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「あの少年がそれほど気になるのですか」
あの少年というのがヒースのことを指しているのだと気がついて、全身の血がすーっと冷たくなった。いけない、またヒースのことを考えていた。シュイは内心でぎくりとしながら、動揺を悟られないよう石さまとして相応しい顔をつくる。
「先日部屋に忍んできたモンド村の少年のことです」
何を言っているのかわからない。
シュイが冷ややかな視線を返すと、フレデリックはそれ以上追求しなかった。しかし彼が納得していないのは明らかだった。シュイは内心でほっとしながらも、フレデリックの前ではもっと気をつけなければと、自分の行動を戒める。
あのかわいそうな子どもたちの死があってから、シュイは自分の周囲から人を遠ざけるようになった。自分は役立たずの石で、人々が自分のことをどう扱っていいのか困惑していることも知っている。だが、自分に親しくなる者ができれば、その分だけその者に危険が増す。
周囲の者を遠ざけ、孤独になる中で、フレデリックだけはどうすることもできなかった。彼だけはいくらシュイが冷たく接し、遠ざけようとしても、まるでシュイの考えていることなどお見通しだとでもいうかのように、その側から離れなかった。フレデリックがシュイの専属護衛に任命されたのは、彼の護衛官としての能力が優れていたのはもちろんだが、おそらくそういう理由もあるのだろう。誰かを側に置くことはシュイの本意ではないが、フレデリックを遠ざけることはすでに諦めた。シュイにできることは、いざというときなるべく彼に被害が及ばないよう祈ることだけだ。
数日前、ヒースが塔に侵入したことで、シュイの周辺の警護はますます強固なものになった。
ヒース……。頼むから二度とくるな……。
ヒースの身の安全を考えるなら、彼と関わらないことが一番だと思うのに、気がつけばシュイはいつもヒースのことを考えてしまう。アズールの足に結ばれたメモに気づいたとき、いけないと思いつつも、シュイは泣きたいほどうれしかった。ヒースのメモに無言のリボンで返したのは、その意味を誰よりもヒースなら明確に読みとってくれると信じたからだ。
――自分のことは忘れてほしい。
あの日、広場でヒースに告げた言葉は決して嘘ではない。だけどバルコニーからヒースの元へと飛び立つアズールを見たとき、自分も彼と一緒にあの空へと羽ばたくことができたらと、考えてしまった。
「石さま、そろそろお支度を」
侍女がシュイの長い髪を梳き、とろけるような手触りをした高価な衣装に着替えさせる。
「よくお似合いでございます」
等身大の姿見に衣装を着た自分の姿が映る。だが豪華な衣装も、この部屋の中にある何ひとつが、シュイの心を動かすことはなかった。
「本日石さまがお会いになる方は、マーリーン公のご嫡子であらせられます。サリムさまのお誕生日に、石さまの祝福がいただきたいそうです」
フレデリックの言葉に微かにうなずくと、シュイの思考は再び閉ざされ、ここではないどこかへ飛んでゆく。
村から王都へ連れてこられ、自分に課せられた石としての役割を理解したとき、シュイは戸惑いを感じつつも、自分にできることなら喜んで人々のためにあろうと決めた。あの子たちが自分の代わりに殺され、生きる希望を失っても、その気持ちに変わりはない。石としての自分を信じる民衆に罪はない。彼らは真実を知らず、ただ盲信的に石さまとしての自分を信じているに過ぎない。そんな彼らの期待に応えられないことを、シュイは申し訳なく思った。たが、何を見てもシュイの心は凍りついたように動かない。まるで分厚い透明な殻の中に閉じこもっているかのように。
――シュイ、泣いたらだめだ。
ヒースのあの言葉は、シュイにとってお守りにも近い言葉だった。それなのに、いま石として人々の役に立ちたいと考えても、これまで自分がどうやって涙を流していたのか、シュイは思い出すことができなかった。
あれほどシュイに喜びをもたらし、身近に感じることのできた自然や虫や花も、何ひとつシュイの心を動かすことはなかった。子どもたちをいくら犠牲にしても、シュイが涙を流すことはないと王都側がようやく受け入れた後、再び静かな日々が戻ってきた中で、シュイははからずも自分が役立たずの石であり続けることが、人々にとって最良の道ではないかと気づいた。自分一人のために、誰も傷つけられることもない。
だが、そんなときヒースが現れた。シュイが知るころよりもひと回りもふた回りも成長した姿で、あのころとまったく変わらないまっすぐな眼差しをして。
武芸大会で戦うヒースを目にしたとき、シュイは平静さを保つのに必死だった。自分が少しでも動揺していることが知られれば、ヒースはきっと王都側に利用されてしまう。シュイのために死んでいった、たくさんの子どもたちのように。それだけは何としても避けなければならなかった。
自分が役立たずの石だと思われることはどうでもよかった。自分の命などどうなっても構わない。だけどヒースは違う。ヒースだけは何としてでも守らなければならない。そのためには何を犠牲にしたっていい。
ヒース、頼むからおれに構うな。お前はこの先もどうか生きていて――。
部屋を出て、長い廊下をフレデリックたちに守られながら歩く。石さまとしての自分がその場に現れると、人々の口からほうっとため息が漏れる。だが、そんな人々の反応もどうだっていい。何を見ても聞いても、シュイの横を風が吹き抜けるかのように、ただ通り過ぎてゆく。
「――ヒース!」
突然聞こえてきた子どもの声に、シュイはびくっとなった。その名前に、思わず身体が反応してしまった。長い廊下の向こうを、貴族の子どもに付き添うヒースが歩いてくる。この場にシュイがいることには、ヒースはまだ気づいてはいない。
なぜヒースがここに……!
急に足を止めたシュイの長い衣装の裾を、侍従の一人が踏んでしまった。
「石さま、申し訳ございません……!」
床に頭をついて詫びる侍従にも気づかず、シュイは真っ青な顔でその場に立ち尽くす。
「石さま?」
あの少年というのがヒースのことを指しているのだと気がついて、全身の血がすーっと冷たくなった。いけない、またヒースのことを考えていた。シュイは内心でぎくりとしながら、動揺を悟られないよう石さまとして相応しい顔をつくる。
「先日部屋に忍んできたモンド村の少年のことです」
何を言っているのかわからない。
シュイが冷ややかな視線を返すと、フレデリックはそれ以上追求しなかった。しかし彼が納得していないのは明らかだった。シュイは内心でほっとしながらも、フレデリックの前ではもっと気をつけなければと、自分の行動を戒める。
あのかわいそうな子どもたちの死があってから、シュイは自分の周囲から人を遠ざけるようになった。自分は役立たずの石で、人々が自分のことをどう扱っていいのか困惑していることも知っている。だが、自分に親しくなる者ができれば、その分だけその者に危険が増す。
周囲の者を遠ざけ、孤独になる中で、フレデリックだけはどうすることもできなかった。彼だけはいくらシュイが冷たく接し、遠ざけようとしても、まるでシュイの考えていることなどお見通しだとでもいうかのように、その側から離れなかった。フレデリックがシュイの専属護衛に任命されたのは、彼の護衛官としての能力が優れていたのはもちろんだが、おそらくそういう理由もあるのだろう。誰かを側に置くことはシュイの本意ではないが、フレデリックを遠ざけることはすでに諦めた。シュイにできることは、いざというときなるべく彼に被害が及ばないよう祈ることだけだ。
数日前、ヒースが塔に侵入したことで、シュイの周辺の警護はますます強固なものになった。
ヒース……。頼むから二度とくるな……。
ヒースの身の安全を考えるなら、彼と関わらないことが一番だと思うのに、気がつけばシュイはいつもヒースのことを考えてしまう。アズールの足に結ばれたメモに気づいたとき、いけないと思いつつも、シュイは泣きたいほどうれしかった。ヒースのメモに無言のリボンで返したのは、その意味を誰よりもヒースなら明確に読みとってくれると信じたからだ。
――自分のことは忘れてほしい。
あの日、広場でヒースに告げた言葉は決して嘘ではない。だけどバルコニーからヒースの元へと飛び立つアズールを見たとき、自分も彼と一緒にあの空へと羽ばたくことができたらと、考えてしまった。
「石さま、そろそろお支度を」
侍女がシュイの長い髪を梳き、とろけるような手触りをした高価な衣装に着替えさせる。
「よくお似合いでございます」
等身大の姿見に衣装を着た自分の姿が映る。だが豪華な衣装も、この部屋の中にある何ひとつが、シュイの心を動かすことはなかった。
「本日石さまがお会いになる方は、マーリーン公のご嫡子であらせられます。サリムさまのお誕生日に、石さまの祝福がいただきたいそうです」
フレデリックの言葉に微かにうなずくと、シュイの思考は再び閉ざされ、ここではないどこかへ飛んでゆく。
村から王都へ連れてこられ、自分に課せられた石としての役割を理解したとき、シュイは戸惑いを感じつつも、自分にできることなら喜んで人々のためにあろうと決めた。あの子たちが自分の代わりに殺され、生きる希望を失っても、その気持ちに変わりはない。石としての自分を信じる民衆に罪はない。彼らは真実を知らず、ただ盲信的に石さまとしての自分を信じているに過ぎない。そんな彼らの期待に応えられないことを、シュイは申し訳なく思った。たが、何を見てもシュイの心は凍りついたように動かない。まるで分厚い透明な殻の中に閉じこもっているかのように。
――シュイ、泣いたらだめだ。
ヒースのあの言葉は、シュイにとってお守りにも近い言葉だった。それなのに、いま石として人々の役に立ちたいと考えても、これまで自分がどうやって涙を流していたのか、シュイは思い出すことができなかった。
あれほどシュイに喜びをもたらし、身近に感じることのできた自然や虫や花も、何ひとつシュイの心を動かすことはなかった。子どもたちをいくら犠牲にしても、シュイが涙を流すことはないと王都側がようやく受け入れた後、再び静かな日々が戻ってきた中で、シュイははからずも自分が役立たずの石であり続けることが、人々にとって最良の道ではないかと気づいた。自分一人のために、誰も傷つけられることもない。
だが、そんなときヒースが現れた。シュイが知るころよりもひと回りもふた回りも成長した姿で、あのころとまったく変わらないまっすぐな眼差しをして。
武芸大会で戦うヒースを目にしたとき、シュイは平静さを保つのに必死だった。自分が少しでも動揺していることが知られれば、ヒースはきっと王都側に利用されてしまう。シュイのために死んでいった、たくさんの子どもたちのように。それだけは何としても避けなければならなかった。
自分が役立たずの石だと思われることはどうでもよかった。自分の命などどうなっても構わない。だけどヒースは違う。ヒースだけは何としてでも守らなければならない。そのためには何を犠牲にしたっていい。
ヒース、頼むからおれに構うな。お前はこの先もどうか生きていて――。
部屋を出て、長い廊下をフレデリックたちに守られながら歩く。石さまとしての自分がその場に現れると、人々の口からほうっとため息が漏れる。だが、そんな人々の反応もどうだっていい。何を見ても聞いても、シュイの横を風が吹き抜けるかのように、ただ通り過ぎてゆく。
「――ヒース!」
突然聞こえてきた子どもの声に、シュイはびくっとなった。その名前に、思わず身体が反応してしまった。長い廊下の向こうを、貴族の子どもに付き添うヒースが歩いてくる。この場にシュイがいることには、ヒースはまだ気づいてはいない。
なぜヒースがここに……!
急に足を止めたシュイの長い衣装の裾を、侍従の一人が踏んでしまった。
「石さま、申し訳ございません……!」
床に頭をついて詫びる侍従にも気づかず、シュイは真っ青な顔でその場に立ち尽くす。
「石さま?」
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