いしものがたり

午後野つばな

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 ヒースたちのやり取りを眺めていた中年女の声に、ヒースは言い返すことなくその場を後にする。
 この町は変だ。ヒースがいた村よりもずっと豊かで物があふれているのに、その傍らではきょう食べるものにも困っている子どもがいる。そんな状況を人々は何とも思っていないのか、皆見て見ぬふりだ。
 ヒースにはわからなかった。村では皆で助け合うのが普通だった。中にはトンイのようにずる賢いやつもいたが、本当に困っている人を見捨てるようなことは誰もしなかった。それがこの町ではどうだ。村よりもよほど豊かに思えるのに、皆自分が損することをおそれているみたいだ。
 そのとき、ここから離れた場所で、空気が震えるほどのざわめきを感じた。
「石さまだ! 石さまがお越しになるぞ!」
「おお! 石さまだ! なんてありがたい……!」
 聞こえてきた人々の声に、ヒースははっとなった。
 シュイ? シュイがいまここにいるのか?
 誰もがひとめ石さまを見ようと、広場のほうへ足を向ける。もちろんその中にはヒースもいた。人混みをかきわけるように、ヒースの視線はその姿を探している。
 シュイ……っ! シュイはどこだ……っ!
 石さまと呼ばれているその人が本当にシュイなのか、ヒースの鼓動は不安と緊張で高まる。
 シュイに会ったら何を言えばいい。これまでいったいどのように暮らしていたのか、いまどうしているのか。シュイは幸せなのだろうか。だけど村のことを聞かれたら何て答えたらいい。俺たちの故郷はもうどこにもないのだと、みんな亡くなってしまったのだと、そんなことシュイには言えない。ふっと影が差す思いに、ヒースは唇を噛みしめる。
 シャラシャラと涼やかな鈴の音が聞こえた。広場の中央を横切るように、一団がヒースのいるほうへと近づいてくる。先頭は騎馬兵だ。続いて白い衣装を身に纏った人々の後に、豪華な装飾が施された駕籠が続く。駕籠を守るように、王都の騎士団がゆっくりと併走していた。駕籠の中は覆いがしてあってよく見えない。だが確かに人の影が映っているのがわかる。ヒースはもっと近くで見ようと、人混みから身を乗り出す。
「おい、押すなよ!」
「痛ぇ、足を踏むな!」
 周りが見えず、前へと進もうとするヒースに、近くにいた男が乱暴に腕で押し返す。ぎゅうぎゅうと押し合いへし合い、潰された人が苦悶の声を上げた。人々が我先にと前へ出ようとする中で、石さまの一行だけが静かに進んでゆく。
 だめだ、よく見えない。もっと近くにいかないと。
 もがくように前に出ようとするが、人の波は厚く、なかなか前に進むことができない。ヒースが手間取っている間にも、石さまの一行は広場から離れていってしまう。ヒースは焦った。せっかく巡ってきたチャンスなのに、このままでは何もできないままシュイが通り過ぎてしまう。
 そのとき、人垣を押しのけるように、一人の貧しい父親が列の前に飛び出た。男は腕に赤ん坊らしき包みを抱いている。先頭を守っていた騎馬兵が突然飛び出してきた男に歩みを止めた。
「貴様! 何者だ!」
 一行を守っていた兵士が男を問答無用で取り押さえようとする。しかし男は必死なようすで地面に膝をつくと、腕に抱えていた赤ん坊を駕籠の方へと掲げた。
「石さま……! お願いします! どうかこの子を……! この子を助けてください……!」
 男が抱いている御包みがめくれ、痩せた赤ん坊が見えた。赤ん坊は息をしていないようだった。ざわめきが広場に走る。
「いい加減にしないか!」
「お願いします……! どうか、どうかこの子を……!」
 兵士に捕らえられても、男は必死な形相で石さまに向かって奇跡を乞う。父親と彼を捕らえた兵士を残して、一行は再び進みはじめた。
 上空でピィー……と、鷹の鳴き声が聞こえた。一点の曇りもない青空を、鷹がぐるぐると旋回するように飛んでいる。つむじ風が広場を吹き抜け、駕籠を覆っていた薄布を巻き上げた。瞬間、それまで覆いの陰になっていた駕籠の中身が露わになった。
 周囲から、おお……っ、とどよめくような歓声が上がった。
 ヒースは目を瞠り、食い入るようにその姿を焼きつける。
 それはまだ少年といってもいい容姿だった。一見少女のように整った顔立ちははかなく、銀色の髪は長く足下まで伸びている。少年は自分に向けられる人々の歓声も、悲痛に叫ぶ父親の声も、何も耳には入っていないようすだった。つくりもののようにきれいな顔には、まるで感情が抜け落ちてしまったように何も映ってはいない。
 シュイ……っ! あれはシュイだ……っ! 生きていた……っ!
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