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黒靄の誘い

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 その日の王都は、朝から小雨に閉ざされていた。
 日が傾いた頃にようやく晴れ間が見え始め、屋敷から一歩も出ることのないディアナも、差し込む日差しの温かさに慰められたような気がしたものだった。

 もうじき住み慣れたこの土地を離れ、北西部のレブロージェ領へ向かうこととなる。ひなでの生活に不備があってはならないとリカルドが設けてくれた期間も過ぎ、支度は整った。あとは彼がやり残した任務とやらを片付け次第、馬車を乗り継ぎ半月ほどかけて所領へ向かう手はずとなっている。

 北部は夏も冷涼だと聞く。日は射すのだろうか。うららかな日和も、これで見納めとなるのかもしれない。

 不安がないわけではない。けれど、考えるだけ無駄なことだ。ディアナがどれだけあがこうと人狼は生まれ出るし、見ず知らずの土地で若くして寡婦となることがほぼ決定されている。

 ――本当に死ぬのだろうか、あの頑健そうな男が。

 飄々とした笑みを浮かべる男の顔が脳裏を過ると、心臓がちくりと痛んだ。まだ、どうも現実味がない。殺されても死ななそうなほど生命力に溢れているのに。少なくとも自分とは比べ物にならないほど。

 ――……妻として、夫人として、できることをするだけだわ。

 愛していなければ、愛されているわけでもない相手の結婚だ。あまり深入りしない方がいいのかもしれない。
 今日だって一度も顔を合わせていないのだ。それどころか、ここ十日間で言葉を交わしたのはあのご破算となった初夜以降、片手で数えられるほどしかない。仕事が忙しいというけれど、食事まで別にする必要があるだろうか。

 ――まるで本当に愛を囁くみたいに、聞いてる側が恥ずかしくなるような台詞で揶揄ってきたくせに。

 そう毒づきながらも、内心は焦燥感と自責の念にじわじわと蝕まれていく。
 リカルドの気さくさと寛大さに甘えて、初日から生意気すぎてしまっただろうか。あるいは初夜をきちんとこなせないことが気に障ったのか。いや、そもそも詐病だったのかもしれない。女としてのディアナが気に食わなくて、わざと閨を共にせずとも済むよう謀った、その可能性だってある。
 そうなると、あの好色そうな男の歯牙にかからぬほど、自分は女として至らないのだろうか。

「……何を落ち込んでいるのかしら。別にいいじゃない、その方が楽で……」

 ディアナはぱたんと書籍を閉ざすと、席を立ち窓辺に歩み寄った。日当たりの良い自室は出窓が大きく、庭先に面している。カーテンの隙間から外の様子を覗き見ると、清らかな満月に照らされて影を落とす古木が幽玄な空気を醸していた。
 寝台に戻ろうと身を引きかけたのを、ふいに胸を突き抜けた悲しみが引き止めた。この感覚はよく知っている。あの靄を無意識のうちに感知したときに生じる悲哀だ。
 窓を開け放ち、薄闇に目を凝らしたディアナは、古木の根元を見止めて瞠目した。

「……あれは」

 霧のように凝る影。それを認識するとほぼ同時に、ふわりと生ぬるい風が吹いた。体が動くよりも早く、その凝っていたものが幽鬼の伸ばした手がごとくディアナ目掛けて飛び込んでくる。
 反射的に瞑目したディアナを意に介した様子もなく窓から入り込んだそれは――例の、黒い靄だった。

 まるで、意思を持つ蟲の群れのように動くことと、人間に纏わりついていない点を除きさえすれば、ではあるが。
 異様な光景に驚きこそあれど、ディアナに恐怖はなかった。靄から敵意が感じられないこともあって、ただ哀れで哀れで仕方がない。市街でみすぼらしい格好をした子供が雨と泥にずぶ濡れてお腹を空かせているのを見たら、きっと同じような気分になるだろう。
 思考が、まるであの靄に囚われたようにけぶった。
 そんなディアナの心情を察しているか、靄はまるで何かを訴えかけるように空中で静止した。対峙した、とでも言い表すべきか。どうであれ、それはただふよふよとその場に浮いているだけで、言葉を発することはなかった。

「どうしたの……? 行き場がないの……?」

 手を差し伸べると、すう、と避けるような仕草をする。そのままディアナの周りをぐるりと一周したかと思うと、靄は窓辺でゆらゆらと揺らめき始めた。
 このままあれが出ていくのを黙って見送っていいはずがない。追いかけなくては――。
 誘われているという意識の前にそんな切迫感に駆られ、ディアナは膝掛を肩にかけてベッドの下を漁った。引きずり出した質素な外套を羽織り、ランプを手に部屋を飛び出す。王都にいるうちに、こっそりロレーヌの様子を見に行こうと用意していた代物だった。

 ――早くいかなきゃ、追いつけなくなってしまうかも。

 こんな夜更けに危険だ、一人で家を飛び出すだなんて、と覆い隠されつつある理性が警鐘を鳴らしている。しかし今のそんな声に耳を傾ける余裕などなかった。
 幼い頃から、一度この靄に惹きつけられてしまうと自分を制御できなくなってしまう癖があったのだ。そのために幾度となく養父らの手を煩わせ、変わった子だと忌避されて生きて来た。医者や使用人は寂しさゆえの夢遊病のようなものだろうと嘆いてくれたが、時折唐突に我を忘れる、不気味な子供であったことは間違いない。この悪癖も、ロレーヌが傍に居る限りは引き起こされないと気づいて行動を慎むようにしてからはすっかり鳴りをひそめていたのだが――。
 幸か不幸か巡視や使用人たちに出くわすこともなく、ディアナは裏口の使用人用扉から抜け出すことに成功した。
 庭先へ回ろうと顔を上げると、まるで待ち構えていたかのように靄が尾を引いてゆらめいている。

「あ、待って……!」

 靄は魚か蛇のような速度で表へと躍り出た。ディアナは慌ててその後を追い、見失わぬよう夜の市街を疾走した。
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