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第1話 狸

幽幻亭、開店

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 開け放たれた窓から、微かに新緑の香りをまとって心地のいい風が入ってくる。カーテンを揺らすそよ風を感じながら、二階堂誠一にかいどうせいいちはお気に入りの紅茶を飲んでいた。

 白シャツに飴色のベストと栗色のスラックスという、仕事用の装いをした彼を包む、紅茶の香りと仕事前のゆったりした時間。まさに、至福のひとときである。

 しかし、それも長くは続かなかった。階段を下りる足音が、そんなひとときの終了を告げる。ようやく、同居人が起きてきたのだろう。

 時計を見ると、午前九時半を少し回ったところである。

「さて、と……」

 彼の朝食を作ろうと立ち上がった時だった。

「腹へった……」

 と、モデルのようにすらりとした美形な男がパジャマ姿のまま寝ぼけ眼でやって来た。

「おはよう。今作るから、顔洗ってこいよ」

 二階堂の言葉に軽くうなずいた彼――蒼矢そうやは、洗面所に向かった。

 二階堂は、カップに残っていた紅茶を呷るように飲み干し、キッチンに向かう。朝食のメニューは……と少し思案した後、軽めのものでいいやと思い至る。朝から手の込んだ料理は面倒くさい、というのが本音だ。

 食パン二枚にバターを塗ってスライスチーズを乗せ、トースターに入れる。トーストが焼き上がる間にふわふわのオムレツを作り、つけ合わせのベーコンをカリカリになるまで焼く。出来上がったら皿に盛り、テーブルに並べる。

 温かいミルクティーを二人分淹れていると、

「お! 美味そうな匂い」

 乳白色のポロシャツと深緑のカーゴパンツに着替えた蒼矢が、そう言いながらやって来た。椅子に腰かけるや否や、トーストにかぶりつく。

「出来立てだからな」

 キッチンから戻ってきた二階堂は、持っていたカップをテーブルに置いて先程座っていた椅子に腰かける。

 ミルクティーを飲み一息ついてから、目の前の男を見やる。相当空腹だったのだろう、脇目も振らずトーストとオムレツにかぶりついている。

 そんなにがっつかなくても……と苦笑せざるを得ない。

 一枚目のトーストを平らげたところで、蒼矢は二階堂の分がないことに気がついた。

「誠一の分は?」

「僕はさっき食べたから」

 さっきと言っても一時間近く前なのだが。

「ふ~ん」

 蒼矢は気のない返事をして、二枚目のトーストに取りかかる。基本的に空腹の時は、目の前の食事にしか興味がないのだ、この男は。

 会話をしながら食事を楽しむのは、蒼矢には無理なのだろう。ふと、そんなことを思い、二階堂は苦笑した。

(……それにしても、こうやって見てる分には、普通の人間なんだよなぁ)

 ミルクティーを堪能しながら、目の前の男について今さらながらに考える。

 シルク地のような光沢を放つ長くてきれいな銀色の髪を持つ彼は、二十代の人間にしか見えないが、実は人間ではない。――よわい五百年の九尾の狐。それが、蒼矢の本当の姿なのだ。

 二階堂は霊感が強く、普通の人間には視えない霊的なものやあやかしの類いが視えてしまうのである。

 そんな二階堂と蒼矢が初めて出会ったのは五年前。紆余曲折あって、こうして生活を共にしている。

「ごちそうさん」

「……お粗末さま」

 蒼矢の言葉に、我に返る。ほんの少しだけ反応が遅れたが、蒼矢は気にも止めていないらしい。満足そうな顔をして、冷めてしまっただろうミルクティーを味わっている。

 空いた皿を片づけようとして、二階堂はある違和感に気づいた。

 視線だけをそれに向ける。

(……やっぱり)

「蒼矢、リラックスしすぎ」

「あ? 別にいいじゃねえか。リラックスしてたって」

「そろそろ開店時間なんだから、しまっておけよ、それ」

 と、二階堂は皿をキッチンに運びながら告げる。

 蒼矢は一瞬、何のことかわからなかった。が、二階堂が自分の頭を見ていたことを思い出し、何気なく頭に触れてみる。そこには、普段は隠しているはずの狐耳が顔をのぞかせていた。蒼矢はばつが悪そうな顔で狐耳を隠す。

 そんな蒼矢の様子を見ることもなく、二階堂は食器を片づけて、いつ来客があってもいいようにとシュガーポットを準備する。

 ここは二階堂の自宅兼店舗なのだ。店名は『幽幻亭ゆうげんてい』。何でも屋的な扱いだが、主に、科学では解明できないような不可思議な事件の解決を得意としている。警察から依頼されることもあり、警察関係者からは退治屋と呼ばれていたりする。

 時計を見ると、午前十時少し前。

 玄関にさりげなく飾られているサインプレートを『商い中』に変える。

 幽幻亭、本日も開店である。
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