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第69話 孤独な戦い
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眼球の焼けた焦げた残り香の漂う部屋のなか、アーヴィングは日本とイタリアの試合を備え付けのスクリーンで見ていた。当初は興味無さげに眺める程度だったが、ある瞬間を境にそれは激変する。彼女の美しくも不気味な金瞳に感情は無く、それはまるで、目の前で死にゆく実験動物の動向をつぶさに観察するかのような酷く機械的な視線だった。
(不自然だ。どう考えてもおかしい)
ミックスダブルスの試合に出場している日本の選手は、以前にアメリカ国籍のジュニア選手、弖虎・モノストーンと対戦した選手だ。名前は若槻聖。公式な対戦ではなく練習試合だった為、アーヴィングは実戦データを取る良い機会だと判断し、弖虎のそれを起動した。
Geno Archaea
アーヴィングが所属する米国企業リアル・ブルームが出資し、世界的なスポーツ科学研究チームGAKSOに開発させた有機ナノマシン。これを体内に移植された人間は、人体の運動性能を極限にまで引き出すことができる。そしてジェノ・アーキアは人間の運動性能を高めると同時に、遺伝子レベルで細胞を少しずつ作り替えていく。人間を超越した運動能力を発揮しても身体が壊れないよう、文字通り生まれ変わらせるのだ。発案は米国軍による軍事利用目的だが、試験運用を兼ねてスポーツ分野での人体実験が密かに行われている。その計画の実動を握っているのが、米国の巨大企業であるリアル・ブルームであり、アーヴィングは陣頭指揮を執る立場にあった。
微調整に少し時間は要したが、目論み通り弖虎のプレーは大幅に向上した。結果は見るまでもないと判断して席を外していたアーヴィングだったが、予想外な結末に終わる。アラートが鳴って駆け付けてみれば、動作不良を起こしジェノ・アーキアは機能停止、弖虎は意識を失ってしまう。単純にジェノ・アーキアの動作不良であると当初は考えたが、念には念をと弖虎の眼球に仕込んだ視覚デバイスに記録された記録動画を確認したところ、アーヴィングは対戦相手の異様さに気付いた。
(あのときはプレースタイル自体が大きく変わった)
序盤はいわゆるジュニア選手らしいオーソドックスなスタイルで戦っていた若槻だったが、途中からフォアハンドさえ両手持ちにし、しかもほぼスライスのみで弖虎の攻撃を凌いでいた。超攻撃的なスタイルをもつ弖虎に対して有効な戦略といえばそうだが、フォアさえ両手持ちにするのはいくらなんでも不自然だ。もし他の試合で彼が両手フォアのスライスを多用しているのであれば、それが彼の武器なのだと納得できる。しかし若槻は映像が記録されるような試合にはまだほぼ出場しておらず、その確認はできなかった。仮説を立てようにも情報不足で判別がつかず、明確な答えが出せないうちにジェノ・アーキアの動作不良が報告され、アーヴィングは一旦この件を保留にしていたのだ。
(今度はサーブのフォームが違う。あのフォームは……)
端末を操作し、アーヴィングは試合の映像を抽出する。若槻のサーブのフォームを多用なアングルで簡単に分析すると、オンラインから類似性のあるフォームを持つテニスプレイヤーをピックアップしていく。ディスプレイには同時に4人から6人の動画が映し出され、再生速度は4倍速ほどに設定されていた。
「こいつ、か?」
目を止めたのは、身体の大きなアジア系のテニス選手。現役の選手ではない。
Mahesh Shrinivas Bhupathi
インド人の元プロ選手で、ダブルスにおいて極めて優秀な成績を残した名選手だ。若槻のサーブのフォームは、途中からこのブーパティに酷似し始めた気がするとアーヴィングはあたりをつけた。自分の仮説の方向性が徐々に合い始めているような予感を覚えたアーヴィングは、端末を用いて若槻とブーパティのサーブの動作をより厳密に比較させる。解析ソフトがあらゆる角度からサーブのフォームを検証していく。ほどなくして、ディスプレイに結果が表示された。
フォーム合致率 100%
「女狐め」
低い声で毒づくアーヴィング。
ジェノ・アーキアの開発は米国がGAKSOと協力して完全に極秘で行われていた。元は日本の組織だったGAKSOだが、現在では特定の国に偏らず、中立の立場でその優れた科学技術を提供している。代表者こそ新星教授という日本人だが、GAKSOは今や活躍の場を世界中に広げており、砕けた言い方をすれば科学技術に特化した『なんでも屋』のような存在だ。
GAKSOはひとつの研究を組織全体で行うのでなく、それぞれ独立したチームが寄せ集まり、知見や技術を意見交換しながらチームごとに研究や開発を実施する。結果を出したくても資金が足らない、設備が不十分、人員が確保できない、そういう科学者たちが互いの足りない部分を補い合うようにして結束が保たれている。つまりジェノ・アーキアに関してはアメリカが主体となっている以上、例えGAKSOという組織の発足由来が日本にあろうと、その情報が漏れることは決してない。
しかし、とアーヴィングは考える。代表者であるあの新星教授、彼だけはどうにも油断ができない。秘密を守る男であることは承知しているし、彼が自ら裏切るようなことは絶対にないと思える。ただ、アーヴィングはアインシュタインを越える天才と呼ばれた祖父さえ遥かに凌駕する頭脳を持ったあの不気味な研究者に、心からの信頼を寄せることができなかった。それに、ATCの沙粧。あの女は間違いなく自分と同じ側の人間だ。
人差し指の先を歯で甘噛みしながら、アーヴィングは思案する。試験運用中のジェノ・アーキアの基礎理論には、かつて活躍していた多くのテニス選手のデータを類型化したものがベースとなっていた。いくつか存在するジェノ・アーキアが目指す完成形の中には、起動させることで過去の選手と同等かそれ以上のプレーを肉体で再現させるというものがある。
弖虎と対戦したときの若槻のプレー、ブーパティとのフォームの合致率、状況証拠と呼ぶには乏しいこじつけに近い根拠だが、アーヴィングはATCがGAKSOと何らかの協力関係にあり、ジェノ・アーキアに近い何かを既に開発しているのではないか、と推察する。彼のプロフィールが今年に入ってから突然始まっていることも、その考えの補完材料になる。
だが所詮、それらは憶測でしかない。米国政府からはいち早いジェノ・アーキアの完成を求められており、アーヴィングはあまり悠長に構えていられない。本来であれば国内にある最大のテニスアカデミーIMGを実験の場として活用するつもりだったが、IMGの創始者であるニック・ボロテリーの遺志を継ぐ者たちはリアル・ブルームの介入を拒否した。彼らが何故、リアル・ブルームとの協力関係を拒絶したのかは不明だが、万が一に備えてアーヴィングは国内での研究を取りやめた。そこで提案されたのがGAKSOと繋がりの深い日本との共同研究、ということだった。
ATCとの共同研究はあくまで建前上のもの。ゆくゆくはリアル・ブルームがATCを手中に収め、日本支部として傘下に置くスケジュールが計画されていたが、どうやら沙粧はそのことに薄々勘付いているようだった。アーヴィングは慎重を期すべく、今は露骨な手は打たずに様子を見ている。
(恐らく、沙粧と新星は何らかの協力関係にある。新星のことだ、こちらの手の内を話すような真似はしていないだろう。だが、喋らなければ言っていないということにはならない。小さなヒントを散りばめ、気付かせ、仮説を立てさせるような真似はするかもしれない。結局のところ、GAKSOも自分たちの利益を優先しているに違いない。しかし……)
根拠のないアーヴィングの勘でしかないが、若槻という選手の様子を見て、アーヴィングは自分のそんな勘が確信へと近づいていると強く感じずにはいられない。しかしその一方で、こんな場面で尻尾を出すような相手ではないだろう、という反証が自分の中で浮かんでくる。
「第3勢力……?」
先ほど制裁してやった男のことがふと過ぎる。しかしまさか、ここでロシアが絡んでくるとは思えない。先の侵略戦争の失敗で、大きく国力を落としたロシアは、今でも混乱が続きとてもスポーツ研究に力を注げる状況ではない。ヨーロッパはEU連合などという既に瓦解しかけている体裁を保ちながら、水面下では互いに隣国を出し抜こうと必死だ。特にイタリアなどは八百長事件が長く尾を引き、スポーツの文化そのものが死にかかっている。だとすれば他の共産圏か? 目まぐるしく思考を巡らせてみるが、状況を判断するにはまだ情報が足りず、アーヴィングは一旦考えるのをやめる。
「島国の黄色サルごときが、油断も隙も無い」
映し出されている試合を嘲るように、彼女は独り言ちた。
★
「よくやった! ナイス逆転!」
「スズさんも聖くんも、良い粘りだったよ!」
「聖、オメーいつからあんなダブルス巧者になったんだよ!」
「ホント、覚醒してたじゃん! オレと組もうぜ!」
「マサキ!? アタイを捨てるの!?」
逆転勝利を祝福する仲間に囲まれ、聖と鈴奈は照れ臭そうにしながら勝利の喜びを分かち合った。これで団体戦の勝敗は2勝1敗で日本がリード。仮に次を負けてもまだもう一つチャンスがあるという大きな安心感を得られ、日本チームは初戦突破ムードが高まる。
「蓮司、あと任せた」
「頼むよ~レンレン!」
聖と鈴奈は、はしゃぐ仲間から一歩引いている蓮司に声をかけた。
ミックスダブルスの次は、いよいよシングルス。最初は男子シングルスだ。
「言われるまでもないね」
いつも通りの不愛想さだが、その身体には集中力が漲っているのが誰の目にも明らかだ。勝利した聖たちを称えていた仲間たちも、今度は次々に蓮司へと勝利を託して激励を飛ばす。そっけない態度で仲間の声援を背に受けながら、蓮司は一人ベンチをあとにした。
★
「くっそお、すまねえ。途中でうだうだしてなきゃあよお」
「悪い、あたしが足を引っ張ったんだ。グリードはよくやったよ」
最初のセットを先行していただけに、逆転負けを喫したイタリアペアは実に悔しそうだった。だが、見ていた仲間も知っての通り、彼らは充分にベストを尽くし、やれるだけのことをやってきたのだ。その二人に対し、不満を口にする者は誰もいなかった。
「大丈夫です。僕とティッキーが二人の分まで勝ちますから」
ウェーブのかかった柔らかくも美しい金髪を揺らしながら、ジオがいう。その言葉には強がりや虚勢は微塵も含まれていない。漲るような自信と、既に勝つことが決まっているかのような泰然とした力強さがあった。
「頼むぜ、ルーキー。相手はチビだ。ぶちのめせ」
「テメェが負けたら初戦敗退確定だぞ。集中してやれ」
「おいムーディ、そんな言い方しなくても……」
「ジオならやれる! 行ってこいッ!」
仲間の言葉を受け取るように微笑むと、ジオはティッキーと視線を交わす。
小さく頷くティッキー。その瞳には、ジオに対する絶対的信頼が映っていた。
「では、いってきます」
★
国際ジュニア団体戦 予選Dブロック
日本 VS イタリア 第4試合 男子シングルス
能条蓮司 VS Geo Vran Luno
ネットを挟んで相対した二人の身長差は約30cmほどあり、傍から見ればまさに子供と大人のように見えた。ジオの身長は190cmを超えるうえ、モデルのように長い手足はより彼の長身さをより際立たせていた。美しく輝く金髪は柔らかくウェーブを巻き、イタリア人らしい目鼻立ちのくっきりした顔は精悍さと大人の色気に満ちている。上下共に薄紅紫カラーのウェアは、彼の上品な雰囲気を嫌味なく飾り立て、その様相はさながら貴族のようにエレガントだった。
対する蓮司の身長はようやく160cmに届く程度。顔は小さく、艶のある黒髪はスポーツマンと呼ぶには少し長い。ミヤビはお節介に何度も短くしろと口だしするが、前髪で視界を遮れる方がなにかと集中しやすいという理由で蓮司はそれを拒んでいた。顔立ちは中性的だが、女っぽく見られるのが嫌で常に不機嫌そうな表情を浮かべている。背は低いものの、積極的にトレーニングと食事のバランスを考えた生活をしているお陰で身体は細くない。それでも、それはあくまで身長の割には、といった程度のもの。憧れの選手である黒鉄徹磨にあやかって、試合のときのウェアはいつも上下真っ黒を選んでいる。
「よろしく、ノウジョウ」
「どうも」
朗らかな笑みを浮かべてみせる対戦相手のジオ。本当は無視してやりたかったが、対戦相手のあまりにも毒気の無い態度にうっかり返事をしてしまった。蓮司はなんだか相手のペースに乗せられるような気がして、内心で舌打ちをする。柔和な態度とは裏腹に、蓮司は相手の大きな体躯に妙な圧を感じ、ますます気に入らない。自分より大きな選手と対戦するのはいつものことだが、ジオにはそれとは異なる別の凄みを感じずにはいられなかった。
(チ、ビビんなよ。確かにヨーロッパには遠征行ったことねぇけど、アメリカやアジアでもっとデカイのとやったことあるだろ。気合いで負けてんじゃねぇ)
サーブのコイントスを行い、蓮司がサーブを選択する。簡単なウォーミングアップの後、試合はすぐに始まった。この試合に蓮司が勝てば、日本チームの勝利が確定する。そのことを意識すると、蓮司は身体全体が引き締まるような気がして自然と集中力を高められた。
(いくぞ)
地に伏せて影に潜んでいた狼がゆっくりと首を持ち上げるように、静かに、しかし力強く自らの戦意を呼び起こす蓮司。緊張感と集中力が身体のなかで溶け合っていく。高くトスを上げ、まずは最初のサーブを放った。
★
9月上旬、日本。
「練習終わりに呼び出してしまって、ごめんなさいね」
グラスに注がれた冷たいレモネードを、沙粧は自ら蓮司の前に置いた。彼女は向かい合うように正面へと座ると、その隣に座っている大柄な男、金俣が小さく短いため息をつき、さっさと話を始めろと言わんばかりの表情を浮かべている。
「たぶん、呼んだ理由は分かってると思うけど」
沙粧はその女の色気に満ちた顔に、精一杯の誠実さを浮かべながら切り出した。こうして沙粧に呼び出されるのはこれで2度目。前回は二人きりだったが、今回は国際ジュニア団体戦で日本の監督役に就く金俣がこうして同席している。その意味するところが分からないほど、蓮司は愚鈍ではない。
「僕はクビですか」
言われる前に自分から言ってやる。そういうつもりで自ら切り出す蓮司。中学の時、彼は選手として伸び悩んでいることを理由に、一度は親元へ帰るよう沙粧に諭されたことがある。全国小学生大会を優勝した実績を評価され、特待生としてATCに招かれた蓮司だが、その後のっぴきならない理由、つまりは身長を含めた身体の成長が芳しくなく、それが尾を引いて大会で勝てなくなった。そのうえ焦りからオーバートレーニングをし、肘を壊したのがとどめとなったのだ。
「あら、そんな言い方」
「そうだ。今のままじゃな」
蓮司のセリフに、沙粧が誤魔化すような笑いを浮かべて否定しようとしたが、金俣がそれを押し返すようにかぶせて発言する。ATCの関係者の多くはこの金俣という男を怖がり、人によっては毛嫌いする者もいるが、蓮司はこの男の誰に対しても誤魔化すような事を言わない態度を尊敬していた。憧れの選手である徹磨とはまた異なる、自分は勿論、他人に対しても容赦なく厳しい姿勢。信念を貫くためならどんなことでもしてみせる、というような強い覚悟を感じられ、そこに好感を抱いていた。
「あの新入りに負けたってな? 悔しくねぇのか」
「いえ、悔しいです。なので勝つためにトレーニングしてます」
「いつ勝つんだ?」
「それは……」
「期限も決めてねぇのか?」
「年内、には……」
「はァ? 明日も年内。明後日も年内。オレはいつ勝つんだと聞いたんだが?」
「……」
「そうか。やる気ねぇんだな。才能もやる気もねぇのに、なんでここにいる?」
「やる気はあ」
「ねぇだろ。負けて悔しいなら、いつまでに勝つのか具体的に期限を決めて努力するのがやる気のあるやつだ。ケツも決めずにただぼんやりだらだらトレーニングもどきに勤しむのは努力ごっこだ。プロの世界は試合のスケジュールが決まってんだよ。今週負けた相手と次に戦う予定は概ね決まってるんだ。強くなってから再戦するんじゃねぇ。そんな悠長なことをしてるヒマなんざプロにはない。その程度のことすら分かってないんだろ。こんなことは努力しなくても考えれば分かることだ。考えが足りないのはやる気がねぇんだよ。だから負けるんだよ、オマエは」
なじるように言い放つ金俣。言い返そうにも、蓮司には言葉が浮かんでこない。聖に負けて以来、誰よりも必死にトレーニングを積んでいるつもりだ。努力をしているかと問われれば、胸を張ってしていると声を大にして言える。だが、金俣が言っているのはそういう話ではない。努力はして当たり前。その上でどう結果を出すのか。いつ結果を出すのか。努力を重ねるのは勝つためだ。それはただの前提であり、考えるべきはもっと先。勝利をスケジューリングすることがプロには求められる。それが出来ないのであれば、とてもプロにはなれない。
――大丈夫、蓮司。私と組んで、見返してやろ
中学の時、蓮司は沙粧から2ヶ月の猶予を与えられた。それまでに大会で結果を出し、自分が選手としてATCに所属できるだけの価値を示せと宣告させられたのだ。怪我を抱えている蓮司にとってそれは死刑宣告にも等しい条件だったが、そこに救いの手を差し伸べてくれたのがミヤビだった。二人でミックスのペアを組み、大きな大会で優勝することができたのが実績として認められ、辛うじて蓮司は踏みとどまることができた。その後、怪我を完全に治した蓮司は調子を取り戻し、どうにかシングルスでも何度か勝利を収めることができるようになった。しかし、今度は。
「オマエ、今年で16歳だっけか。まだ若いんだ。テニス以外にも道はある」
「オレは!」
続く言葉を持たなかったが、相手に言われてしまえば取り返しがつかないと咄嗟に思った蓮司は声をあげる。しかし金俣はそれを手で遮り、先ほどまでとは変わって少し穏やかなトーンで言葉を続けた。
「オマエの才能は知ってる。だからなにも今すぐ実家に帰れって話じゃあない。さっきのは言葉のアヤだ。こういう言い方はしたくねぇが、最近の若いのは多少詰めてやらねぇと必死にならねぇからな」
わずかに口角を上げて笑みを見せる金俣。腕を組んでソファにもたれ、表情を和らげてから言った。
「次の国際ジュニア団体戦な。お前がシングルスをやれ」
「……は?」
意味が分からない、という表情の蓮司に、沙粧が優しい口調で付けくわえる。
「若槻くんは確かに実力があるけど、圧倒的に経験不足だっていうのが金俣監督の見解なの。彼、海外遠征したことないうえに、この前やっと海外の選手と対戦したばかり。ATCとしては9月の大会は宣伝も兼ねてる重要な試合だから、経験不足の彼よりも、小学生の頃から実績があって、多少なりとも海外で試合した経験のある貴方の方が適任なんじゃないか、って。それと、言いにくいけど、こういう大きな場面で勝てないとなると」
そこまで聞いてようやく合点がいく蓮司。つまり、最後に花を持たせてやるからそこで結果を出せ、ということだ。この話を蓮司にしないままオーダーを決めたら、まず自分が納得しない。聖の実力は既に周りも認めるところで、ほぼ全員がシングルスは聖になると思っている。蓮司に対する最後通告と話を併せることで、大会の結果がどちらに転んでも双方揉めることなく決着を付けられる。
負けたら諦めろ、勝ったなら残してやる、と。
「ひとつ、教えといてやる」
金俣が面白い冗談でも思いついたような表情を浮かべて言った。
「仮に負けても、オマエには別の選択肢がある。それをオレが用意してやる」
「別の、選択肢?」
「ちょっと、その話はまだ早いでしょ」
沙粧に嗜められ、金俣はおどけるようにして誤魔化した。
蓮司には、なんのことだかさっぱり見当がつかない。
「まぁ、いずれにせよ」
金俣が立ち上がり、出口へと向かう。
「勝つか負けるか。オマエにはそれしかない。覚えておけ」
ドアが閉じるのと共に、蓮司は自らの退路が断たれたような気がした。
続く
(不自然だ。どう考えてもおかしい)
ミックスダブルスの試合に出場している日本の選手は、以前にアメリカ国籍のジュニア選手、弖虎・モノストーンと対戦した選手だ。名前は若槻聖。公式な対戦ではなく練習試合だった為、アーヴィングは実戦データを取る良い機会だと判断し、弖虎のそれを起動した。
Geno Archaea
アーヴィングが所属する米国企業リアル・ブルームが出資し、世界的なスポーツ科学研究チームGAKSOに開発させた有機ナノマシン。これを体内に移植された人間は、人体の運動性能を極限にまで引き出すことができる。そしてジェノ・アーキアは人間の運動性能を高めると同時に、遺伝子レベルで細胞を少しずつ作り替えていく。人間を超越した運動能力を発揮しても身体が壊れないよう、文字通り生まれ変わらせるのだ。発案は米国軍による軍事利用目的だが、試験運用を兼ねてスポーツ分野での人体実験が密かに行われている。その計画の実動を握っているのが、米国の巨大企業であるリアル・ブルームであり、アーヴィングは陣頭指揮を執る立場にあった。
微調整に少し時間は要したが、目論み通り弖虎のプレーは大幅に向上した。結果は見るまでもないと判断して席を外していたアーヴィングだったが、予想外な結末に終わる。アラートが鳴って駆け付けてみれば、動作不良を起こしジェノ・アーキアは機能停止、弖虎は意識を失ってしまう。単純にジェノ・アーキアの動作不良であると当初は考えたが、念には念をと弖虎の眼球に仕込んだ視覚デバイスに記録された記録動画を確認したところ、アーヴィングは対戦相手の異様さに気付いた。
(あのときはプレースタイル自体が大きく変わった)
序盤はいわゆるジュニア選手らしいオーソドックスなスタイルで戦っていた若槻だったが、途中からフォアハンドさえ両手持ちにし、しかもほぼスライスのみで弖虎の攻撃を凌いでいた。超攻撃的なスタイルをもつ弖虎に対して有効な戦略といえばそうだが、フォアさえ両手持ちにするのはいくらなんでも不自然だ。もし他の試合で彼が両手フォアのスライスを多用しているのであれば、それが彼の武器なのだと納得できる。しかし若槻は映像が記録されるような試合にはまだほぼ出場しておらず、その確認はできなかった。仮説を立てようにも情報不足で判別がつかず、明確な答えが出せないうちにジェノ・アーキアの動作不良が報告され、アーヴィングは一旦この件を保留にしていたのだ。
(今度はサーブのフォームが違う。あのフォームは……)
端末を操作し、アーヴィングは試合の映像を抽出する。若槻のサーブのフォームを多用なアングルで簡単に分析すると、オンラインから類似性のあるフォームを持つテニスプレイヤーをピックアップしていく。ディスプレイには同時に4人から6人の動画が映し出され、再生速度は4倍速ほどに設定されていた。
「こいつ、か?」
目を止めたのは、身体の大きなアジア系のテニス選手。現役の選手ではない。
Mahesh Shrinivas Bhupathi
インド人の元プロ選手で、ダブルスにおいて極めて優秀な成績を残した名選手だ。若槻のサーブのフォームは、途中からこのブーパティに酷似し始めた気がするとアーヴィングはあたりをつけた。自分の仮説の方向性が徐々に合い始めているような予感を覚えたアーヴィングは、端末を用いて若槻とブーパティのサーブの動作をより厳密に比較させる。解析ソフトがあらゆる角度からサーブのフォームを検証していく。ほどなくして、ディスプレイに結果が表示された。
フォーム合致率 100%
「女狐め」
低い声で毒づくアーヴィング。
ジェノ・アーキアの開発は米国がGAKSOと協力して完全に極秘で行われていた。元は日本の組織だったGAKSOだが、現在では特定の国に偏らず、中立の立場でその優れた科学技術を提供している。代表者こそ新星教授という日本人だが、GAKSOは今や活躍の場を世界中に広げており、砕けた言い方をすれば科学技術に特化した『なんでも屋』のような存在だ。
GAKSOはひとつの研究を組織全体で行うのでなく、それぞれ独立したチームが寄せ集まり、知見や技術を意見交換しながらチームごとに研究や開発を実施する。結果を出したくても資金が足らない、設備が不十分、人員が確保できない、そういう科学者たちが互いの足りない部分を補い合うようにして結束が保たれている。つまりジェノ・アーキアに関してはアメリカが主体となっている以上、例えGAKSOという組織の発足由来が日本にあろうと、その情報が漏れることは決してない。
しかし、とアーヴィングは考える。代表者であるあの新星教授、彼だけはどうにも油断ができない。秘密を守る男であることは承知しているし、彼が自ら裏切るようなことは絶対にないと思える。ただ、アーヴィングはアインシュタインを越える天才と呼ばれた祖父さえ遥かに凌駕する頭脳を持ったあの不気味な研究者に、心からの信頼を寄せることができなかった。それに、ATCの沙粧。あの女は間違いなく自分と同じ側の人間だ。
人差し指の先を歯で甘噛みしながら、アーヴィングは思案する。試験運用中のジェノ・アーキアの基礎理論には、かつて活躍していた多くのテニス選手のデータを類型化したものがベースとなっていた。いくつか存在するジェノ・アーキアが目指す完成形の中には、起動させることで過去の選手と同等かそれ以上のプレーを肉体で再現させるというものがある。
弖虎と対戦したときの若槻のプレー、ブーパティとのフォームの合致率、状況証拠と呼ぶには乏しいこじつけに近い根拠だが、アーヴィングはATCがGAKSOと何らかの協力関係にあり、ジェノ・アーキアに近い何かを既に開発しているのではないか、と推察する。彼のプロフィールが今年に入ってから突然始まっていることも、その考えの補完材料になる。
だが所詮、それらは憶測でしかない。米国政府からはいち早いジェノ・アーキアの完成を求められており、アーヴィングはあまり悠長に構えていられない。本来であれば国内にある最大のテニスアカデミーIMGを実験の場として活用するつもりだったが、IMGの創始者であるニック・ボロテリーの遺志を継ぐ者たちはリアル・ブルームの介入を拒否した。彼らが何故、リアル・ブルームとの協力関係を拒絶したのかは不明だが、万が一に備えてアーヴィングは国内での研究を取りやめた。そこで提案されたのがGAKSOと繋がりの深い日本との共同研究、ということだった。
ATCとの共同研究はあくまで建前上のもの。ゆくゆくはリアル・ブルームがATCを手中に収め、日本支部として傘下に置くスケジュールが計画されていたが、どうやら沙粧はそのことに薄々勘付いているようだった。アーヴィングは慎重を期すべく、今は露骨な手は打たずに様子を見ている。
(恐らく、沙粧と新星は何らかの協力関係にある。新星のことだ、こちらの手の内を話すような真似はしていないだろう。だが、喋らなければ言っていないということにはならない。小さなヒントを散りばめ、気付かせ、仮説を立てさせるような真似はするかもしれない。結局のところ、GAKSOも自分たちの利益を優先しているに違いない。しかし……)
根拠のないアーヴィングの勘でしかないが、若槻という選手の様子を見て、アーヴィングは自分のそんな勘が確信へと近づいていると強く感じずにはいられない。しかしその一方で、こんな場面で尻尾を出すような相手ではないだろう、という反証が自分の中で浮かんでくる。
「第3勢力……?」
先ほど制裁してやった男のことがふと過ぎる。しかしまさか、ここでロシアが絡んでくるとは思えない。先の侵略戦争の失敗で、大きく国力を落としたロシアは、今でも混乱が続きとてもスポーツ研究に力を注げる状況ではない。ヨーロッパはEU連合などという既に瓦解しかけている体裁を保ちながら、水面下では互いに隣国を出し抜こうと必死だ。特にイタリアなどは八百長事件が長く尾を引き、スポーツの文化そのものが死にかかっている。だとすれば他の共産圏か? 目まぐるしく思考を巡らせてみるが、状況を判断するにはまだ情報が足りず、アーヴィングは一旦考えるのをやめる。
「島国の黄色サルごときが、油断も隙も無い」
映し出されている試合を嘲るように、彼女は独り言ちた。
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「よくやった! ナイス逆転!」
「スズさんも聖くんも、良い粘りだったよ!」
「聖、オメーいつからあんなダブルス巧者になったんだよ!」
「ホント、覚醒してたじゃん! オレと組もうぜ!」
「マサキ!? アタイを捨てるの!?」
逆転勝利を祝福する仲間に囲まれ、聖と鈴奈は照れ臭そうにしながら勝利の喜びを分かち合った。これで団体戦の勝敗は2勝1敗で日本がリード。仮に次を負けてもまだもう一つチャンスがあるという大きな安心感を得られ、日本チームは初戦突破ムードが高まる。
「蓮司、あと任せた」
「頼むよ~レンレン!」
聖と鈴奈は、はしゃぐ仲間から一歩引いている蓮司に声をかけた。
ミックスダブルスの次は、いよいよシングルス。最初は男子シングルスだ。
「言われるまでもないね」
いつも通りの不愛想さだが、その身体には集中力が漲っているのが誰の目にも明らかだ。勝利した聖たちを称えていた仲間たちも、今度は次々に蓮司へと勝利を託して激励を飛ばす。そっけない態度で仲間の声援を背に受けながら、蓮司は一人ベンチをあとにした。
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「くっそお、すまねえ。途中でうだうだしてなきゃあよお」
「悪い、あたしが足を引っ張ったんだ。グリードはよくやったよ」
最初のセットを先行していただけに、逆転負けを喫したイタリアペアは実に悔しそうだった。だが、見ていた仲間も知っての通り、彼らは充分にベストを尽くし、やれるだけのことをやってきたのだ。その二人に対し、不満を口にする者は誰もいなかった。
「大丈夫です。僕とティッキーが二人の分まで勝ちますから」
ウェーブのかかった柔らかくも美しい金髪を揺らしながら、ジオがいう。その言葉には強がりや虚勢は微塵も含まれていない。漲るような自信と、既に勝つことが決まっているかのような泰然とした力強さがあった。
「頼むぜ、ルーキー。相手はチビだ。ぶちのめせ」
「テメェが負けたら初戦敗退確定だぞ。集中してやれ」
「おいムーディ、そんな言い方しなくても……」
「ジオならやれる! 行ってこいッ!」
仲間の言葉を受け取るように微笑むと、ジオはティッキーと視線を交わす。
小さく頷くティッキー。その瞳には、ジオに対する絶対的信頼が映っていた。
「では、いってきます」
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国際ジュニア団体戦 予選Dブロック
日本 VS イタリア 第4試合 男子シングルス
能条蓮司 VS Geo Vran Luno
ネットを挟んで相対した二人の身長差は約30cmほどあり、傍から見ればまさに子供と大人のように見えた。ジオの身長は190cmを超えるうえ、モデルのように長い手足はより彼の長身さをより際立たせていた。美しく輝く金髪は柔らかくウェーブを巻き、イタリア人らしい目鼻立ちのくっきりした顔は精悍さと大人の色気に満ちている。上下共に薄紅紫カラーのウェアは、彼の上品な雰囲気を嫌味なく飾り立て、その様相はさながら貴族のようにエレガントだった。
対する蓮司の身長はようやく160cmに届く程度。顔は小さく、艶のある黒髪はスポーツマンと呼ぶには少し長い。ミヤビはお節介に何度も短くしろと口だしするが、前髪で視界を遮れる方がなにかと集中しやすいという理由で蓮司はそれを拒んでいた。顔立ちは中性的だが、女っぽく見られるのが嫌で常に不機嫌そうな表情を浮かべている。背は低いものの、積極的にトレーニングと食事のバランスを考えた生活をしているお陰で身体は細くない。それでも、それはあくまで身長の割には、といった程度のもの。憧れの選手である黒鉄徹磨にあやかって、試合のときのウェアはいつも上下真っ黒を選んでいる。
「よろしく、ノウジョウ」
「どうも」
朗らかな笑みを浮かべてみせる対戦相手のジオ。本当は無視してやりたかったが、対戦相手のあまりにも毒気の無い態度にうっかり返事をしてしまった。蓮司はなんだか相手のペースに乗せられるような気がして、内心で舌打ちをする。柔和な態度とは裏腹に、蓮司は相手の大きな体躯に妙な圧を感じ、ますます気に入らない。自分より大きな選手と対戦するのはいつものことだが、ジオにはそれとは異なる別の凄みを感じずにはいられなかった。
(チ、ビビんなよ。確かにヨーロッパには遠征行ったことねぇけど、アメリカやアジアでもっとデカイのとやったことあるだろ。気合いで負けてんじゃねぇ)
サーブのコイントスを行い、蓮司がサーブを選択する。簡単なウォーミングアップの後、試合はすぐに始まった。この試合に蓮司が勝てば、日本チームの勝利が確定する。そのことを意識すると、蓮司は身体全体が引き締まるような気がして自然と集中力を高められた。
(いくぞ)
地に伏せて影に潜んでいた狼がゆっくりと首を持ち上げるように、静かに、しかし力強く自らの戦意を呼び起こす蓮司。緊張感と集中力が身体のなかで溶け合っていく。高くトスを上げ、まずは最初のサーブを放った。
★
9月上旬、日本。
「練習終わりに呼び出してしまって、ごめんなさいね」
グラスに注がれた冷たいレモネードを、沙粧は自ら蓮司の前に置いた。彼女は向かい合うように正面へと座ると、その隣に座っている大柄な男、金俣が小さく短いため息をつき、さっさと話を始めろと言わんばかりの表情を浮かべている。
「たぶん、呼んだ理由は分かってると思うけど」
沙粧はその女の色気に満ちた顔に、精一杯の誠実さを浮かべながら切り出した。こうして沙粧に呼び出されるのはこれで2度目。前回は二人きりだったが、今回は国際ジュニア団体戦で日本の監督役に就く金俣がこうして同席している。その意味するところが分からないほど、蓮司は愚鈍ではない。
「僕はクビですか」
言われる前に自分から言ってやる。そういうつもりで自ら切り出す蓮司。中学の時、彼は選手として伸び悩んでいることを理由に、一度は親元へ帰るよう沙粧に諭されたことがある。全国小学生大会を優勝した実績を評価され、特待生としてATCに招かれた蓮司だが、その後のっぴきならない理由、つまりは身長を含めた身体の成長が芳しくなく、それが尾を引いて大会で勝てなくなった。そのうえ焦りからオーバートレーニングをし、肘を壊したのがとどめとなったのだ。
「あら、そんな言い方」
「そうだ。今のままじゃな」
蓮司のセリフに、沙粧が誤魔化すような笑いを浮かべて否定しようとしたが、金俣がそれを押し返すようにかぶせて発言する。ATCの関係者の多くはこの金俣という男を怖がり、人によっては毛嫌いする者もいるが、蓮司はこの男の誰に対しても誤魔化すような事を言わない態度を尊敬していた。憧れの選手である徹磨とはまた異なる、自分は勿論、他人に対しても容赦なく厳しい姿勢。信念を貫くためならどんなことでもしてみせる、というような強い覚悟を感じられ、そこに好感を抱いていた。
「あの新入りに負けたってな? 悔しくねぇのか」
「いえ、悔しいです。なので勝つためにトレーニングしてます」
「いつ勝つんだ?」
「それは……」
「期限も決めてねぇのか?」
「年内、には……」
「はァ? 明日も年内。明後日も年内。オレはいつ勝つんだと聞いたんだが?」
「……」
「そうか。やる気ねぇんだな。才能もやる気もねぇのに、なんでここにいる?」
「やる気はあ」
「ねぇだろ。負けて悔しいなら、いつまでに勝つのか具体的に期限を決めて努力するのがやる気のあるやつだ。ケツも決めずにただぼんやりだらだらトレーニングもどきに勤しむのは努力ごっこだ。プロの世界は試合のスケジュールが決まってんだよ。今週負けた相手と次に戦う予定は概ね決まってるんだ。強くなってから再戦するんじゃねぇ。そんな悠長なことをしてるヒマなんざプロにはない。その程度のことすら分かってないんだろ。こんなことは努力しなくても考えれば分かることだ。考えが足りないのはやる気がねぇんだよ。だから負けるんだよ、オマエは」
なじるように言い放つ金俣。言い返そうにも、蓮司には言葉が浮かんでこない。聖に負けて以来、誰よりも必死にトレーニングを積んでいるつもりだ。努力をしているかと問われれば、胸を張ってしていると声を大にして言える。だが、金俣が言っているのはそういう話ではない。努力はして当たり前。その上でどう結果を出すのか。いつ結果を出すのか。努力を重ねるのは勝つためだ。それはただの前提であり、考えるべきはもっと先。勝利をスケジューリングすることがプロには求められる。それが出来ないのであれば、とてもプロにはなれない。
――大丈夫、蓮司。私と組んで、見返してやろ
中学の時、蓮司は沙粧から2ヶ月の猶予を与えられた。それまでに大会で結果を出し、自分が選手としてATCに所属できるだけの価値を示せと宣告させられたのだ。怪我を抱えている蓮司にとってそれは死刑宣告にも等しい条件だったが、そこに救いの手を差し伸べてくれたのがミヤビだった。二人でミックスのペアを組み、大きな大会で優勝することができたのが実績として認められ、辛うじて蓮司は踏みとどまることができた。その後、怪我を完全に治した蓮司は調子を取り戻し、どうにかシングルスでも何度か勝利を収めることができるようになった。しかし、今度は。
「オマエ、今年で16歳だっけか。まだ若いんだ。テニス以外にも道はある」
「オレは!」
続く言葉を持たなかったが、相手に言われてしまえば取り返しがつかないと咄嗟に思った蓮司は声をあげる。しかし金俣はそれを手で遮り、先ほどまでとは変わって少し穏やかなトーンで言葉を続けた。
「オマエの才能は知ってる。だからなにも今すぐ実家に帰れって話じゃあない。さっきのは言葉のアヤだ。こういう言い方はしたくねぇが、最近の若いのは多少詰めてやらねぇと必死にならねぇからな」
わずかに口角を上げて笑みを見せる金俣。腕を組んでソファにもたれ、表情を和らげてから言った。
「次の国際ジュニア団体戦な。お前がシングルスをやれ」
「……は?」
意味が分からない、という表情の蓮司に、沙粧が優しい口調で付けくわえる。
「若槻くんは確かに実力があるけど、圧倒的に経験不足だっていうのが金俣監督の見解なの。彼、海外遠征したことないうえに、この前やっと海外の選手と対戦したばかり。ATCとしては9月の大会は宣伝も兼ねてる重要な試合だから、経験不足の彼よりも、小学生の頃から実績があって、多少なりとも海外で試合した経験のある貴方の方が適任なんじゃないか、って。それと、言いにくいけど、こういう大きな場面で勝てないとなると」
そこまで聞いてようやく合点がいく蓮司。つまり、最後に花を持たせてやるからそこで結果を出せ、ということだ。この話を蓮司にしないままオーダーを決めたら、まず自分が納得しない。聖の実力は既に周りも認めるところで、ほぼ全員がシングルスは聖になると思っている。蓮司に対する最後通告と話を併せることで、大会の結果がどちらに転んでも双方揉めることなく決着を付けられる。
負けたら諦めろ、勝ったなら残してやる、と。
「ひとつ、教えといてやる」
金俣が面白い冗談でも思いついたような表情を浮かべて言った。
「仮に負けても、オマエには別の選択肢がある。それをオレが用意してやる」
「別の、選択肢?」
「ちょっと、その話はまだ早いでしょ」
沙粧に嗜められ、金俣はおどけるようにして誤魔化した。
蓮司には、なんのことだかさっぱり見当がつかない。
「まぁ、いずれにせよ」
金俣が立ち上がり、出口へと向かう。
「勝つか負けるか。オマエにはそれしかない。覚えておけ」
ドアが閉じるのと共に、蓮司は自らの退路が断たれたような気がした。
続く
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