田沼 茅冴(たぬま ちさ)が描く実質的最大幸福社会

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「……は?」
 
 宇沢さんの唐突な話に、俺は咄嗟に返す言葉を失くしてしまう。

「へ!? オギワラのお父さんって官僚だったの!?」

 新井は目を大きく見開き、偉く仰天した様子で俺に聞いてくるが、逆にこちらが聞きたい。
 親父は、俺が6歳の頃に事故で死んでいる。
 物心が付くか付かないか、ギリギリの時期ということもあるが、朧気な記憶を辿ったところで、親父が役人だったなどといった話は、今の今まで聞いたことがなかった。

「……荻原 汰維志。元社会・援護局、総務課長であり、プロジェクト『FAD』反対派の急先鋒でした。彼は一役人という立場にありながら、強引なやり方で計画を推し進める政府や、それに同調する厚労省幹部、財務省に反発していました」

「随分と命知らずなんすね、ウチの親父は……」

「確かに……、当時の政治力学を考えれば、無謀の極みと言えますね。無論、役人など所詮は公僕。民主主義の手順を経て誕生した政権の決定に異を唱えるなど、本来であれば言語道断。しかしこの制度は、民主主義はおろか、人々の尊厳そのものを冒涜していると言っても過言ではありません。彼はその想いのもと、省内のみならず、霞が関全体にこの計画の危険性を訴えていました。それが当時の政府の目に触れ、の特任教授として左遷されたのです」

「…………」

 次から次へと、一方的に話を垂れ流され、俺は返答する意欲すら失ってしまっていた。
 田沼さんにしろ、宇沢さんにしろ、『初めから』などと随分と軽はずみに言ってくれたが、流石にそこまでの用意はなかった。
 二の句が継げない俺を見て、宇沢さんは大きく息を吐く。

「……一応確認のため、伺っておきます。お母様から、お父様のご職業について、お聞きになられたことは?」

 お袋に、か……。
 思えば、一度だけそんなことを聞いた気もするが、その時は言葉でお茶を濁された。

 『、今でもずっと戦っている』と。

 その時は一切ピンと来なかったが、子どもながらに漠然と察し、それ以来、親父について俺から何か聞くことはなかった。
 というより、その後お袋の病気や例の事件があって、それどころではなくなったと言う方が正解か。
 
「……そのお顔を見る限り、やはりその様ですね」

 言葉に詰まる俺を前に、宇沢さんは溜息混じりにそう溢した。

「……単刀直入に申し上げます。コレはの計画の一貫、と考えるのが妥当です。荻原さんのお話を聞いている限り、恐らくそのことはお母様もご存知だったのでしょう」

「彼女たちって……。ウチの親父と田沼さんがってことですか?」

「はい。ですが、くれぐれも誤解なきように。お父様にしろ、彼女にしろ、決して悪意のもと、事実を隠蔽していたわけではありません。むしろ、あなたを守るためだった。そして何より……、それがあなたのを増やすことにも繋がる、ということなのでしょう」

「選択肢、ですか……」

 彼にそう言われた時、彼女が去り際に放った言葉が頭を過ぎる。

『これから荻原さんがどんなをしようとも、私はあなたの意志を尊重します。そして、その道で生じた一切の不都合を是正し、荻原さんの人生の帳尻を合わせて差し上げることを誓います。たとえ、この身を粉砕しようとも……』

 今、彼女を動かしているもの。
 純粋な社会正義。
 俺やお袋が転落するきっかけを作ったことへの負い目。
 きっと、それも間違いじゃない。
 だが彼女は、確かに言った。

 俺のために、全てを捨てる覚悟がある、と。
 
 彼女の言う、『選択』が何を意味するのかは分からない。
 俺は知るべきなのだろう。
 あの不穏で、きな臭い、・田沼 茅冴がそこまでの決意を固めた、本当の理由を。

「何で、親父が、田沼さんと……」
 
「……まさにそれこそが、問題の本質」

 宇沢さんは憂い気に息を吐いて、そう呟く。

「荻原さん。荻原元課長と彼女の繋がりについて、お話ししなければならないことがあります……。先日、相州銀行本社に家宅捜索が入ったことはご存知ですね?」

「はい。まぁご存知も何も、俺たちが蒔いた種なので……」

「……そもそもの話です。石橋 実鷹は政府の最大の急所の一つ。そんな人物を、果たして彼らはの状態で捨て置くでしょうか?」

 彼にそう言われた瞬間、俺はハッとした。
 合点がいった俺の顔を見て、宇沢さんは小さく頷いた。

「……お気付きの通り。石橋 実鷹に『提供』はされていない。そもそも、彼のポイントはデータの中からは除外されています。よって、これは紛れもなく、政府の完全な下部組織と成り果てた検察により、意図的に仕組まれた捜査。そして、そのことは石橋本人には知らされていない」

「ということはつまり……、田沼さんは『提供』するまでもなく、政府が石橋の父親を切り捨てることを知っていた、と?」

 宇沢さんは、コクリと頷いた。
 確かに、そう考えると色々と辻褄が合う……。
 道理で、俺に『提供』をさせなかったわけだ。

「チサさん、そんなこと一言も……。で、でも何で政府はそんなことしたんですか?」

「……その点について、僕自身も不審に思っていました。検察を抱き込んでいるからと言って、いたずらに石橋を切り捨てる理由が見当たらない。ですから、件の捜査に部下の一人を潜り込ませ、政府の目的を探らせることにしました。その結果、ある事実が発覚したんです。まずは、こちらをご覧いただけますか?」

 宇沢さんはそう言いながら、手持ちのクラッチバッグから紙の束を取り出し、俺の前に差し出す。
 言われるがままそれを受け取り、目を落とすと、十数枚ほどのレジュメで構成された、何かの計画書と思しき資料だった。

「……何すか、これ?」

「政府のが記された計画書です。騒ぎに乗じて押収した石橋の秘書のPCの中から、発見されました」

「えぇーと……、『Authentic of Greatest Happiness(AGH)に対する内閣府における基本方針』って、何だろ? まんま訳すと『真の最大幸福』だけど……、アレ!? コレって……」

 新井は俺の横から覗き込み、表題の文字を読み上げる。
 そして、直訳した言葉の意味に気付くと、彼女は放心した。

「プロジェクト『AGH』。『FAD』に対抗するため、荻原元課長主導のもと発案されたプログラムのようです。僕自身、この捜査を通じて、初めてその存在を知りました。『人々のを実現するための指針を示したもの』と、まさに文字通りのことが書かれているのですが……」

 俺がパラパラと資料を捲る横で、宇沢さんは淡々と説明してくるが、彼の話に耳を傾ける余裕など、俺にはなかった。

 だが、このプロジェクトの概要を見れば、当然だろう。
 話の冒頭こそ『真の最大幸福』などと、どこか聞き馴染みのある言葉が散りばめられているが、読み進めていく内にその実態が暴かれていき、仕舞いには『ポイントの掌握』やら『統治機構の麻痺』やら、大凡『最大幸福の追求』などとは縁遠い、穏やかならぬワードまで登場する始末だ。
 まるで、議論が決裂した際のとでも言うかのような内容で、まさに田沼さんが俺や新井に話していた、あの革命紛いの計画そのものだった。
 
「なんちゅう、きな臭い……。でもこれが石橋の父親……、石橋 実鷹とどう関係が?」

「そうですね……。資料の5枚目をご覧いただければ分かると思います」

 俺は彼の指示するまま、指摘されたページに目を落とす。

 『立案者および実行者に対する内閣府の見解』

 そう、表題に記されたページには、想定されるケース別に立案者と実行者の処遇が書かれていた。
 『罷免』だの『拘束』だの、挙げ句の果てには『抹消』だのといった、おどろおどろしい文字がそこかしこに踊っていて、そこからは政府の『絶対に許さない』と言わんばかりの強い信念が垣間見えた。

 しかし、ページの右端部分に書かれている文言を見て、そんな感傷は一気に吹き飛んだ。


 『立案者:荻原 汰維志、石橋 実鷹 実行者:田沼 茅冴』

 
「は? ちょっ、何すか、これ!? なんでここに石橋 実鷹の名前が……」

「無論、彼が実際にその計画に関与していた事実はありません。もしそうであれば、初めから彼女に協力していたはずです」

「そりゃあまぁ……、確かにそうでしょうけど。てことは、でっちあげだと?」

 俺がそう聞くと、宇沢さんはコクリと頷いた。

「石橋 実鷹の容疑は、インサイダー取引による金融商品取引法違反ですが、そもそも彼に情報をリークした審議委員と引き合わせたのは、何を隠そう彼の秘書。加えて、このデータが秘書のPCから発見されたという事実も鑑みると、そこから導き出される答えは一つしかありません……」

「……要はその秘書は政府から送り込まれた間者で、審議委員が石橋 実鷹に会合前の情報を吹き込むよう誘導した、と」

「はい。結果、石橋は政府の目論む通りとなった。簡単です。彼が父親から数字を上げるよう強く迫られていたことを、その秘書は知っていたのですから。彼の不祥事から今回の捜査に至るまで、全ては周到に用意されていたのです」

「なるほど……。それが事実なら、石橋 実鷹はとんだピエロですね……」

「えぇ……。言わば、石橋 実鷹は田沼 茅冴の鈴付け役。ですが、それすらも政府にとっては使い捨てに過ぎない。彼らにとって、一度でも計画に関わった人間は、リスクにもなり得る存在。ですから、偽りの計画書に託けて、彼を吊るし上げるつもりだったのでしょう。だから、もうじき……、石橋はここに書かれている通りになるはず。もちろん、彼女も……。政府の中で、もはや二人の排除は既定路線なのです」

 これは、もはや『因果応報』の一言で片付けていいものではない。
 やはり田沼さんが言っていた通りだった。
 あの、世間一般的に見て、『持つ者』である石橋の父親ですら、規範をつくる側にとって見れば弱者に過ぎないのだろう。

「僕は当初、彼女は荻原さんの一件の負い目から、敢えて厚労省に留まり、事件の真相を探ろうとしているのかと思っていました。ですから僕は、そんな彼女を諌めていました。当然です。そこを突かれダメージを被るのは、他ならぬ政権与党と、それに追随する各官公庁幹部や支持母体の関係者各位。連中にとって、センシティブな部分だからこそ、彼らは死にもの狂いでそれを防ごうとするはず。それこそ、場合によっては命そのものも奪いかねない勢いで……」

「まぁ……、想像はつきますね」

「ですが、事実は違った。彼女は事件の真相どころか、荻原元課長の意志を引き継ぎ、を覆そうとしている……」

 仮に過去に戻って、やり直せるとして。
 どこまで遡れば、この数奇で理不尽な因縁を断ち切ることが出来たのだろうか。
 ここまでの彼の話を聞いて、俺は率直にそんな想いに駆られてしまった。

「……どういった経緯で、荻原元課長と彼女が繋がったのかまでは分かりません。なんせ彼女が入省する頃には、荻原元課長は既にお亡くなりになっていましたから」

「そう、ですか」

「ただ一つ。可能性として考えられるのは、彼が左遷された国立大学、でしょう。当時彼女は、その大学の一回生。考えられるタイミングとしては、そこしかありません」

 もはや、返答する術がない。
 親父にしろ、田沼さんにしろ、この歪な支配構造の問題の本質を理解していたからこそ、ここまで破滅的な方策を企てようとしていたのだろう。
 いずれにせよ、この辺りは彼女に直接問いたださなければ、腹の虫が治まりそうにない。

「そろそろこの辺りで、今後に向けて具体的な話をしましょう。ですが、まずはその前に……、本当に申し訳ありませんでした!」

 宇沢さんはそう言って、俺たちに深々と頭を下げてくる。

「そもそもの話です……。新人向けの研修に、キャリアで言えば中堅クラスの雨宮が自ら希望する時点で、不自然だったんです。今思えば、そこで気付くべきでした。あの時、通例通り僕が出向していれば……」

「で、でも、それって別にウザワさんが悪いわけじゃ……」

 新井の諌めも聞かず、宇沢さんは深く頭を垂れたままだった。
 立場がそうさせるのか。
 大凡、俺たち下々がイメージする高級官僚のソレとは程遠い。
 初めて彼と会った時、よもやこんな絵面を拝む日が来ることなど、想像もしていなかった。
 そんな彼のに応えるためにも、俺は心ばかりの気休めを投げかけることにした。
 
「……新井の言う通りですよ。第一、入省一年目のぺーぺーにどうこう出来る問題じゃないでしょ。田沼さんにしたってそうだ。室長だか何だか知りませんけど、あの人が一人で出来ることなんてたかが知れてる。出世って言えば聞こえは良いですが、話を聞いてる限り、事実上の名誉職みたいなもんでしょ? さっき、自分でも言ってたじゃないですか。全部……、初めから決まっていたって」

「ま、まぁオギワラはともかくさ! アタシなんて、ほとんど何もしてないからほぼノーダメだし! それにさ……。オギワラを巻き込んじゃったのも、元を辿ればアタシみたいなもんだしね! ははっ!」

 新井は自虐気味にそう言うが、実際のところはそんな単純な話ではない。
 宇沢さんの言う通りだとすれば、新井も例に漏れず、彼女に誘導されたと言っていいだろう。
 あの日、新井が俺をこの仕事に勧誘してきたことも。
 藁にも縋る想いで、フリ姉がこのオフィスへやって来たことも。
 石橋が救済を求めて、スペイン語の教室を訪ねてくることも。
 全て、彼女にとっては織り込み済みだったのだ。
 もちろん、親父が提唱した『AGH』とやらの具体的な中身などは微塵も知らない。
 だが、あの底の知れない彼女が、俺や新井の性質や身の上を念入りに洗い出した上で計画に着手したと考えるなら、妙な現実味というか、納得感がある。
 事実、俺はこの数ヶ月、ずっと彼女の掌の上で踊らされていた。

 そしてそれは、恐らく……。
 こうしている今も、なのだろう。

「……一つ、聞いてもいいですか?」

 俺の声に、宇沢さんはゆっくりと頭を上げる。

「彼女は……、宇沢さんが俺に協力することはないと言っていました。アレだけ、きっぱりと言い切るんです。何の根拠もなしに、ということは有り得ないと思っています。というより……、むしろ積極的に妨害しているようにも見える。実際のところは……、どうなんですかね?」

 俺の遠回しな質問の意図を汲んでくれたのか。
 宇沢さんはゴクリと覚悟を決めるように息を呑み、ゆっくりと口を開く。
 
「……僕も荻原さんと同意見です。彼女は明らかに、僕の動きを封じようとしている。彼女にとって、僕が取るべき行動は『静観』なんです。彼女は飽くまで、一人でさせようとしている。もちろん、荻原さんも新井さんも介入しないカタチで」

「ですよね……。俺もそんな感じはしてました」

「……その上で申し上げます。僕があなたの力になれるかどうかは、荻原さんご自身の次第、といったところでしょうか」

「俺の選択……、ですか?」

「はい。これだけお二人にはご迷惑をお掛けしたわけです。特に荻原さんについては、我々の不手際により人生そのものを大きく毀損させてしまった……。ですから僕としては、荻原さんとが重なるのであれば、全力であなたを支えることをお約束します。ただし……」

 宇沢さんはそこまで言って口籠り、俺から目を背ける。
 少しの沈黙の後、次の瞬間にはどこか腹を括ったかのような済まし顔で、再び俺に向き合ってくる。
 そんな彼の口から放たれたのは、俺を更なる疑心暗鬼に陥れるには十分な言葉だった。
 
「僕は……、これから先どう転ぶにせよ、荻原さんのお母様をお助けするわけにはいきません」

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