恋の実、たべた?

午後野つばな

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 濡れた髪を適当にタオルドライし、リビングへいくと、オーソドックスな和食の朝食がテーブルに並んでいた。日下は朝はパン食よりも和食が好きだ。
「衛さん、床に滴を零さないで」
 テーブルにつくなり無言で味噌汁に口をつけた日下を、徹が転々と床に落ちた水滴を拭いながら、小姑のような小言を漏らす。
「放っておけばそんなのすぐに乾く」
「そうだけど、せっかくの無垢材が染みになる」
「うるさい。自分の家でくらい自由にさせろ」
「……いつだって衛さんは自由にしているじゃないか」
 呆れたように言いながら、徹はグラスをテーブルに置いた。日下が好きな氷出しの緑茶だ。朝食は毎朝徹が作っている。ついでに言えば家の家事もほとんど徹がしている。こちらから頼んだことは一度もないのに、徹は日下と一緒に同居するようになってから、文句も言わずに黙々と家事をこなしている。いまじゃ金を取れるんじゃないかと思うくらい、家事のプロだ。むしろ楽しんでいる素振りさえある。
 日下は家事が出来ないわけじゃない。出来るけれど面倒でしないだけだ。日下自身は部屋に洗濯物がたまろうと、洗っていない食器が流しに積み重なろうと全く気にならない。人間そんなことぐらいじゃ死んだりしない。
 向かいの席に腰を下ろした徹が、いただきますと手を合わせた。染めてない黒髪が普段より伸びている。前髪が目に入りそうだ。もはや見慣れた朝の光景を眺めながら、日下はこいつも変わっていると、これまで何度も思ったことを心の中で呟く。
「何か言った?」
 日下の視線に気づいた徹が顔を上げた。意思の強そうな眉と、聡明さが滲むまっすぐな瞳が、徹の内面を写し取る鏡のようだ。
「お前、裕介さんに似てきたな」
 素材は決して悪くない。日下や姉のように繊細なタイプではないが、顔立ちだって悪くはない。むしろ整っているほうだ。
 幼なじみでもあった祐介さんと姉が結婚したのは、ふたりがまだ二十歳のときだ。若いふたりの結婚生活は周囲の祝福と助けを借りて、順風満帆にいっているように思えた。裕介さんが突然の病に倒れるまでは。
 その場にいるだけで周りの人の気持ちを和ませるような、不思議な魅力を持つ人だった。血の繋がりは不思議だ。年を追うごとに、徹はますます実の父親に似てくる。
「正直あまり覚えていないんだ。でも、衛さんが言うのなら、きっとそうなんだろうね」
 日下を見つめる徹の眼差しに、何かを思い出したような色が浮かんだ。父親が亡くなったとき、徹はまだ五歳だった。
 さわさわと葉擦れの音が聞こえた。夏の光に、庭木の緑が鮮やかに揺れる。鎌倉は都心からそれほど離れてはいないのに、山も海もある、自然に恵まれた豊かな地域だ。
 きれいな黄色のだし巻きがおいしかった。徹がわざわざ市場で仕入れてきたアジの開きも身がほっこりとしていて、いい塩加減だ。日下はもともと食に対する欲求が薄い。旨いものは嫌いではないが、仕事が忙しいときなどは平気で食事を抜かしてしまうし、三食が栄養補助食品でも構わない。それなのに、徹と住むようになってからめっきり口が贅沢になった。
 コリコリときゅうりのぬか漬けを噛みしめながら、汁物で流す。ご飯茶碗を手に取った徹が、「そうだ、衛さん」と思い出したように言った。
「きょうは帰りが遅くなる。ゼミの集まりがあるんだ。夕飯だけど……」
「大丈夫だ」
 徹に最後まで言わせず、日下は手にしていた茶碗を置いた。
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