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18 炎

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 社長室の一件後、要人かなめが言っていたように、社内メールで愛弓あゆみさんの交友関係が明らかにされた。
 でも実のところ、沖重おきしげで働く人々が知りたかったのは、愛弓さんより、私と要人の関係だったようだ。

『婚約はしているのでしょうか?』
『いつごろ、ご結婚ですか?』
『やはり、仲人は宮ノ入みやのいり社長夫妻か、八木沢やぎさわ常務夫妻でしょうなぁ』

 などなど、役員たちが訪れ、そんな気の早いことを言い出す始末。
 渦中の人である私が、経理課へ戻れるわけがなく、朝比あさひさんの雑務を手伝い、一日の仕事を終えた。
 秘書課の方々は、すでに要人のひどさ……ではなく、扱いの難しさを嫌というほど理解しているらしく、むしろ私に同情的だった。

倉地くらちさん。もらい物の美味しいお饅頭があるの。お茶にしましょ」
「大変ね……。仁礼木にれき社長に巻き込まれて……」
「幼馴染とか、もはや罰ゲームよ」

 秘書課のお姉様たちは、私の長年の苦労を察し、労ってくれた。
 そして、私は人が少なくなった頃、こっそり裏口から退社したのだった。

「ひどい目にあったわ……」
「ん? なんかあったか?」

 トラブルは日常茶飯事、攻撃性のかたまり、あれくらい朝飯前の要人は、疲れ切った私を眺めて、首を傾げていた。

「今日一日、事件だらけだったでしょ? いったい要人は、どんな世界で生きてるの?」
「志茉と同じ世界だぞ」
「わかってるわよ! 今のは嫌みよ、嫌みっ!」

 ――要人の笑顔が憎たらしい。

 今後の話し合いも兼ねて、夕食は外食になり、私と要人、社長秘書の朝比あさひさんで小料理屋へ来た。
 暖簾のれんがなく、隠れ家的な小料理屋は、美人で物静かな女将さんがいる。
 小さな店で、カウンター席だけなのかと思ったら、奥の座敷へ通された。
 カウンターより座敷がある個室の方が広く、京町家のような造りになっており、向こうの通りに抜けられる細い通路がある。
 なんとなくだけど、ここは宮ノ入みやのいりグループの関係者が使う店なのではないかと思った。

志茉しま、飲み物は?」
「お茶にするわ」
「飲まないのか?」
「疲れ切って、そんな気分じゃないわよ」

 そういう要人も車の運転があるから、アルコールは飲まない。
 なぜ、私が疲れたのかわからないという顔をしている二人――そう、要人だけでなく、朝比さんも同じで、『なにかありましたっけ?』なんて空気を醸し出している。
 これが、(主に自分で起こす)事件だらけの人生を送る人たちの顔。思わず、私は冷ややかな目で二人を眺めてしまった。

「要人は疲れてないの? それに、愛弓さんのプライベートをバラまくなんて、やりすぎなのよ!」
「これくらい優しいほうだぞ」
「ど、どこがよ!」

 要人の言葉に同意なのか、朝比さんは涼しい顔で、お茶を飲んでいる。
 若いのに落ち着いていて、まだ勤務中ですからと言って、アルコールは一切口にしない。
 見かけどおり、真面目な人だった。

「私は明日からどうしたら……」
「俺の秘書として働けばいい」
「お断りよっ! 二十四時間、要人と一緒にいたら、私の寿命が縮むわ!」
「二十四時間一緒に……。なるほど。俺と一緒に住みたいという遠回しな誘いか? 引っ越すつもりでいたけど、まさか志茉から……」
「違うっ! 今のはちょっとした言い間違いよ。わかってるくせにっ!」

 ただでさえ、減っていた体力が、このやりとりで、一気に消耗された気がする。
 
「ですが、経理課の仕事が滞るのは困ります。倉地さんがいては、仕事に集中できないでしょう」

 今日の騒ぎを目の当たりにしている朝比さんに言われると、私も強く言えなかった。
 愛弓さんが騒ぎ、経理課に迷惑をかけてしまったのは事実で、経理課だけでなく、他の課にまで影響が及んだ。

「まさか、要人。こうなることをわかってて、愛弓さんを放置していたんじゃないでしょうね!」
「俺がそんなこと……するわけないだろ?」

 声がわざとらしく、すべて要人の算段だったのではと疑いたくなる。

「志茉。お腹空いただろ? 魚の煮付けが美味しいぞ」
「天ぷらも美味ですよ」

 衣がさっくりした穴子のてんぷらが美味しい。
 一口目はそのまま、二口目は抹茶塩につける。
 ここの料理はどれも美味しく、ハズレがない。
 食べ物で誤魔化されそうになって、ハッと我に返った。

「要人。まだなにか、よからぬことを考えてない? 他にもなにかしてなかった?」

 稚鮎ちあゆの天ぷらを食べようとしていた要人の手が止まる。
 食べると、ほろ苦さのある稚鮎だけど、天ぷらにすると骨まで食べられて、香ばしくてお酒のつまみにぴったりだ。
 お茶なのが、ちょっと残念に思えた。

「あー、ほら、志茉。他にも食べたい物があるだろ? 好きに頼めよ」
「和食好きだとお聞きしてますよ」

 要人と朝比さん、二人同時に、私の前にメニューを置く。
 
 ――この態度、ますます怪しい。
 
 けど、二人はなにも教えてくれなかった。
 仕事が絡む話なのか、そのあたりはやっぱり、私相手であっても口が堅いのだ。
 結局、二人は当たり障りない会話をし、明日からどうするかという話をしていた。
 これは、夕食を兼ねた明日からの打ち合わせだったらしく、私は料理のほうへ集中した。
 小料理屋での食事が終わると、朝比さんと別れ、要人の車に乗り、助手席の窓を少しだけ開けて、涼しい風で眠気を飛ばす。
 お腹がいっぱいになると、どうしても眠くなってしまう。

「志茉。あのな、家を出るって、前に言っただろ?」
「うん」
「あれは志茉を連れて、一緒に出るっていう意味だ。そろそろ、アパートから引っ越さないか?」

 それは、お隣の幼馴染でなくなる提案だった。
 いつでも、要人は仁礼木の家から出ていけた。
 それなのに、私のそばにいるためだけに、お隣で暮らしていた。
 変わらない関係を続けて、私に安心感を与えて、傷が癒えるのを待っていたのだ。

「志茉が両親との思い出の残るアパートを出たくないのも知ってる。でも、志茉。俺は志茉と本当の家族になりたい」

 いつになく固い声に、要人が緊張しているのだとわかった。
 プロポーズであり、私がアパートを出るという決意をしてくれるかどうか――要人だって、不安なことがあるのだと思うと、なんだか可笑しかった。
  
「笑うな」
「……だって、いつも自分の意見を通すくせに」
「志茉だけは別だ。嫌われたくないからな」
「うん、要人。ありがとう。私、要人と一緒に暮らしたい」

 要人は車を止め、私を見つめる。
 整った綺麗な顔が、至近距離にあり、要人の指が私の頬に触れる。
 私と要人がお互いの唇を重ねようと、目を閉じかけた瞬間、目の端に入ったものがあった。

 ――煙?

 暗闇に煙が浮かんでいるのが見えた。
 それも、おかしいと感じるほどの煙の量が。

「要人、火事じゃない?」
「火事……?」

 要人はなにか察したように、怖い顔をし、車のエンジンをかける。
 車を走らせ、アパートに着くと、真っ赤な炎があがっていた。
 火元は一階部分からで、私の部屋がある二階は、まだ火の手が回っていない。

「要人坊っちゃま、志茉さん! アパートにいらっしゃらなくて、本当によかった!」

 八重子やえこさんが、私と要人を見るなり、駆け寄ってきた。
 仁礼木にれき家から、水を運んだのか、八重子さんの手には、水が入ったバケツが握られていた。

「通行人が気づいたんですよ。なにか燃えるような音がして、アパートの敷地を覗いたら、一階の部屋から火が出ていたとか……」

 八重子さんが指差したのは、空き部屋である。
 アパートは古く、住んでいる人は私の他に、あと二世帯いた。
 年配の夫婦で、昔からこのアパートに住んでいる人たちだ。
 全員無事だったようで、外から消火活動を見守っていた。
 八重子さんは涙声で、私を気遣うように腕をさすってくれた。
 
 ――両親と暮らしたアパートがなくなってしまう。

 呆然としたまま、赤い炎を眺めていると、要人が突然、スーツの上着を脱ぎ、バケツの水を頭からかぶった。

「要人! なにしてるの!?」 

 時間がないというように、要人はなにも答えず、アパートに向かって走り出した。

「行かないで! 要人っ!」
「要人坊っちゃま!」

 階段を駈け上がり、部屋へ飛び込む。
 一階からの煙が、要人の姿を呑み込み、見えなくなった。
 木造のアパートのせいか、火の勢いが強く、階段部分にまで、火の手が延びる。

「要人っ!」

 部屋から出てきた要人は、畑のそばにあった大きな木に飛び移り、軽い身のこなしで、地面に降り立つ。
 そういえば、昔、あの木にひっかかった帽子を要人が登って、取ってくれたことがあった。

「ほら、志茉」

 帽子をとってくれた時と同じ、満面の笑みを浮かべた要人は、部屋から持ち出した物を手渡した。
 それは、私が玄関に飾ってあった両親の写真とアルバムだった。

「要人……」
「これ、志茉の一番大事な物だろ?」

 戻ってきた要人のシャツを掴んで叫んだ。

「要人が一番大事に決まってるでしょ!」

 私が泣き出し、要人の体にしがみつくと、要人は驚いた顔をした。
 そんな驚くことじゃない。
 要人は私にとって、なくてはならない存在なのだから。

「志茉、ごめん」
「……二度と、危ないことしないで。命だけはどうにもならないのよ!」
「わかってる」

 私たちは水に濡れたシャツも気にならないくらい、お互いを痛いほど抱きしめていた。     
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