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第49話 Fly me to the Miami

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 搭乗手続きを済ませ、ひじりは飛行機の機内へと向かった。ガラス張りの搭乗橋ボーディングブリッジは明るく、広い空港全体を見渡せる。巨大なジャンボジェットがいくつも並び、グラウンド・スタッフたちが忙しなく動き回っているのを見て、なんだか空の歩道橋みたいに思えた。

 入口ではちょっと驚くぐらい見目麗しく礼儀正しいフライトアテンダントが出迎えてくれて内心ドキリとしたが、頭の中でアドが下品な歓声を上げたのでかえって冷静になれた。機内の中へ進むと、まるで倒されるのを待っているドミノみたいに整然と並んだ座席が目の前に広がる。飛行機自体は初めてではないが、乗り慣れないせいか不思議な緊張感を憶えてしまう。人がすれ違える程度の広さのある通路を歩き、ふと映画館で自分の座席を探すときに似ているなと思いながら、聖は手に持ったチケットで座席番号と荷物棚にある番号プレートを見比べる。

「えーっと、あぁ、ここだ」
 自分の席が通路側であることを確認し、大き目の手荷物を上部の荷物棚へ仕舞う。イヤホンや文庫本など、細かい物だけを取り出して席に着く。聖の目の前、つまり前の座席の背もたれの裏側にはディスプレイがあり、どうやらフライト中はそれで映画などが見られるようだ。座り心地を確かめるついでに身の回りのボタンなどを物珍しそうにまさぐっていると、気付けば機内は他の搭乗客で席が埋まっていた。

「はいよ~ごめんね~ちょいと失礼~」
 遅れてやってきた鈴奈すずながするすると歩いてきて、形の良いお尻を向けながら聖の前を通って隣に座る。鈴奈のあとからついてきていた姫子ひめこが、それを見てビックリしたような顔で声を出した。
「スズさん、そこ、私の席」
「ヒメには窓側をプレゼント! あたしはペア・・のひじリンのと~なり♪」
 先輩特有の強権を発揮し、ワガママに振る舞う鈴奈。姫子は仕方ないなぁと苦笑い混じりに応じて、細い身体を引っ込めながら窓側の席に座った。
「姫子、要らない手荷物は上に仕舞うよ」
 聖がそう声をかけると、姫子は申し訳なさそうにしながら可愛らしいピンクのトートバックを聖に渡す。受け取る時に指が触れて、一瞬恥ずかしそうな表情を浮かべる姫子。座席の上で無理やり体育座りしていた鈴奈は、その様子を見ると誰にも聞こえない声で「あ、そうなん?」と呟いた。

『皆さま、本日もユナイテッド・ブルーム航空198便、マイアミ行きをご利用頂き誠にありがとうございます。この便の機長はピート・ミッチェル、私は客室を担当いたします北条巴で御座います。当機は間も無く離陸いたします。頭上のランプが点灯いたしましたら、シートベルトを腰の低い位置でしっかりとお締めください。マイアミ国際空港までの飛行時間は、およそ12時間を予定しております。長時間のフライトとなりますので、御用向きの際はお気軽にお近くの客室乗務員までお声がけください。それでは、離陸までもう少々お待ちください』

 落ち着いた声のアナウンスが流れたあと、ほどなくして飛行機は地上から離れた。



 9月中旬。
 アリアミス・テニス・センターに所属するUー18のジュニアメンバー達は、アメリカ合衆国フロリダ州マイアミへ向けて出国した。目指すは国際ジュニア団体戦が行われるマイアミ・ガーデンズ『ハードロック・スタジアム』。飛行機そのものは経験のある聖だが、こと海外となると初めてだ。一通りの準備は自分でしたが、親からあれが無いこれが無いと口出しされ、他のメンバーよりも大荷物になっていたことを集合場所で笑われてしまった。滞在期間が3週間と長いうえ、宿泊先のホテルには大抵のものが揃っているらしく、他のメンバーは意外なほど少ない荷物で済ませていたのだ。そういえば幼馴染であるハルナも度々海外へ行っていたが、スーツケースを持っているのを見たことがなかった。

<やっぱよ、お嬢よりデカパイセン狙いが間違いねェって。こンだけ縁があるってこたァ、確実にこりゃイケ・・る。オレが保証してやるからよ。この密室の12時間で距離を詰めろ。親密になれ。あわよくば揉め。なァにチャンスはある>

 アドの下品な主張にウンザリする聖。ここ最近はずっとこの手の話で聖をおちょくってくる。そのたびに聖はハルナのことを思い出して気を引き締め直す必要があった。彼女の連絡先は把握しているが、何となく自分から連絡を取るのはルール違反な気がして、4月に別れてからそれきりだ。あれから約半年。まだプロにすらなってはいないが、テニスの試合で海外に行くことに対して、聖は自分が前進している実感を憶えることができている。しかしその一方で、もっと急がねばという焦りも感じてしまう。初めての海外旅行――厳密には旅行ではないが――に加え、様々な事柄や心情がミルフィーユのように重なって、聖はなんだか落ち着かない気分でそわそわしている。すると、そんな聖の表情を目敏くみつけたらしい鈴奈が、嬉しそうに話しかけてきた。

「おや~? ひじリンもしかして、飛行機コワいの~?」
「え、あぁいや、そういうわけじゃ。でもちょっと緊張しますね」
「だいじょぶだよ。手ぇ握ってあげよっか? なんせ、あたらしらペアだし!」
 明らかに聖の反応を楽しんでいるだけの鈴奈。以前の団体戦以降は、特にきっかけが無い限りそれほど話をしてこなかったが、今回の国際ジュニア団体戦のオーダーが決まってからというもの、彼女の方から積極的にこうしてからかってくる。聖は、まさか自分がミックスのペア・・・・・・・・・・として選出されるとは思わなかった。

(突然会場がアメリカに変わったり、かがりコーチは急遽出張になるし、そのせいで監督が代わって、オーダーまで変更になって……。なんか変な感じだな)

 大空を翔る鋼の鳥かごの中、独特の浮遊感を憶えながら、聖はここ最近の出来事をぼんやりと反すうした。



「ダメだな。実力不足だ」
 現役の男子プロテニス選手である金俣剛毅かねまたごうきを相手に、聖はATCアリテニで簡単な練習試合を行った。その結果、金俣の判断で聖は団体戦におけるシングルスのポジションから外され、鈴奈とのミックスとして出場することになった。

 金俣剛毅、現在32歳。彼はつい先日まで行われていた、年内最後のグランドスラムである全米オープンに出場し、ベスト16まで勝ち進んだ。金俣はATP世界ランキングにおいて黒鉄徹磨くろがねてつまよりも下に位置していたが、全米での活躍で最新の順位が引っくり返り、結果として日本男子ナンバー1に返り咲いた。

 一流のアスリートといって差し支えない逞しい身体に、鋭く細い眼つきが妙に殺伐とした印象を与える男だった。そこにはスポーツマンらしい爽やかさが存在せず、まるで常に命のやり取りをしている世界に身を置いているような張り詰めた空気をかもし出しており、アドは彼に『スジモン』といういつも以上に失礼なあだ名をつけた。

 金俣の立ち振る舞いは見た目通りで、誰に対しても人当たりが強く、言動もややトゲついたところがある。彼が帰国してからはジュニアメンバーの練習はやけにピリピリした空気になった。とはいえ、普段やや和気あいあいとし過ぎている感もある空気が、大きな大会を前に強く引き締まった面もあり、特に蓮司れんじはそういう雰囲気を歓迎していた。普段、聖たちの担当そしているかがりコーチの仕切りには大半のメンバーが慣れているため、悪く言えば力の抜き所を皆が把握し切っているのだ。そういう意味では、金俣の存在は大会前の選手たちの士気を上げるのに役立っているといえたかもしれない。
 
 そんな現役選手がジュニアの団体戦の監督に選ばれた経緯を、聖たちジュニアメンバーは詳しく聞かされていなかった。全員、てっきりヘッドコーチである篝がそのまま監督をするものだとばかり思っていたが、彼女は急遽ドイツへと出張となり、ここしばらくは姿を見せていない。金俣が監督になると知ったときは、皆一様に驚いていた。

 全員の実力を把握しておきたいという金俣の意向で、強化育成クラスは勿論、奏芽かなめ姫子ひめこといったプロを目指していない選手も含めて急遽トライアルが行われた。形式は試合であったり、金俣が指示するメニューであったりと様々で、聖の場合は金俣との4ゲーム先取で始まった。

 金俣はあくまで「実力を把握しておきたい」としか言わなかった。だから聖もこれがまさかオーダーの変更に影響するものと考えが及ばず、能力の使用には踏み切らなかったのだ。4ゲーム先取、とのことだったが、実際行われたのはお互いがサーブをそれぞれ1度ずつ打った2ゲームだけで、金俣が途中で中断してしまった。

「何がダメなんでしょう」
 きちんと最後まで試合をした上での判断ならまだしも、簡単に見切りをつけた金俣に聖は疑問を投げたが、金俣は「実力不足だといっただろ」としか答えなかった。雰囲気からそれ以上の回答は得られないと悟った聖は、変にしつこく食い下がることはせず大人しく従った。

 国際ジュニア団体戦にシングルスとして出場できないということは、つまり聖自身のITFランキングで個人ポイントが得られないことを意味する。勿論、目先のポイントが得られないまでも、ゆくゆくは海外を転戦するプロを目指すのだから、海外の試合に参加することそれ自体に経験を積むという意味を見出すことは出来る。だが聖個人としては少々肩透かしを食らった感は否めず、なんともモヤモヤしたものを心に残した。

<なァンで叡智の結晶リザス使って金俣スジモンを倒さなかった?>
 聖のテニスの腕前は、4月に徹磨と試合をした時に比べれば大幅に、劇的といっても差し支えないレベルで上達している。無論、それは虚空のアカシック・記憶レコードの力あってこその飛躍ではあるものの、本人の地道な努力なしではここまでの急成長は成し得ない。だがそれを差し引いても、現役のプロである金俣には素の聖ではまだ太刀打ちできるレベルではない。確実にシングルスの座を確保するのであれば、ためらわずに持ち得る力を全て使うべきだったというのがアドの指摘だ。それを言われるとその通りだと思うのだが、聖はどうにも、明確な理由を言葉にすることができない。

 論理的な筋道を無視した印象だけで言語化するならば、聖は金俣に対して言い知れぬ警戒を抱かずにいられなかった。それは少し前に試合をした弖虎てとら・モノストーンと初めて出会った時にも感じたものと似ている。弖虎に対しては、存在感が薄いまるで幽霊のような印象を受けたが、金俣はその逆だ。海面に黒い影をチラつかせながら、不気味に、静かに相手の隙を伺う怪物のような気配。

 仮にも先輩にあたるプロ選手に対し、そういう印象を持ってしまうのは、一方的に自分をシングルスのポジションから引きずり降ろしたことへの不満が原因だろうか。いや、金俣と初めて言葉を交わした時から、言い知れぬ忌避感を聖は覚えていた。オーダーの変更を伴うと思わなかったこと以上に、金俣への仄かな警戒心が聖に能力の使用や自己主張を控えさせたのかもしれない。

 ふと、肩に重みを感じて視線を向ける。眠りこけた鈴奈の頭が、聖の肩に乗っていた。彼女の髪からシャンプーの甘い香りが寝息と共にただよい、聖の鼻腔をくすぐる。空気の乾燥した機内でその匂いはやけに濃く感じられ、わずかに心拍数が上がる。鈴奈の膝に掛かっていたブランケットが落ちそうだったので手を伸ばそうとすると、鈴奈の姿勢が少し傾き、Tシャツの胸元に隙間ができた。視線と共に手が止まる。聖は何故か、小学生のときに遠足で訪れた富士山を思い出す。これが日本一の山かと、やけに感動したのが記憶に残っている。

<フッジッサーンッ! フッジッサーンッ! 高いぞ高いぞフッジッサーンッ!>

 我に返った聖は、そっと鈴奈の姿勢をただし、ブランケットをかけて目を閉じた。



 離陸から7時間が経過した頃、聖は目を覚ました。日本時間に合わせてある時計を見ると21時を回っていた。昼過ぎに出発したことを考えると、随分と長い昼寝をしていたことになる。予定通りならあと5時間ほどで到着するわけだが、現地との時差やサマータイムの兼ね合いもあるため、現地時間の何時ごろに到着するのか寝ぼけた頭では考えられなかった。

(ノド乾いたな……)
 聖はひとまずトイレに行き用を済ませ、座席に戻る前にキャビンアテンダントへ声をかけ飲み物を頼んだ。そのまま席には戻らず、聖は機内中央にある階段付近へ向かった。飛行機の客席は2層式なため上階があるのだ。もっとも上はファーストクラスなので聖は立ち入ることができない。ただ階段周りには若干のスペースがあり、聖はそこで身体をほぐすことにした。軽く柔軟するとあまりの気持ちよさに思わず声が漏れてしまう。

「聖くん、おじいさんみたい」
 声をかけられ振り返ると、髪をおろしたミヤビが立っていた。寝巻のようなサイズのゆるいスウェット姿なせいか、普段の凛とした雰囲気は感じられず、ずいぶんと気が抜けているように見える。聖と同じように眠っていたのだろう、声も少し枯れていて、しかしそれが妙に艶めかしく思えた。

「聞いてた通り、長時間のフライトってキツいですね」
「初めてだと余計にね。でも、まだ良い方だよ。格安の便だともっと狭いから」
 聖たちの乗る飛行機は、米国にある大手企業リアル・ブルームの関連企業が経営している航空会社のものだ。予定通りなら日本で開催されるはずの大会が急遽変更になった兼ね合いで、聖たちATCアリテニの選手たちは一般よりも豪華なこの飛行機でマイアミへと向かう。日本からマイアミへの直行便はこの航空会社のみで、普通はサンフランシスコなどを経由するのが一般的らしい。飛行機にも電車のように乗り換えがあるというのを聖は初めて聞いて、もし一人旅ならちゃんとできるだろうか、などと心配になってしまった。しかし世界中を転戦するプロテニス選手は、移動だけでももっと過酷な環境を強いられると聞く。この程度で根をあげているようでは先が思いやられるなと、聖は胸中で自戒した。

 聖が飲み物をお願いしたキャビンアテンダントが、気を利かせて二人分のオレンジジュースを手にやってきた。日本人の女性で、確か離陸前にアナウンスをしていた気がする。できるだけ声を落とすようにとだけ言って彼女は階段の上へと昇っていった。

「キャビンアテンダントも素敵だよね」
 階段を昇っていく乗務員を見ながら、ミヤビがぼんやりという。
「世界中を飛び回る仕事って意味では、テニス選手と似てますね」
「めちゃくちゃ大変っていうのも同じかもね」
 聖は受け取ったオレンジジュースを一口飲む。乾いたノドにオレンジの酸味がピリっと染みたが、身体が水分を欲していたことを実感して一息に飲み干す。

「言い訳、じゃないんだけど」
 同じようにオレンジジュースを口にしながらミヤビがつぶやく。聖には、ミヤビが何の話をしようとしているのか大体察することができた。

「私は、聖くん意外にあの話をしてないからね」
 ミヤビは少し拗ねたような口調で言う。その様子がなんだか普段のミヤビには見られない子供っぽさを感じて、内心で聖は微笑ましく思ってしまう。先輩であるミヤビにも、こういう一面があるのだと妙に親近感を覚える。

「大丈夫、僕は気にしてません。それに、蓮司れんじならやれます」
 聖が団体戦のシングルスを降ろされた結果、代わりに抜擢されたのは蓮司だった。団体戦のオーダーについて金俣は、暫定的なものであって場合によっては随時変える、とも言っていた。予選は負けたら終わりのトーナメントではないため、対戦国によっては色々試すこともあるとのことだ。

「それに、蓮司とミヤビさんがそれぞれシングルスなら、頼もしいですよ」
 聖の言葉を聞いて、ミヤビは少し照れくさそうに笑う。そして顔をあげて何か言おうとしたが、いうのをやめたらしくオレンジジュースを飲み干した。手を差し出して聖の持っていた紙コップを受け取る。

「靴下、脱いでおいたほうが眠りやすいよ。おやすみ」
 そう言って、ミヤビは自分の座席に戻った。

 席に戻った聖は言われたように靴下を脱ぎ、シューズの中に入れて素足のまま踏みつける。気付かぬうちにむくんでいたらしく、血行が促進されたようで少し気持ちが良かった。到着まであと5時間近く。星空が浮かぶ闇夜の空を、飛行機は力強く駆けていった。

続く
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