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第120話 No venture No gain
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もし、聖が能力無しに今の渡久地と対戦していたら、結果は違っていただろう。
「Game,Toguchi 2-5」
渡久地がブレイクに成功すると、割れんばかりの大歓声と熱狂が会場を包んだ。観客席の広さはマイアミの方が遥かに大きかったが、ここは観客一人一人の熱量が桁違いに高い。そして何よりも、声援のほぼ全てが渡久地に向けられているのだ。否応なく、聖は未だ嘗て経験したことの無いプレッシャーを感じてしまう。主審が何度も静かにするよう注意を促しても、興奮した観客が完全に静まる気配はない。騒めきに気を取られぬよう、聖は深く息を吐いて集中を高めようと心掛ける。それでも、会場の空気は劣勢の渡久地一色になっていることに変わりない。チームスポーツの応援で見られるような、ホームとアウェイの恐ろしさを、聖は身をもって実感した。
(フム、予想以上に効果があるようだ)
アグリが感心したように頭のなかでつぶやく。
ファイナルセット、聖は5ゲームを連取することに成功した。そのまま勢いに乗り勝ち切れるかと思いきや、ハプニングが起こる。渡久地が突然ラケットをコートに叩きつけ、猛烈に怒りを発散させたのだ。そして、何か吹っ切れたような様子の渡久地が、観客に向かって自分を応援するよう煽動し、会場を味方につける。アグリの助言で主審に抗議してみたが取り合ってもらえず、仕方なくコートに立つと、そこはもう、先ほどまで立っていた場所とはまるで違っていた。
(ホント、驚きました。観客の声援が、ここまで効果あるなんて)
タオルで汗を拭き、水分を口にして落ち着きを取り戻そうとする聖。聖の対戦相手は今、渡久地だけではない。渡久地と、会場にいる観客全員だった。集中力を取り戻し、さらに観客を味方につけたことで、渡久地のパフォーマンスは劇的に良くなった。優れた洞察力や多彩な攻撃パターン、何よりも思い切りの良さが増したことで、狡猾なゲームプランを確実に実行する強敵へと変貌したのだ。まるで、蜘蛛の巣にかかり雁字搦めになっていた蝶が、その糸を切り裂き、自らの羽根で再び飛び立つように。
(いや、そっちじゃない。オマエの役割の方だ)
しかし、アグリの指摘は別のことを意味していた。
役割? と聖は訝しがるが、すぐに何のことか思い当たった。
(未来の可能性の撹拌、か)
虚空の記憶による能力を行使することで、聖は対戦相手の秘めたる可能性を開花させる。それはすなわち、自分の手で対戦相手を成長させることと言い換えても良い。あくまで聖の立てた仮説だが、これまでの経験から、恐らく概ね外れてはいないだろうと思っている。ある意味でこの仮説は、自分だけが特殊な力を使う事に対する、聖の罪悪感を和らげてくれるものでもあった。
(その考えに口を出すつもりはないし、少年がそれを心の拠り所とするのも良いだろう。ただ、老婆心ながら言っておく。あまりその仮説をアテにし過ぎないことだ。可能性とは、良くも悪くも可能性なのだ。必ずしも本人に、或いは世界にとって良いこと尽くめだとは限らない。それを頭の片隅に留めておけ)
聖はその言葉にギクリとする。その考えは、聖とて思い浮かばなかったわけではない。もしかするとそういう事もいえるのでは、という程度には思い至っていた。ただいずれにせよ、聖には確かめる手段が無い以上、考えてもキリがない。聖の仮説は自分が進むうえで支障のない程度に、多少は自分に都合よく解釈していた自覚はあるし、今の聖にはそれが必要だった。
(まぁいい。とにかく今は、仕留め切ることが重要だ)
アグリの言葉に促され、聖の意識も目の前の試合へと向けられる。
(逆転、されませんよね)
会場の雰囲気に動揺を隠せない聖は、ついそんなことを思う。
すると、アグリは一拍の間をおき、呵々と笑ってからこう言い切った。
(心配無用。オレがついてる)
★
コイツは、こんな駆け引きの上手いプレーヤーだったのか?
攻防のなか、菊臣は若槻のプレーに違和感を覚える。確かに質の高いプレースメントを持っているとは思うし、最新の現代テニスを体現する良い選手だと思う。とはいえやはりまだ若さが勝り、どこか球威やリスクを負ってポイントを獲ろうとする傾向がみられた。少なくとも序盤の1stセットはそうだったように思う。しかし途中から、まるで菊臣のテニスを吸収するかのように、自制心を持ち始めた。コートを広い視野で捉え、常に選択肢を残して相手の弱点を的確に狙う、非常に狡猾で老獪なプレーに変わった。菊臣の経験上、試合の勝ち方を知っている選手というのは、得てしてそういう傾向を持っている。
(ったく、生意気な野郎だ。優等生ヅラして、しっかり向こう側だな)
若くしてそういう感覚をすぐに取り入れられる若槻に、菊臣は嫉妬を禁じ得ない。しかしその心根とは裏腹に、どこか嬉しくもあった。以前までの自分なら、考えられないことだ。素直に相手の才能を認める、精神的なゆとりなど。いや、ただ開き直っただけかもしれない。正直今の菊臣は、自分がどういう気分なのか自分でも掴み切れていなかった。ただシンプルに、目の前の試合を、自分より才能のある選手との戦いを、心から楽しんでいた。
「Game,Toguchi 3-5」
主審のコールは、ポイントが決まった直後の大歓声で掻き消える。先ほどから、菊臣がポイントを獲るごとにこの調子だ。自分の内側ではなく、外側にある巨大なエネルギー。自分の力ではないという点においては、ある意味でクスリと同じかもしれない。だが、その性質は根本的に異なっている。ルールの外にある手段と、ルールの内にある手段。前者は確かに強力だが、そこにはメリット以上のデメリットを抱えている。発覚したときに自分に跳ね返ってくるものの大きさもあるが、何よりも「それを使って尚も負けたら」という空想の恐怖。その時こそ、言い訳の余地なく、自分の無能さを自分自身で証明することになる。翻って、仮に首尾よく全てが露見しなかったとしても、全てはクスリの功績であり、何ら自分に誇れるものは残らない。そのことに、菊臣はずっと前から気付いていたはずだった。
(自分で始めた事に、自分で幕を引くのは恐ろしい)
頂点を目指すのだと嘯き、周囲からの期待を糧とした。
(もっとやれる。まだこんなもんじゃないと、言い聞かせてきた)
イメージ通りの結果が出せず、同じ所をぐるぐると彷徨い続けた。
(早く結果を出さねばと思うほど、焦りと不安だけが降り積もった)
輝かしい戦績からは遠ざかり、追い抜かれることが常となった。
(不運だったから。それを帳消しにする権利があると、自分に言い訳をした)
足を踏み入れたのは、底なし沼。上がっているのではなく、沈んでいた。
「30-40」
若槻のマッチポイントを迎えるが、菊臣に焦りは無い。
(だが、もうたくさんだ。オレはオレの力を試す為に、ここにいる)
もういっそ、沈んでしまおうと諦めた。あまつさえ、自分が上がれないなら、他の人間も同じ場所へ引き摺り込もうと、怨嗟に身を任せて巻き込んだ。しかし本当にどうしようもなくなる直前で、無様にもがき、惨めに足掻き、周囲に泥を撒き散らしながら、必死に抵抗した。偶然か必然か、藁にも縋るその手が、岸にかかった。
(高い所に着くことが目的なんじゃねぇ。オレはその場所に、自分の力で行きたいんだよ。上ばっか見てるから、足元をすくわれたんだ。今さらそんなことに気付くなんてな。アホだぜまったく)
左対角線側での長いクロスラリーが続く。互いに腹を探り合うように、ボール一つ二つの変化を織り交ぜながら様子を窺う。フェイントをかけ合い、相手の罠を避けながら、動き回る相手の急所を目掛けて互いの策をぶつけ合う。我慢の時間が続いた末に、幸運の女神と先に目が合ったのは、菊臣の方だった。
(よしッ!)
ベースラインの上でボールがわずかに滑ったせいだろう、若槻のショットが少し甘くなったのを、菊臣は見逃さなかった。素早く接近の為の一打を放ち、菊臣は先手を取ってネットに詰める。後手に回った若槻は、咄嗟に態勢を立て直そうとするはずだ。
(と見せかけて、そうじゃねぇ)
菊臣はもう、若槻の自制心を侮らない。まだ高校生だというのに、驚くほど冷静で試合度胸が据わっている。偶然のアクシデントだろうと、ボールを打つ最後の瞬間まで、安易な選択肢を取らない。相手がどうポジショニングするかを、見誤らない。
(オレがさっきの仕返しをすると思っただろう)
2ndセット中盤、若槻はネットに詰めるフリをしてロブを警戒し、あっさりとスマッシュを決めてみせた。多少の違いはあっても、非常に酷似したシチュエーションだ。アプローチを打った菊臣が、そのまま前に詰めてボレーで仕留めるフリをして、ロブが上がるのを待っている。若槻はそう読んでいるはずだと菊臣は考える。ゆえに、菊臣はロブよりもパッシングを警戒。あえて若槻がボールを打つ直前まで、前進を控える。案の定、ロブではなく若槻はパッシングを打ってきた。ロブ待ちのフェイントをかけた分、菊臣のネットへの前進距離が足らないものの、それは想定内。わざと距離をとり、タイミングを遅らせ、かつ、菊臣は自分が最も得意とするショットを選択。
あっち向いてホイ
視線と打球方向をズラしたトリックショット。オープンコートを凝視しながら、ラケット面はクロスのアングルへ。相手を視界から外すというリスクのある技だが、菊臣は若槻がオープンコートへ走り出したのを目の端で捉えていた。ボール、コート、相手から視線を外した菊臣の目には、驚きの表情を浮かべている観客たちが映る。
(決まった――)
打ち終わりの動作硬直が解け、コートへ視線を戻す菊臣。
逆を突かれて動けない若槻がそこにいる、はずだった。
「オオァァッ!」
唸り声を上げ、猛然とした勢いで若槻がボールを追う。
それはつまり、菊臣の応手を想定していたことを意味している。
(あぁ、そうか)
既に最初のバウンドが終わり、ボールは二度目の落下を始めている。
シューズの底を擦らせ、甲高い音でブレーキをかけながらスライドする若槻。
「~~~ッ!」
若槻のラケットが、ボールとコートの間に滑り込む。
コートにラケットが当たって、カツン、と軽い音がする。
同時に、体勢を崩した若槻がボールより先にコートに転がる。
ボールは白帯へと掠りながら、しかしそれでも、ネットを越えた。
行く手を遮る障壁を、自らの意志で乗り越えるように。
「Game, set and match. Wakatsuki. 4-6,6-2,6-3」
主審のコールと共に、会場の熱が沸騰する。
「……」
空を仰ぐ菊臣。慣れ親しんでしまった、敗北の味が広がる。
転んで倒れ込んだまま、若槻が右腕を突き上げていた。
擦り剝いて滲んだ赤い血が、輝いて見える。
(……クソがよ。羨ましいぜ、その才能が)
ネットを跨ぎ、渡久地が聖の腕を掴んで起こさせる。恐縮したように、若槻が小さくすみません、という。そんな彼の態度に苦笑いを浮かべる菊臣だったが、胸の内はどこか、晴れやかだった。
★
「それから、これがシューズメーカーとの契約書だ。サボらずに目を通しとけ」
幾島がそういうと、PCの画面が共有された。画面には、聖も名前を聞いたことのあるスポーツシューズメーカーと『用品使用契約』を締結する書類が表示されている。しかし、自室のベッドのうえで布団と毛布に包まっている聖には、とても理解できそうにない。理解しようとすればするほど、頭痛が強くなった。プロとしての活動を始める前にもあれこれ書類を目にしているが、どうして大人の世界にある契約書というものは、こう分かり辛く出来ているのだろうか。
「さすがにまだ企業所属の話はきてないが、これでも一応は大手企業数社にコネがある。今後の活躍次第では、推薦するチャンスもあるだろう。せいぜい、あと2つ3つは年内にタイトル獲って来てくれ。……って聞いてるかオイ」
画面の隅っこには、呆れた様子の幾島が小さく映っている。サングラスにアロハシャツを着て、どこぞの高級ホテルにあるプールサイドから繋いでいるらしい。彼が今どこの国で何の仕事をしているのか、聖はまったく知らない。
「ったく、プロは海外をあっちこっち転戦するのが当たり前なんだぞ。一度アフリカの大会に参加した程度でへばってるようじゃ、先が思いやられるぜ」
モザンビークのオールカマーズ参戦後、聖は日本へ帰国し、翌日に体調を崩した。人生で初めての一人海外遠征。しかもプロ選手として初の国際大会出場。肉体的にも精神的にも疲労が溜まっていたうえ、夏だった南半球から真冬の北半球への移動。そういった諸々が重なり、実家へ帰るや否やダウンするのも、無理なからぬことだった。
モザンビークの大会中も、聖は幾島にメッセージで近況報告をしていた。聖が順当に勝ち進んでいることを知った幾島は、いくつかのスポーツメーカーや企業へ聖を若手注目選手として営業をかけ、契約の話を取ってきたらしい。それに関する説明を受けるために、オンラインミーティングの場が設けられた。
「で、この先の予定はどうなってんだ?」
画面が変わり、ふんぞり返った幾島が映し出される。モザンビークで得た賞金の約半分は、幾島に支払うエージェント料に消えた。とはいえその分の仕事はこなしてくれているお陰で、テニスで使う消耗品はしばらく自費で買わなくて済みそうだ。アドは「絶対あのペテン野郎はボってるぞ」と疑っていたが、聖としてはあまり大金を自由に使えすぎるのも怖かったので丁度よかった。ちなみに、賞金の残りの半分のうち必要経費を差し引いた分は、渡久地の変わりにマプートにある慈善団体に寄付した。アドはもちろん、渡久地や幾島からも変人を見るような目で見られたのは言うまでもない。
「えぇっと、来月に西アジアのオールカマーズがあります。モザンビークよりレベルが高いらしいんですが、運よく予選にエントリーできたので。もし勝てれば、四月にあるイスタンブールの主催者推薦枠が副賞にあるんですよ」
「インスタンブールか。ATP250だな。そこで優勝とまではいかずとも、ベスト4ぐらいまでに入れればランキングは300位に届くか? うーん、ちょっと微妙なラインだな」
「え? 300位だと何かありましたっけ?」
「アホかテメェ。今年はもう始まってんだ。全仏オープン、出たくねぇのか?」
「あ」
全仏オープン。またの名をローラン・ギャロス。
年に4つ開催される、栄光の四舞台の一角だ。
「愛しのお姫様も今はフランスが拠点なんだろ? もう少し打算的な頭の使い方しろっての。仮にもプロ一年目のオマエが、上手くいけばグランドスラムの予選に参加できるかもしれないんだ。これでもしもし予選突破して本戦に出場なんかしてみろ。錦織レベルの大躍進だぜ。つーか、日本男子テニス史上最年少でのグランドスラム本戦出場ってことになる。そうなりゃオマエ、海外スポンサー獲得だって夢じゃない。最近は羽振りが良いからな。契約金、いくらか想像つくか?」
幾島の言う通り、もし順当に進めば有り得ない話ではない。スポンサーからの契約獲得うんぬんはともかく、ハルナのいるフランスで行われる全仏オープンに、史上最年少で本戦出場となれば、世間的な評価は低いはずがないのだ。
――プロになって、ハル姉のこと迎えにいく。誰も文句言えないぐらい、強くなって
ハルナに向けて誓った言葉を思い出す。目の前のことで精いっぱい過ぎて、自分が今どの位置にいるのか客観的に分かっていなかったのだろうか。或いは、あえて考えないようにしていたのかもしれない。そうでなければ、目まぐるしく変わる自分の状況に飲み込まれて、上手く立ち回れなくなってしまっただろう。
「で? まずはどこのオールカマーズだって? 西アジア?」
「はい。えっと、アゼルバイジャンです。アゼルバイジャン・オールカマーズ」
「アゼルバイジャン?」
「日本じゃあまり聞かない国名ですよね。モザンビークの大会で、この国の選手と対戦したんです。挑戦者決定戦の決勝で。そのときに、自国でもオールカマーズがあるって教えてもらったんです」
アゼルバイジャン共和国。東ヨーロッパと西アジアのちょうど境目に位置し、黒海とカスピ海に挟まれた地域にある、日本の四分の一程の小国だ。モザンビークでその国の選手と対戦するまで、聖は国の名前すら知らなかった。
「やれやれ、巡り合わせってのはイジワルだな」
「はい?」
画面の向こうで、幾島が煙草に火をつけ、美味そうに煙をくゆらせる。
「とはいえ、困難や危険は付き物だし、それを突破してこそだよな」
聖は幾島の言い回しに違和感を覚える。困難は確かにそうだろう。上を目指せば目指すほど、戦うべき相手はより強くなる。いくら能力があるとはいえ、それを使えるのは極めて限定的な場面だ。確実に前進するには、聖自身が選手として成長しなければならない。しかし危険とは?
「モノを知らんねぇオマエは。まぁ日本の高校生はそんなもんか。行く前からビビらせる気は無いが、知らないままノコノコ顔出して御陀仏はさすがに嫌だろう。いいか、アゼルバイジャンの隣にはアルメニアがある。アルメニアつったら、アルメニアンマフィアだ。今やアメリカでも幅利かせてる、新興勢力。それにガチの武闘派だ。そんなやつらが、最近はスポーツビジネスにも目をつけてんだよ。で、そのアルメニアンマフィアの後ろに何がいるかっつーと、お前がアメリカで仲良くなった連中なんだな、これが」
「まさか」
ニヤリと口角を吊り上げる幾島。
時折見せるこの笑顔こそ、この男の本質かもしれないと聖は思う。
「そ。ロシアンマフィアの皆様さ」
聖が悪寒を覚えたのは、風邪のせいだけではなかっただろう
続く
「Game,Toguchi 2-5」
渡久地がブレイクに成功すると、割れんばかりの大歓声と熱狂が会場を包んだ。観客席の広さはマイアミの方が遥かに大きかったが、ここは観客一人一人の熱量が桁違いに高い。そして何よりも、声援のほぼ全てが渡久地に向けられているのだ。否応なく、聖は未だ嘗て経験したことの無いプレッシャーを感じてしまう。主審が何度も静かにするよう注意を促しても、興奮した観客が完全に静まる気配はない。騒めきに気を取られぬよう、聖は深く息を吐いて集中を高めようと心掛ける。それでも、会場の空気は劣勢の渡久地一色になっていることに変わりない。チームスポーツの応援で見られるような、ホームとアウェイの恐ろしさを、聖は身をもって実感した。
(フム、予想以上に効果があるようだ)
アグリが感心したように頭のなかでつぶやく。
ファイナルセット、聖は5ゲームを連取することに成功した。そのまま勢いに乗り勝ち切れるかと思いきや、ハプニングが起こる。渡久地が突然ラケットをコートに叩きつけ、猛烈に怒りを発散させたのだ。そして、何か吹っ切れたような様子の渡久地が、観客に向かって自分を応援するよう煽動し、会場を味方につける。アグリの助言で主審に抗議してみたが取り合ってもらえず、仕方なくコートに立つと、そこはもう、先ほどまで立っていた場所とはまるで違っていた。
(ホント、驚きました。観客の声援が、ここまで効果あるなんて)
タオルで汗を拭き、水分を口にして落ち着きを取り戻そうとする聖。聖の対戦相手は今、渡久地だけではない。渡久地と、会場にいる観客全員だった。集中力を取り戻し、さらに観客を味方につけたことで、渡久地のパフォーマンスは劇的に良くなった。優れた洞察力や多彩な攻撃パターン、何よりも思い切りの良さが増したことで、狡猾なゲームプランを確実に実行する強敵へと変貌したのだ。まるで、蜘蛛の巣にかかり雁字搦めになっていた蝶が、その糸を切り裂き、自らの羽根で再び飛び立つように。
(いや、そっちじゃない。オマエの役割の方だ)
しかし、アグリの指摘は別のことを意味していた。
役割? と聖は訝しがるが、すぐに何のことか思い当たった。
(未来の可能性の撹拌、か)
虚空の記憶による能力を行使することで、聖は対戦相手の秘めたる可能性を開花させる。それはすなわち、自分の手で対戦相手を成長させることと言い換えても良い。あくまで聖の立てた仮説だが、これまでの経験から、恐らく概ね外れてはいないだろうと思っている。ある意味でこの仮説は、自分だけが特殊な力を使う事に対する、聖の罪悪感を和らげてくれるものでもあった。
(その考えに口を出すつもりはないし、少年がそれを心の拠り所とするのも良いだろう。ただ、老婆心ながら言っておく。あまりその仮説をアテにし過ぎないことだ。可能性とは、良くも悪くも可能性なのだ。必ずしも本人に、或いは世界にとって良いこと尽くめだとは限らない。それを頭の片隅に留めておけ)
聖はその言葉にギクリとする。その考えは、聖とて思い浮かばなかったわけではない。もしかするとそういう事もいえるのでは、という程度には思い至っていた。ただいずれにせよ、聖には確かめる手段が無い以上、考えてもキリがない。聖の仮説は自分が進むうえで支障のない程度に、多少は自分に都合よく解釈していた自覚はあるし、今の聖にはそれが必要だった。
(まぁいい。とにかく今は、仕留め切ることが重要だ)
アグリの言葉に促され、聖の意識も目の前の試合へと向けられる。
(逆転、されませんよね)
会場の雰囲気に動揺を隠せない聖は、ついそんなことを思う。
すると、アグリは一拍の間をおき、呵々と笑ってからこう言い切った。
(心配無用。オレがついてる)
★
コイツは、こんな駆け引きの上手いプレーヤーだったのか?
攻防のなか、菊臣は若槻のプレーに違和感を覚える。確かに質の高いプレースメントを持っているとは思うし、最新の現代テニスを体現する良い選手だと思う。とはいえやはりまだ若さが勝り、どこか球威やリスクを負ってポイントを獲ろうとする傾向がみられた。少なくとも序盤の1stセットはそうだったように思う。しかし途中から、まるで菊臣のテニスを吸収するかのように、自制心を持ち始めた。コートを広い視野で捉え、常に選択肢を残して相手の弱点を的確に狙う、非常に狡猾で老獪なプレーに変わった。菊臣の経験上、試合の勝ち方を知っている選手というのは、得てしてそういう傾向を持っている。
(ったく、生意気な野郎だ。優等生ヅラして、しっかり向こう側だな)
若くしてそういう感覚をすぐに取り入れられる若槻に、菊臣は嫉妬を禁じ得ない。しかしその心根とは裏腹に、どこか嬉しくもあった。以前までの自分なら、考えられないことだ。素直に相手の才能を認める、精神的なゆとりなど。いや、ただ開き直っただけかもしれない。正直今の菊臣は、自分がどういう気分なのか自分でも掴み切れていなかった。ただシンプルに、目の前の試合を、自分より才能のある選手との戦いを、心から楽しんでいた。
「Game,Toguchi 3-5」
主審のコールは、ポイントが決まった直後の大歓声で掻き消える。先ほどから、菊臣がポイントを獲るごとにこの調子だ。自分の内側ではなく、外側にある巨大なエネルギー。自分の力ではないという点においては、ある意味でクスリと同じかもしれない。だが、その性質は根本的に異なっている。ルールの外にある手段と、ルールの内にある手段。前者は確かに強力だが、そこにはメリット以上のデメリットを抱えている。発覚したときに自分に跳ね返ってくるものの大きさもあるが、何よりも「それを使って尚も負けたら」という空想の恐怖。その時こそ、言い訳の余地なく、自分の無能さを自分自身で証明することになる。翻って、仮に首尾よく全てが露見しなかったとしても、全てはクスリの功績であり、何ら自分に誇れるものは残らない。そのことに、菊臣はずっと前から気付いていたはずだった。
(自分で始めた事に、自分で幕を引くのは恐ろしい)
頂点を目指すのだと嘯き、周囲からの期待を糧とした。
(もっとやれる。まだこんなもんじゃないと、言い聞かせてきた)
イメージ通りの結果が出せず、同じ所をぐるぐると彷徨い続けた。
(早く結果を出さねばと思うほど、焦りと不安だけが降り積もった)
輝かしい戦績からは遠ざかり、追い抜かれることが常となった。
(不運だったから。それを帳消しにする権利があると、自分に言い訳をした)
足を踏み入れたのは、底なし沼。上がっているのではなく、沈んでいた。
「30-40」
若槻のマッチポイントを迎えるが、菊臣に焦りは無い。
(だが、もうたくさんだ。オレはオレの力を試す為に、ここにいる)
もういっそ、沈んでしまおうと諦めた。あまつさえ、自分が上がれないなら、他の人間も同じ場所へ引き摺り込もうと、怨嗟に身を任せて巻き込んだ。しかし本当にどうしようもなくなる直前で、無様にもがき、惨めに足掻き、周囲に泥を撒き散らしながら、必死に抵抗した。偶然か必然か、藁にも縋るその手が、岸にかかった。
(高い所に着くことが目的なんじゃねぇ。オレはその場所に、自分の力で行きたいんだよ。上ばっか見てるから、足元をすくわれたんだ。今さらそんなことに気付くなんてな。アホだぜまったく)
左対角線側での長いクロスラリーが続く。互いに腹を探り合うように、ボール一つ二つの変化を織り交ぜながら様子を窺う。フェイントをかけ合い、相手の罠を避けながら、動き回る相手の急所を目掛けて互いの策をぶつけ合う。我慢の時間が続いた末に、幸運の女神と先に目が合ったのは、菊臣の方だった。
(よしッ!)
ベースラインの上でボールがわずかに滑ったせいだろう、若槻のショットが少し甘くなったのを、菊臣は見逃さなかった。素早く接近の為の一打を放ち、菊臣は先手を取ってネットに詰める。後手に回った若槻は、咄嗟に態勢を立て直そうとするはずだ。
(と見せかけて、そうじゃねぇ)
菊臣はもう、若槻の自制心を侮らない。まだ高校生だというのに、驚くほど冷静で試合度胸が据わっている。偶然のアクシデントだろうと、ボールを打つ最後の瞬間まで、安易な選択肢を取らない。相手がどうポジショニングするかを、見誤らない。
(オレがさっきの仕返しをすると思っただろう)
2ndセット中盤、若槻はネットに詰めるフリをしてロブを警戒し、あっさりとスマッシュを決めてみせた。多少の違いはあっても、非常に酷似したシチュエーションだ。アプローチを打った菊臣が、そのまま前に詰めてボレーで仕留めるフリをして、ロブが上がるのを待っている。若槻はそう読んでいるはずだと菊臣は考える。ゆえに、菊臣はロブよりもパッシングを警戒。あえて若槻がボールを打つ直前まで、前進を控える。案の定、ロブではなく若槻はパッシングを打ってきた。ロブ待ちのフェイントをかけた分、菊臣のネットへの前進距離が足らないものの、それは想定内。わざと距離をとり、タイミングを遅らせ、かつ、菊臣は自分が最も得意とするショットを選択。
あっち向いてホイ
視線と打球方向をズラしたトリックショット。オープンコートを凝視しながら、ラケット面はクロスのアングルへ。相手を視界から外すというリスクのある技だが、菊臣は若槻がオープンコートへ走り出したのを目の端で捉えていた。ボール、コート、相手から視線を外した菊臣の目には、驚きの表情を浮かべている観客たちが映る。
(決まった――)
打ち終わりの動作硬直が解け、コートへ視線を戻す菊臣。
逆を突かれて動けない若槻がそこにいる、はずだった。
「オオァァッ!」
唸り声を上げ、猛然とした勢いで若槻がボールを追う。
それはつまり、菊臣の応手を想定していたことを意味している。
(あぁ、そうか)
既に最初のバウンドが終わり、ボールは二度目の落下を始めている。
シューズの底を擦らせ、甲高い音でブレーキをかけながらスライドする若槻。
「~~~ッ!」
若槻のラケットが、ボールとコートの間に滑り込む。
コートにラケットが当たって、カツン、と軽い音がする。
同時に、体勢を崩した若槻がボールより先にコートに転がる。
ボールは白帯へと掠りながら、しかしそれでも、ネットを越えた。
行く手を遮る障壁を、自らの意志で乗り越えるように。
「Game, set and match. Wakatsuki. 4-6,6-2,6-3」
主審のコールと共に、会場の熱が沸騰する。
「……」
空を仰ぐ菊臣。慣れ親しんでしまった、敗北の味が広がる。
転んで倒れ込んだまま、若槻が右腕を突き上げていた。
擦り剝いて滲んだ赤い血が、輝いて見える。
(……クソがよ。羨ましいぜ、その才能が)
ネットを跨ぎ、渡久地が聖の腕を掴んで起こさせる。恐縮したように、若槻が小さくすみません、という。そんな彼の態度に苦笑いを浮かべる菊臣だったが、胸の内はどこか、晴れやかだった。
★
「それから、これがシューズメーカーとの契約書だ。サボらずに目を通しとけ」
幾島がそういうと、PCの画面が共有された。画面には、聖も名前を聞いたことのあるスポーツシューズメーカーと『用品使用契約』を締結する書類が表示されている。しかし、自室のベッドのうえで布団と毛布に包まっている聖には、とても理解できそうにない。理解しようとすればするほど、頭痛が強くなった。プロとしての活動を始める前にもあれこれ書類を目にしているが、どうして大人の世界にある契約書というものは、こう分かり辛く出来ているのだろうか。
「さすがにまだ企業所属の話はきてないが、これでも一応は大手企業数社にコネがある。今後の活躍次第では、推薦するチャンスもあるだろう。せいぜい、あと2つ3つは年内にタイトル獲って来てくれ。……って聞いてるかオイ」
画面の隅っこには、呆れた様子の幾島が小さく映っている。サングラスにアロハシャツを着て、どこぞの高級ホテルにあるプールサイドから繋いでいるらしい。彼が今どこの国で何の仕事をしているのか、聖はまったく知らない。
「ったく、プロは海外をあっちこっち転戦するのが当たり前なんだぞ。一度アフリカの大会に参加した程度でへばってるようじゃ、先が思いやられるぜ」
モザンビークのオールカマーズ参戦後、聖は日本へ帰国し、翌日に体調を崩した。人生で初めての一人海外遠征。しかもプロ選手として初の国際大会出場。肉体的にも精神的にも疲労が溜まっていたうえ、夏だった南半球から真冬の北半球への移動。そういった諸々が重なり、実家へ帰るや否やダウンするのも、無理なからぬことだった。
モザンビークの大会中も、聖は幾島にメッセージで近況報告をしていた。聖が順当に勝ち進んでいることを知った幾島は、いくつかのスポーツメーカーや企業へ聖を若手注目選手として営業をかけ、契約の話を取ってきたらしい。それに関する説明を受けるために、オンラインミーティングの場が設けられた。
「で、この先の予定はどうなってんだ?」
画面が変わり、ふんぞり返った幾島が映し出される。モザンビークで得た賞金の約半分は、幾島に支払うエージェント料に消えた。とはいえその分の仕事はこなしてくれているお陰で、テニスで使う消耗品はしばらく自費で買わなくて済みそうだ。アドは「絶対あのペテン野郎はボってるぞ」と疑っていたが、聖としてはあまり大金を自由に使えすぎるのも怖かったので丁度よかった。ちなみに、賞金の残りの半分のうち必要経費を差し引いた分は、渡久地の変わりにマプートにある慈善団体に寄付した。アドはもちろん、渡久地や幾島からも変人を見るような目で見られたのは言うまでもない。
「えぇっと、来月に西アジアのオールカマーズがあります。モザンビークよりレベルが高いらしいんですが、運よく予選にエントリーできたので。もし勝てれば、四月にあるイスタンブールの主催者推薦枠が副賞にあるんですよ」
「インスタンブールか。ATP250だな。そこで優勝とまではいかずとも、ベスト4ぐらいまでに入れればランキングは300位に届くか? うーん、ちょっと微妙なラインだな」
「え? 300位だと何かありましたっけ?」
「アホかテメェ。今年はもう始まってんだ。全仏オープン、出たくねぇのか?」
「あ」
全仏オープン。またの名をローラン・ギャロス。
年に4つ開催される、栄光の四舞台の一角だ。
「愛しのお姫様も今はフランスが拠点なんだろ? もう少し打算的な頭の使い方しろっての。仮にもプロ一年目のオマエが、上手くいけばグランドスラムの予選に参加できるかもしれないんだ。これでもしもし予選突破して本戦に出場なんかしてみろ。錦織レベルの大躍進だぜ。つーか、日本男子テニス史上最年少でのグランドスラム本戦出場ってことになる。そうなりゃオマエ、海外スポンサー獲得だって夢じゃない。最近は羽振りが良いからな。契約金、いくらか想像つくか?」
幾島の言う通り、もし順当に進めば有り得ない話ではない。スポンサーからの契約獲得うんぬんはともかく、ハルナのいるフランスで行われる全仏オープンに、史上最年少で本戦出場となれば、世間的な評価は低いはずがないのだ。
――プロになって、ハル姉のこと迎えにいく。誰も文句言えないぐらい、強くなって
ハルナに向けて誓った言葉を思い出す。目の前のことで精いっぱい過ぎて、自分が今どの位置にいるのか客観的に分かっていなかったのだろうか。或いは、あえて考えないようにしていたのかもしれない。そうでなければ、目まぐるしく変わる自分の状況に飲み込まれて、上手く立ち回れなくなってしまっただろう。
「で? まずはどこのオールカマーズだって? 西アジア?」
「はい。えっと、アゼルバイジャンです。アゼルバイジャン・オールカマーズ」
「アゼルバイジャン?」
「日本じゃあまり聞かない国名ですよね。モザンビークの大会で、この国の選手と対戦したんです。挑戦者決定戦の決勝で。そのときに、自国でもオールカマーズがあるって教えてもらったんです」
アゼルバイジャン共和国。東ヨーロッパと西アジアのちょうど境目に位置し、黒海とカスピ海に挟まれた地域にある、日本の四分の一程の小国だ。モザンビークでその国の選手と対戦するまで、聖は国の名前すら知らなかった。
「やれやれ、巡り合わせってのはイジワルだな」
「はい?」
画面の向こうで、幾島が煙草に火をつけ、美味そうに煙をくゆらせる。
「とはいえ、困難や危険は付き物だし、それを突破してこそだよな」
聖は幾島の言い回しに違和感を覚える。困難は確かにそうだろう。上を目指せば目指すほど、戦うべき相手はより強くなる。いくら能力があるとはいえ、それを使えるのは極めて限定的な場面だ。確実に前進するには、聖自身が選手として成長しなければならない。しかし危険とは?
「モノを知らんねぇオマエは。まぁ日本の高校生はそんなもんか。行く前からビビらせる気は無いが、知らないままノコノコ顔出して御陀仏はさすがに嫌だろう。いいか、アゼルバイジャンの隣にはアルメニアがある。アルメニアつったら、アルメニアンマフィアだ。今やアメリカでも幅利かせてる、新興勢力。それにガチの武闘派だ。そんなやつらが、最近はスポーツビジネスにも目をつけてんだよ。で、そのアルメニアンマフィアの後ろに何がいるかっつーと、お前がアメリカで仲良くなった連中なんだな、これが」
「まさか」
ニヤリと口角を吊り上げる幾島。
時折見せるこの笑顔こそ、この男の本質かもしれないと聖は思う。
「そ。ロシアンマフィアの皆様さ」
聖が悪寒を覚えたのは、風邪のせいだけではなかっただろう
続く
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