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9 孤独

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「ふん」

 私の精一杯の命乞いを一蹴されてしまった。それも私ができる最大の可愛い顔(犬)で懇願したというのに動じてない。
 やっぱり私に色仕掛けは無理なの?

「犬相手にそこまで警戒する必要はない」
「そうですね。ギデオン様の命を狙ったりしないでしょうし」
 
 命を狙うなんてとんでもない。
 そんな物騒なことテントウムシの目玉ほどにも考えていません!
 テントウムシの目玉だと思っていた点々がただの模様で、目玉が触覚についていると知った時の衝撃と同じくらい驚いた。
 首がもげるんじゃないかってくらい勢いよく首を縦に振って、殺意がないことを伝えた。
 見てください!
 このコロンとした体形を!
 平和のかたまりですよ。
 
「おい、犬。俺のことはギデオンと呼べ。親しい者だけに許している」
「呼べませんよ」
「わかっている。ただの冗談だ。お前も犬に紹介しておけ」
「ジョシュアです。さっきの赤い髪はライオネル。名前で呼んでもいいですよ」
 
 二人は険しかった表情を少しだけ緩めた。
 ホスキンズ様にはピリピリとした空気を見せていたけれど、犬には優しい。
 親しい者だけに名前を呼ばせていると言われて周囲を見回した。人の気配がしない。ギデオン様の周りにはジョシュアとライオネルしか周りにいないようだった。
 レムナーク王国―――私が『パレ・ヴィオレット』で聞いた噂によれば、レムナーク王国の国王陛下は冷酷非道な男で即位後、従わなかった廷臣達や貴族達を粛清し、血を洗い流すため王宮の門を閉じたとか。
 ううっ、怖いよ。
 噂だから言い過ぎな部分あるだろうけど……あ、あるよね?
 ぶるぶると震え、尻尾はくるんと丸まり、毛玉のように縮こまった。
 多くの反逆者を罰した反動で恨みを買い、命を狙われているのだと思う。

「白い犬か」

 私が予想していたより、ずっと温かみのある声に驚いた。
 ピカピカの床に毛が落ちるだろうとか、コロコロ毛玉め!
 なんて罵られるのではと怯えていたけど、違っていた。
 
「母が白い犬を飼おうと言っていたな」
「そうでしたね」

 二人の声や表情はどことなく寂しげに見えた。
 そう思ったのは王宮のせいかもしれない。
 衛兵はいるものの、ひっそりとして空気は人の熱を感じず、ひんやりとした空気が漂っている。
 ギデオン様はこんな立派なところに住んでいるのに―――

「犬なら、俺を裏切らないか」

 ギデオン様は鳥籠の中から私をひょいっと抱き上げると、私のふかふかした白い毛の中に顔を埋めた。

「お前は暖かいな」

 私は触れ合うことに戸惑いながら、怯えていた。
 犬だからこそ、ギデオン様は優しい。
 つまり、人間の私は?
 裏切らないのは犬限定ですか……?
 ここで、人間の姿に戻ろうものならば、鳥籠のように首と胴体が切り離されてしまうかもしれない。
 抱きかかえられて目線が高くなった私の視界に鳥籠の切り口が目に入る。
 なんて鮮やかな切り口。
 これがキッチンナイフの切れ味なら、私も大喜びしていたところだ。
 ぶるぶる震えていると、ギデオン様が私の体を優しく撫でた。

「すぐには懐かないか」
「そのようですね」
「ジョシュア。ライオネルの様子を見てきてくれ。あいつはやりすぎる」
「承知しました」

 ジョシュアは恭しく一礼すると、黒のマントを翻して広間を出て行った。
 全身黒づくめのジョシュアはカラスのようで、夜になったら闇の中に姿が溶けて見えなくなるんじゃないだろうか。
 ギデオン様はジョシュアの背中を見送ると、玉座には戻らず、私を抱きかかえて王宮の奥へと向かう。
 その間も人とすれ違うことはなく、しんっとしていた。本当にほとんど人を置いていないようだった。
 奥に続く回廊には白い柱が等間隔に並び、柱の外側は庭園になっている。
 レムナーク王国は水が豊富なのか、庭園には白い石で造られた汲み上げ式の噴水と水路が流れ、さらさらと水が流れる音、鳥の鳴き声が聞こえてくる心安らぐ庭だった。
 さっきまでの物騒な雰囲気を微塵も感じさせない平和そのもの。
 空を見上げると太陽が傾いているのが見え、昼を過ぎていることがわかった。太陽の光が庭園と同じ素材の白い石で造られた壁や柱を照らす。
 ブーツのコツコツという音が反響し、荒れた庭と相まって物寂しく感じた。
 ギデオン様が言った犬なら裏切らないという言葉は、ものすごく重い言葉だったんじゃないだろうか。
 犬でよかったと思いたいけど、人間だとバレたら間違いなく牢屋行きだよね……
 最悪、殺されるかもしれないのに抱きかかえられ、ゆらゆらと揺られていると眠くなってきた。
 あんなたくさん眠ったのに眠いとはおかしな話だけど、それくらいギデオン様の腕の中は居心地がよかった。

「犬。後から肉でもやろう」

 私の目がパチッと開いた。
 肉ですか。それって、人の肉とかじゃないですよね……?
 不安を覚え、ギデオン様の顔を見上げた。

「そうか。肉が好きか」

 犬に向ける顔は穏やかだった。
 怖い人だって思っていたけど、本当はいい人なのかもしれない。
 私は人から、こんな大切にされたことがなかった。
 手のひらから伝わる体温は暖かく、人が体温を持っていることを私に思い出させた。

「お前は小さいからな。庭で迷子になるなよ」

 回廊を進んだ先の庭園は凝った造りになっていた。
 白い石を組んだ小さな滝からは水が流れ落ち、花や葉が浮かぶ池まで水路が続く。庭に咲く珍しい花を小鳥が啄むと羽根を上下に動かし、飛び去って行った。
 手入れされていれば、ここが王宮であることを忘れるくらい美しい庭だったと思う。
 けれど、庭は手入れされておらず、木や花は雑草の中に埋もれていた。
 庭はすべて王宮の奥深くにある部屋の住人のために用意されたものだった。
 国王とその家族の居住であるとわかったけど、今ここを使っているのはギデオン様だけ。

「お前が水路に落ちるかもしれないな。埋め立てるか?」

 こんな美しい庭を埋め立てる?
 私はやめてと、首を横に振った。
 まるで子育て中のお父さん。
 ギデオン様は犬をどう飼おうかと悩み、真剣な顔をしていた。
 ますます、私は人間だと言い出しにくい空気になってきた。

「なんだ。庭はこのままがいいのか」

 こくこくと首を縦に振った。
 王宮の庭が犬と戯れるだけの芝生になっては困る。こんな美しい庭を私が駆け回る芝生にするわけにはいかない―――って、私は人間ですからっ!
 
「じゃあ、そのままにしておく」
「ワン!(そうしてください!)」

 庭は滝や水路以外に東屋と彫像、噴水はひとつではなく、いくつも目にすることができた。
 アシエベルグ王国では貴重だった水がふんだんに流れ、透明な水の中には魚が泳いでいる。魚は私とギデオン様の影が水面に映ると、水草や苔の中に姿を隠した。

「部屋はここだ。覚えておけよ」
 
 ギデオン様はそう言うと、獅子の絵が彫られた扉を空いた手で開いた。
 窓はカーテンに覆われたままで部屋の中は薄暗い。
 国王陛下が使っている部屋とは思えなかった。 
 机の上は書類や紙屑が散らばり、インクで汚れ、床には脱ぎ捨てた服が落ちている。そして、大きな寝台の上には本が山積みになっていた。

「犬。一緒に昼寝をするか」
「ワ、ワン(ご遠慮します)」
 
 そんな恐れ多い、怖くて安眠できない。
 同じ寝台では眠れません。無理です、と使えない念力で伝えたつもりだった。
 当然、私の気持ちは伝わらず―――

「そうか。眠いか」

 言ってない、言ってないよ……!
 前足をパタパタさせて抵抗を見せる。
 国王陛下と同じ寝台で眠るなんてとんでもない。
 本当の私は人間なんですっー!
 ギデオン様は暴れる私の頭を撫でた。

「どうした? 構って欲しいのか?」

 違いますぅぅぅ!
 ぶるぶると首を振って訴えたけど、ギデオン様に私の気持ちは届かない。

「遊んでやりたいが、昨日の晩はほとんど徹夜だったからな。後で遊んでやるから、今はおとなしくしていろ」

 寝台の上の本を手でどかし、床に落とすと私を抱いて横になった。
 添い寝ですよね、これ(犬だけど)。
 私が人間の姿に戻ったら、即死刑じゃないですか?
 
「よしよし。大丈夫だぞ」

 死刑を恐れて私が震えていると、ぽんぽんと背中を優しく叩いてくれた。
 落ち着かせるためなのか、肌触りのいいシーツに体を包みこむ。
 寝台の寝心地は最高だけど、このままだと永久におやすみなさいの流れになってしまう。
 ブーツや上着、シャツを脱ぎ、素肌をさらしたギデオン様は無防備な姿で目を閉じていても美しく、うっとりと見惚れてしまった―――って、見惚れている場合じゃない!
 私の命が助かる方法はただひとつ。
 ギデオン様が眠っている間にここを抜け出して、遠くまで逃げるしかないんだから。
 脱走するのは難しいことじゃないはず。どこにでもいそうな白い犬が道を歩いたり、走っていても目立たない。
 つまり、犬の姿最強ってわけですよ。
 ギデオン様が眠っているのを確認し、起こさないように少しずつ、腕からすり抜けようと動いていると、ぎゅむっと抱き締められた。
 ぎゃあああああ!
 もしかして、人間だとバレた?
 絞め殺されるぅぅぅ!
 悲鳴をあげそうになって、慌ててシーツに顔をぼすっと埋めた。

「ワンワン……(殺すのだけはやめてください……)」
「落ち着かないのか?」

 彫刻のような美しい顔が近づき、危うく息が止まりかけた。
 そんなふうに感情を込めた声と表情を見せられると、私の心臓がぎゅっと苦しくなる。

「可愛いな。お前は」

 可愛いと生まれて初めて言われ、逃げたかった気持ちが消えた。
 もう一生、犬のままでいいかもしれないと思うほどの幸福感だった。
 ベアトリーチェや姐さん達はこんな幸せな気分になれる言葉をもらっていたんだと知った。

「幼い頃、犬を飼いたいと言って母を困らせたことがあってな。俺が大きくなって犬を飼えるようになったら、白い犬を飼おうと約束した」
 
 ギデオン様が私に子供の頃の微笑ましいエピソードを語ってくれるのだろうかと、ドキドキしながら耳を傾けた。
 
「だが、犬は飼えなかった」

 私を撫でる手は暖かいのに声は冷たかった。

「俺が気に入る人間や可愛がっていた動物はすべて殺された。だから、俺は今まで動物を飼ったことがない」

 なんですか、その不穏な理由は?
 微笑ましいどころか、血生臭いエピソードに耳がぺたんと垂れ下がった。
 大広間で見たギデオン様が感情の欠片もない人形のような顔でいたのは、気に入ったことを悟られないよう無表情を貫いていたのだと知った。
 ギデオン様を慰めようと、湿った黒い鼻をちょんちょんと腕や顔に触れさせ、親愛の表現をしてみせた。
 そうすると、ギデオン様は極上の笑みを見せてくれた。
 その笑顔が眩しく、心臓が跳ね上がり、その胸の中へと飛び込みたい衝動に駆られたけれど、さすがにそれは図々しい。
 私なりに遠慮して、頭をぐりぐりと体に押しあてるまでにとどめておいた。

「なんだ。お前、俺のことが好きなのか? 俺もお前のことが気に入ったぞ」

 私の黒い鼻の上にキスをし、体にもキスを落とす。
 なんて甘くて優しいキスなんだろう。
 親愛の情が込められた触れ合いは幸せすぎて、全力で尻尾を振り、ギデオン様の体にじゃれて応えた。
 優しく撫でる手のひらと唇は私にとって甘すぎる。
 調子に乗って、私はギデオン様の唇にキスを返したその瞬間―――時が止まった。
 私は完全に緊張感を失い、気を抜いていた。
 もっと感情をコントロールするべきだったのに優しいキスにより、幸福感に満たされた私は人間の姿に戻ってしまったのだった。

「あ……」

 甘い幸福感を味わいすぎた私の末路。
 ギデオン様に全裸でキスをする女(死刑確定)。

「っ……!」

 目を見開き、驚いた顔でギデオン様は私を見る。
 ある意味、これも感情がむき出しになっている状態だけど……
 なにかが違う。
 私達は唇を重ねたまま、お互いの姿を見つめ合っていた。
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