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March

1 甘い香り

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私には憧れの人がいる―――チェロを弾く姿はそこに神様が降りたんじゃないかって思わせるような人。
特に彼が弾く曲の中でもサンサーンスの白鳥は別格。
初めて聴いた時、あまりの切なさと美しさに涙がこぼれた。
泣いたのは私だけじゃない。
周りの人も同じように涙ぐんでいた。
そんなすごい人だった。
―――私が憧れる梶井かじい理滉みちひろという人は。

「ねえ、あれ、チェリストの梶井理滉じゃない?」

店内に響いたその名前にふっと私は立ち止まった。
私が聞き間違えるはずがなかった。
お客さん達の視線を追うと、そこには日本人離れをした顔立ちのセクシーな男の人がいた。
あふれでる大人の男の魅力。
本物の梶井理滉だった。
こんな近くで見るなんて思ってもなかった。
つい、ふらふらと近くに寄っていって顔をじっーと見てしまう。
甘い香水の香りがしてドキドキした。
うわぁ!本物!

「ちょっと店員さん、オレンジジュースはまだなの?」

お客さんに声をかけられて、ハッと我に返った。
自分の手にオレンジジュースを持ったままだったのを思い出した。
仕事中だっていうのに私ときたら―――

「あっ!はい!今、持っていきます!」

慌ててジュースを運ぼうとした瞬間、自分の足にガツッとつまずいてしまった。
あ、転ぶ―――そう思うより早く、オレンジジュースが入ったコップが宙を舞う。

バシャッ

ガランッとからになったオレンジジュースのコップがテーブルの上に転がる音。
転ぶはずだった私の体は大きな手が支えていた。
オレンジジュースの香りが空気中に漂った。
ぽたぽたとジュースの水滴が床に落ちる。
なにが起きてしまったのか、すぐに理解できなかった。
私に触れている手があの美しい音を奏でているのだと思うと、なんだか不思議な気分になった。
夜が溶けたような闇色の瞳の中に自分の姿が映っているのが見え、慌てて体を離した。

「ご、ご……ごめんなさ……」

自分のドジ加減に泣きたくなった。
オレンジジュースを頭からかぶったのは私の憧れの人であるチェリストの梶井理滉。
セクシーな大人の男のイメージはオレンジジュースをかぶった今も健在だ。

「ほ、本当に……も、申し訳ございません……」

涙声になる私に声をかけたのは梶井理滉ではなく、向い合わせで座っていた女の人だった。

「私が水をかける前にジュースをかけてくれて、ありがとう」

梶井さんと向かい合わせで座っていた女の人は胸元が見えそうな黒のカットソー、タイトスカートに高いヒール、血のように赤い口紅が似合うセクシー美女だった。
口元にほくろがあり、それがまた色っぽい。

「理滉。私はもう大勢の中の一人は嫌なの。他の女と別れる気はないの?」

「これでも減った方だけどね」

悪びれもせずに梶井さんはそんなことを言った。
女の人は怒るんじゃないかと思っていたけど、そんなことはなかった。
もちろん、怒ってはいたけど、まだ梶井さんのことが好きで憎むこともできずにいる。
そんな気持ちが私にも伝わってくる。
それなのに梶井さんは女の人を引き留めようとはしない。
引き留めてくれないことを女の人も理解している。

「いつになったら、あなたは自分のために特別な誰かを選べるようになるのかしら?」

「それでいいと思えないから無理だな」

「恋人ってそういうものでしょ」

「どうだろう」

不思議なやりとり。
私には二人の会話がよくわからない。

「……最後まで私の心を乱すのね」

「心が乱れることのないような相手と付き合うことをおすすめするよ」

これは別れの挨拶なのだと気づいた。

「そうね。今までありがとう、理滉」

「ああ」

にこりと微笑む梶井さん。
梶井さんは去っていく女の人を引き留める気なんて少しもなかった。
それがわかるのか、女の人はふいっと顔を背け、黙って店を出ていった。
去った後に残る女の人の甘い香水の香り。
梶井さんがつけている香水もとても甘い。
まるで人を誘惑するみたいな香り。
似た者同士の二人。
大人の恋愛をする二人の香りは私をドキドキさせた。
けれど、それは長く続かない。
甘い香水の香りはオレンジジュースの匂いに負け、台無しになってしまっていた。
自分が二人の間を邪魔してしまったような気がして複雑な気持ちになった。

「悪いけど、タオルかおしぼりもらえるかな?」

「すみません。今、お持ちします!」

言われて、やっと気づいた。
タオルもおしぼりも手渡さず、なにをぼんやり眺めていたのだろう。
恥ずかしい。
慌てておしぼりを取りに行って、梶井さんに差し出した。

「本当に申し訳ありませんでした。クリーニング代はお支払いさせていただきます」

深く頭を下げて謝った。
きっとすごく怒っている。
オレンジジュースを頭からかぶったあげく、彼女にフラれてしまうなんて。
怒られるのを覚悟して、ぎゅっと目を閉じた。
けれど、梶井さんから返ってきた答えは意外なものだった。

「クリーニング代はいらない。むしろ、助かったよ」

「え?」

「顔を殴られて腫れたら、また怒られるところだった。一応、俺は商品だから」

「商品……」

「さすがにおしぼりじゃきついな。ちょっと洗ってくる。タオルある?」

「はい」

怒られるどころか、感謝されてしまった。
またってことは何度も殴られているのだろうか―――女の人に。
私の頭の中はぐるぐると大人同士の高度なやりとりがめぐっていた。

望未みみちゃん。大丈夫?」

キッチン担当の諏和すわ穂風ほのかさんが顔を覗かせた。
ベリーショートに白い肌、長いまつ毛、透明感のある綺麗な人だった。
身長が高く、肩幅もあるからか男の人によく間違えられるけど、実は女性。
気づいてないお客さんが多くて、女子高校生の間ではファンクラブまであるらしい。
でも、その気持ちはわかるよ。
毎日一緒に働いている私ですら、かっこいいって思うくらいだから。
外見だけじゃなく、中身も素敵な穂風さん。
今も忙しいはずなのに自分の作業の手を止めて、私の様子を見にきてくれた。

「すみません。汚れたところは掃除します」

「それは私も手伝うよ。なにかあったら、呼んで」

私がタオルを探して持っていくのを心配そうな顔で見ていた。
ランチを過ぎたばかりで厨房の後片付け中の穂風さんに迷惑をかけるわけにはいかない
梶井さんのところへ急いでタオルを持っていった。
お手洗い前の手洗い場に梶井さんはいた。
手を洗う白の台に店長の小百里さんが置いたチューリップが飾ってあった。
透明なガラスの花瓶の横には細かく切った手作りの石鹸が陶器の皿の上に並べられていた。
手作り石鹸にはラベンダーが入っていて、普段ならふんわりとラベンダーのいい香りがする。
けれど、今は圧倒的にオレンジの香りに負けていた。

「オレンジの香りがとれないな」

「本当にごめんなさい……」

「謝らなくていい。きっと彼女も君に感謝しているところだろうし」

「感謝?」

狭い手洗い場は大きめの窓がひとつあり、春の明るい日差しが入ってきていた。
カフェ『音の葉』はたくさん自然光を取り入れることができるようにしたと、店長の小百里さんが言っていた。
それなのに梶井さんの周りだけ、影ができたように暗い。

「彼女もすっきり俺と別れることができてよかったんじゃないかな」

お互いのことを好きで付き合っていたわけじゃないのだろうか。
恋人同士になるって、好きじゃないとなれないよね?
もしかして、好きじゃなくてもなれるもの?
混乱している私を見て梶井さんは笑う。

「きっと君のような子にはわからない。君に用意されるのは綺麗な恋だけなんだろうな」

「綺麗じゃない恋ってあるんですか?」

「あるよ。ドロドロしていて重くて、体が動けなくなるくらいのキツイやつ」

「どうして、そんな恋をするんですか?」

「さあね。まあ、君には無縁だ」

そう言って梶井さんは私にタオルを投げた。

「悪いけど、拭いてくれるかな」

「は、はい」

触ってもいいのだろうか。
手が震える。
だって、彼は私の憧れの人なんだよ!
頭を差し出した梶井さんの髪をぽんぽんとタオルで叩きながら、濡れた髪を拭いた。
梶井さんはただ目を伏せているだけなのに近くてドキドキする。

「名前は?」

「え?」

「君の名前」

笠内かさうち望未みみです」

ぶはっと梶井さんは噴き出した。

「ウサギちゃんか」

「ウサギ!?」

「小学校の時、学校で飼っていたウサギの名前がミミだった」

男女のいいムードになるはずが、そんな空気は全部吹き飛んでいった。
ウサギによって……

「あー、久しぶりに笑ったな。いやー、ウサギか。なるほど。ぴったりだ。高校生なのにバイトするなんて偉い、偉い」

ぽんぽんっと私の頭を叩く。
私の頭を叩いていた方の腕をガシッとつかんだ。

「ん?」

「私は今年で二十三歳だよっ!」

「は?嘘だろ?いいとこ、ぎりぎり十六歳だぞ」

その言葉がグサッと突き刺さった。
確かに私は童顔だって言われることはあるよ。
こう見えても日本人形みたいだねとか、着物が似合うねとか褒められるんだからね!?
それとも、アレですか。
褒められているって思ったのは私だけで、周りは七五三の着物を褒めたりするノリだった―――?

「しっ、身長がちょっと低いだけで、立派な大人なのに……!」

「そうだな。ちゃんとご飯食えよ。成長しきってないんじゃないか」

「ぐっ……!確かにさっきフラれていた女の人の胸は大きかったですけどって、もしかして巨乳好き?」

「小さいよりはまあ大きい方がって、フラれてねえよ!合意の上の別れだ。お前、馴れ馴れしいな!離れろ!」

逃がすものかと腕をつかんだままの私の頭をググッと押す。
頭を押されると身長が縮む!!

「身長が縮むから頭はやめて!」

「気にしてるんだな」

当たり前だよ。
ミリの誤差でも気にしてる。
貴重なミリだよ。

「仕方ないな」

なにが仕方ないんだろうかと顔をあげると梶井さんの整った顔が目の前にあり、オレンジの強い香りがした。
一瞬で手から力が抜けた。

「ウサギちゃんに大人のキスはまだ早い。じゃあな」

私から自由になった腕をあげて、ひらひらと手を振る。
手洗い場の木のドアがぱたんと閉まった音で我に返った。

「え?あ、あれ……?今のファーストキス……?」

ドアを呆然と見詰めたまま、その場から動けなかった。
触れた唇の感触。
オレンジの香りに混じる彼の甘い香水が、夢ではなかったことを私に教えていた―――
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