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March

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朝起きると白い霧がかかっていた。
シフトを確認すると、今日店長の小百里さゆりさんがいるから、忙しくなるお昼の時間帯と夕方の時間帯だけフロアを手伝ってピアノを弾く。
それから、ピアノ教室のレッスンの予約が午後から入っていた。
私の教え子は今のところ二人。
小学生の女の子と高校生の男の子だけ。
二人ともカフェにきて、私のピアノを聴いて生徒になってくれた。

望未みみちゃん。カフェオレ飲む?」

「飲む」

窓の外を眺めていた私にカフェオレをいれてくれるのは一つ上の姉の菜湖なこちゃんだった。
年が近いから、友達みたいな存在。
買い物にも旅行にも一緒に行くくらいに仲がいい。
両親は建築事務所をやっていて、仕事が忙しく昔から放任主義。
菜湖ちゃんは『両親はなんでも適当すぎる!』とよく言っていた。
私の進路も音大なんて学費が高いのに『どこでもいいよ』『好きなことやりなさい』ってくらい軽いかんじで決まった。
菜湖ちゃんだけが『就職あるの?大丈夫?』と心配していた。
家族の中で一番しっかりしていて、真面目なのは菜湖ちゃんで間違いない。

「はい。カフェオレ。望未ちゃん。テレビつけていい?」

「ありがと。うん。いいよ」

菜湖ちゃんがテレビをつけると、ちょうど『梶井かじい理滉みちひろチェロコンサート』のCMが流れた。
画面の中の梶井さんは挑発するような目でこっちを見ていた。

「望未ちゃんは好きだからね」

「えっ!?誰のことを?あ、あつっ……」

動揺してカフェオレを床にこぼしてしまった。

「もー、なにしてるの。やけどしてない?大丈夫?梶井理滉のコンサートに行くんでしょ?」

「うん……平気……」

もちろんファンだから、チケットは買ってある。
今、名前を聞いて私の頭の中に浮かんだのはチェロを弾く梶井さんの姿ではなかった。
思い出すのは昨日のキス―――

「ちょっと望未ちゃん、顔が真っ赤だけど本当に大丈夫?そんなにカフェオレ、熱かった?」

「だっ、大丈夫」

熱いのはカフェオレじゃなくて、私の胸の内。
なんでも話してきた菜湖ちゃんに私は初めて秘密にしてしまった。

「でも、望未ちゃん。梶井さんを追いかけてる場合じゃないわよ。そろそろ彼氏を作らないとね」

私が梶井さんのファンだと菜湖ちゃんは知っている。

「菜湖ちゃんは好きな人いるの?」

「えっ!?わ、私?いないわよ……」

菜湖ちゃんは顔を赤くして否定した。
本当かな。
菜湖ちゃんは美人だし、手足が長くてすらりとしている。
私より早く彼氏ができる可能性は高い。

「梶井さんみたいな男の人が見つかるといいね」

そんな人、どこにもいないよ、菜湖ちゃん。
あんな強烈な印象を残す男の人は私の周りにはいない。
どうしてだろう。
カフェオレは甘いはずなのに苦くて、そして胸が痛い。
会いたいと思った。
今日、梶井さんがやってくる。
スマホをとりにカフェ『音の葉』へと。
カフェオレが入ったカップをテーブルに置いた。

「菜湖jちゃん。私、もう行くね」

「え?もう行くの?」

「うん。ピアノ弾きたいから」

「そうなの?気を付けてね」

急いで部屋に行き、緑のスプリングコートを着て、黒のリュックを背負った。
慌ただしく階段を降りて家を出る。
霧が晴れて、眩しい太陽が照らしていた。
まだ肌寒さを残す三月の空気の中、私はカフェ『音の葉』まで走っていった。
早すぎて看板も出ていないカフェ『音の葉』の前では店長の小百里さゆりさんが掃き掃除をしていた。

「あら。おはよう。望未ちゃん」

「おはようございます。あの……」

「ピアノなら好きに弾いていいわよ。まだ開店前だしね」

「ありがとうございます」

春の日差しのような微笑みを浮かべ、小百里さんは言ってくれた。
透明感のある美人でふわふわした女性。
私が男の人だったら、こんな女性を好きになるだろうなってくらい素敵な人。
どうぞ、と小百里さんはドアを開けた。
急いできたけれど、こんな朝早く梶井さんがやってくるわけない。
走ったせいで乱れた呼吸を整えた。
店のフロアの真ん中にはスタインウェイのグランドピアノがある。
こんな小さなカフェにあるとは思えない立派なピアノ。
だから、最初見た時は驚いた。
カフェ『音の葉』で初めて聴いた曲はラ・カンパネラ。
正確に響く鐘の音。
スピードがあるのにミスタッチもなく、道行く人は足を止め、カフェ『音の葉』がある方角を見ていた。
私もその中の一人だった。
弾いていたのは同じ菱水ひしみず音大に通う天才ピアニストの渋木しぶき千愛ちささん。
一度はピアノの道を諦めたという彼女は菱水音大に入学し、あっという間に私達の頭を飛び越していった。
私とは違う。
演奏を聴いただけで、それがわかってしまった。
ピアノの蓋をあけて、ぽんっと音を鳴らした。

「きてたんだね。おはよう。望未ちゃん」

キッチンから穂風ほのかさんが顔を出した。

「おはようございます」

「ピアノ、好きだね」

「はい、好きです」

天才じゃないけど、私はピアノが好き。
それだけは確かだった。
穂風さんに微笑んだ。

「いいことだよ」

そう言って、穂風さんはキッチンに戻っていった。
ピアノの前に座る。
楽しく弾きたい。
私は私のピアノを―――でも、今は梶井さんのことを思って弾く。
あの人に対して、なんだかモヤモヤとして形にならない言葉のかわりに。
ピアノの鍵盤に指を滑らせて、音を奏でる。
私は誰かが店に入ってきたことも気づかずに夢中で弾いていた。
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