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”信徒マリアンナ”の死

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 目が覚めたのは、太陽が中天に差し掛かろうとしている時刻だった。

 幸い風邪を引いた様子もなく、多少のだるさは残るものの、普段より体が軽い。これが質のいい寝具で眠るということか――と感嘆したマリーが、ジスランに保護された晩から三日目の朝であることを知るのは、身支度を整える最中のことである。

 起床を見越したかのようなタイミングでドアをノックしたのは、昨晩から『マリー』の世話を命じられたニケットという侍女だ。代々この屋敷の女中頭を輩出する家門の出だという。
ニケットに勧められるがまま薄紫色のドレスに袖を通し、乱れた髪を香油で整え終えると、案内されたのは昨日のティールームだった。
 燦々と日差しの差し込む部屋の中央に、ジスランは居た。あの円卓に無数の紙面を積み上げ、その一枚一枚を睨みつけるようにして目を通している。

「ああ、マリー、おはよう」
「お、おはようございます……申し訳ありません、三日も寝こけてしまい……」
「気にすることはない、休養は大事だ。それぐらい疲弊していたということだろう」

 微笑を向けられると、三日前バスルームでの出来事が鮮明に脳裏を過った。もちろん、彼に下心がないことなど理解している。それでも、この貧相で傷まみれの身体が視界に入り込んだのだと思うと、今すぐこの場から逃げ出してしまいたくなった。

 すぐさまスープやサラダといった軽食が卓上に並べられ、有無を言わさず席に着かされる。マナーにはあまり頓着しないらしく、円卓のジスランの側はまだペンや手帳が広げられたままだ。
 と、その時。どこか遠くの部屋から、流れるような音色に乗せた伸びやかな女声が、微かに響くのを聞いた。どきり、マリアンナの心音が高まる。

 ――昼の賛歌の放響が始まったのね……。

 賛歌の放響は、曜日によって異なるものの朝と昼のどちらか、そして夜に一度、計一日に二度、その謳姫の歌声とともに神の加護を民草へ行き渡らせるために行われる。会場は英讃劇場で、観劇者はその時々によって違う。招待を受けた貴族や学生、各国の使者がほとんどだ。実際に生の歌声を聞くことが出来ない者のために、市民礼拝の時と同様、響魔石が使用されている。それが、このジスランの屋敷にも届いているのだ。

「食べないのか」
「いえ……謳姫様の祈りの途中ですので……」
「ああなるほど。敬虔なんだな、マリーは」

 言いながら紅茶を口に含んだジスランに、思わず声を上げそうなほど吃驚した。マリアンナが暮らしてきた環境では、誰もが手を止めて謳姫の声に耳を澄ませるのが常識であった。妙な気分だ、幼い頃からずっと教会の教えのもとに暮らしてきた。そんな根っからの教徒である自分が、あの魂を震わすような美声を意に介さない男に、まさか不信感ではなく安堵を覚える日が来るとは。

「……美味しそうな料理、ですね」

 マリアンナは胃がもやつくのを堪え、スプーンを手に取った。皿の底が見えるほど透き通った琥珀色のスープからは、ほこほこと湯気が立ち上っている。野菜と肉の甘さをはらんだ塩気のある香りが鼻腔をくすぐるが、ああまり食欲は刺激されない。花弁のように薄く切りとられたロースト肉が鮮やかな生野菜とともに、咲きたての薔薇のように盛り付けられているのを見ても、恍惚とした吐息さえ漏れなかった。
 マリアンナの胃を痛めつける原因は、無論、教団にある。

 ――どうなってるかしら……謳姫を煩わせた逃亡者として手配書が回っていたりして……。

 所詮は替えの利く下働きだ、ただ失踪しただけでは気にも留められまい。だが、今回はよりにもよって謳姫の私物を盗もうとした罪が被せられている。罪人として教会に裁かれてもおかしくはない。その場合、ここに留まっていたのではジスランにも迷惑がかかってしまう。

 ――順を追って事情を説明して、身代わりの件はお断りして……。

 いや、それでは湯浴みや食事、衣類にかけた費用が無駄になってしまう。この扱いを見るに、ジスランは既にその気だ。マリアンナを後釜に据えて利用しようとしている。せめてこの恩を返したいが、一日、二日の働きで弁済できる額とは思えない。いや、そもそも彼が敬虔な教徒であった場合、神にも等しき謳姫を害した咎人など敷地に置いておきたくないというのもあり得た。これは命の恩人へのとんだ裏切りではないか。

 ――それだけじゃない、私の体質のことだって話さなきゃ。

 けれど、教団を離れて三日以上経過するのに、これといった不幸には見舞われていないようだが。

「どうやらまだ疲れが取れていないらしいな。ひとまず、食事を摂ったらすぐ休みなさい」
「いえ……どこから手を付けようか、迷ってしまっているだけで」
「なんだ、そんなことか。食べたいものを好きなだけつつけばいいさ」

 言いながら、褪せた色の紙片を折りたたみ始める。マリアンナがつい興味深そうに覗き込むと、ついと視線を上げたジスランが苦笑した。

「気になるか?」
「あ……ごめんなさい、お仕事、でしたか」
「いや、ただの趣味だ。私は昔から出不精で、基本的にはこの邸内から出ることはない。そうなると世事に疎くなるから、こうして国内外の新聞を取り寄せて読むことを習慣としている」

 マリアンナが差し出された紙を受け取ると、それは市街で起きた事件を取り扱う新聞社のものだった。

 『猥雑、有名衣装デザイナーの蜜事』といった見出しのゴシップや、『続報! 城下を騒がす謎の影! 魔族の復活! ……か⁉』というような市民の不安を煽ることを目的とした眉唾ものの文面が並んでいる。名義目当てにつくられた会社が、体裁を整えるためだけに発行する三流記事だ。とりあえず活動しているという実績のために販売されているだけで、大半は古紙回収に出されるはず。

 真面目な紙面のみならずこういったものにまで目を通すとなると、確かに時間がかかりそうだ――とぼうっと文章を眺めていると、とある見出しに目が奪われた。
 『クーア川下流、東門付近にて女性の死体を発見』
 急かされたようにその先を追う。概要はこうだ。
 王都を二分する大河の支流で、ずたずたになった女性の死体が見つかった。原型は留めていないものの、背格好や頭髪の色といった特徴と一致する行方不明者の情報はなく、娼婦や浮浪者とも思えない。英讃教団は三日前の豪雨の晩から行方を眩ませていた、保護中の女性信徒・マリアンナと見て、その他の豪雨被害者とともに葬送を執り行う予定――。

「マリー?」
「っ!」

 弾かれたように顔を上げると、怪訝な面持ちのジスランと視線が交差する。
 マリアンナは「色々なことが起きていたのですね」とごまかしながら、その紙を震える手で折り畳んだ。

 ――私、もう死んだことになってるの……⁉

 心臓がばくばくと早鐘を打っている。メレーサに罪を咎められたマリアンナは、行く末をはかなんで土砂降りの町へ飛び出し、川の近くで足を滑らせたか、自ら身を投じたかして命を落とした、と結論付けたわけだ。遺体の損傷が相当激しかったのだろう。身元不明だというし、思い当たる節がある教団がそう判断しても無理はない。

 ――となると、私が罪を償う必要はない……?

 そんな邪な考えが胸を過り、どきりとした。このまま素知らぬふりを続けて、新たにジスランと契約を結んだとして迷惑をかけることもなさそうだ。
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