1 / 64
第1話 狸
幽幻亭、開店
しおりを挟む
開け放たれた窓から、微かに新緑の香りを纏って心地のいい風が入ってくる。カーテンを揺らすそよ風を感じながら、二階堂誠一はお気に入りの紅茶を飲んでいた。
白シャツに飴色のベストと栗色のスラックスという、仕事用の装いをした彼を包む、紅茶の香りと仕事前のゆったりした時間。まさに、至福のひとときである。
しかし、それも長くは続かなかった。階段を下りる足音が、そんなひとときの終了を告げる。ようやく、同居人が起きてきたのだろう。
時計を見ると、午前九時半を少し回ったところである。
「さて、と……」
彼の朝食を作ろうと立ち上がった時だった。
「腹へった……」
と、モデルのようにすらりとした美形な男がパジャマ姿のまま寝ぼけ眼でやって来た。
「おはよう。今作るから、顔洗ってこいよ」
二階堂の言葉に軽くうなずいた彼――蒼矢は、洗面所に向かった。
二階堂は、カップに残っていた紅茶を呷るように飲み干し、キッチンに向かう。朝食のメニューは……と少し思案した後、軽めのものでいいやと思い至る。朝から手の込んだ料理は面倒くさい、というのが本音だ。
食パン二枚にバターを塗ってスライスチーズを乗せ、トースターに入れる。トーストが焼き上がる間にふわふわのオムレツを作り、つけ合わせのベーコンをカリカリになるまで焼く。出来上がったら皿に盛り、テーブルに並べる。
温かいミルクティーを二人分淹れていると、
「お! 美味そうな匂い」
乳白色のポロシャツと深緑のカーゴパンツに着替えた蒼矢が、そう言いながらやって来た。椅子に腰かけるや否や、トーストにかぶりつく。
「出来立てだからな」
キッチンから戻ってきた二階堂は、持っていたカップをテーブルに置いて先程座っていた椅子に腰かける。
ミルクティーを飲み一息ついてから、目の前の男を見やる。相当空腹だったのだろう、脇目も振らずトーストとオムレツにかぶりついている。
そんなにがっつかなくても……と苦笑せざるを得ない。
一枚目のトーストを平らげたところで、蒼矢は二階堂の分がないことに気がついた。
「誠一の分は?」
「僕はさっき食べたから」
さっきと言っても一時間近く前なのだが。
「ふ~ん」
蒼矢は気のない返事をして、二枚目のトーストに取りかかる。基本的に空腹の時は、目の前の食事にしか興味がないのだ、この男は。
会話をしながら食事を楽しむのは、蒼矢には無理なのだろう。ふと、そんなことを思い、二階堂は苦笑した。
(……それにしても、こうやって見てる分には、普通の人間なんだよなぁ)
ミルクティーを堪能しながら、目の前の男について今さらながらに考える。
シルク地のような光沢を放つ長くてきれいな銀色の髪を持つ彼は、二十代の人間にしか見えないが、実は人間ではない。――齢五百年の九尾の狐。それが、蒼矢の本当の姿なのだ。
二階堂は霊感が強く、普通の人間には視えない霊的なものや妖かしの類いが視えてしまうのである。
そんな二階堂と蒼矢が初めて出会ったのは五年前。紆余曲折あって、こうして生活を共にしている。
「ごちそうさん」
「……お粗末さま」
蒼矢の言葉に、我に返る。ほんの少しだけ反応が遅れたが、蒼矢は気にも止めていないらしい。満足そうな顔をして、冷めてしまっただろうミルクティーを味わっている。
空いた皿を片づけようとして、二階堂はある違和感に気づいた。
視線だけをそれに向ける。
(……やっぱり)
「蒼矢、リラックスしすぎ」
「あ? 別にいいじゃねえか。リラックスしてたって」
「そろそろ開店時間なんだから、しまっておけよ、それ」
と、二階堂は皿をキッチンに運びながら告げる。
蒼矢は一瞬、何のことかわからなかった。が、二階堂が自分の頭を見ていたことを思い出し、何気なく頭に触れてみる。そこには、普段は隠しているはずの狐耳が顔をのぞかせていた。蒼矢はばつが悪そうな顔で狐耳を隠す。
そんな蒼矢の様子を見ることもなく、二階堂は食器を片づけて、いつ来客があってもいいようにとシュガーポットを準備する。
ここは二階堂の自宅兼店舗なのだ。店名は『幽幻亭』。何でも屋的な扱いだが、主に、科学では解明できないような不可思議な事件の解決を得意としている。警察から依頼されることもあり、警察関係者からは退治屋と呼ばれていたりする。
時計を見ると、午前十時少し前。
玄関にさりげなく飾られているサインプレートを『商い中』に変える。
幽幻亭、本日も開店である。
白シャツに飴色のベストと栗色のスラックスという、仕事用の装いをした彼を包む、紅茶の香りと仕事前のゆったりした時間。まさに、至福のひとときである。
しかし、それも長くは続かなかった。階段を下りる足音が、そんなひとときの終了を告げる。ようやく、同居人が起きてきたのだろう。
時計を見ると、午前九時半を少し回ったところである。
「さて、と……」
彼の朝食を作ろうと立ち上がった時だった。
「腹へった……」
と、モデルのようにすらりとした美形な男がパジャマ姿のまま寝ぼけ眼でやって来た。
「おはよう。今作るから、顔洗ってこいよ」
二階堂の言葉に軽くうなずいた彼――蒼矢は、洗面所に向かった。
二階堂は、カップに残っていた紅茶を呷るように飲み干し、キッチンに向かう。朝食のメニューは……と少し思案した後、軽めのものでいいやと思い至る。朝から手の込んだ料理は面倒くさい、というのが本音だ。
食パン二枚にバターを塗ってスライスチーズを乗せ、トースターに入れる。トーストが焼き上がる間にふわふわのオムレツを作り、つけ合わせのベーコンをカリカリになるまで焼く。出来上がったら皿に盛り、テーブルに並べる。
温かいミルクティーを二人分淹れていると、
「お! 美味そうな匂い」
乳白色のポロシャツと深緑のカーゴパンツに着替えた蒼矢が、そう言いながらやって来た。椅子に腰かけるや否や、トーストにかぶりつく。
「出来立てだからな」
キッチンから戻ってきた二階堂は、持っていたカップをテーブルに置いて先程座っていた椅子に腰かける。
ミルクティーを飲み一息ついてから、目の前の男を見やる。相当空腹だったのだろう、脇目も振らずトーストとオムレツにかぶりついている。
そんなにがっつかなくても……と苦笑せざるを得ない。
一枚目のトーストを平らげたところで、蒼矢は二階堂の分がないことに気がついた。
「誠一の分は?」
「僕はさっき食べたから」
さっきと言っても一時間近く前なのだが。
「ふ~ん」
蒼矢は気のない返事をして、二枚目のトーストに取りかかる。基本的に空腹の時は、目の前の食事にしか興味がないのだ、この男は。
会話をしながら食事を楽しむのは、蒼矢には無理なのだろう。ふと、そんなことを思い、二階堂は苦笑した。
(……それにしても、こうやって見てる分には、普通の人間なんだよなぁ)
ミルクティーを堪能しながら、目の前の男について今さらながらに考える。
シルク地のような光沢を放つ長くてきれいな銀色の髪を持つ彼は、二十代の人間にしか見えないが、実は人間ではない。――齢五百年の九尾の狐。それが、蒼矢の本当の姿なのだ。
二階堂は霊感が強く、普通の人間には視えない霊的なものや妖かしの類いが視えてしまうのである。
そんな二階堂と蒼矢が初めて出会ったのは五年前。紆余曲折あって、こうして生活を共にしている。
「ごちそうさん」
「……お粗末さま」
蒼矢の言葉に、我に返る。ほんの少しだけ反応が遅れたが、蒼矢は気にも止めていないらしい。満足そうな顔をして、冷めてしまっただろうミルクティーを味わっている。
空いた皿を片づけようとして、二階堂はある違和感に気づいた。
視線だけをそれに向ける。
(……やっぱり)
「蒼矢、リラックスしすぎ」
「あ? 別にいいじゃねえか。リラックスしてたって」
「そろそろ開店時間なんだから、しまっておけよ、それ」
と、二階堂は皿をキッチンに運びながら告げる。
蒼矢は一瞬、何のことかわからなかった。が、二階堂が自分の頭を見ていたことを思い出し、何気なく頭に触れてみる。そこには、普段は隠しているはずの狐耳が顔をのぞかせていた。蒼矢はばつが悪そうな顔で狐耳を隠す。
そんな蒼矢の様子を見ることもなく、二階堂は食器を片づけて、いつ来客があってもいいようにとシュガーポットを準備する。
ここは二階堂の自宅兼店舗なのだ。店名は『幽幻亭』。何でも屋的な扱いだが、主に、科学では解明できないような不可思議な事件の解決を得意としている。警察から依頼されることもあり、警察関係者からは退治屋と呼ばれていたりする。
時計を見ると、午前十時少し前。
玄関にさりげなく飾られているサインプレートを『商い中』に変える。
幽幻亭、本日も開店である。
0
お気に入りに追加
34
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
【完結】「心に決めた人がいる」と旦那様は言った
ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
「俺にはずっと心に決めた人がいる。俺が貴方を愛することはない。貴女はその人を迎え入れることさえ許してくれればそれで良いのです。」
そう言われて愛のない結婚をしたスーザン。
彼女にはかつて愛した人との思い出があった・・・
産業革命後のイギリスをモデルにした架空の国が舞台です。貴族制度など独自の設定があります。
----
初めて書いた小説で初めての投稿で沢山の方に読んでいただき驚いています。
終わり方が納得できない!という方が多かったのでエピローグを追加します。
お読みいただきありがとうございます。
家路を飾るは竜胆の花
石河 翠
恋愛
フランシスカの夫は、幼馴染の女性と愛人関係にある。しかも姑もまたふたりの関係を公認しているありさまだ。
夫は浮気をやめるどころか、たびたびフランシスカに暴力を振るう。愛人である幼馴染もまた、それを楽しんでいるようだ。
ある日夜会に出かけたフランシスカは、ひとけのない道でひとり置き去りにされてしまう。仕方なく徒歩で屋敷に帰ろうとしたフランシスカは、送り犬と呼ばれる怪異に出会って……。
作者的にはハッピーエンドです。
表紙絵は写真ACよりchoco❁⃘*.゚さまの作品(写真のID:22301734)をお借りしております。
この作品は、別サイトにも投稿しております。
(小説家になろうではホラージャンルに投稿しておりますが、アルファポリスではカテゴリーエラーを避けるために恋愛ジャンルでの投稿となっております。ご了承ください)
【完結】辺境伯令嬢は新聞で婚約破棄を知った
五色ひわ
恋愛
辺境伯令嬢としてのんびり領地で暮らしてきたアメリアは、カフェで見せられた新聞で自身の婚約破棄を知った。真実を確かめるため、アメリアは3年ぶりに王都へと旅立った。
※本編34話、番外編『皇太子殿下の苦悩』31+1話、おまけ4話
余命宣告を受けたので私を顧みない家族と婚約者に執着するのをやめることにしました
結城芙由奈
恋愛
【余命半年―未練を残さず生きようと決めた。】
私には血の繋がらない父と母に妹、そして婚約者がいる。しかしあの人達は私の存在を無視し、空気の様に扱う。唯一の希望であるはずの婚約者も愛らしい妹と恋愛関係にあった。皆に気に入られる為に努力し続けたが、誰も私を気に掛けてはくれない。そんな時、突然下された余命宣告。全てを諦めた私は穏やかな死を迎える為に、家族と婚約者に執着するのをやめる事にした―。
2021年9月26日:小説部門、HOTランキング部門1位になりました。ありがとうございます
*「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
※2023年8月 書籍化
【完結】後妻に入ったら、夫のむすめが……でした
仲村 嘉高
恋愛
「むすめの世話をして欲しい」
夫からの求婚の言葉は、愛の言葉では無かったけれど、幼い娘を大切にする誠実な人だと思い、受け入れる事にした。
結婚前の顔合わせを「疲れて出かけたくないと言われた」や「今日はベッドから起きられないようだ」と、何度も反故にされた。
それでも、本当に申し訳なさそうに謝るので、「体が弱いならしょうがないわよ」と許してしまった。
結婚式は、お互いの親戚のみ。
なぜならお互い再婚だから。
そして、結婚式が終わり、新居へ……?
一緒に馬車に乗ったその方は誰ですか?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる