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14 犬は主のそばを離れたくない
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「ギデオン様……」
呼ぶだけで胸が苦しくなる。名前を呼んでも振り返ってもらえないだろうと、わかっていながら名前を呼んだ。
「どうした?」
振り返ってもらえないはずだったのにギデオン様は足を止め、アイスブルーの瞳が私を見つめていた。
離れるのが寂しいんです、なんて図々しいことを言えずに目で訴えるしかなかった。
でも、きっと今の私は犬の姿じゃないから、きっと伝わらない。
それなのに―――
「そんな捨て犬みたいな目で俺を見るなよ」
私のいじらしい眼差し、色っぽく呼び止める声が捨て犬の目とはどういうことですか?
切なく甘酸っぱい私の態度は『どうか拾ってください』と訴えかける犬の姿に見えたらしい。
そうじゃない、そうじゃないんです。
私が伝えたい気持ちと微妙に食い違っていた。
「わかった。お前も来い。俺の仕事が終わったら、仕立て屋に採寸させるか」
「はいっ!」
明るい声で返事をした。一緒にいられるとわかって目をキラキラと輝かせた私のそばにギデオン様が歩み寄り、私の頭を撫でた。
「よし。犬になれ」
「えっ! 犬ですか……?」
「犬の姿にならないと連れて行けないだろう?」
喜んだのも束の間、犬の姿を要求されてしまった。
自分で自分の姿に嫉妬するのもおかしな話だけど……
なんだか、納得いかない。
それでも、置いて行かれたくなくて犬の姿に変化した。
今までは自分の意思で犬の姿に変化することがほとんどなかったから、どうやって変化するかわからなかったけれど、自然とできるようになっていた。
『パレ・ヴィオレット』では犬の姿の時は怖いことばかりだった。
でも、ここは違う。
そのせいか変化したいと私が望めば変化できた。
「ほら、行くぞ」
大きな手で抱き上げられて体が密着する。
ギデオン様の顔が近い。
これなら犬の姿でいいかなと思ってしまう私はどこまでも容易い女よ。
部屋の外に出ると、ライオネルが待っていた。
そして、その隣にはライオンの頭を持ち、背中に翼がはえたキメラがいる。
気のせいじゃなかったら、キメラから視線を感じる。それも獲物を狙う捕食者たる目だった。
まさか、私を獲物と勘違いしてる?
こ、怖いー!
私を食べないでー!
目をそらし、ギデオン様の体に身を寄せた。
ぶるぶると私が震えていることに気づいたのか、体を優しく撫でてくれた。
「おい、ライオネル。犬が怖がっている。ロキを少し遠ざけろ」
「えっー! 俺の大事な相棒なのに!」
「仕方ないだろう」
ちえっとライオネルは舌打ちして、ロキを少しだけ離してくれた。
名前があるところを見ると、ライオネルはキメラをすごく可愛がっているようだった。
しかも、相棒と呼んでいて、ギデオン様もロキを邪険には扱わない。
ロキは大切にされていた。
「な、仲良くしようね?」
友好関係を結ぼうと、私はロキに話しかけた。私も仲良くやっていきたいと思ってのことだった。
それなのにロキは私に牙を剥き、この主を守れぬ弱者めが、とでも言うようにガウッと吠えて威嚇してくる。
「ぎゃっー!」
「ロキ。犬を脅かすなよ」
「あれ? おっかしーなー? いつもはおとなしいんだどなぁ」
おとなしいとか、嘘!
絶対、それは嘘!
ライオネルは私が悲鳴をあげ、ギデオン様にしがみついて怯えている姿を可笑しそうに笑っているのを私は見逃さなかった。
「へー、ジョシュアが言ってたことは本当だったんだ。ギデオン様が犬にご執心だって」
長い回廊を歩きながら、ライオネルは私を興味深そうに観察する。
あまりジロジロ見ないで欲しい。ライオネルから見られると、まだ私をキメラにすることを諦めていないのではと疑ってしまう。
「まあ、こいつが裏切り者だったら、俺が速やかに片付けてあげるよ」
ライオネルは無邪気に私の顔を覗き込んで笑った。でも、その瞳はまったく笑っていない。
ギデオン様も冗談はそれくらいにしておけと言わないところが生々しい。
広間が近づくと口数が減り、無言でいる時間が長くなる。
腕の中からギデオン様の顔を見上げると、アイスブルーの目は温度を感じさせない冷えたものに変わっていた。
昨日と同じ広間に入る。
白を基調とされた広間には高い窓から日差しが降り注いでいて眩しい。
反射する光の眩しさに細め、目をゆっくりと開けると、クリスタルのシャンデリアの下に大勢の貴族が集まっていた。
「あーあ。嫌になるなぁ。今から退屈な時間が始まるよ」
まだ始まってもいない内から、ライオネルは欠伸をした。
ギデオン様が玉座に座るまでの間、重苦しい緊張感があった。
衣擦れの音と歩く音のみが響き、貴族達が身をこわばらせ、跪いている。貴族達は一様に硬い表情を浮かべ、ギデオン様が彼らにとってどれほど恐ろしい存在なのか見て取れる。
「今日はなんだ? 俺への恨み言か? それとも、命乞いか」
玉座の肘掛けに肘をつき、挑発的な態度でギデオン様は貴族達に言った。
二択しかない選択肢は両方とも不穏すぎる。
顔色を窺うように顔をあげた貴族達はギデオン様を見た―――と思ったら、貴族達が見ているのはギデオン様じゃなくて膝の上にいる私だった。
ギデオン様に抱かれてともに玉座に座る私。
コロンとした白い犬に全員が視線を集中させていた。
「い、犬?」
「犬だぞ」
「なぜ、犬がここに……」
戸惑いの声とざわめき、さっきまでの緊張感が一気に和らいだ。
なぜなら、ギデオン様の膝の上にいるのは可愛い犬(私)!
それも、ギデオン様が首にレースのリボンを結んでくれた。
このリボンを見てください。
歪みのない左右対称に結ばれたリボンを!
私は誇らしげな顔で堂々と前を向く。
いまだかって私がこんなに自信に満ち溢れたことがあっただろうか―――自分の過去を振り返り、一度もないと私は断言できる。
ギデオン様の手が背後から私の頭を撫でてくれた。
王の犬にふさわしき、堂々たる態度がよかったのかもしれない。
けれど、撫でられて私はあえなく陥落し、もっと撫でてもらおうと膝の上でごろごろと転がった。
「どうした? なにか言いたいことがあるようだな」
むしろ、言いたいことしかないと思う。
ギデオン様の声に貴族達がハッと我に返った。
「あ、いえ。その、可愛い犬ですね」
「リボンがよく似合っています」
「ブラッシングされた毛並みが見事です」
口々に褒めてくれる。
お世辞だとわかっていても嬉しい。
ギデオン様も内心、まんざらでもないらしく、どこか得意げな顔をしていた。
「まあな」
ふっとギデオン様が微笑みを浮かべると、貴族達がまた騒ぎだした。
「微笑まれた!」
「笑ったところを初めて見たぞ!」
そんな声が聞こえてくる。
私はロキのほうをちらりと見た。
そして、目で語りかけた。
『あなたにこの雰囲気が作れますか?』と。
ロキに私の気持ちが伝わったのか、ぎろりと大きな目を動かして私をにらんできた。
私に対抗してか、ロキは尻尾を振ってアピールし、ライオネルに顔をぐりぐりとこすりつけていた。
ライオネルは不思議そうな顔をして、ロキの頭を撫でてあげていた。
やりますね……!
あの巨体にして甘え上手。
ロキもなかなかの強者。
『どうだ』という顔で、ロキは私を見てきた。
素晴らしいと思いますとロキに頷いていると、ギデオン様がなにをしているんだという顔付きで私を見ていた。
「これは俺の犬だ。危害を加えた者は殺す」
ギデオン様が冗談ではなく、真剣な顔をしていることに気づき、場の空気が凍り付いた。
「もちろんですとも!」
「陛下の犬は可愛い!」
「レムナークで一番です」
ぴくりとギデオン様のこめかみが動き、不機嫌そうな顔になった。
「い、いえ。世界一ですな!」
「世界一素晴らしい!」
その言葉にギデオン様は満足そうに頷いた。
命拾いした貴族は額の汗をぬぐい、周りから気を付けろよとか、命拾いしたななどと言われて肩を叩かれていた。
褒められたはずなのになんだか嬉しくない。
「それでなにがあった」
いつもの冷厳な態度に戻ったギデオン様を見て、貴族達が姿勢を正した。ここに貴族達が集まったのには意味があるはずだった。
「実はアシエベルグ王国に逃げたアンジェリカ王女がレムナーク王国へ戻りたいと口にしているらしいのです」
「向こうの社交界に顔を出し、耳にした者がおりまして」
「ディアドラ様は無理だとしても異母妹の王女だけでも戻して差し上げたらどうでしょうか」
「生まれ育ったレムナークのほうが、アンジェリカ様も過ごしやすいと感じているようです」
これは―――ギデオン様じゃなくても貴族達の思惑がわかってしまった。
前国王王妃であるディアドラ様より、貴族達は王女だったアンジェリカ様を取り戻したいと考えているようだった。
王位継承権がなくとも王女の利用価値はある。
王女と結婚することを目論んでいるか、もしくはレムナーク王国の王女として他国に嫁がせたいかのどちらかだろう。子供が生まれたなら、その子供はレムナーク王家の血を引き、王位につけることも不可能ではない。
ギデオン様は鼻先で笑い飛ばした。
「いいだろう。母を毒殺した犯人を捜し出し、そいつを俺の前に連れてこい。それができたなら、アンジェリカだけでもレムナークに戻してやっていい」
その声は怒気を通り越し、殺気を帯びていて場を凍らせた。
玉座のすぐ下に侍るライオネルが一歩前に出ると、ロキが口を開け鋭い牙を見せつける。貴族達は恐怖のためか、ネズミ捕りの罠にかかって逃げられないネズミのような顔をしていた。
「毒殺の関与が疑われている二人をさぁ。アシエベルグの生活が辛いですか、そうですか、なんて言って許すとでも思ったのかなぁ? もしかして、ディアドラの手先だったりする?」
「めっ、滅相も!」
「誤解です! 異母妹のアンジェリカ様がどうされているか、ご興味があるのではないかと思いまして」
ギデオン様は怒りを鎮めようとしているのか、ゆっくりと私の毛並みを撫でた。
「アンジェリカにとってアシエベルグは過ごしづらい場所かもしれないが、母親のディアドラが生まれ育った国だろう? 懐かしい故郷で息を引き取ることをおすすめする」
「そうだねっ。生まれ故郷が一番だよねっ!」
つまり、ギデオン様の命を狙っていたのは前国王王妃ディアドラ様らしい。アシエベルグの王族出身でレムナーク王国に嫁いできたけれど王子には恵まれず、王女を一人産んだ。
ギデオン様がいる限り王位は絶望的で、それなら殺そうと考えたけれど暗殺に失敗。そして、王女と共にアシエベルグに亡命という流れだろうか。
亡命したけれど、アンジェリカ様は裕福なレムナーク王国の生活が忘れられず、戻りたいと泣き暮らしているということを貴族達は言いたいらしい。
「愚かだな」
そう言ったギデオン様に感情はなかった。
膝の上から床へと私を降ろし、険しい目をして貴族達を眺める。
「お前には退屈な話だろう。奥の部屋で自由にしていろ」
それは、ここから離れろというギデオン様からの命令だった。
この先、自分が話すことを私に聞かれたくないのだと察して、おとなしく膝の上を諦めた。膝の上の空白を背に階段を降りたけれど、気になって振り返ってしまった。
ギデオン様は全員を玉座から見下ろし、ライオネルは残忍な笑みを浮かべ、広間にはまた重苦しい空気が流れた。
太陽が隠れ、白い大理石の床は灰色に染まり、私の歩く音だけが響く。
ギデオン様が私の名前を呼ぶことを期待して立ち止まっていたけれど、待っていても声は聞こえない。聞こえてきたのは底冷えするような声だけ。
「女王がいいというのなら、アシエベルグ王国へ行ったらどうだ?」
コツと指が肘掛けを叩く音がした。その音は審問官が叩く判決の槌のよう。
断罪の言葉がギデオン様の口から告げられた。
「国ごと滅ぼしてやろう」
呼ぶだけで胸が苦しくなる。名前を呼んでも振り返ってもらえないだろうと、わかっていながら名前を呼んだ。
「どうした?」
振り返ってもらえないはずだったのにギデオン様は足を止め、アイスブルーの瞳が私を見つめていた。
離れるのが寂しいんです、なんて図々しいことを言えずに目で訴えるしかなかった。
でも、きっと今の私は犬の姿じゃないから、きっと伝わらない。
それなのに―――
「そんな捨て犬みたいな目で俺を見るなよ」
私のいじらしい眼差し、色っぽく呼び止める声が捨て犬の目とはどういうことですか?
切なく甘酸っぱい私の態度は『どうか拾ってください』と訴えかける犬の姿に見えたらしい。
そうじゃない、そうじゃないんです。
私が伝えたい気持ちと微妙に食い違っていた。
「わかった。お前も来い。俺の仕事が終わったら、仕立て屋に採寸させるか」
「はいっ!」
明るい声で返事をした。一緒にいられるとわかって目をキラキラと輝かせた私のそばにギデオン様が歩み寄り、私の頭を撫でた。
「よし。犬になれ」
「えっ! 犬ですか……?」
「犬の姿にならないと連れて行けないだろう?」
喜んだのも束の間、犬の姿を要求されてしまった。
自分で自分の姿に嫉妬するのもおかしな話だけど……
なんだか、納得いかない。
それでも、置いて行かれたくなくて犬の姿に変化した。
今までは自分の意思で犬の姿に変化することがほとんどなかったから、どうやって変化するかわからなかったけれど、自然とできるようになっていた。
『パレ・ヴィオレット』では犬の姿の時は怖いことばかりだった。
でも、ここは違う。
そのせいか変化したいと私が望めば変化できた。
「ほら、行くぞ」
大きな手で抱き上げられて体が密着する。
ギデオン様の顔が近い。
これなら犬の姿でいいかなと思ってしまう私はどこまでも容易い女よ。
部屋の外に出ると、ライオネルが待っていた。
そして、その隣にはライオンの頭を持ち、背中に翼がはえたキメラがいる。
気のせいじゃなかったら、キメラから視線を感じる。それも獲物を狙う捕食者たる目だった。
まさか、私を獲物と勘違いしてる?
こ、怖いー!
私を食べないでー!
目をそらし、ギデオン様の体に身を寄せた。
ぶるぶると私が震えていることに気づいたのか、体を優しく撫でてくれた。
「おい、ライオネル。犬が怖がっている。ロキを少し遠ざけろ」
「えっー! 俺の大事な相棒なのに!」
「仕方ないだろう」
ちえっとライオネルは舌打ちして、ロキを少しだけ離してくれた。
名前があるところを見ると、ライオネルはキメラをすごく可愛がっているようだった。
しかも、相棒と呼んでいて、ギデオン様もロキを邪険には扱わない。
ロキは大切にされていた。
「な、仲良くしようね?」
友好関係を結ぼうと、私はロキに話しかけた。私も仲良くやっていきたいと思ってのことだった。
それなのにロキは私に牙を剥き、この主を守れぬ弱者めが、とでも言うようにガウッと吠えて威嚇してくる。
「ぎゃっー!」
「ロキ。犬を脅かすなよ」
「あれ? おっかしーなー? いつもはおとなしいんだどなぁ」
おとなしいとか、嘘!
絶対、それは嘘!
ライオネルは私が悲鳴をあげ、ギデオン様にしがみついて怯えている姿を可笑しそうに笑っているのを私は見逃さなかった。
「へー、ジョシュアが言ってたことは本当だったんだ。ギデオン様が犬にご執心だって」
長い回廊を歩きながら、ライオネルは私を興味深そうに観察する。
あまりジロジロ見ないで欲しい。ライオネルから見られると、まだ私をキメラにすることを諦めていないのではと疑ってしまう。
「まあ、こいつが裏切り者だったら、俺が速やかに片付けてあげるよ」
ライオネルは無邪気に私の顔を覗き込んで笑った。でも、その瞳はまったく笑っていない。
ギデオン様も冗談はそれくらいにしておけと言わないところが生々しい。
広間が近づくと口数が減り、無言でいる時間が長くなる。
腕の中からギデオン様の顔を見上げると、アイスブルーの目は温度を感じさせない冷えたものに変わっていた。
昨日と同じ広間に入る。
白を基調とされた広間には高い窓から日差しが降り注いでいて眩しい。
反射する光の眩しさに細め、目をゆっくりと開けると、クリスタルのシャンデリアの下に大勢の貴族が集まっていた。
「あーあ。嫌になるなぁ。今から退屈な時間が始まるよ」
まだ始まってもいない内から、ライオネルは欠伸をした。
ギデオン様が玉座に座るまでの間、重苦しい緊張感があった。
衣擦れの音と歩く音のみが響き、貴族達が身をこわばらせ、跪いている。貴族達は一様に硬い表情を浮かべ、ギデオン様が彼らにとってどれほど恐ろしい存在なのか見て取れる。
「今日はなんだ? 俺への恨み言か? それとも、命乞いか」
玉座の肘掛けに肘をつき、挑発的な態度でギデオン様は貴族達に言った。
二択しかない選択肢は両方とも不穏すぎる。
顔色を窺うように顔をあげた貴族達はギデオン様を見た―――と思ったら、貴族達が見ているのはギデオン様じゃなくて膝の上にいる私だった。
ギデオン様に抱かれてともに玉座に座る私。
コロンとした白い犬に全員が視線を集中させていた。
「い、犬?」
「犬だぞ」
「なぜ、犬がここに……」
戸惑いの声とざわめき、さっきまでの緊張感が一気に和らいだ。
なぜなら、ギデオン様の膝の上にいるのは可愛い犬(私)!
それも、ギデオン様が首にレースのリボンを結んでくれた。
このリボンを見てください。
歪みのない左右対称に結ばれたリボンを!
私は誇らしげな顔で堂々と前を向く。
いまだかって私がこんなに自信に満ち溢れたことがあっただろうか―――自分の過去を振り返り、一度もないと私は断言できる。
ギデオン様の手が背後から私の頭を撫でてくれた。
王の犬にふさわしき、堂々たる態度がよかったのかもしれない。
けれど、撫でられて私はあえなく陥落し、もっと撫でてもらおうと膝の上でごろごろと転がった。
「どうした? なにか言いたいことがあるようだな」
むしろ、言いたいことしかないと思う。
ギデオン様の声に貴族達がハッと我に返った。
「あ、いえ。その、可愛い犬ですね」
「リボンがよく似合っています」
「ブラッシングされた毛並みが見事です」
口々に褒めてくれる。
お世辞だとわかっていても嬉しい。
ギデオン様も内心、まんざらでもないらしく、どこか得意げな顔をしていた。
「まあな」
ふっとギデオン様が微笑みを浮かべると、貴族達がまた騒ぎだした。
「微笑まれた!」
「笑ったところを初めて見たぞ!」
そんな声が聞こえてくる。
私はロキのほうをちらりと見た。
そして、目で語りかけた。
『あなたにこの雰囲気が作れますか?』と。
ロキに私の気持ちが伝わったのか、ぎろりと大きな目を動かして私をにらんできた。
私に対抗してか、ロキは尻尾を振ってアピールし、ライオネルに顔をぐりぐりとこすりつけていた。
ライオネルは不思議そうな顔をして、ロキの頭を撫でてあげていた。
やりますね……!
あの巨体にして甘え上手。
ロキもなかなかの強者。
『どうだ』という顔で、ロキは私を見てきた。
素晴らしいと思いますとロキに頷いていると、ギデオン様がなにをしているんだという顔付きで私を見ていた。
「これは俺の犬だ。危害を加えた者は殺す」
ギデオン様が冗談ではなく、真剣な顔をしていることに気づき、場の空気が凍り付いた。
「もちろんですとも!」
「陛下の犬は可愛い!」
「レムナークで一番です」
ぴくりとギデオン様のこめかみが動き、不機嫌そうな顔になった。
「い、いえ。世界一ですな!」
「世界一素晴らしい!」
その言葉にギデオン様は満足そうに頷いた。
命拾いした貴族は額の汗をぬぐい、周りから気を付けろよとか、命拾いしたななどと言われて肩を叩かれていた。
褒められたはずなのになんだか嬉しくない。
「それでなにがあった」
いつもの冷厳な態度に戻ったギデオン様を見て、貴族達が姿勢を正した。ここに貴族達が集まったのには意味があるはずだった。
「実はアシエベルグ王国に逃げたアンジェリカ王女がレムナーク王国へ戻りたいと口にしているらしいのです」
「向こうの社交界に顔を出し、耳にした者がおりまして」
「ディアドラ様は無理だとしても異母妹の王女だけでも戻して差し上げたらどうでしょうか」
「生まれ育ったレムナークのほうが、アンジェリカ様も過ごしやすいと感じているようです」
これは―――ギデオン様じゃなくても貴族達の思惑がわかってしまった。
前国王王妃であるディアドラ様より、貴族達は王女だったアンジェリカ様を取り戻したいと考えているようだった。
王位継承権がなくとも王女の利用価値はある。
王女と結婚することを目論んでいるか、もしくはレムナーク王国の王女として他国に嫁がせたいかのどちらかだろう。子供が生まれたなら、その子供はレムナーク王家の血を引き、王位につけることも不可能ではない。
ギデオン様は鼻先で笑い飛ばした。
「いいだろう。母を毒殺した犯人を捜し出し、そいつを俺の前に連れてこい。それができたなら、アンジェリカだけでもレムナークに戻してやっていい」
その声は怒気を通り越し、殺気を帯びていて場を凍らせた。
玉座のすぐ下に侍るライオネルが一歩前に出ると、ロキが口を開け鋭い牙を見せつける。貴族達は恐怖のためか、ネズミ捕りの罠にかかって逃げられないネズミのような顔をしていた。
「毒殺の関与が疑われている二人をさぁ。アシエベルグの生活が辛いですか、そうですか、なんて言って許すとでも思ったのかなぁ? もしかして、ディアドラの手先だったりする?」
「めっ、滅相も!」
「誤解です! 異母妹のアンジェリカ様がどうされているか、ご興味があるのではないかと思いまして」
ギデオン様は怒りを鎮めようとしているのか、ゆっくりと私の毛並みを撫でた。
「アンジェリカにとってアシエベルグは過ごしづらい場所かもしれないが、母親のディアドラが生まれ育った国だろう? 懐かしい故郷で息を引き取ることをおすすめする」
「そうだねっ。生まれ故郷が一番だよねっ!」
つまり、ギデオン様の命を狙っていたのは前国王王妃ディアドラ様らしい。アシエベルグの王族出身でレムナーク王国に嫁いできたけれど王子には恵まれず、王女を一人産んだ。
ギデオン様がいる限り王位は絶望的で、それなら殺そうと考えたけれど暗殺に失敗。そして、王女と共にアシエベルグに亡命という流れだろうか。
亡命したけれど、アンジェリカ様は裕福なレムナーク王国の生活が忘れられず、戻りたいと泣き暮らしているということを貴族達は言いたいらしい。
「愚かだな」
そう言ったギデオン様に感情はなかった。
膝の上から床へと私を降ろし、険しい目をして貴族達を眺める。
「お前には退屈な話だろう。奥の部屋で自由にしていろ」
それは、ここから離れろというギデオン様からの命令だった。
この先、自分が話すことを私に聞かれたくないのだと察して、おとなしく膝の上を諦めた。膝の上の空白を背に階段を降りたけれど、気になって振り返ってしまった。
ギデオン様は全員を玉座から見下ろし、ライオネルは残忍な笑みを浮かべ、広間にはまた重苦しい空気が流れた。
太陽が隠れ、白い大理石の床は灰色に染まり、私の歩く音だけが響く。
ギデオン様が私の名前を呼ぶことを期待して立ち止まっていたけれど、待っていても声は聞こえない。聞こえてきたのは底冷えするような声だけ。
「女王がいいというのなら、アシエベルグ王国へ行ったらどうだ?」
コツと指が肘掛けを叩く音がした。その音は審問官が叩く判決の槌のよう。
断罪の言葉がギデオン様の口から告げられた。
「国ごと滅ぼしてやろう」
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