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第7話 狐

満月と桜と血の匂い

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 それは五年前、桜が咲き誇る四月のこと。

 当時、二階堂は製薬会社の工場に勤めていた。

 ある日、休憩時間に同僚と花見について会話をしていると、

「そういえば、月城つきしろ公園の桜が満開らしいぜ。夜はライトアップされてるみたいで……次の土日には桜祭りもやるってさ」

 月城公園とは、白紫稲荷神社からほど近いところにある、市が管理している公園である。それなりの広さがあり、緑も豊富で駐車場も完備しているため、市民の憩いの場になっている。また、ソメイヨシノや八重桜など数種類の桜が約二百本植えられているので、ちょっとした桜の名所としても知られているのだ。

「そうなんだ。それじゃあ、今夜あたり見に行こうかな」

 二階堂が告げると、

「夜桜も乙なものだしな。けど、血染めの桜には近づかない方がいいぜ」

 と、同僚が声をひそめて忠告する。

 血染めの桜とは、月城公園の奥に植えられている一本の八重桜のことである。花びらの色あいが他の桜よりも濃く、紅色に見えることからこの呼び名がついた。

 また、この桜にはとある怪談がある。

 この木の下で手首を切って自害した女の幽霊が、春の間だけ現れて若い男をあの世へと連れ去ってしまう、というものだ。

 もちろん、それによる犯行を目撃したという情報や被害届けなどはない。だが、春になると、女の幽霊の目撃情報が多くなるのは事実だった。

「用心しておくよ」

 二階堂は同僚にそう言うと、頭の片隅に置いておくことにした。

 その日の夜、帰宅した二階堂は夕食を軽く済ませると、ラフな格好に着替えて家を出た。月城公園に向かうためである。

 春とはいえ、夜になるとまだ肌寒い。

(薄手の上着、着てきて正解だったな)

 そんなことを考えながら、街灯に照らされた静かな路地を歩いていく。

 大通りに出ると、家路へと急ぐ車が多く走っていた。夜の七時半を少しすぎたくらいの時刻だから、当然と言えば当然だが。

 そんな車の波を横目に見ながら、白紫稲荷神社の方へと足を向ける。月城公園は、白紫稲荷神社の近くに位置するのだ。

 稲荷神社の鳥居を素通りしてしばらく進むと、住宅地が見えてきた。

 大通りとは違い、街灯はまばらで先程までの喧騒けんそうがうそのように静かだ。だが、満月の灯りのおかげで淋しい印象はない。

 住宅地の路地をしばらく進んでいくと、目の前に鬱蒼うっそうと茂った木々が見えてきた。目的地の月城公園である。

 公園内は、静寂に包まれていた。

 夜とはいえ、まだそこまで遅い時間帯ではない。二階堂と同様の夜桜見物の客がいてもおかしくはないはずだ。しかし、物音一つ聞こえないどころか、人の気配さえしない。

 世界に自分だけしかいないような錯覚を覚えるも、変にうるさいよりはいいかと思い直し、公園内部へと進んでいく。

 周囲の木々の本数が次第に減っていくと、遮られていた月明かりが、少しずつ地上を照らし出す。心が弾むその光景を見ながらしばらく進むと、ライトアップされた満開の桜が二階堂を出迎えてくれた。

 パノラマに広がる桜色。その迫力に圧倒された二階堂は、思わず立ち止まり息をのんだ。

 薄明かりの中に浮かびあがる桜が、とても幻想的である。

 その光景に心奪われ、しばらくその場で桜を眺めていた。

 どれくらいそうしていただろう。数分か、それとも十数分か。正確な時間はわからないが、二階堂には長い時間に感じられた。

 ふと、どこからか鉄に似た匂いが漂ってきた。

 現実に引き戻された二階堂は、眉をひそめて辺りをうかがう。しかし、周囲には誰もおらず、匂いの原因になりそうなものもない。

 普段ならそこまで気にしないのだが、今日に限ってはなぜかとても気になった。

 匂いをたどって桜の森を奥へと進む。進むにつれて匂いは濃くなっていき、それが血の匂いだと気づくのにそう時間はかからなかった。

 どこかに重傷の人物か動物がいるのだろうか。いないことを祈りつつ、二階堂は匂いの出所を探して歩みを進める。

 満開の花を眺めながら匂いをたどっていくと、桜の森の最奥へと行き着いた。

 正面中央にあるひときわ色の濃い八重桜――血染めの桜の木の下に人影を認めた。どうやら、あの人物が匂いの発生源らしい。

 とっさに近場の木の影に隠れる。見つかってはいけない、そんな気がしたのだ。

(何してるんだ? あの人……)

 息を殺して注視していると、こちらに背を向けているの人は、時折辺りを見回す素振りを見せる。しかし、それもわずかのことでかがんで何かをしている方が大半だった。

 静寂に包まれる中、聞こえてくるのは咀嚼そしゃく音のような音。

 もしかして、何かを貪っている……?

 その『何か』が気になって、二階堂は彼の足もとを見やる。

 そこには、骨のようなものが散らばっていた。目をこらして見ていると、彼の腕の中から球体に似た何かが転がり落ちる。それを認識してしまった二階堂は、思わず声をあげそうになるがどうにかこらえた。

 二階堂が認識してしまったもの、それは『人間の頭部』だった。

 鼓動が早鐘を打ち、呼吸が荒くなる。

 早くここから逃げなければ、自分も『あれ』に喰われてしまう。

 嫌な予感が頭をよぎる。

(そんなこと考えるな! ……とにかく、気づかれないように慎重に――)

 音をたてずにこの場から立ち去ろうと、一歩後退した時だった。足もとで、パキッという小さな音が発生した。どうやら、小枝を踏んでしまったらしい。

 それが聞こえたのか、人形ひとがたの『あれ』が勢いよく二階堂の方へ振り向いた。

「――っ!」

 二階堂は声にならない悲鳴をあげると、一目散に逃げ出した。

 全力で来た道を引き返す。後ろを確認している余裕はないし、確認したくない。だが、確実に追ってきているのはわかった。一定の距離を保ってはいるが、背後に気配を感じる。振り返ったが最後、命の保証はないだろう。

 脇目もふらず必死に走る。だから、気づかなかった。背後からずっと攻撃されていることに。

 相手が手加減しているおかげで、まだ被弾はしていない。だが、それも時間の問題だろう。地面に着弾する相手の攻撃と二階堂との距離が少しずつ縮まっているのだ。

 息があがる。横腹が痛い。だが、立ち止まるわけにはいかない。もう少しで白紫稲荷神社の鳥居が見えるはずだ。そこまで行けばあるいは……。そう思った時だった。

「――っ!?」

 左の二の腕に痛みが走った。

 右手で触れて確認すると、手のひらが真っ赤に染まる程に出血している。

 痛みに顔を歪ませながら、おそるおそる振り返ると、手のひらサイズの薄い円盤型の刃が高速回転しながら二階堂へと迫っていた。その数、およそ十枚。

(殺されるっ!)

 死を直感した二階堂はスピードを上げる。だが、円盤型の刃は容赦なく二階堂の腕や足を傷つけていく。

 その度に苦悶の声をあげる二階堂。転びそうになりながらも、走ることはやめなかった。

 しばらく走ると、白紫稲荷神社の鳥居が見えてきた。ラストスパートをかけ、鳥居をくぐる。

 境内に到着した二階堂は、崩れ落ちるようにへたりこんでしまった。息はまだ荒く、足には力が入らない。追いつかれてもすぐには動けそうになかった。

「よう。追いかけっこは、もう終わりか?」

 二階堂が息を整えていると、絶望が楽しそうな声をあげてゆっくりとやってきた。先程、二階堂に傷をつけた円盤型の刃をもてあそびながら。

 二階堂の体が小刻みに震える。ここから逃げなければ殺される。だが、体が思うように動いてくれない。

「いいね~、その怯えた表情。そそられるぜ。……さ~て、あんたはどんな声で鳴いてくれるんだろうな?」

 そう言って、舌なめずりをしながらゆっくりと近づいてくる。

 人の姿をしているその男は、頭に動物の耳をつけ長い尻尾を生やしている。一見、コスプレかと思ってしまうが、どうやらそうではないらしい。

 月に照らされて輝く金色の髪と獰猛さをはらんだ深紅の瞳が、二階堂の恐怖を増幅させるのに一役かっている。

 恐怖で呼吸もままならず、声をあげることもできない。心を絶望に支配され、死を覚悟した時だった。

「させるかよ!」

 頭上から声が聞こえてきた。

 二階堂と人外の男は、弾かれたように同時に声が聞こえた方を見る。

 二人の隣に建っている社務所しゃむしょ――神社を管理する建物――の屋根から、一人の人物が二人の間にふわりと降り立った。

 月明かりで輝く長い銀色の髪がとてもきれいで。二階堂は、一瞬で目の前に立つ長身の人物の髪に心を奪われた。
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