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第126話 悪意の音色
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世界ランキングを決めるポイントよりも、選手に還元される賞金額に重きを置いた大会、オールカマーズ。出場する選手は主にランキング100位以下が中心だが、特に上限が設けられているわけではない。暗黙の了解として、トップ100位を抜けた選手は参加しないことが多い。仮に、前年度のチャンピオンがランキングを上げて100位を抜けた場合、出場を辞退することで、下位の選手にチャンスを与える、というのが通例となっていた。その為、オールカマーズに出場する選手の知名度というのはあまり高くなく、コアなテニスファンでようやく把握している程度、といったところだ。
「有名選手は殆どいない割に、動く金はATP250、下手すりゃATP500の規模なんだよな。それだけ集客が見込めるってことなんだろうし、実際観客も多い。ただテニス観戦というより、主にギャンブルの方を楽しむ連中が多いみたいだな」
日本ではあまり見かけないサイズのカップに入ったビールを、五十嵐は喉を鳴らして飲む。冷えてはいるが、思ったよりコクが無い。仕事の都合で世界を飛び回る五十嵐にとって、その国でだけ飲めるビールを楽しむのは密かな趣味だった。今回初めて飲んだアゼルバイジャンのビールは、正直いってハズレだと感じる。特産品のワインはそれなりだったのだが。
「そういう傾向は確かにあるんですけどね。でも結局は大会ごと、国ごとによって違いますよ。きっかけがギャンブルだっていうだけで、そこからテニスのファンになったっていう人も少なからずいるみたいですし」
相方の百年が、串焼きのラム肉を頬張りながら言う。こちらはこちらで、訪れた国の郷土料理に目がなく、何を食っても「美味しい!」と感激してはなんでも食べる。食べ物の好き嫌いをしない健康的な彼女の振る舞いは、大抵どこの国へ行っても歓迎される長所の一つだった。
「競馬みたいなモンだな」
なるべく音が出ないようにしながら、胃袋に溜まった炭酸を吐き出す五十嵐。ふとそう思ったから口にした言葉だったが、現実問題として、スポーツバブルによって多くの種目がギャンブルと迎合したことで、そういった側面は強くみられるようになった。良い面も、悪い面も。
「んで、どうだ。聖くんは勝てそうか?」
子供の頃から格闘技一筋だった五十嵐は、どうにも球技に疎い。テニスの基本的なルールは把握しているものの、スコアにハッキリした差が無いと試合の優劣はとんと分からない。それに対し百年は学生時代にテニスをしていたので、その辺りは詳しかった。
「まだ序盤ですからね、お互い様子見っていう感じです。強いていうなら、カリル選手が若槻選手から仕掛けるのを待ってる、というより、誘ってるって印象です。それだけ、余裕があるってことなのかもしれません」
「王者の貫禄ってヤツか?」
「ですかね。あるいは……」
言いかけて、百年は言葉を濁す。
「何か奥の手があるかも、って?」
百年は前歯で串を噛み、不満そうな表情を浮かべる。彼女は以前から、不正行為に関して敏感だ。スポーツの素晴らしさや、アスリートの魅力を発信するメディアに従事する者として、ある意味では当事者の人間以上にそういったものを忌避している。
「脅迫に失敗した時点で、連中にやれることは限られてるだろう。万が一、これ以上まだ聖君に危害を加えようにも、昨日ふん捕まえた二人の件もある。迂闊なことはできないはずだ。あるとすれば、ドーピングか。例の噂の真偽はどうなんだかな」
例の噂。レスリングの取材でも耳にした、ロシアンマフィア絡みの新薬の話だ。いわゆる普通の薬物使用ではなく、ナノマシン技術を応用した遺伝子強化技術の噂。近年、医療用として開発運用が実験的に行われているらしいが、一般に出回るようなレベルまで研究が進んでいるという話は聞かない。もっとも聞かないというだけで、存在しない、ということにはならないのだが。
「例の噂もそうなんですが」
神妙な面持ちで、百年は携帯端末を取り出す。
何やら自分の伝手を使い、情報を収集していたようだ。
「テニス選手の間で、金銭関係のトラブルが増えているみたいです。それ自体はどこの国でもそうなんですが、こと中東地域に関しては大きな犯罪組織、要はロシアンマフィアですが、彼らが深く関わってるみたいで。覚えてます? マイアミの大会でイタリアのフルテット選手の件。あれは結局、試合中にフルテット選手の顔に蜂がぶつかっただけって説明されましたけど、どうもそうじゃないみたいです。試合の最中、観客席の外で捕り物を目撃してる人がいたらしくて。あやふやな情報ではありますけど、割と物騒な単語も出たみたいなんですよね」
「物騒な単語?」
百年自身は半信半疑、といった様子で、その言葉を口にした。
「観客席からレーザーで狙撃、とかって」
五十嵐は太い眉をひそめ、思わず周囲に視線を走らせてしまうのだった。
★
「Game,Wakatsuki. 4-3」
もつれたデュースの末に、辛うじて聖がサービスゲームをキープする。
(強い、っていうより、やり辛いな)
カリルのテニスは穴が無く、質の高い全方位万能型だ。攻撃も守備もバランスがよく、戦術の幅も広い。実際に戦ってみて聖が感じるのは、何かカリルが脅威に感じるような突出した武器で攻撃し、攻守のバランスを崩さないと勝機が見えてこないのではないか、ということだった。
(僕の武器、なんだろう?)
全体的にそつなくプレーするという意味では、今の聖のレベルも決してカリルに引けを取っているわけではない。ただ聖の方がやや打ち合い専門型寄りで、カリルのプレーに上手く嚙み合ってしまっている。聖から仕掛けて攻めている割に、凌がれては逆に劣勢となる場面がやや多くみられた。
(いや、まだリスクを負うような場面じゃない。結果だけ見れば、ノーブレイクが続いてるんだ。もう少しこのまま粘って、カリルの手の内を引き出すことに専念すべき。カウント的に、カリルは絶対ここを落とせない。だから手堅く進めてくるはずだ。リスクは負わず、でも、なるべくプレッシャーをかけてみよう)
方針を決め、コートへ向かう。最初のポイントは奪われたが、続くポイントでカリルのファーストサーブがネットにかかり、セカンドサーブが読み通りのところへ飛んできた。小さくはあったが、仕掛けるチャンスと見た聖は、コントロール重視でリターン。スライスをしっかりかけて、そのリターンを接近の為の一打とし、ネットへの距離を詰めた。
迎撃と共に進攻する
スライス気味の速度を落としたリターンを、ストレート方向へ深く流し打つ。カリルの立ち位置から最も離れた場所かつ、弾道的にはやや曲がって離れていくショット。完全に虚を突くことが出来れば、そのままウィナーを狙えるコースだ。しかしここで聖がやりたいのは、前に出る為の時間を稼ぐこと。打ち終わりと同時にネット前へ向かい、相手の挙動を見極めながらポジショニングする。
(よしっ! これなら2択!)
アプローチを放った聖のリターンは、目論見通り、サービスラインまで進む時間を稼ぐことに成功。また、ほんのわずかではあるが、カリルの精神的な虚を突けたことが、彼の最初の一歩の挙動から見て取れた。カリルはバランスを崩してはいないものの、かといって強打を放つほど充分なゆとりはない。
(どう来る?)
(野郎っ!)
聖のポジションから、カリルは相手の意図を察した。ガキのクセに冷静なやつだ、と内心で舌打ちしながらも、頭のなかでは速やかに損得を計算する。確かに、ここは連続でポイントしておきたい場面ではある。ただ、相手の若槻がチップ&チャージを仕掛けてきたのは、目の前のポイント欲しさではないと、カリルは気付いていた。
(こういうシチュで、オレが攻めるか守るか、パッシングやロブの精度、あるいは別の手段をとるかどうか確認したいんだろ? カウントの上では先行している今、相手がどんな武器を持っているかを見極めるのは、賢い選択だ。けどな)
聖の打ったボールに追いつき、カリルはラケットで捉える。返球はごく簡単に。自分の打ったボールで決められたとしても、別に構わない。何故なら、そうはならないと、誰よりもよく知っているから。
(ここはオレの庭だぜ、日本人)
カリルが放ったのは高いロブ。それもスピン回転をかけている。
高く弧を描いたボールは、回転によって少し早いタイミングで落下が始まった。
(よし)
狙い通りの展開に、聖は気を引き締めて落下点へ入る。軌道は高いが、深さはそれほどでもない。万全を期すならば一度バウンドさせてグランドスマッシュというのも手だが、狙い通りに進行したポイントの流れを切りたくない聖は、そのままダイレクトに打つことを選択。タイミングを見極め、地面を蹴ってラケットを振り出した瞬間、
『――~~――~~――~~――』
いきなり、聖の片耳で、不快な雑音が鳴り響いた。
「!?」
耳をつんざく音は高く鋭く、まるで鼓膜に細い針を刺し込まれたかのよう。
突然の音に身体が反応するが、聖はどうにか硬直を堪えてラケットを振り切る。
しかしタイミングが外れ、ラケットのフレームに当たったボールは明後日の方向へ。
聖の唐突なミスに会場がどよめく。片耳を押さえる聖は、困惑の表情を浮かべている。
「30-0」
「いや、ちょっと待ってよ!」
カウントをコールした主審に、聖は思わず抗議する。
「今、変な音がしたじゃないですか!」
「? 何を言ってるんです?」
主審の男性は、怪訝な表情で聖を見る。
「いやだから、明らかに今、音がしましたよね?」
「すまないけど、ちょっと何を言ってるのか、良く分からない。少なくとも、私には何も聞こえていないよ。音がしたって? どこから? どんな音が?」
言葉こそ丁寧に対応しようとしている風だが、主審は明らかに迷惑そうだ。まるで聖がスマッシュのミスを、何か別の原因になすりつけようとしている、そんな不信を抱くような表情だ。
「どこからって、たぶん観客席じゃ? 音は、なんだか高音のノイズみたいな、言い表せないけど、すごく不快な音が耳元でしたんです。本当に聞こえなかったんですか?」
「残念だけど若槻選手、私には何も聞こえなかったし、プレー中お客さんは静かだったよ。きっと、虫か何かが偶然通り過ぎたんじゃないか? 大事な場面で不運に見舞われたのは気の毒だけど、これ以上、この件について時間をかけることはできないよ」
観客席から、次第にブーイングが起こり始める。
相手のカリルは既にサービスポジションにつき、再開を待っていた。
(アド、聞こえただろ? 明らかに変な音がしたよな?)
<落ち着け。別にオレァ、オメェと肉体感覚まで共有してねェ>
(いやでも、あれが虫だなんてとても)
<仮にオレが、あァ確かに聞こえたぜって答えたとして、どうする? ポンコツの主審に、聞いてください。いつも傍にいてくれる僕の素晴らしい尊敬すべき友人が、確かに異音が聞こえたと言っています。これは充分信頼に値する証言です、とでもいうのか? それでポンコツの主審が、おぉ、彼のように聡明で理知的な人物が言うのだから間違いない。ポイントをやり直しましょう! って言ってくれそうなのか?>
(それはっ……)
言葉に詰まり、不満が行き場を失う。内臓を生焼けにでもされたような気分のまま、聖は仕方なくリターン位置へつく。中断させたことを詫びるジェスチャーをカリルに示してから、プレー再開の合図を待った。
「30-0」
観客の騒めきが収まると、主審がカウントコールをもって再開を告げる。
カリルが数回、ボールを地面につく。観客は静まり、コートは静寂に包まれる。
しかし聖の耳には、先ほどの不愉快な音の残響がこびり付いて、離れなかった。
★
結局、ファーストセットは6-4でカリルに奪われてしまった。突然聞こえてきた妙なノイズは、それ以降全く聞こえなかったが、聖は第8ゲーム以降、観客席から聞こえてくる小さな音にさえ集中を妨げられ、痛恨のブレイクを許してしまう。
(クソっ)
空を見上げると、厚い灰色の雲が広がっている。暗く沈んだ雲の色は、そのまま今の聖の気分を表したかのよう。予報では午後から雨だというから、ひょっとすると中断もあり得るかもしれない。空が泣き出すのが先か、自分が泣き出すのが先か、などと考えて、聖は自嘲気味な笑みを浮かべる。
<ンだよ、珍しく不貞腐れてンじゃねェか>
(うっさいな)
不機嫌さを隠そうとしない聖を、アドが嬉しそうに茶化す。
<助け舟を出そうとすると嫌がるクセに、困ったら助けを求めるなンざガキのするこったぜ? 世界は自分に都合よくできてねェンだからよ。オメェはもっと、普段からオレを頼って媚びへつらうべきなンじゃねェの~?>
ここぞとばかりにウザ絡みしてくるアドだが、さすがの聖もいい加減、彼の性格を理解している。口は悪いし、信じられないぐらい捻くれているが、アドはなんだかんだ、聖の力になろうとしてくれている。今も不可解な事態に陥って取り乱した自分を、アドなりに宥めようとしてくれているのだと分かる。ただそれに触れようものなら、途端に全力で挑発してくるのがちょっと面倒なところではあるのだが。
(しかしホント、さっきのはなんだったんだろう)
主審は聞こえていないというのだから、観客席から携帯電話の音がした、というようなことは考えられない。自分の聞き違いや耳鳴りの可能性も考えたが、明らかにそうではない。聖は確かに、耳元で鳴り響くノイズを聞いたのだ。不快で鋭い、やもすれば敵意すら感じるような嫌な音だった。
(まさか、妨害?)
気になって、観客席を見渡す聖。
(仮に妨害だとしたら、どう主張して何をしてもらえば良いんだ? 何者かが僕を狙って、音による妨害をしているって? 大会管理責任者を呼んでもらって、セキュリティを動かしてもらえばいいのか? なんだかしてもらってばかりだな……)
そもそも、主張を信じてもらえるかどうかさえ怪しい。先ほどのやり取りでさえ、主審はどうも、聖に対して誠実に対応する気が感じられない。シンプルにクレームを入れられて不快に思っただけなのか、あるいはもしかすると、あまり考えたくはないがカリルに買収されている、といった可能性も否定できない。
(ダメだ。悪い予想を今あれこれ考えても、何も解決しない)
考えることをやめ、思考を断ち切るようにバナナを口にする。セット間の休憩中にシャツとソックスを取り替えて、少しでも気分が変わるよう努力した。しかし、試合に集中しなければと思えば思うほど、却ってプレーが悪くなっていく。
「Game,Wakatsuki.2-2」
試合が進行していく。聖にとってありがたかったのは、先にセットを奪ったカリルがそこまで積極的に仕掛けてこないことだった。一気に勝負をかけてこられたら、今の集中力ではとても対処しきれなかっただろう。能力を使えばまた話は変わるだろうが、勝つ為には長時間の使用は避けられない。
(とはいえ、今の状況じゃジリ貧だ。どうする)
方針が定まらず悩んでいると、聖の鼻先に冷たい雫が落ちてきた。
「っ、雨?」
見上げると、先ほどよりも更に暗くなった雲が空に広がっている。
パラパラと小さな雨粒が降り注ぎ、徐々にコートの上を濡らしていった。
「雨天の為、試合を中断します。選手は控室で待機してください」
主審がアナウンスすると、大会のスタッフ達が慌ただしく動き始めた。促されるまま、聖とカリルはベンチに戻って荷物を片付ける。荷物をラケットバッグに仕舞いながら、聖は内心ホッとしていた。あの流れのまま進行していたら、勝機を見出せずにズルズルいってしまった可能性が高かった。
<ハハッ、日頃の行いだな>
茶化すアドにむっとしながらも、ひとまず自分に都合よく解釈することにして、聖は控室へと向かった。
続く
「有名選手は殆どいない割に、動く金はATP250、下手すりゃATP500の規模なんだよな。それだけ集客が見込めるってことなんだろうし、実際観客も多い。ただテニス観戦というより、主にギャンブルの方を楽しむ連中が多いみたいだな」
日本ではあまり見かけないサイズのカップに入ったビールを、五十嵐は喉を鳴らして飲む。冷えてはいるが、思ったよりコクが無い。仕事の都合で世界を飛び回る五十嵐にとって、その国でだけ飲めるビールを楽しむのは密かな趣味だった。今回初めて飲んだアゼルバイジャンのビールは、正直いってハズレだと感じる。特産品のワインはそれなりだったのだが。
「そういう傾向は確かにあるんですけどね。でも結局は大会ごと、国ごとによって違いますよ。きっかけがギャンブルだっていうだけで、そこからテニスのファンになったっていう人も少なからずいるみたいですし」
相方の百年が、串焼きのラム肉を頬張りながら言う。こちらはこちらで、訪れた国の郷土料理に目がなく、何を食っても「美味しい!」と感激してはなんでも食べる。食べ物の好き嫌いをしない健康的な彼女の振る舞いは、大抵どこの国へ行っても歓迎される長所の一つだった。
「競馬みたいなモンだな」
なるべく音が出ないようにしながら、胃袋に溜まった炭酸を吐き出す五十嵐。ふとそう思ったから口にした言葉だったが、現実問題として、スポーツバブルによって多くの種目がギャンブルと迎合したことで、そういった側面は強くみられるようになった。良い面も、悪い面も。
「んで、どうだ。聖くんは勝てそうか?」
子供の頃から格闘技一筋だった五十嵐は、どうにも球技に疎い。テニスの基本的なルールは把握しているものの、スコアにハッキリした差が無いと試合の優劣はとんと分からない。それに対し百年は学生時代にテニスをしていたので、その辺りは詳しかった。
「まだ序盤ですからね、お互い様子見っていう感じです。強いていうなら、カリル選手が若槻選手から仕掛けるのを待ってる、というより、誘ってるって印象です。それだけ、余裕があるってことなのかもしれません」
「王者の貫禄ってヤツか?」
「ですかね。あるいは……」
言いかけて、百年は言葉を濁す。
「何か奥の手があるかも、って?」
百年は前歯で串を噛み、不満そうな表情を浮かべる。彼女は以前から、不正行為に関して敏感だ。スポーツの素晴らしさや、アスリートの魅力を発信するメディアに従事する者として、ある意味では当事者の人間以上にそういったものを忌避している。
「脅迫に失敗した時点で、連中にやれることは限られてるだろう。万が一、これ以上まだ聖君に危害を加えようにも、昨日ふん捕まえた二人の件もある。迂闊なことはできないはずだ。あるとすれば、ドーピングか。例の噂の真偽はどうなんだかな」
例の噂。レスリングの取材でも耳にした、ロシアンマフィア絡みの新薬の話だ。いわゆる普通の薬物使用ではなく、ナノマシン技術を応用した遺伝子強化技術の噂。近年、医療用として開発運用が実験的に行われているらしいが、一般に出回るようなレベルまで研究が進んでいるという話は聞かない。もっとも聞かないというだけで、存在しない、ということにはならないのだが。
「例の噂もそうなんですが」
神妙な面持ちで、百年は携帯端末を取り出す。
何やら自分の伝手を使い、情報を収集していたようだ。
「テニス選手の間で、金銭関係のトラブルが増えているみたいです。それ自体はどこの国でもそうなんですが、こと中東地域に関しては大きな犯罪組織、要はロシアンマフィアですが、彼らが深く関わってるみたいで。覚えてます? マイアミの大会でイタリアのフルテット選手の件。あれは結局、試合中にフルテット選手の顔に蜂がぶつかっただけって説明されましたけど、どうもそうじゃないみたいです。試合の最中、観客席の外で捕り物を目撃してる人がいたらしくて。あやふやな情報ではありますけど、割と物騒な単語も出たみたいなんですよね」
「物騒な単語?」
百年自身は半信半疑、といった様子で、その言葉を口にした。
「観客席からレーザーで狙撃、とかって」
五十嵐は太い眉をひそめ、思わず周囲に視線を走らせてしまうのだった。
★
「Game,Wakatsuki. 4-3」
もつれたデュースの末に、辛うじて聖がサービスゲームをキープする。
(強い、っていうより、やり辛いな)
カリルのテニスは穴が無く、質の高い全方位万能型だ。攻撃も守備もバランスがよく、戦術の幅も広い。実際に戦ってみて聖が感じるのは、何かカリルが脅威に感じるような突出した武器で攻撃し、攻守のバランスを崩さないと勝機が見えてこないのではないか、ということだった。
(僕の武器、なんだろう?)
全体的にそつなくプレーするという意味では、今の聖のレベルも決してカリルに引けを取っているわけではない。ただ聖の方がやや打ち合い専門型寄りで、カリルのプレーに上手く嚙み合ってしまっている。聖から仕掛けて攻めている割に、凌がれては逆に劣勢となる場面がやや多くみられた。
(いや、まだリスクを負うような場面じゃない。結果だけ見れば、ノーブレイクが続いてるんだ。もう少しこのまま粘って、カリルの手の内を引き出すことに専念すべき。カウント的に、カリルは絶対ここを落とせない。だから手堅く進めてくるはずだ。リスクは負わず、でも、なるべくプレッシャーをかけてみよう)
方針を決め、コートへ向かう。最初のポイントは奪われたが、続くポイントでカリルのファーストサーブがネットにかかり、セカンドサーブが読み通りのところへ飛んできた。小さくはあったが、仕掛けるチャンスと見た聖は、コントロール重視でリターン。スライスをしっかりかけて、そのリターンを接近の為の一打とし、ネットへの距離を詰めた。
迎撃と共に進攻する
スライス気味の速度を落としたリターンを、ストレート方向へ深く流し打つ。カリルの立ち位置から最も離れた場所かつ、弾道的にはやや曲がって離れていくショット。完全に虚を突くことが出来れば、そのままウィナーを狙えるコースだ。しかしここで聖がやりたいのは、前に出る為の時間を稼ぐこと。打ち終わりと同時にネット前へ向かい、相手の挙動を見極めながらポジショニングする。
(よしっ! これなら2択!)
アプローチを放った聖のリターンは、目論見通り、サービスラインまで進む時間を稼ぐことに成功。また、ほんのわずかではあるが、カリルの精神的な虚を突けたことが、彼の最初の一歩の挙動から見て取れた。カリルはバランスを崩してはいないものの、かといって強打を放つほど充分なゆとりはない。
(どう来る?)
(野郎っ!)
聖のポジションから、カリルは相手の意図を察した。ガキのクセに冷静なやつだ、と内心で舌打ちしながらも、頭のなかでは速やかに損得を計算する。確かに、ここは連続でポイントしておきたい場面ではある。ただ、相手の若槻がチップ&チャージを仕掛けてきたのは、目の前のポイント欲しさではないと、カリルは気付いていた。
(こういうシチュで、オレが攻めるか守るか、パッシングやロブの精度、あるいは別の手段をとるかどうか確認したいんだろ? カウントの上では先行している今、相手がどんな武器を持っているかを見極めるのは、賢い選択だ。けどな)
聖の打ったボールに追いつき、カリルはラケットで捉える。返球はごく簡単に。自分の打ったボールで決められたとしても、別に構わない。何故なら、そうはならないと、誰よりもよく知っているから。
(ここはオレの庭だぜ、日本人)
カリルが放ったのは高いロブ。それもスピン回転をかけている。
高く弧を描いたボールは、回転によって少し早いタイミングで落下が始まった。
(よし)
狙い通りの展開に、聖は気を引き締めて落下点へ入る。軌道は高いが、深さはそれほどでもない。万全を期すならば一度バウンドさせてグランドスマッシュというのも手だが、狙い通りに進行したポイントの流れを切りたくない聖は、そのままダイレクトに打つことを選択。タイミングを見極め、地面を蹴ってラケットを振り出した瞬間、
『――~~――~~――~~――』
いきなり、聖の片耳で、不快な雑音が鳴り響いた。
「!?」
耳をつんざく音は高く鋭く、まるで鼓膜に細い針を刺し込まれたかのよう。
突然の音に身体が反応するが、聖はどうにか硬直を堪えてラケットを振り切る。
しかしタイミングが外れ、ラケットのフレームに当たったボールは明後日の方向へ。
聖の唐突なミスに会場がどよめく。片耳を押さえる聖は、困惑の表情を浮かべている。
「30-0」
「いや、ちょっと待ってよ!」
カウントをコールした主審に、聖は思わず抗議する。
「今、変な音がしたじゃないですか!」
「? 何を言ってるんです?」
主審の男性は、怪訝な表情で聖を見る。
「いやだから、明らかに今、音がしましたよね?」
「すまないけど、ちょっと何を言ってるのか、良く分からない。少なくとも、私には何も聞こえていないよ。音がしたって? どこから? どんな音が?」
言葉こそ丁寧に対応しようとしている風だが、主審は明らかに迷惑そうだ。まるで聖がスマッシュのミスを、何か別の原因になすりつけようとしている、そんな不信を抱くような表情だ。
「どこからって、たぶん観客席じゃ? 音は、なんだか高音のノイズみたいな、言い表せないけど、すごく不快な音が耳元でしたんです。本当に聞こえなかったんですか?」
「残念だけど若槻選手、私には何も聞こえなかったし、プレー中お客さんは静かだったよ。きっと、虫か何かが偶然通り過ぎたんじゃないか? 大事な場面で不運に見舞われたのは気の毒だけど、これ以上、この件について時間をかけることはできないよ」
観客席から、次第にブーイングが起こり始める。
相手のカリルは既にサービスポジションにつき、再開を待っていた。
(アド、聞こえただろ? 明らかに変な音がしたよな?)
<落ち着け。別にオレァ、オメェと肉体感覚まで共有してねェ>
(いやでも、あれが虫だなんてとても)
<仮にオレが、あァ確かに聞こえたぜって答えたとして、どうする? ポンコツの主審に、聞いてください。いつも傍にいてくれる僕の素晴らしい尊敬すべき友人が、確かに異音が聞こえたと言っています。これは充分信頼に値する証言です、とでもいうのか? それでポンコツの主審が、おぉ、彼のように聡明で理知的な人物が言うのだから間違いない。ポイントをやり直しましょう! って言ってくれそうなのか?>
(それはっ……)
言葉に詰まり、不満が行き場を失う。内臓を生焼けにでもされたような気分のまま、聖は仕方なくリターン位置へつく。中断させたことを詫びるジェスチャーをカリルに示してから、プレー再開の合図を待った。
「30-0」
観客の騒めきが収まると、主審がカウントコールをもって再開を告げる。
カリルが数回、ボールを地面につく。観客は静まり、コートは静寂に包まれる。
しかし聖の耳には、先ほどの不愉快な音の残響がこびり付いて、離れなかった。
★
結局、ファーストセットは6-4でカリルに奪われてしまった。突然聞こえてきた妙なノイズは、それ以降全く聞こえなかったが、聖は第8ゲーム以降、観客席から聞こえてくる小さな音にさえ集中を妨げられ、痛恨のブレイクを許してしまう。
(クソっ)
空を見上げると、厚い灰色の雲が広がっている。暗く沈んだ雲の色は、そのまま今の聖の気分を表したかのよう。予報では午後から雨だというから、ひょっとすると中断もあり得るかもしれない。空が泣き出すのが先か、自分が泣き出すのが先か、などと考えて、聖は自嘲気味な笑みを浮かべる。
<ンだよ、珍しく不貞腐れてンじゃねェか>
(うっさいな)
不機嫌さを隠そうとしない聖を、アドが嬉しそうに茶化す。
<助け舟を出そうとすると嫌がるクセに、困ったら助けを求めるなンざガキのするこったぜ? 世界は自分に都合よくできてねェンだからよ。オメェはもっと、普段からオレを頼って媚びへつらうべきなンじゃねェの~?>
ここぞとばかりにウザ絡みしてくるアドだが、さすがの聖もいい加減、彼の性格を理解している。口は悪いし、信じられないぐらい捻くれているが、アドはなんだかんだ、聖の力になろうとしてくれている。今も不可解な事態に陥って取り乱した自分を、アドなりに宥めようとしてくれているのだと分かる。ただそれに触れようものなら、途端に全力で挑発してくるのがちょっと面倒なところではあるのだが。
(しかしホント、さっきのはなんだったんだろう)
主審は聞こえていないというのだから、観客席から携帯電話の音がした、というようなことは考えられない。自分の聞き違いや耳鳴りの可能性も考えたが、明らかにそうではない。聖は確かに、耳元で鳴り響くノイズを聞いたのだ。不快で鋭い、やもすれば敵意すら感じるような嫌な音だった。
(まさか、妨害?)
気になって、観客席を見渡す聖。
(仮に妨害だとしたら、どう主張して何をしてもらえば良いんだ? 何者かが僕を狙って、音による妨害をしているって? 大会管理責任者を呼んでもらって、セキュリティを動かしてもらえばいいのか? なんだかしてもらってばかりだな……)
そもそも、主張を信じてもらえるかどうかさえ怪しい。先ほどのやり取りでさえ、主審はどうも、聖に対して誠実に対応する気が感じられない。シンプルにクレームを入れられて不快に思っただけなのか、あるいはもしかすると、あまり考えたくはないがカリルに買収されている、といった可能性も否定できない。
(ダメだ。悪い予想を今あれこれ考えても、何も解決しない)
考えることをやめ、思考を断ち切るようにバナナを口にする。セット間の休憩中にシャツとソックスを取り替えて、少しでも気分が変わるよう努力した。しかし、試合に集中しなければと思えば思うほど、却ってプレーが悪くなっていく。
「Game,Wakatsuki.2-2」
試合が進行していく。聖にとってありがたかったのは、先にセットを奪ったカリルがそこまで積極的に仕掛けてこないことだった。一気に勝負をかけてこられたら、今の集中力ではとても対処しきれなかっただろう。能力を使えばまた話は変わるだろうが、勝つ為には長時間の使用は避けられない。
(とはいえ、今の状況じゃジリ貧だ。どうする)
方針が定まらず悩んでいると、聖の鼻先に冷たい雫が落ちてきた。
「っ、雨?」
見上げると、先ほどよりも更に暗くなった雲が空に広がっている。
パラパラと小さな雨粒が降り注ぎ、徐々にコートの上を濡らしていった。
「雨天の為、試合を中断します。選手は控室で待機してください」
主審がアナウンスすると、大会のスタッフ達が慌ただしく動き始めた。促されるまま、聖とカリルはベンチに戻って荷物を片付ける。荷物をラケットバッグに仕舞いながら、聖は内心ホッとしていた。あの流れのまま進行していたら、勝機を見出せずにズルズルいってしまった可能性が高かった。
<ハハッ、日頃の行いだな>
茶化すアドにむっとしながらも、ひとまず自分に都合よく解釈することにして、聖は控室へと向かった。
続く
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2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事)
。
誰も俺に気付いてはくれない。そう。
2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。
もう、全部どうでもよく感じた。
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えいえいおう、えいえいおうと声をあげながら、私たちは竹槍を突く訓練をつづけています。
約2メートルほどの長さの竹槍をひたすら前へ振り出していると、握力と腕力がなくなってきます。とてもつらい。
訓練後、私たちは山腹に掘ったトンネル内で休憩します。
「竹槍で米軍相手になにができるというのでしょうか」と私が弱音を吐くと、かぐやさんに叱られました。
「みきさん、大和撫子たる者、けっしてあきらめてはなりません。なにがなんでも日本を守り抜くという強い意志を持って戦い抜くのです。私はアメリカの兵士のひとりと相討ちしてみせる所存です」
かぐやさんの目は彼女のことばどおり強い意志であふれていました……。
日米戦争の偽史SF短編です。全4話。
ワイルド・ソルジャー
アサシン工房
SF
時は199X年。世界各地で戦争が行われ、終戦を迎えようとしていた。
世界は荒廃し、辺りは無法者で溢れかえっていた。
主人公のマティアス・マッカーサーは、かつては裕福な家庭で育ったが、戦争に巻き込まれて両親と弟を失い、その後傭兵となって生きてきた。
旅の途中、人間離れした強さを持つ大柄な軍人ハンニバル・クルーガーにスカウトされ、マティアスは軍人として活動することになる。
ハンニバルと共に任務をこなしていくうちに、冷徹で利己主義だったマティアスは利害を超えた友情を覚えていく。
世紀末の荒廃したアメリカを舞台にしたバトルファンタジー。
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