かれ、ぎょっとなった。
「知らん顔なんて人聞きが悪い。……ただ、あり得ないと言っているだけだ」
自分でも歯切れが悪い答えになった自覚はあった。案の定、日下の答えに納得できなかったように、徹が首をかしげる。
「それは衛さんが俺のことを恋愛対象としては見られないって意味? 叔父と甥という関係だから? 俺が衛さんから見たら、まだ子どもだから?」
ひとつでも十分な理由をいくつも挙げられて、日下は言葉に詰まる。お前の言う通りだと言えばすむ話なのに、口にできないのはどうしてだろう。
「それとも、何か別の理由があるの?」
海風が日下の髪をなぶる。手を伸ばせば溶けて消えてしまいそうな暗闇の中で、こちらを見つめる徹の視線を感じた。
――俺は衛さんのことが好きだ。衛さんだって、それはわかっているはずだ。
徹の言葉が甦り、じわりと熱が上がる。そうだ、徹が本気なことくらいとっくに気がついている。日下が思うよりも、徹は子どもじゃない。徹の問いに答えられないのは、日下のほうに不都合があるからだ。日下が気づきたくない何かが――。
潮風で身体が冷える。小さく身震いした日下に、先に徹が気がついた。
「冷えてきたね。うちに帰ろう」
迷いのないようすで先を歩き出した徹に、日下も遅れてついていく。波の音が聞こえた。月明かりに白波が立っている。
「さっきのイタリアン、なんだか緊張して味がよくわからなかった。もったいなかったな。衛さんもあまり食べていなかったね。好みじゃなかった?」
徹におかしなところはどこにもなかった。彼はいつも通りで、むしろ緊張していたのは日下のほうだ。内心でどこがだよと苦々しく思いながら、
「あの空気の中でおいしくて食べていたら神経を疑う」
と日下が返すと、
「それもそうか」
と納得したような答えが返ってきて、日下は人知れずほっと息を吐いた。
さっきまでの張りつめた空気はどこにもなかった。この時間がいつまで続くかはわからない。でもあと少し、タイムリミットまでにはまだ間がある。
「気が抜けたらお腹が空いてきた。帰ったらお茶漬けでも作ろうかな。衛さんも食べる?」
「筧さんからもらった上等な塩昆布を隠してある」
「ああ、いいね」
徹が振り向き、日下を見て笑う。日下は波音に気を取られた振りをして、そっと視線を外した。
0
お気に入りに追加
13
あなたにおすすめの小説
手〈取捨選択のその先に〉
佳乃
BL
彼の浮気現場を見た僕は、現実を突きつけられる前に逃げる事にした。
大好きだったその手を離し、大好きだった場所から逃げ出した僕は新しい場所で1からやり直す事にしたのだ。
誰も知らない僕の過去を捨て去って、新しい僕を作り上げよう。
傷ついた僕を癒してくれる手を見つけるために、大切な人を僕の手で癒すために。
年上が敷かれるタイプの短編集
あかさたな!
BL
年下が責める系のお話が多めです。
予告なくr18な内容に入ってしまうので、取扱注意です!
全話独立したお話です!
【開放的なところでされるがままな先輩】【弟の寝込みを襲うが返り討ちにあう兄】【浮気を疑われ恋人にタジタジにされる先輩】【幼い主人に狩られるピュアな執事】【サービスが良すぎるエステティシャン】【部室で思い出づくり】【No.1の女王様を屈服させる】【吸血鬼を拾ったら】【人間とヴァンパイアの逆転主従関係】【幼馴染の力関係って決まっている】【拗ねている弟を甘やかす兄】【ドSな執着系執事】【やはり天才には勝てない秀才】
------------------
新しい短編集を出しました。
詳しくはプロフィールをご覧いただけると幸いです。
最愛の幼馴染みに大事な××を奪われました。
月夜野繭
BL
昔から片想いをしていた幼馴染みと、初めてセックスした。ずっと抑えてきた欲望に負けて夢中で抱いた。そして翌朝、彼は部屋からいなくなっていた。俺たちはもう、幼馴染みどころか親友ですらなくなってしまったのだ。
――そう覚悟していたのに、なぜあいつのほうから連絡が来るんだ? しかも、一緒に出かけたい場所があるって!?
DK×DKのこじらせ両片想いラブ。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
※R18シーンには★印を付けています。
※他サイトにも掲載しています。
※2022年8月、改稿してタイトルを変更しました(旧題:俺の純情を返せ ~初恋の幼馴染みが小悪魔だった件~)。
恋人に浮気をされたので 相手諸共ボコボコにしようと思います
こすもす
BL
俺が大好きな筈の彼に、なぜか浮気をされて……?
静瑠(しずる)と春(はる)は付き合って一年。
順調に交際しているつもりだったある日、春の浮気が発覚する。
浮気相手も呼んで三人で話し合いになるが「こうなったことに心当たりはないのか」と言われてしまい……
健気なワンコ(25)×口の悪いツンデレ(29)
☆表紙はフリー素材をお借りしました
☆全体的にギャグですので、軽い気持ちで読んでくださいませ¨̮ ¨̮ ¨̮
しのぶ想いは夏夜にさざめく
叶けい
BL
看護師の片倉瑠維は、心臓外科医の世良貴之に片想い中。
玉砕覚悟で告白し、見事に振られてから一ヶ月。約束したつもりだった花火大会をすっぽかされ内心へこんでいた瑠維の元に、驚きの噂が聞こえてきた。
世良先生が、アメリカ研修に行ってしまう?
その後、ショックを受ける瑠維にまで異動の辞令が。
『……一回しか言わないから、よく聞けよ』
世良先生の哀しい過去と、瑠維への本当の想い。
元寵姫、淫乱だけど降嫁する
深山恐竜
BL
「かわいらしい子だ。お前のすべては余のものだ」
初めて会ったときに、王さまはこう言った。王さまは強く、賢明で、それでいて性豪だった。麗しい城、呆れるほどの金銀財宝に、傅く奴婢たち。僕はあっという間に身も心も王さまのものになった。
しかし王さまの寵愛はあっという間に移ろい、僕は後宮の片隅で暮らすようになった。僕は王さまの寵愛を取り戻そうとして、王さまの近衛である秀鴈さまに近づいたのだが、秀鴈さまはあやしく笑って僕の乳首をひねりあげた。
「うずいているんでしょう?」秀鴈さまの言葉に、王さまに躾けられた僕の尻穴がうずきだす——。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる