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緒方の知り合いがやっているイタリアンの店は、七里ガ浜駅から歩いて五分ほどの距離だ。店内はすでに七割ほどが埋まっていた。人気の席は、七里ヶ浜のオーシャンビューを臨むことのできるテラス席のようだ。オーナーが知り合いだという話は本当らしく、緒方はなじみの店員に快く迎い入れられると、奥の落ち着いたスペースへと案内された。
「ここは自然派ワインもいいものを入れていてね、きみはお酒が飲めるのかい? もしアルコールがだめなら何かジュースでも……」
「大丈夫です」
「衛は白のほうが好きだったよね」
「ええ」
自分のほうに伸ばされた緒方の手には気づかないふりをして、日下はそっと身体を引く。
「それじゃあまずは乾杯しようか」
ソムリエおすすめのオーガニックワインで乾杯する。コースは三種類から選ぶことができた。望まない成り行きにすっかり食欲を失っていた日下は一番軽いコースを選ぶ。すぐに魚介類や鎌倉野菜などを使ったアンティパストが運ばれてきた。
「きみは確かまだ大学生だよね。卒業後の進路はもう決まっているの」
「卒業後は大学院に進んだ後、司法試験を目指しています」
「それはすごい。将来は弁護士さんか。それはさぞ衛も鼻が高いだろう」
「目指すだけなら誰でもできますから……」
控えめな態度で謙遜する徹に、緒方は「そんなことない、十分立派だよ。なあ、衛」と日下に話を振った。
「ええ、そうですね」
日下はグラスに口をつけると、居心地の悪さを隠して微笑む。頭の中では、さっさと食事をすませてこの場から去りたいという思いしかなかった。
「衛とは雑誌の取材がきっかけで会ってね、それからときどきプライベートでも会うようになったんだよ。きみは彼が仕事をしているところを見たことがあるかい? 衛はすごいよ。いまをときめく日高源も彼がいなかったらここまで売れていたかわからない。日本画の大家とも呼ばれる鷺沼先生も衛にご執心でね、みんな彼との仕事を望んでいる」
「緒方先生……」
緒方の言葉は明らかに大げさだ、真実ではない。困ったようようすの日下とは反対に、徹は緒方の話に興味を引かれたような顔をした。
「日高源て、衛さんが好きな作家だよね。衛さんすごいね」
「お前も本気にするな。緒方先生もいい加減なことはおっしゃらないでください」
いったいこれは何の苦行なのかと顔をしかめる日下に、徹が「そんなことはないよ」と否定した。
「前に筧さんが話していた。衛さんが花園画廊に入ってくれて助かるって。これまでの古い考えや慣習に囚われていた世界で、衛さんが新しい風を吹かせてくれたことで、以前にはできなかったことができるようになったって」
「筧さんがそんなことを……?」
いつの間にそんな話をしていたのかと驚きつつも、日下はとたんにきまりが悪くなる。仕事上でのつき合いや、遊びの場でならいくらでもうまく取り繕うことができるのに、徹の前ではそれができない。格好悪い、素のままの自分が出てしまう。
「ほかにもまだ言っていたよ。ああ見えて、衛さんは実は努力家なんだって」
「いいからもう黙れ」
わずかに熱くなった頬をごまかすように日下はグラスに手を伸ばすと、すでに中身が空なことに気づき、そのままテーブルに戻した。
「そうだ、以前取材で会った金森くんが今度独立して、新しい雑誌を立ち上げるそうだよ」
「新しい雑誌をですか?」
「ああ。出版社の枠組みを超えて、出版物だけではなくマーケティングやイベントなどの事業もするそうだ」
突然話題が変わったことを怪訝に思いつつも、日下は内心でほっとする。知らない人の話なので、徹は会話に入れない。いつもの緒方らしくない態度に違和感を覚えつつも、日下は当たり障りのない会話を緒方と続ける。徹は日下たちの話に耳をかたむけていた。
「いまだから言えることだが、実際に衛に会うまでは不安だったよ。衛の噂はささやかだが耳にしていたからね、正直自分の作品を任せていいか不安だった。もちろん噂は噂にすぎず、すべては取り越し苦労だったけどね」
「噂?」
思わせぶりな緒方の言葉に、徹が眉を顰める。
「緒方先生、その話はここでは……」
「ここは自然派ワインもいいものを入れていてね、きみはお酒が飲めるのかい? もしアルコールがだめなら何かジュースでも……」
「大丈夫です」
「衛は白のほうが好きだったよね」
「ええ」
自分のほうに伸ばされた緒方の手には気づかないふりをして、日下はそっと身体を引く。
「それじゃあまずは乾杯しようか」
ソムリエおすすめのオーガニックワインで乾杯する。コースは三種類から選ぶことができた。望まない成り行きにすっかり食欲を失っていた日下は一番軽いコースを選ぶ。すぐに魚介類や鎌倉野菜などを使ったアンティパストが運ばれてきた。
「きみは確かまだ大学生だよね。卒業後の進路はもう決まっているの」
「卒業後は大学院に進んだ後、司法試験を目指しています」
「それはすごい。将来は弁護士さんか。それはさぞ衛も鼻が高いだろう」
「目指すだけなら誰でもできますから……」
控えめな態度で謙遜する徹に、緒方は「そんなことない、十分立派だよ。なあ、衛」と日下に話を振った。
「ええ、そうですね」
日下はグラスに口をつけると、居心地の悪さを隠して微笑む。頭の中では、さっさと食事をすませてこの場から去りたいという思いしかなかった。
「衛とは雑誌の取材がきっかけで会ってね、それからときどきプライベートでも会うようになったんだよ。きみは彼が仕事をしているところを見たことがあるかい? 衛はすごいよ。いまをときめく日高源も彼がいなかったらここまで売れていたかわからない。日本画の大家とも呼ばれる鷺沼先生も衛にご執心でね、みんな彼との仕事を望んでいる」
「緒方先生……」
緒方の言葉は明らかに大げさだ、真実ではない。困ったようようすの日下とは反対に、徹は緒方の話に興味を引かれたような顔をした。
「日高源て、衛さんが好きな作家だよね。衛さんすごいね」
「お前も本気にするな。緒方先生もいい加減なことはおっしゃらないでください」
いったいこれは何の苦行なのかと顔をしかめる日下に、徹が「そんなことはないよ」と否定した。
「前に筧さんが話していた。衛さんが花園画廊に入ってくれて助かるって。これまでの古い考えや慣習に囚われていた世界で、衛さんが新しい風を吹かせてくれたことで、以前にはできなかったことができるようになったって」
「筧さんがそんなことを……?」
いつの間にそんな話をしていたのかと驚きつつも、日下はとたんにきまりが悪くなる。仕事上でのつき合いや、遊びの場でならいくらでもうまく取り繕うことができるのに、徹の前ではそれができない。格好悪い、素のままの自分が出てしまう。
「ほかにもまだ言っていたよ。ああ見えて、衛さんは実は努力家なんだって」
「いいからもう黙れ」
わずかに熱くなった頬をごまかすように日下はグラスに手を伸ばすと、すでに中身が空なことに気づき、そのままテーブルに戻した。
「そうだ、以前取材で会った金森くんが今度独立して、新しい雑誌を立ち上げるそうだよ」
「新しい雑誌をですか?」
「ああ。出版社の枠組みを超えて、出版物だけではなくマーケティングやイベントなどの事業もするそうだ」
突然話題が変わったことを怪訝に思いつつも、日下は内心でほっとする。知らない人の話なので、徹は会話に入れない。いつもの緒方らしくない態度に違和感を覚えつつも、日下は当たり障りのない会話を緒方と続ける。徹は日下たちの話に耳をかたむけていた。
「いまだから言えることだが、実際に衛に会うまでは不安だったよ。衛の噂はささやかだが耳にしていたからね、正直自分の作品を任せていいか不安だった。もちろん噂は噂にすぎず、すべては取り越し苦労だったけどね」
「噂?」
思わせぶりな緒方の言葉に、徹が眉を顰める。
「緒方先生、その話はここでは……」
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