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19 白河の血【壱都】

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今日は早く帰るつもりだった。
マンションの部屋にボディガードを置き、家政婦も手配したが、不自由なことに変わりはない。
昨日もあまり眠れなかったようだった。
朱加里あかりのことが気になっていた。

「婚約者と暮らし始めたのに不機嫌ですね。壱都いちとさん」

樫村かしむらがバックミラー越しに機嫌の悪い俺の空気を察して、聞いてきた。

「樫村。何を言ってるのかな?俺は別に不機嫌ではないよ?」

嘘だ―――機嫌が悪い。

井垣いがきでの仕事はうまくいっているじゃないですか。もう白河家特有の性格の悪さがにじみ出るくらいに追い詰めて。まだ初日だっていうのに井垣社長を社長の座から追いやってしまったのになにが不満なんですか」

容易いものだった。
遺言書の場に井垣の重役達を呼んでおいたのはこのためだ。
樫村と白河から引き抜いた有能な人材と共に俺は井垣グループに入った。
俺達を迎えたなり、あっさりと無能な社長を切り捨てた。
壮貴まさきさんはまだ社長室にいたが、誰からも相手にされず、すでに会長の遺言で俺が社長となることは周知されており、業務に支障はなかった。
他の会社から挨拶の電話や来客が相次ぎ、事実上、この数日で井垣の社長は完全に交替にできそうだった。
もうじき、取締役会が開かれ、井垣社長は正式に解任となるだろう。

「仕事が原因で機嫌が悪いわけじゃないと」

「嫌だなあ。普通だよ」

にこりと微笑んでも長い付き合いだけあって、樫村は騙されない。

「もしかして、朱加里あかりさんとうまくいってないとか?お互いの生活リズムというものがありますからね。きちんと合わせてあげてください」

樫村は俺を他人と合わせられない我儘な坊ちゃんとでも思っているのだろうか。

「樫村。俺はこれでも譲歩じょうほしている」

「はあ?」

結婚相手だというのに俺達の関係はまるでルームシェアだ。
昨日もさっさと自分の部屋に入り、婚約者同士の語らいなんて一つもなかった。
男として認識されていない気がするのは俺の気のせいか?

「壱都さん」

「なんだ」

「マンションの前に白河のボディガードと言い争っている女性がいますけど、紗耶香さやかさんでは?」

ちら、と車の窓の外を眺めると確かにいる。
派手なピンク色のコートとフリルたっぷりのスカートをはいた女が。

「面倒だな」

「うまくかわすしかないでしょう。壱都さんは白河財閥の王子って呼ばれてるくらいなんですから。頑張って下さい」

「……嫌味か」

はあ、とため息を吐いた。
俺がこうなってしまったのも、そもそも白河家のせいだ。
末っ子ともなると、大人の目に留まるには兄達より優秀でなければ、相手にされない。
物心ついた頃には兄達はすでに頭角とうかくあらわし、周囲から信頼を勝ち得ていた。
祖父母や両親は兄以上に優秀であることを望んだ。
俺はそこそこ器用で、なにをしても平均以上にはこなせたせいか、大人達を喜ばせるのがうまい人間になっていた。
喜ばれると子供だった俺は嬉しくて、周囲の大人のために生きるようになっていた。
気づけば、本当の自分の姿も自分の望みもわからない―――そんな人間になっていた。
ただ流されるように生きていた。
周りが望むままに。
そんな時に井垣会長に出会ったのだ。
井垣会長は一目で自分がどんな人間なのか、見抜いた。
『白河の孫か。優秀でも人形ではな』と初対面で言われた。
さすがにあの人は騙せなかった。
それから井垣会長とたびたび会うようになり、実の祖父よりも祖父らしい存在で、家族よりも俺を理解してくれていた。
井垣会長に最後のお願いをされた時はさすがの俺も動揺した。
海外支店に行く前、余命はいくばくも無いと言われ、ショックを受けたが、会長は違っていた。
孫娘を迎えたおかげなのか、表情は明るいものだった。
そして、会長は彼女が大学の卒業を控え、俺の帰国を知ると安心したのか、それを見届けたかのように逝った。
会長らしいな、と思った。
その会長の孫娘は二人。

「どうしますか」

「仕方ない」

車から降りると、白河のボディガードと紗耶香さんがこちらを見た。

「壱都さんっ!」

紗耶香さんは元気そうだな、と思った。
髪をカールさせてアクセサリーをつけ、化粧は完璧。
落ち込んだ様子もない。
少し近寄っただけで誘うような甘い香りがした。
平均的な男なら好ましく思うものを紗耶香さんは知っている。
それに比べ、朱加里が選ぶ色は暗い色ばかりだった。
今はしかたないが、いつか明るい色の物を着てくれるといい―――せっかく用意した服もまだ袖を通していないようだし。
彼女に対してなにをすれば、喜ぶのかさっぱりわからない。

「壱都さん、あのっ、わたしっ」

ハッとして、紗耶香さんを見た。
考え事をしている場合ではなかった。

「ここで壱都さんの帰りをずっと待っていたんです。会いたくて……」

寒空の下で、ずっと待っていたわりに血色がいい。
震えながら、目から涙をこぼし、見上げてきた。
男心を理解しているな―――と思った。
けど、それだけだ。
樫村なら『壱都さんの方が上手にできるんじゃないですか?』などと、気色悪いことを言ってきそうだ。

「そうですか。風邪をひきます。樫村に送らせましょう」

「お話したいことがあるんです。朱加里のことで」

「朱加里のこと?」

「私達、母が違っていたでしょう?私、いつも陰で朱加里にいじめられていたんです。誰もいないところで殴られたり……これ」

腕をめくってみせると、たしかに青痣ができていた。

「私がお祖父様とお話したいって思っていても、朱加里が会わせてくれなくて、会えなかったのよ」

朱加里が井垣に来る前から、紗耶香さんは井垣会長と仲が良くなかったはずだ。
俺が知らないとでも思っているのだろうか。

「私がお祖父様に会えない間に朱加里がお祖父様に取り入って、財産だけじゃなくて、私から壱都さんまで奪ってっ」

自分に酔っているのか、同情を誘うように涙をこぼした。

「自分が貧乏に暮らしていたのを恨んで、いつか私を蹴落としてやろうと思っていたのね……私、怖い」

女優にでもなれよとツッコミをいれたいところだった。

「紗耶香さん、今は気がたかぶっていて、冷静に話せないでしょう。一度、家に帰って―――」

「紗耶香さん!?」

ちょうど、夕飯の買い物に行っていたのか、食材を片手にボディガードと一緒に朱加里が現れた。

なんてが悪い。
涙を流す紗耶香さんに同情するかのように悲しい顔で朱加里は駆け寄って言った。

「紗耶香さん、なにかあったんですか?」

ちら、と朱加里は俺を見た。
俺が悪者?
お前の悪口を今までこの女は言っていたんだぞ!とできることなら、大声で言いたかった。

「紗耶香さんはもうお帰りになるそうだから。樫村」

「は、はい」

俺の怒りのオーラを察したのか、樫村がささっと背後から現れた。

「い、壱都さん」

「待ってください。紗耶香さんが……」

「さっさと帰れ」

冷たく言い放った。

「…え?」

ぽかんと紗耶香さんは口を開けた。
しまったと思ったけれど、もう遅い。

「そんな言い方しなくても」

朱加里がごちゃごちゃ言ってるのを無視して、腕を掴み、マンションの中に入った。
もう追いかけてこれない。
後は樫村がなんとかするだろう。

「どっちの味方だ」

「味方って……紗耶香さん、どうして泣いていたんですか?」

「朱加里に財産も俺も奪われた、と言っていた」

「そんなつもりは……」

目に見えて狼狽ろうばいしていた。
それがいっそう気に入らない。

「そんなつもりはないって?それじゃあ、手放す?」

「私に身の危険がなくなるというのなら、それでもかまいません」

「俺も?」

びく、と朱加里が怯えていた。

「簡単に捨てれるんだな」

捨てさせるものか―――俺は捨てない。
白河の血は強欲で性格が悪いのだ。
井垣会長には感謝しないと。
こんなに手に入れたいと思えるものを与えてくれたのだから。

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