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丘多主記

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入部編

涼紀と伸哉の過去

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「いてぇ。まだ放課後に叩きつけられた胸が痛むよ」

 午後十時。自宅の椅子に座りながら涼紀は痛む胸を抑えながら、放課後の出来事について考えていた。

 普段は大人しく怒る様子なんてまるで想像すらでき無いような伸哉が、胸ぐらを掴み、激しく壁に叩きつけるほど怒ってくるとは全く思ってなかった。

「けど。あれは俺が悪いわ。本人の傷に触れたんだからな」

 涼紀は自分の不届きな言動を恥じた。

「さて、どうやって謝ろうか。明日いきなりあいつのとこ行って、ごめんじゃ絶対あいつの神経逆撫でしそうだし。それに咲香も泣かせちゃったし……。めんどくせえことしたもんだな」

 涼紀はしんどそうに深く息を吐き、背もたれに寄り掛かる。

 視界にある天井の蛍光灯を眺めたが、答えは何も出てこなかった。




 涼紀は高校から野球を始めた超初心者だ。

 元々涼紀は、中学まで将来を渇望されるくらい有名な砲丸投げの選手だった。来る日も来る日も練習に明け暮れていた涼紀は、三年の夏までは野球のやの字も知らないようなレベルであった。

 そんな涼紀が野球をやろうと決意したのは、三年の秋にあった明林高校の体験入学だった。

 特に面白いわけでもなかったありふれた体験入学が終わった頃、涼紀は同じ中学の友人と陸上部の練習グラウンドに向かうところだった。

 しかし、陸上部は町の駅伝大会に出場していて練習がなかったのだった。

 せっかく高校に来たので何も見ることなく帰るのも惜しい気がしたので、急遽予定を変更して野球部のグラウンドでの練習試合を見ることにした。

 その日の相手は徳羽工業とくはこうぎょうという近隣の高校だった。

 試合は序盤から長々とした、見る方としては全く面白くない試合だった。野球を見た事のない涼紀ではあったが、そんなにレベルの高い試合ではないということを何となく感じていた。

「あー、面白くねえ。もう帰ろうか」

 友人の一人がつまらなさそうに言った。

「そうだな。ルールわからんのにみてもおもろくないしな」

 そう言って二人で帰ろうとした時、打席に入る選手から異様な雰囲気を感じた。

「おーい、涼紀。帰るぞ」

「悪いけど、先に帰ってて」

 涼紀はこの試合をもう少しだけ見ることを決めた。

「えー、わかったよ。じゃあ俺は帰ってるぜ」

 友人が引き上げる中、ずっとバッターボックスを釘いるように見つめていた。

 その打者は、粘りに粘った末、相手投手の失投を見逃さず、ボールを軽々と場外に飛ばした。

「す、凄え!」

 涼紀の目にその打球はくっきりと残った。




 結局試合には僅差で負けたようだったが、その選手は四回の打席全てで場外ホームランを打っただけではなく、どんなに負けている状況でも常に仲間への声を、一瞬も絶やすことなく掛け続けていた。

 彼の一つ一つのプレーに感動し涼紀は、高校で野球をすることを決意した。

 試合を全部見た涼紀が家に帰り着いたのは六時半とかなり遅かった。

 家に着くと父親が食卓テーブルに座って、晩酌ばんしゃくのビールとおつまみを用意していた。

「おかえりなさい。高校どうだった? ずいぶん遅くまでいたけど楽しかったの?」

 母親は帰ってくるなり、夕食を作っている手を止め、体験入学の感想を嬉しそうに聞いてきた。

「まあまあかな。でも俺、明林高校で野球やるって決めた」

「「はあ?!」」

 もちろん、この突拍子もない言葉にテーブルは騒然とし、高校で野球をやるかやらないかはその日話し合った。

 母親は少し難色を示したが、父親はずいぶん嬉しそうに涼紀に賛同していた。

 結局それをみた母親もオーケーを出して、高校で野球をやることを決めた。

 そうして時は流れ春。明林高校に入学し翌日には野球部に入部した。

「よ、よろしくお願いします」

 その日の練習が始まる前に涼紀はその人に直接、挨拶をしに行った。

「いやいや。そんなに緊張しなくても。それより野球初心者なんだって? わからんことあったら色々教えるからな。色々聞いてくれよ」

 憧れの先輩彰久は、にっこりとした笑顔で涼紀に挨拶を返した。

「はい!」

 直接声を掛けてもらえると思ってもいなかった涼紀は、天にも昇る様な気持ちだった。

 そして、入部してしばらくたった。彰久と近くで接するごとに彼への憧れは強いものになっていった。

 また、涼紀が入部してからの試合を全部通して、彰久が三振したシーンを見たことは一度も無かった。

 そんなある日の練習終わり。涼紀は彰久にこう話しかけた。

「今の先輩から三振を取れる選手はいないっすよね?」

 すると彰久は笑いながら実は一度だけあるんだ、と答えた。それもたった三球、しかも球種を絞られてということだった。涼紀は酷く驚いた。

 だが、それと同時にこう思った。

 彰久先輩から三振を取れるような人がいれば、このチームも強くなる! 先輩の目標の甲子園に行ける!!

 涼紀は目を輝かせながら、彼に尋ねた。

「じゃあその人をこの野球部に入れたら、絶対強くなりますよね?」

「まあそれはそうだが、それは無理なことだ」

「どうしてっすか先輩! なんで無理なんっすかっ!!」

「ははは。それは約束しちまったからね。勝負に負けたら絶対に勧誘しないってね。もちろん、負けるつもりはなかったさ。今までで一番本気出したて勝負したさ。けど、まさかああも簡単に三振しちゃうなんてね」

 なにか彰久は呑気だった。涼紀は少しムッとした。

「何呑気な事言ってんっすか! そんな約束無視してでも引っ張ってくればよかったじゃないっすかっ!!」

 そんな涼紀をなだめるように彰久はこう言った。

「うーん。そんな事したら余計に入ってくれないぜ、あいつのことだから。けど、どうしても入れたいなら、どうして伸哉が、野球が大好きなのに野球部に入りたがらないのかっていう原因を調べて、それで説得してくればいい。俺は失敗しちまったけどさ」

「伸哉……?」

「そ、添木伸哉。それがそいつの名前さ。それじゃ」

 そう言い残して爽やかに部室を後にしていった。



 そうなれば行動のみ、と涼紀は伸哉の中学時代を調べることにした。

 翌日から涼紀は休み時間を使って、伸哉と同じ中学校の同級生達から聞き込み調査を行っていった。

 伸哉の中学時代を色々と調べて行くうちに、大半の同級生は伸哉が二年生の冬に、野球を辞めたということを言っていた。

 だが、なぜ伸哉が野球を辞めたのかを知る者はいなかった。諦め掛けていたある日の夜。最後の望みを込めて、伸哉と同じ中学校の野球部だった友人に電話をかけて聞いてみた。

 残念ながら彼は軟式野球部で、伸哉とはチームが違っていたため、なぜ辞めたのかまでは知らなかった。ところが、友人はある人物の連絡先を教えた。恐らくこいつなら知っているだろうとの事だった。

 事の真相を聞こうと、涼紀はその人物に電話を入れた。友人があらかじめ涼紀の連絡先を教えたことを伝えておいていたらしく、事はスムーズに進んだ。

 少し小話を挟んだ後に本題の、なぜ伸哉が野球を辞めたのかについて聞くと、

「直接会って話したい」

と、どこか怯えたような声で返された。

 本当ならその時に話して欲しかったが、話してくれるなら仕方ないと思い会う予定を立てた。

 そして、予定日当日の午後。

 予定時間より少し早めに到着していたが、話し相手である彼は既にそこにいた。

 名門校で野球をやってるとの事だったが、肌は色白く身長も低い。

 それでいてその身長から見てもおそろしいほどに痩せていて、とても高校球児には見えなかった。

 きっともやしを人間にしたらきっとこんな姿なんだろうな、と涼紀は失礼な想像までしていた。

「おや? 随分意外そうな目をしてるねえ。そりゃそうか。野球やってる人に見えないもんね」

 そう言って彼が少しだけ上着を脱ぐと、見た目とは裏腹にチョコレイトのような、エイトパックに割れた腹筋がチラリと見えた。

 一体どれ程鍛えればあの身体をここまでみ出来るのだろうか?あまりの筋肉に涼紀が見惚れていると、

「おっと、そうでしたね。本題について話しましょうか」

彼はそういった。そしてその瞬間から笑顔が一切消えた。

 何があったのか。その答えは許されるべき事では無かった。伸哉の活躍を妬み、伸哉を野球部から消すために自作自演の暴力事件を起こし、伸哉を辞めさせたというものだった。

 想像以上の酷さに、涼紀は思わず右拳で思いっきり殴りそうになった。けれど、彼の顔を見た瞬間に衝動は一気に心から消え失せた。

 話し終わったその時の表情は尋常じゃないくらい青く、小刻みに震えていた。

「君は僕を殴ろうとしたんだよね。別に殴っても良かったんだよ? こんな哀れな男のことなんて」

 自虐するように彼は言った。そして、青ざめた顔がさらに青くなる。見ているだけで辛そうだった。

「伸哉は多分、いや間違いなく伸哉は野球をしてないだろう。そしたら絶対に、何としてでも野球部にいれて欲しい……。そうして、今度はグラウンドで勝負して欲しいと、伝えて……。お願いしますっ」

 彼は地面に膝をつき、深々と頭を下げた。涼紀は黙って頷くのみだった。

「今更他人に何頼んでんだって話だよね。だけど、伸哉はこんなところで終わっていい才能じゃないんです……」

「……」

「あの時僕がちゃんと伸哉の言葉に耳を傾けていれば。耐えてれば、彼と同じ高校行って、楽しくやってたのに。いつまでもやりたかったのに。けど、もう戻らない。もう、あの時には…………もう」

「何も言うな。お前の想いは無駄にしないから」

 涼紀はただ肩に手を置き慰めることしか出来なかった。

 それから、その想いを絶対に伝えるために、何を言うのか考えそして今日に臨んだものの、いざその場に立つと言おうとしたことを、完全に忘れてしまった。

 そして最悪なことに、伸哉を怒らせるだけという、かえって事態を変な方向に拗らせる結果になってしまった。

「くそ。俺がもっと有能だったら」

 涼紀は自分で自分を卑下する。

「おまけに咲香まで泣かせちまうし。ほんと、どうしようか……」

 涼紀は、これからの不安に苛まれながら、目を閉じた。
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