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29 過去と今
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今日は唯冬の帰りが遅いのね。
ちらりと時計を見ると七時。
マンションの窓からはたくさんのビルの灯りが見える。
その灯りをみて、残業かなと思うのと同時に私も会社のみんなを思い出していた。
最後の日、桜田さんが幹事をしてくれて、私の送別会を開いてくれた。
賑やかな送別会で人との関わりも悪くないなって思えたのは始めてだった。
「いい人達だったな……」
打ち解けることのできない私に何度も声をかけてくれていたんだってことが今ならわかる。
もらった花束はドライフラワーにしてピアノの練習室に飾った。
桜田さんは『コンサートに出演するようになったら、絶対に聴きに行きますね!』と言ってくれて―――そうなったら、彼女にチケットを送ろう。
そう決めていた。
「ピアノの練習もそうだけど、唯冬は体調管理もうるさいから大変よ」
ご飯は食べたか絶対に聞くし、遅くまでの練習はさせてくれないし、先生より厳しい。
そんな唯冬だけど、今日は年配のお客さんを連れてくると言ってた。
だから、ちょっと張り切って豪華な夕飯を作った。
夏野菜の具だくさんなスープと豚肉とオクラの肉巻き、あとは塩鮭と青じそ、炒り卵とゴマを入れた混ぜご飯。
デザートは夏らしく冷たい水ようかんにした。
唯冬はケータリングに頼めばいいって言っていたけど、お年を召した方ならこのほうが喜ばれるはずだ。
「遅いわね……」
指に視線を落とした。
銀色に光るペアリング。
時間が空くたびにちらりと指輪を見てしまう。
ピアノを弾く時は私も唯冬もはずしているけど、それ以外はしっかりつけている。
「年配のお客さんって誰なのかな」
まったく思い浮かばない。
ピンポーンとインターホンがなり、ドアを開けると唯冬と菱水音大付属高校時代のピアノ教師、隈井先生が並んで立っていた。
「やあ。雪元さん、元気だったかね」
前より髪も白くなり、すっかり老紳士という様子だった。
まだ高校では現役で厳しい指導をされていると唯冬から話を聞いていたけど。
もしや―――
「お久しぶりです。その……先生、お元気そうで」
「千愛。驚いただろう?コンクールに向けて隈井先生に指導をお願いしたんだ。でも、隈井先生は忙しい方だから、週に三回、一時間程度になる」
「老体に無理をさせるな」
「教え子が増えた方が老後が寂しくなくていいのでは?」
「老後くらい静かに暮らしたいがね」
「先生が静かになったら、棺桶に片足をつっこんでいるようなものですよ」
「やかましいわっ!」
完全に隈井先生は唯冬に振り回されていた。
学生の頃からこんなかんじなのだろうか。
唯冬は笑いながら、隈井先生をダイニングのほうへ案内した。
「私の指導をしていただいてもよろしいんですか?」
「もちろん。雪元さんがいいのならだが」
隈井先生は高校時代、私のピアノを一番ボロクソに言っていた先生だった。
その先生がまさか引き受けてくれるとは思ってもみなかった。
「私はありがく思っています。けれど、先生は私のピアノが嫌いだとおっしゃってませんでしたか?」
「間違いなく。そう言った」
ズバッと言われてしまった。
そう、こういうこところだ。
隈井先生はハッキリ言いすぎる。
苦笑する私に隈井先生は言った。
「昔の君のピアノはまるで機械みたいに正確で退屈でつまらなかったが、この間のコンサートの演奏はよかった。だから、引き受けた」
「いらしていたんですか」
「渋木君からチケットが届いてね。私の妻が絶対に行きたいと言うもんだから。まったくなにがクラシック界のプリンス達だ。ただの悪ガキ三人組だっていうのに」
愛妻家なのか、ぶつぶつと文句を言っていた。
「相変わらず人を罠にはめるのがうまい男だ」
「人聞きの悪いことを言いますね。お世話になった高校の恩師にチケットをプレゼントしただけですよ?」
「心にもないことをペラペラと」
唯冬はにっこり微笑んでいた。
確信犯ね、これは。
「隈井先生、よろしくお願いします。コンクールに挑むにはブランクがあって不安だったので助かります」
「ふむ。そうかね」
隈井先生は白いひげがはえたあごをなでた。
「君を教えていた先生は今や妹さんを教えているからね。まあ、君のご両親が妹さんの指導を頼んできたが、断ったせいでもある」
両親は私の時も有名なピアニストを何人も輩出している隈井先生にと考えていたけれど、それは叶わず、妹の虹亜もお願いしたとは知らなかった。
私も断られている。
「今ならその理由がわかった気がします」
「遅くなったが、いいかね」
「はい!」
優しく微笑んだ隈井先生はテーブルを見て言った。
「まあ、まずはこのごちそうを食べよう。体調管理は大事だよ」
そのセリフに唯冬を見た。
「俺の先生は隈井先生だよ。三年間ね」
なるほど。
どうやら、唯冬がもう一人増えたらしい。
「食べた後で君の一番弾ける曲を弾いてもらう。考えておきなさい」
心の準備はゼロ。
二人は楽しそうにしていたけど、私はそんな余裕はない。
『正確なピアノ』をさせないためなのかもしれないけど、せめて先生が来ることを言ってくれたらよかったのに。
唯冬と隈井先生の顔を見る。
厳しい練習を覚悟したのだった―――
ちらりと時計を見ると七時。
マンションの窓からはたくさんのビルの灯りが見える。
その灯りをみて、残業かなと思うのと同時に私も会社のみんなを思い出していた。
最後の日、桜田さんが幹事をしてくれて、私の送別会を開いてくれた。
賑やかな送別会で人との関わりも悪くないなって思えたのは始めてだった。
「いい人達だったな……」
打ち解けることのできない私に何度も声をかけてくれていたんだってことが今ならわかる。
もらった花束はドライフラワーにしてピアノの練習室に飾った。
桜田さんは『コンサートに出演するようになったら、絶対に聴きに行きますね!』と言ってくれて―――そうなったら、彼女にチケットを送ろう。
そう決めていた。
「ピアノの練習もそうだけど、唯冬は体調管理もうるさいから大変よ」
ご飯は食べたか絶対に聞くし、遅くまでの練習はさせてくれないし、先生より厳しい。
そんな唯冬だけど、今日は年配のお客さんを連れてくると言ってた。
だから、ちょっと張り切って豪華な夕飯を作った。
夏野菜の具だくさんなスープと豚肉とオクラの肉巻き、あとは塩鮭と青じそ、炒り卵とゴマを入れた混ぜご飯。
デザートは夏らしく冷たい水ようかんにした。
唯冬はケータリングに頼めばいいって言っていたけど、お年を召した方ならこのほうが喜ばれるはずだ。
「遅いわね……」
指に視線を落とした。
銀色に光るペアリング。
時間が空くたびにちらりと指輪を見てしまう。
ピアノを弾く時は私も唯冬もはずしているけど、それ以外はしっかりつけている。
「年配のお客さんって誰なのかな」
まったく思い浮かばない。
ピンポーンとインターホンがなり、ドアを開けると唯冬と菱水音大付属高校時代のピアノ教師、隈井先生が並んで立っていた。
「やあ。雪元さん、元気だったかね」
前より髪も白くなり、すっかり老紳士という様子だった。
まだ高校では現役で厳しい指導をされていると唯冬から話を聞いていたけど。
もしや―――
「お久しぶりです。その……先生、お元気そうで」
「千愛。驚いただろう?コンクールに向けて隈井先生に指導をお願いしたんだ。でも、隈井先生は忙しい方だから、週に三回、一時間程度になる」
「老体に無理をさせるな」
「教え子が増えた方が老後が寂しくなくていいのでは?」
「老後くらい静かに暮らしたいがね」
「先生が静かになったら、棺桶に片足をつっこんでいるようなものですよ」
「やかましいわっ!」
完全に隈井先生は唯冬に振り回されていた。
学生の頃からこんなかんじなのだろうか。
唯冬は笑いながら、隈井先生をダイニングのほうへ案内した。
「私の指導をしていただいてもよろしいんですか?」
「もちろん。雪元さんがいいのならだが」
隈井先生は高校時代、私のピアノを一番ボロクソに言っていた先生だった。
その先生がまさか引き受けてくれるとは思ってもみなかった。
「私はありがく思っています。けれど、先生は私のピアノが嫌いだとおっしゃってませんでしたか?」
「間違いなく。そう言った」
ズバッと言われてしまった。
そう、こういうこところだ。
隈井先生はハッキリ言いすぎる。
苦笑する私に隈井先生は言った。
「昔の君のピアノはまるで機械みたいに正確で退屈でつまらなかったが、この間のコンサートの演奏はよかった。だから、引き受けた」
「いらしていたんですか」
「渋木君からチケットが届いてね。私の妻が絶対に行きたいと言うもんだから。まったくなにがクラシック界のプリンス達だ。ただの悪ガキ三人組だっていうのに」
愛妻家なのか、ぶつぶつと文句を言っていた。
「相変わらず人を罠にはめるのがうまい男だ」
「人聞きの悪いことを言いますね。お世話になった高校の恩師にチケットをプレゼントしただけですよ?」
「心にもないことをペラペラと」
唯冬はにっこり微笑んでいた。
確信犯ね、これは。
「隈井先生、よろしくお願いします。コンクールに挑むにはブランクがあって不安だったので助かります」
「ふむ。そうかね」
隈井先生は白いひげがはえたあごをなでた。
「君を教えていた先生は今や妹さんを教えているからね。まあ、君のご両親が妹さんの指導を頼んできたが、断ったせいでもある」
両親は私の時も有名なピアニストを何人も輩出している隈井先生にと考えていたけれど、それは叶わず、妹の虹亜もお願いしたとは知らなかった。
私も断られている。
「今ならその理由がわかった気がします」
「遅くなったが、いいかね」
「はい!」
優しく微笑んだ隈井先生はテーブルを見て言った。
「まあ、まずはこのごちそうを食べよう。体調管理は大事だよ」
そのセリフに唯冬を見た。
「俺の先生は隈井先生だよ。三年間ね」
なるほど。
どうやら、唯冬がもう一人増えたらしい。
「食べた後で君の一番弾ける曲を弾いてもらう。考えておきなさい」
心の準備はゼロ。
二人は楽しそうにしていたけど、私はそんな余裕はない。
『正確なピアノ』をさせないためなのかもしれないけど、せめて先生が来ることを言ってくれたらよかったのに。
唯冬と隈井先生の顔を見る。
厳しい練習を覚悟したのだった―――
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