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二、安土脱出
しおりを挟む信長は、妙向尼が思っているほど機嫌を損ねてはいなかった。むしろ、わざわざ詫びに訪れたことに対して驚いたくらいである。
「案ずるな。また時期が来れば、お仙を召し出すこともあろう。それまでしばし待っておれ」
もともと信長は森家の者には甘い。なにせ、長可があれだけ好き勝手にやらかしていても一切咎めることはせず、気前よく領地を与えているのである。
これも皆、長可や仙千代らの亡き父が、古くから信長の忠臣として多大な功績をあげていたおかげであろう。
「それにしてもお仙、そちの母上は恐ろしい女子じゃ。前にもこの信長に、我が意を容れねば息子ともども死ぬと言って迫ったことがある」
信長は、冗談めかしてそう語った。
それは、二年前の天正八年の事である。
長く続いた信長と本願寺との戦いもいよいよ大詰めとなり、もはや信長の勝利は目前という形になった。
信長は、本願寺を滅亡させようとしていたのだが、それに待ったをかけたのが、この妙向尼である。
自身も一向宗の宗徒であった彼女は、同胞を救うために信長に直談判に及んだのであった。
「蘭丸らを仏敵にしたくはありませぬゆえ、この私と共に浄土へと参らせたいと思いまする」
実に苛烈な宣告であった。
信長はこの言葉に折れ、本願寺との講和を決めたのであった。
「そうであったな。お営」
信長は、妙向尼を俗名で呼んだ。もともと妙向尼を森家の嫁にと仲介したのも信長である。昔から彼ら夫婦と信長は親しい間柄であった。
に、してもである。家臣の妻がその主君に対して直談判する例などそうありはしない。しかも事は外交問題なのである。恐れを知らぬ、と言っても良い行動力ではないか。
(なんだ、母上も存外に猛々しい)
恥ずかしそうに俯いている妙向尼の姿を見ながら、仙千代は母を見直す気分になっていた。
「わしは間も無く安土を発つが、お主たちはしばらくゆるりとしてゆけ」
この時期、信長は多忙である。
甲州攻めを終え、安土に帰還した日から、まだ一月余りしか経っていないにも関わらず、今度は西国の毛利を攻めるために出陣しなければならない。
信長が、仙千代らを残して安土城を離れたのは、五月二十九日のことであった。向かったのは京での寄宿先として度々逗留していた、本能寺である。
この時信長が供に連れていたのは、仙千代の兄、蘭丸らを含む、わずかな側小姓たちのみである。もし信長が初めから大軍を率いて上洛していれば、この先の悲劇はなかったかもしれない。
天正十年(1586年)六月二日未明、後世日本一有名となる反逆事件が起こった。本能寺の変である。
この凶報が、京からほど近い安土城にもたらされるのに、さほど時間はかからない。翌三日、初報を受けた城中は大騒ぎとなった。
詳細はまだ伝わらない。分かっていることは、明智光秀が大軍を率いて、本能寺の信長を襲った、という事だけである。とは言え、それが事実であれば、信長の命はまず亡いものと見なければならない。
明智の軍勢が、この安土城にも攻め寄せてくるかもしれない。その恐れが、城内を混乱の渦に巻き込んでいく。
妙向尼と仙千代の母子もまた、その渦中にあった。ともかくも、このまま呆けているわけにはいかない。安全な場所まで逃げることが、まず第一の優先事項であった。
とは言え、仙千代らは、いわば身一つで安土を訪れたのである。少数の供は居ても、軍勢を引き連れてきた訳ではない。
安土城から安全に脱出するのは、かなり困難なことのように見えた。
しかし、この事態を知り、森家親子を助けようと動き出した者が居た。
名を伴惟安と言い、甲賀衆の一人である。
甲賀衆はいわば独立勢力であったが、その諜報能力を目当てに、多数の勢力が友好関係を結んでいた。
仙千代らの父も、そんな甲賀衆の能力に目をつけた一人で、かねてよりこの伴惟安という甲賀忍者と懇意にしていたのである。
「妙向様、仙千代君、我らが必ず、お二方を安全な場所までお連れいたします」
何処からともなく城内へと侵入してきた伴惟安は、そう言って二人を安心させた。
伴一族の手並みは見事というほかない。仙千代らを混乱極まる城内からあっさりと脱出させ、甲賀の伴一族の屋敷へと匿ったのである。変からわずか三日後のことであった。
伴屋敷での妙向尼は、傍目は冷静に振る舞っているように見えた。
「お仙、武士たるもの、このような時に無様に狼狽えてはなりませぬ」
と、慣れない屋敷で落ち着かない様子の仙千代を嗜めるほどの気丈さをも見せた。
だが、仙千代には母のその気丈さが、むしろ痛ましく感じた。
(蘭丸兄上たちもおそらく生きてはいまい)
そのことを、母である妙向尼が気づかないわけはないのである。
実際すぐに、その悪い予想は現実のものとなった。伴惟安の一党が、変の詳報を伝えてきたのである。
「織田右府(信長)お討死、間違いないとの事。妙向様には申しあげにくい事なれど、おそらくは若子様方も共にお討死のことと思われまする」
「ああ、やはり……」
そのことを聞いた妙向尼は、さすがに気落ちした表情を見せた。だが、殊更嘆くということもなく、それからはただ一心に念仏を唱え続けている。
「南無阿弥陀仏」
せめて蘭丸ら三兄弟が極楽浄土に行けるように、そんな思いを込めて妙向尼は読経を続けているのだろう。
仙千代自身は、あまり仏の道というものに興味は無かったが、たまには妙向尼と並んで念仏を唱えることもあった。
妙向尼の前には、蘭丸らを三兄弟の仮の位牌が並んでいる。それらを見ながら、仙千代は思った。
(もし俺があの時梁田の奴を殴らなければ……)
仙千代は母の元には帰されず、そのまま信長の側小姓として仕えていただろう。そしておそらくは蘭丸らと共に本能寺へと入った。であればここに並んだ位牌は四つになっていたはずであった。
四つの位牌の前でただ一人読経する母の姿を想像すると、心が張り裂けそうになった。
(母上、俺は生き延びました)
最悪の運命だけは避けられた、そうとでも思わなければ、母があまりに可哀想だ。
「南無阿弥陀仏」
仙千代は死んだ兄達のために、と言うよりも、母たる妙向尼のために念仏を唱えていた。
仙千代は飽きっぽい。伴屋敷に匿われて二十日も経つ頃には、もはや母と共に念仏を唱えることもなくなっていた。
体力が有り余っている仙千代にとって、屋敷でただじっとしていることなど耐えられるものでは無かった。
毎日、明るくなると、年頃の近い伴一族の子供達と共に川に行き、ドジョウやカエルを捕って遊ぶ。もはや仙千代は、子供達のガキ大将のような存在になっていた。
「俺が一国一城の主となったら、お前達を家来にしてやるぞ」
仙千代は得意になってそんなことを言っていた。
無論、今の森家当主は長兄の勝蔵長可なのだから、仙千代が勝手に家来を取り立てることなどできない。だがこの地で伴一族の者達に、
「若様」
と呼ばれ、傅かれて生活していると、自分が本当に生まれながらの冨貴の存在なのではないかと錯覚してしまうのである。
「仙、あなたもまた長可殿の家臣の一人であることを忘れてはなりません」
妙向尼は、時々そう言って仙千代を嗜めた。
しかし、その勝蔵長可は、一体どうしているのだろう。変の際は川中島にいたはずであったが、その後の消息は知れない。やがて、
「川中島の政情、宜しからず」
と、伴の一党が知らせてきた。然もありなん、川中島はまだ切り取ったばかりで、つい先日まで敵の領地だったのである。信長の死をきっかけに、武田やらの残党が一斉蜂起する可能性もあった。
「勝蔵は無事であると良いが……」
読経の合間、ポツリとつぶやいた母の言葉を、仙千代は聞き逃さなかった。気丈に見える妙向尼だが、流石に二十日あまりも我が子の音沙汰が無いとなると不安になるのだろう。
だが仙千代は、兄のことを全く心配はしていなかった。
(鬼武蔵と呼ばれた兄上が、そんな簡単にくたばるものか!)
という確信があったのである。
実際にその通りで、勝蔵長可はこのとき、川中島を脱出し、旧領の金山城の直近まで帰還していた。
しかし、この脱出劇は容易なものではなかった。伴惟安に匿われた仙千代らよりもよほど苦難に満ちたものだったと言える。
「御当主様はご無事で金山城に入られました。されど近隣の政情いまだ不安定ゆえ、迎えはしばしお待ち願いたいとのことです」
伴惟安を通じ、長可の無事が確認されたのは、変から一月近く経ってからのことである。
さすがの妙向尼も安堵の表情を浮かべ、それからは読経の声も心なしか軽やかに感じられた。
仙千代達の元へ迎えの使者が訪れたのは、変から三ヶ月も経った九月になってからのことである。その間に、世間の状況は信長生前とは一変してしまっていた。
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