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可憐な来訪者

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 屋敷での日々は、何事もなく穏やかに過ぎ去っていった。
 朝はゆったりと目覚め、日ごとに異なる衣装を身に纏う。ジスランとともに朝食を摂った後は自由時間だ。基本的にはニケットに願い出て、最低限の行儀作法を学ばせてもらうことにしている。ジスランは表に出る必要はないと言うが、何かの折に彼と本物のマリーに恥をかかせるわけにはいかない。

 ――というのは理由のひとつに過ぎず、マリアンナは日々の退屈さに頭を悩ませていた。ティータイムも、ジスランが手入れをするという庭園の散策もそれはそれで楽しい。だが、毎日となると話は別だ。これまでのマリアンナは、昼夜を問わず様々な仕事に追われて生きて来た。そこで唐突に有り余る余暇を過ごすよう指示されても、役立つようなことは何もできていないという事実が罪悪感となって心を蝕んでしまう。

 それと、マリアンナの懸念はもうひとつ――ジスランが、あまりに寛容、というよりマリアンナの行動に無関心であることだ。何をしても咎めなければ、理由を尋ねたりもしない。「したいようにするといい」と微笑するばかりで、逆に不安になってしまう。マリアンナの過去を詮索しないのも同様で、逆に何もかもを見透かされているような恐怖を抱かせる。

 だから、マリアンナも問うに問えずにいた。『マリー』はどうしていなくなってしまったのか、無事でいるのか、どんな人物で何を好んだのか。
 ジスランは、彼女をどれぐらい愛していたのか。

「……うーん、身が入らないわ……」

 ニケットが用意してくれたテキストを睨めつけ、マリアンナはぬるくなった紅茶に口をつけた。今日はダンスの作法について、その歴史や意義を紐解いた書籍に目を通している。本来は口頭と実践で学んでいくものだが、マリアンナは一旦、その全体像を把握しておかなければ緊張で身動きが取れなくなるきらいがある。ニケットに説明して、ある程度の概要を独学で頭に叩きこみ、後に実際に彼女の指導を仰ぐ形式で授業を受けていた。

 ――でも、ファントム様との稽古は全然平気だった……。

 今頃どうしているのだろう。無断で劇場を飛び出したマリアンナのことなど、もう見限ったのには違いないが。もっと優秀で美しい声を持つ別の候補者を探し出して、指導に精を出しているかもしれない。
 彼にとって自分が唯一無二でないことは承知していたけれど、こうして現実を突きつけられると落胆は免れない。

「……まだ始めたばかりなのに、だめね」

 こういうとき、洗濯や掃除が出来れば余計な考えを打ち払うことができるのだが、手荒れを治して令嬢としての振る舞いを身に着けるためけして手出しをしてはならないと言い含められている。これだけはジスランも許してくれなかった。

 静かに立ち上がると窓辺に歩み寄り、燦々と日差しの降り注ぐ白薔薇の庭園を眺める。本邸から少し離れた十部屋ほどあるこの別邸が、マリアンナが日中のほとんどを過ごす邸宅だ。療養中の名目通り、基本的には自分から呼びつけなければ使用人が侍ることはない。慣れない環境に戸惑うマリアンナへの配慮と、偽物のマリーを隠し通すための思惑の両方が窺えた。

 窓ガラスにそっと手を触れる。マリアンナの胸元近くまである薔薇の生け垣が、迷路のような小道を形造っている。濃緑と白の美しいコントラストの間を、ひらひらと蝶が舞い踊るのが見えた。
 その向こう側、本邸へと続く石畳の道へと視線をずらして、マリアンナは慌ててカーテンの影へ回り込んだ。
 客人のようだ。ブラウンの外套に身を包んだ人物が、フットマンの一礼に片手を上げながら歩を進めている。頭部をフードで覆っているため容貌は不明だが、商人や貴人ではなさそうだ。
 好奇心を抑えきれずに覗き見ていると、ふいに、その人物がぴたりと足を止め――こちらを、見た。

「っ!」

 反射的に影に身を隠した。ほんの一瞬だけ、確かに視線が絡んだ。凍てついた氷のような色の眸だった。どうして気づかれたのだろう。見られてもいい相手だったのだろうか。
 どきどきしながら再び外の様子を窺うと、いつの間にかジスランがあの人物を出迎えていた。両手を広げて歓迎するジスランを前に、客人がフードを脱ぐ。
 現れたのは、遠目にもわかるほど可憐な面差しの少女だった。
 目を瞬かせて硬直するマリアンナには目もくれず、親しげに少女の肩を抱いて歩き出す。本邸まではそれなりに距離があるにもかかわらず、主人であるジスランがわざわざ出迎えに来るだなんて。

 ――もしかして、あの方がマリー……?

 ほとんどへたり込むように、窓辺から目を背けて椅子に腰かけた。
 確証はないが、それ以外にジスランが好意的に接する女性は思い至らない。

 ――なんだ……もう見つけていたのね……。

 ほっと胸を撫でおろすと同時に、胸がキリキリと痛みだす。何か事情があるのだろうとは察していた。マリアンナに隠し事があるように、ジスランにも打ち明けていない秘密は存在しただけだ。

 ――なら、私に本当に求められている事って、何?

 期間限定の、長くて半年間だけの身代わり。その半年の間に何か、もしかすると危険を伴うような事件が想定されているのか。たとえば、マリーが何者かに命を狙われているとか。
 すとんと、全てが腑に落ちたような気がした。ジスランが良くしてくれるのも、難しいことは何一つ考えなくていいのも、ここに影武者として存在することだけに意味があるから。最悪、命を落としてしまうから。

 そうか――ジスランにとって、自分はただの捨て駒なのか。

 当然だ、あんな貴公子が自分のような町娘に親しげに接してくれるわけがない。痛めつけて命令に従わせようとしないのは、彼にまだ良心があるからだろう。自分の恋人の身代わりに殺されてしまうかもしれない娘を、内心で憐れんでくれているだけに過ぎない。

 ――そうよね、それなのに私ったら浮かれて……バカみたい……。

 目元にジワリと痛みが走る。失笑して、マリアンナは卓上のテキストに向きなおった。
 何にせよ、劇場の下働きであったマリアンナは死んだ。どこにも行き場はない。あの夜、戻ったところで無事でいられた確証などどこにもない。ジスランに救われたのは事実だ。
 この感情の根底にあるものが何かは分からないけれど、ただ、彼の役に立ちたい、と思う。

 きちんと役目を果たそう――たとえ、どれだけ惨憺たる結末が待ち受けていたとしても。


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