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そのとき、誰かの手が躊躇うようにヒースの肩に触れた。
「……無駄だよ。その子はもう助からない。第一、医者にかかる金なんてもの俺たち庶民にはない。貴族さまとは違うんだ」
自分が聞いたことが信じられないように、ヒースは声をかけてきた男を凝視する。いったい何を言っている?
そのとき、馬車から立派な身なりをした貴族の男が出てきた。男はヒースの腕の中でぐったりとしている子どもには目もくれず、おろおろしたようすの業者と自分の馬車を見て、不満の声を上げた。
「何をもたもたしておる! 早くその薄汚い小僧を馬車の前からどけないか! おかげでわしの馬車が汚れてしまったではないか! まったくとんだ災難だ!」
「――いま何て言った……?」
男の言葉に、ヒースはぴたりと動きを止めた。
「あんたの乗っている馬車がこの子どもをはねたんだろ? 災難とはどういう意味だ? あんたが心配するのは自分の馬車のことなのか?」
ヒースの気迫に男はたじろぐが、すぐに気を取り直したように高圧的な態度に戻った。
「子どもといったってたかだが庶民、それも浮浪児じゃないか! そんなもの、わしの馬車となど比べるまでもない! いいから、早くその薄汚い子どもをどけよ!」
人の心があるとは思えない男の言葉に、ヒースが立ち上がろうとしたそのときだ。
「帰れ!」
誰かが投げた石が貴族の馬車に当たった。
「いま石を投げたのは誰だ! 姿を見せよ!」
貴族の男は憤慨したように顔を赤くするが、一人、また一人と地面に落ちていた石を拾い、男へと投げつける。人々の目には男を憎むような暗い光が浮かんでいた。
「帰れ! ここは貴族さまがくるようなところじゃないぞ! 俺たちの町だ!」
「帰れ! 二度とくるな!」
石を投げながら、じりじりと迫りくる人々に恐れをなしたように、貴族の男は真っ青な顔で後退りした。
「止めよ! 貴様たち、わしにこんなことをしていいと思ってるのか!」
そのときヒースは、腕の中にいる子どもが何かを伝えようとしているのに気がついた。
「何だ? 何が言いたい?」
震える手で必死に渡そうとしているものを受け取ると、子どもはほっとした表情を浮かべた。ヒースを見てうれしそうに笑う。
「あり……がと……」
子どもの瞳から少しずつ光が失われていくさまを、ヒースは愕然とした思いで眺める。ヒースの手から先ほど子どもが渡したものがぽろりと転がり落ちた。
「だめだ! まだ死ぬな! 死んだらだめだ!」
子どもの身体を抱きしめ、必死に呼びかけるヒースを、人々は気の毒そうな顔で眺める。だが、こんなことは日常茶飯なのだろう、一人、また一人とその場から離れてゆく。そのときヒースの手から転がり落ちたものを、誰かが拾い上げた。拾った男は小さなケースの蓋を開けると、くんと匂いを嗅いだ。
「何だ? 軟膏?」
それは以前ヒースが町でこの子と会ったときに、ほんのわずかな金と共に渡したハーブ入りの軟膏だった。あかぎれだらけの子どもの手が痛そうで、かわいそうだったから。正直、深い意味なんてものはなかった。中途半端な同情はどちらのためにもならないとヒースに忠告した女の言うように、自分の気持ちが休まるように気まぐれに助けただけだ。それなのに、そんなヒースのささやかな好意を、子どもはずっと大事に持っていたのだろう。
中身がほとんど減っていない軟膏を目にしたとたん、ヒースの胸を深い後悔と衝撃が襲った。
「使わなかったのか……!」
自分はこの子に親がいなく一人なことも、お腹を空かせていることにも気づいていた。それなのになぜという思いがヒースを責め立てる。それは自分の手に余ったからだ。見知らぬ子どもに関わる余裕はないと、シュイを助けられなくなるからと心のどこかで自分に言い訳をして、ヒースはあの子どもを見捨てた。それはその日食べるものにも困り、腹を空かせている子どもを見て見ぬふりする人々と変わらない。
ヒースが数枚の硬貨とハーブ入りの軟膏を渡したときの、子どもの驚いたような顔が忘れられない。
――どうして……! どうしてもっと早く何とかしなかったのだろう……!
血の気の失せた子どもの頬に滴が落ちる。それが自分の流した涙だと、ヒースは気づかなかった。ヒースは唇を噛みしめると、少年の瞼をそっと閉じてやった。男から取り戻したケースから軟膏をすくい取り、あかぎれだらけの少年の手に塗ってやる。それから、小さな身体をぎゅっと抱きしめた。
「ごめん……、何もしてやれなくてごめん……!」
「……無駄だよ。その子はもう助からない。第一、医者にかかる金なんてもの俺たち庶民にはない。貴族さまとは違うんだ」
自分が聞いたことが信じられないように、ヒースは声をかけてきた男を凝視する。いったい何を言っている?
そのとき、馬車から立派な身なりをした貴族の男が出てきた。男はヒースの腕の中でぐったりとしている子どもには目もくれず、おろおろしたようすの業者と自分の馬車を見て、不満の声を上げた。
「何をもたもたしておる! 早くその薄汚い小僧を馬車の前からどけないか! おかげでわしの馬車が汚れてしまったではないか! まったくとんだ災難だ!」
「――いま何て言った……?」
男の言葉に、ヒースはぴたりと動きを止めた。
「あんたの乗っている馬車がこの子どもをはねたんだろ? 災難とはどういう意味だ? あんたが心配するのは自分の馬車のことなのか?」
ヒースの気迫に男はたじろぐが、すぐに気を取り直したように高圧的な態度に戻った。
「子どもといったってたかだが庶民、それも浮浪児じゃないか! そんなもの、わしの馬車となど比べるまでもない! いいから、早くその薄汚い子どもをどけよ!」
人の心があるとは思えない男の言葉に、ヒースが立ち上がろうとしたそのときだ。
「帰れ!」
誰かが投げた石が貴族の馬車に当たった。
「いま石を投げたのは誰だ! 姿を見せよ!」
貴族の男は憤慨したように顔を赤くするが、一人、また一人と地面に落ちていた石を拾い、男へと投げつける。人々の目には男を憎むような暗い光が浮かんでいた。
「帰れ! ここは貴族さまがくるようなところじゃないぞ! 俺たちの町だ!」
「帰れ! 二度とくるな!」
石を投げながら、じりじりと迫りくる人々に恐れをなしたように、貴族の男は真っ青な顔で後退りした。
「止めよ! 貴様たち、わしにこんなことをしていいと思ってるのか!」
そのときヒースは、腕の中にいる子どもが何かを伝えようとしているのに気がついた。
「何だ? 何が言いたい?」
震える手で必死に渡そうとしているものを受け取ると、子どもはほっとした表情を浮かべた。ヒースを見てうれしそうに笑う。
「あり……がと……」
子どもの瞳から少しずつ光が失われていくさまを、ヒースは愕然とした思いで眺める。ヒースの手から先ほど子どもが渡したものがぽろりと転がり落ちた。
「だめだ! まだ死ぬな! 死んだらだめだ!」
子どもの身体を抱きしめ、必死に呼びかけるヒースを、人々は気の毒そうな顔で眺める。だが、こんなことは日常茶飯なのだろう、一人、また一人とその場から離れてゆく。そのときヒースの手から転がり落ちたものを、誰かが拾い上げた。拾った男は小さなケースの蓋を開けると、くんと匂いを嗅いだ。
「何だ? 軟膏?」
それは以前ヒースが町でこの子と会ったときに、ほんのわずかな金と共に渡したハーブ入りの軟膏だった。あかぎれだらけの子どもの手が痛そうで、かわいそうだったから。正直、深い意味なんてものはなかった。中途半端な同情はどちらのためにもならないとヒースに忠告した女の言うように、自分の気持ちが休まるように気まぐれに助けただけだ。それなのに、そんなヒースのささやかな好意を、子どもはずっと大事に持っていたのだろう。
中身がほとんど減っていない軟膏を目にしたとたん、ヒースの胸を深い後悔と衝撃が襲った。
「使わなかったのか……!」
自分はこの子に親がいなく一人なことも、お腹を空かせていることにも気づいていた。それなのになぜという思いがヒースを責め立てる。それは自分の手に余ったからだ。見知らぬ子どもに関わる余裕はないと、シュイを助けられなくなるからと心のどこかで自分に言い訳をして、ヒースはあの子どもを見捨てた。それはその日食べるものにも困り、腹を空かせている子どもを見て見ぬふりする人々と変わらない。
ヒースが数枚の硬貨とハーブ入りの軟膏を渡したときの、子どもの驚いたような顔が忘れられない。
――どうして……! どうしてもっと早く何とかしなかったのだろう……!
血の気の失せた子どもの頬に滴が落ちる。それが自分の流した涙だと、ヒースは気づかなかった。ヒースは唇を噛みしめると、少年の瞼をそっと閉じてやった。男から取り戻したケースから軟膏をすくい取り、あかぎれだらけの少年の手に塗ってやる。それから、小さな身体をぎゅっと抱きしめた。
「ごめん……、何もしてやれなくてごめん……!」
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