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第二章
16 敵は身の内に
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外に干した洗濯物が、風に揺れている。
洗濯物から、石鹸のいい香りが漂ってきて、うっとりと目を細めた。
薔薇模様の缶に入ったお洒落な石鹸は、きっと高級品だと思う。
それが使われずに、ガラクタ……蒐集品に埋もれていたのを発見し、さっそく使ってみた。
香りも良くて、満足の洗い心地。
それに、薔薇模様の缶は、石鹸を使い終わった後も小物入れとして使えるから、とても嬉しい。
洗濯物を干し終わると、ちょうど蒼ちゃんがやってきた。
「世梨さま、ご飯が炊けました!」
「ありがとう、蒼ちゃん」
何度か一緒にご飯を炊いているうちに、蒼ちゃんは一人でご飯を炊けるようになった。
蒼ちゃんは飯櫃を運び、ちゃぶ台にお茶碗とお箸を並べる。
「ぼくの湯呑みですっ!」
嬉しそうに笑って、買ったばかりの湯呑みを頬に寄せた。
それぞれが使う食器は、私が選んだ。
蒼ちゃんの文様は麻の葉で、子どもの成長と厄よけにいいとされる文様。
紫水様は青海波。波の文様は平穏な暮らしを願うという意味がある。
「世梨さまの縦縞も可愛いですね!」
「これは十草というのよ。まっすぐに伸びる草の文様なの」
天に向かって伸びる強い草。
そんなふうに、私も成長していきたいという思いから選んだ柄だった。
昼食はご飯と味噌汁、土筆を甘辛く煮た佃煮、白魚の卵とじ。
土筆は近くの土手に生えていたのを摘んできた。
「紫水様。お昼の用意ができたましたけど、起きれますか?」
「ん……。今、起きる……」
徹夜明けの紫水様は茶の間に転がっていた。
「へぇ……。今日の昼は白魚か。春だな」
「そうですね。日本橋の魚河岸に白魚が卸される頃になると、祖父は必ず食べたいと言ったんですよ」
「あいつは贅沢だな。日本橋の魚河岸は震災を機に場所を移すらしい」
「ええ。お店の人から聞きました」
白魚の卵とじを一口食べ、顔をほころばせる。
紫水様も祖父と同じで、白魚がお好きのようだった。
食事の時間になると、仕事部屋から出てきて、紫水様も一緒に食事をするようになったけど、忙しさは変わってない。
体は人と同じで、徹夜をすれば眠いし、疲れるらしい。
「食後のお茶を淹れますね。紫水様。少し休まれますか?」
「ああ」
その返事で、茶葉を少なめにし、いつもより薄めのお茶を出した。
仕事を続けるようなら、お茶は濃い目。休まれるようなら、お茶を薄めにしている。
「新茶か? うまい」
「いいえ。まだです。これは去年のもので、もう少ししたら、出回ると思います」
もうすぐ新茶の時期で、去年の茶葉を買うのはもったい気がしたけれど、台所にも茶の間の茶箪笥の中にも茶葉は見当たらなかった。
それに見つかったとしても、いつの茶葉なのかわからない……
「紫水さまっ! 見てくださいっ! ぼくの湯呑みです」
「それ、何回目だ。耳が腐るほど聞いたぞ」
紫水様は座布団を枕にして、横になった。
本業は蒐集家を名乗っているけれど、水墨画家でもある紫水様。
依頼は多いらしく、郷戸での滞在延長により、仕事の進行が大幅に遅れている。
帰ってきてから、まともに家の外に出ていなかった。
龍神といえど、体は人間に近いようで、疲労は蓄積されるらしい。
寝転がった紫水様は、茶の間の片隅に置かれたスケッチブックに目を留めた。
「スケッチブック、使ってるのか」
「はい。家事の合間に描いています」
「じゃあ、見せ……」
「駄目です」
スケッチブックを紫水様から取り上げ、茶箪笥の上に置くと、蒼ちゃんが走ってきて、茶箪笥を防衛してくれた。
「おい、蒼。お前は俺の配下だろ?」
「ぼくは紫水さまの配下ですけど、世梨さまの味方ですっ!」
蒼ちゃんは気合いの入った顔で、仁王立ちしていた。
「紫水様は水墨画家でしょう? 素人の絵なんて、お見せできません」
「あー、わかった。仕方ない。今は諦める」
今はと言った言葉が、ちょっと気になったけど、さすがの紫水様も体を張って、スケッチブックを守る蒼ちゃんから、無理矢理奪い、手に入れようとは思わなかったらしい。
「俺は徹夜続きで眠い。夕食まで寝る……」
「わかりました。庭を手入れしていますから、ご用があれば、呼んでください」
「ああ」
紫水様は欠伸をひとつし、目を閉じた。
眠る紫水様に羽織をかけ、蒼ちゃんと茶の間を出る。
もちろん、スケッチブックは持っていく。
「世梨さま、今日は庭にお花を植えるんですよね?」
「そう。昨日、朝顔用の花壇を作ったから、後は種を蒔くだけよ」
「ぼく、植えたいです!」
「じゃあ、蒼ちゃんに任せるわね」
「はいっ! お任せくださいっ! 立派な朝顔に育ててみせます!」
使命感に燃える蒼ちゃんの小さな手のひらに、朝顔の種をのせ、植えるのを見守った。
朝顔を植えるのは、初めてらしく、黒い種を不思議そうに眺めていた。
蒼ちゃんが朝顔の種を土に埋めている間、私は玄関先の庭石に腰掛け、スケッチブックを手にした。
袂に忍ばせてあった鉛筆を取り出し、道行く人をスケッチする。
「ワンピースに襟が付いているだけで、印象が変わるのね。ウエストラインにベルトは定番だけど、白と紺の水玉模様の生地に白い襟がぴったり」
水玉模様のワンピースを着て、歩いて行ったのは、百貨店のお化粧売場で働いている女性で、今日はお休みで恋人とデートらしい。
昨日の夕方、坂の下のお肉屋の前で見かけ、店の奥さんと話していたから、知っている。
そして、コロッケをおまけしてもらっているのを目撃してしまった。
「お豆腐屋さんで油揚げも。あれが大人の女性の魅力……」
スカートの裾を翻し、軽やかに歩く姿に羨望のまなざしを向ける。
なにを描いているのか絶対に見せられない理由は、素人だからというだけではなかった。
その一番の理由として、私がスケッチブックに描いているのは、素敵な洋服を着た女性だったから。
着てみたい洋服を描いて、後からそれを眺めて楽しんでいるなんて、紫水様に知られたら、恥ずかしすぎる。
私が洋服に憧れたきっかけは、少女向け雑誌に描かれた目の大きい女の子の挿絵だった。
女の子が着ていたのは、袖口が膨らんだブラウス。それを見て、なんて可愛いのだろうなんて、思ったのが始まりで、それ以来、洋服への憧れは募るばかり。
洋服を作る知識も技術もない私は、絵を描いて楽しんでいた。
紫水様からいただいたスケッチブックは、私の煩悩の塊になっていて、とてもお見せできない。
「世梨さま、終わりました!」
蒼ちゃんが純粋な眼差しをこちらへ向け、褒めてほしいという顔をしている。
「ありがとう、蒼ちゃん。夏が楽しみね」
「はいっ!」
「次は縁側から見える庭に、向日葵を植えて……」
スケッチブックを閉じ、庭石から立ち上った私の目に、学生服が目に入った。
黒の詰め襟学生服、金ボタンの帝大生が、門前から、私を見ている。
誰なのか、すぐにわかった。
「むぅ! もしや鴉ですかっ!」
「いえ、兄が……清睦さんが来たみたいで……」
「兄……?」
蒼ちゃんが不思議そうな顔をし、首を傾げた。
私たちの雰囲気からいって、不思議に思われても無理もない。
お互い相手の出方をうかがい、兄妹なのに身内同士の親しさは微塵も感じられず、よそよそしい。
「久しぶり。父さんが結婚した世梨のところへ一度挨拶に行けとうるさくてね」
「ご無沙汰しております……」
清睦さんは笑みを浮かべて、近づいてきた。
最後に会ったのは、祖母がまだ生きていた頃のこと。
あの時の清睦さんの用事がなんだったのか、教えてはもらえなかったけれど、帰り際、私に『兄と呼ぶな』と冷たく言い捨て、去っていった記憶は今も忘れられない。
それ以来、私は兄さんと呼ばず、清睦さんと呼んでいる。
一緒に育ったわけでもないのに、なれなれしく兄と呼ばれるのが、不快だったのだろう。
「あの……。申し訳ありません。旦那様は仕事が終わったばかりで、お休み中なんです。ご用件があれば、私が承ります」
「ああ、いいよ。ここで。挨拶に伺ったと、伝えてもらえたらそれで」
学帽から覗く清睦さんの目は冷ややかで、私に対する敵意を感じた。
手土産のカステラが入った風呂敷包みを私に手渡し、ふっと鼻先で笑う。
「なんだ。結局は女中が欲しかっただけか」
手土産を受け取る手が震えた。
私の緊張感が伝わってはいけないと思い、蒼ちゃんに言った。
「蒼ちゃん。中で待ってもらってもいいかしら?」
「じゃあ、ぼく、玄関で待ってます」
なにか言いたそうな顔で、私を見ていたけれど、それ以上追及せず、素直にうなずいた。
蒼ちゃんは玄関の戸を開け、私たちを見張るように待機する。
「ふーん。あの子ども、白蛇か。人ではないね」
くすりと清睦さんが笑う。
どこからどう見ても蒼ちゃんは、人の子どもにしか見えない。
それなのに清睦さんは、一瞬で本性を見抜いた。
「どうして……」
「驚くことじゃない。玲花にもおかしな力があるように、俺にもあるってことだ。もっとも、俺にあるのは目だけで、なんの役にも立たないけどね」
目――清睦さんは、あやかしか人か見抜ける目を持っているということだろうか。
玲花は死霊を見ることができ、言葉を聞けるけど、あやかしの本性は見抜けない。
「郷戸は古い家柄だ。昔は神社の管理をしていたようだけど、明治の時代にそれがなくなった。残ったのは、このおかしな力だけってわけだよ」
清睦さんは暗い目をして、ため息をつく。
跡取り息子として、古い家柄に縛られ続けてる清睦さんにしかわからない闇が見えた気がした。
「世梨は郷戸の元の名を知らないだろう」
「はい……」
「業を問う。それで、業問と呼ばれてきた。その名に、なんの意味があったんだろうね。父さんは力を持っていないし、あの通り俗物的な人間だよ。父さんの代で、言い伝えられてきたものが途切れてしまった」
父は新しいものが好きで、周りから西洋かぶれと呼ばれるほどだった。
東京に洋館を建てたのも田舎の古い家を嫌ってのことだ。
「けどね、俺は父さんが悪いとは思ってないよ。こんな力は時代に合わない。持っているだけ、生きづらくて面倒なだけだしね。あやかしでさえ、進化して生き方を変える時代だ」
「清睦さんはご存じなんですね。私が嫁いだ相手が人ではないと」
私を見下ろす目――それは悪意に満ちていた。
清睦さんの目は、私を傷つけようとする者の目だった。
「当たり前だ。まともな人間が、お前のような娘を相手にするか」
遊び半分で、私を傷つけてきた玲花とは違う。
清睦さんにあるのは、私に対する確かな憎悪だった。
「普通の男なら、玲花を選ぶだろう。見た目も華やかで可愛らしく、愚かで扱いやすい。女学校も出ず、絵だけを描いていた変わり者の娘に、まともな嫁ぎ先があるか」
「絵はおばあちゃんやおじいちゃんの看病の合間に描いていたもので、学んでいたわけでは……」
最後まで、私は言葉を口にすることができなかった。
清睦さんの目があまりに冷たくて、それ以上言ってはいけない気がした。
「俺は世梨が嫌いだ。昔も今もね」
優しい笑顔なのに、清睦さんの目は笑っていない。
「母も玲花もお前を嫌いだよ。本宮の血を引く者は、全員お前を嫌っている。なぜかわかるか?」
「わからない……です……」
清睦さんが怖くて、足が震えた。
「才能だよ。祖父がなぜ、世梨を引き取ったかわかるか? 見込みがあるからだ」
私の手に持っていたスケッチブックを奪い、中を見て笑う。
そして、スケッチブックを地面に叩きつけると、私が描いた絵を足で踏みつけた。
水玉模様のワンピースが歪み、泥がつき、紙は破れてしまった。
「や、やめて……」
「なんだこれは。馬鹿にするのもいい加減にしろよ。お前は千秋唯一の弟子だ。まさか跡を継がないつもりか? 育ててもらったくせに、期待を裏切って恥ずかしくないのか?」
裏切り者――清睦さんの声に重なって、怨霊となった祖父の声が聞こえてくる気がした。
震える私を見て、清睦さんはさらに追い詰めていく。
「みんな、お前が嫌いなんだよ。世梨、お前は愛されない。誰からも」
残酷で美しい微笑を浮かべ、清睦さんは私が傷つくのを見て喜んでいた。
清睦さんは私と違って、生まれた時から、郷戸で大切にされ育ち、家族からも使用人たちからも好かれている。
私と違い愛されている清睦さんが言うのだから、きっとそれは正しい――
「なんの話だ。俺の妻を傷つけないでもらおうか」
私の震える両肩を大きな手で支えたのは、紫水様だった。
「少なくとも、俺は世梨を嫌ってない。勝手な憶測で物を言うな」
紫水様の不機嫌な寝起きの顔は、清睦さんを怯ませるほどの圧が、十分すぎるほどあった。
洗濯物から、石鹸のいい香りが漂ってきて、うっとりと目を細めた。
薔薇模様の缶に入ったお洒落な石鹸は、きっと高級品だと思う。
それが使われずに、ガラクタ……蒐集品に埋もれていたのを発見し、さっそく使ってみた。
香りも良くて、満足の洗い心地。
それに、薔薇模様の缶は、石鹸を使い終わった後も小物入れとして使えるから、とても嬉しい。
洗濯物を干し終わると、ちょうど蒼ちゃんがやってきた。
「世梨さま、ご飯が炊けました!」
「ありがとう、蒼ちゃん」
何度か一緒にご飯を炊いているうちに、蒼ちゃんは一人でご飯を炊けるようになった。
蒼ちゃんは飯櫃を運び、ちゃぶ台にお茶碗とお箸を並べる。
「ぼくの湯呑みですっ!」
嬉しそうに笑って、買ったばかりの湯呑みを頬に寄せた。
それぞれが使う食器は、私が選んだ。
蒼ちゃんの文様は麻の葉で、子どもの成長と厄よけにいいとされる文様。
紫水様は青海波。波の文様は平穏な暮らしを願うという意味がある。
「世梨さまの縦縞も可愛いですね!」
「これは十草というのよ。まっすぐに伸びる草の文様なの」
天に向かって伸びる強い草。
そんなふうに、私も成長していきたいという思いから選んだ柄だった。
昼食はご飯と味噌汁、土筆を甘辛く煮た佃煮、白魚の卵とじ。
土筆は近くの土手に生えていたのを摘んできた。
「紫水様。お昼の用意ができたましたけど、起きれますか?」
「ん……。今、起きる……」
徹夜明けの紫水様は茶の間に転がっていた。
「へぇ……。今日の昼は白魚か。春だな」
「そうですね。日本橋の魚河岸に白魚が卸される頃になると、祖父は必ず食べたいと言ったんですよ」
「あいつは贅沢だな。日本橋の魚河岸は震災を機に場所を移すらしい」
「ええ。お店の人から聞きました」
白魚の卵とじを一口食べ、顔をほころばせる。
紫水様も祖父と同じで、白魚がお好きのようだった。
食事の時間になると、仕事部屋から出てきて、紫水様も一緒に食事をするようになったけど、忙しさは変わってない。
体は人と同じで、徹夜をすれば眠いし、疲れるらしい。
「食後のお茶を淹れますね。紫水様。少し休まれますか?」
「ああ」
その返事で、茶葉を少なめにし、いつもより薄めのお茶を出した。
仕事を続けるようなら、お茶は濃い目。休まれるようなら、お茶を薄めにしている。
「新茶か? うまい」
「いいえ。まだです。これは去年のもので、もう少ししたら、出回ると思います」
もうすぐ新茶の時期で、去年の茶葉を買うのはもったい気がしたけれど、台所にも茶の間の茶箪笥の中にも茶葉は見当たらなかった。
それに見つかったとしても、いつの茶葉なのかわからない……
「紫水さまっ! 見てくださいっ! ぼくの湯呑みです」
「それ、何回目だ。耳が腐るほど聞いたぞ」
紫水様は座布団を枕にして、横になった。
本業は蒐集家を名乗っているけれど、水墨画家でもある紫水様。
依頼は多いらしく、郷戸での滞在延長により、仕事の進行が大幅に遅れている。
帰ってきてから、まともに家の外に出ていなかった。
龍神といえど、体は人間に近いようで、疲労は蓄積されるらしい。
寝転がった紫水様は、茶の間の片隅に置かれたスケッチブックに目を留めた。
「スケッチブック、使ってるのか」
「はい。家事の合間に描いています」
「じゃあ、見せ……」
「駄目です」
スケッチブックを紫水様から取り上げ、茶箪笥の上に置くと、蒼ちゃんが走ってきて、茶箪笥を防衛してくれた。
「おい、蒼。お前は俺の配下だろ?」
「ぼくは紫水さまの配下ですけど、世梨さまの味方ですっ!」
蒼ちゃんは気合いの入った顔で、仁王立ちしていた。
「紫水様は水墨画家でしょう? 素人の絵なんて、お見せできません」
「あー、わかった。仕方ない。今は諦める」
今はと言った言葉が、ちょっと気になったけど、さすがの紫水様も体を張って、スケッチブックを守る蒼ちゃんから、無理矢理奪い、手に入れようとは思わなかったらしい。
「俺は徹夜続きで眠い。夕食まで寝る……」
「わかりました。庭を手入れしていますから、ご用があれば、呼んでください」
「ああ」
紫水様は欠伸をひとつし、目を閉じた。
眠る紫水様に羽織をかけ、蒼ちゃんと茶の間を出る。
もちろん、スケッチブックは持っていく。
「世梨さま、今日は庭にお花を植えるんですよね?」
「そう。昨日、朝顔用の花壇を作ったから、後は種を蒔くだけよ」
「ぼく、植えたいです!」
「じゃあ、蒼ちゃんに任せるわね」
「はいっ! お任せくださいっ! 立派な朝顔に育ててみせます!」
使命感に燃える蒼ちゃんの小さな手のひらに、朝顔の種をのせ、植えるのを見守った。
朝顔を植えるのは、初めてらしく、黒い種を不思議そうに眺めていた。
蒼ちゃんが朝顔の種を土に埋めている間、私は玄関先の庭石に腰掛け、スケッチブックを手にした。
袂に忍ばせてあった鉛筆を取り出し、道行く人をスケッチする。
「ワンピースに襟が付いているだけで、印象が変わるのね。ウエストラインにベルトは定番だけど、白と紺の水玉模様の生地に白い襟がぴったり」
水玉模様のワンピースを着て、歩いて行ったのは、百貨店のお化粧売場で働いている女性で、今日はお休みで恋人とデートらしい。
昨日の夕方、坂の下のお肉屋の前で見かけ、店の奥さんと話していたから、知っている。
そして、コロッケをおまけしてもらっているのを目撃してしまった。
「お豆腐屋さんで油揚げも。あれが大人の女性の魅力……」
スカートの裾を翻し、軽やかに歩く姿に羨望のまなざしを向ける。
なにを描いているのか絶対に見せられない理由は、素人だからというだけではなかった。
その一番の理由として、私がスケッチブックに描いているのは、素敵な洋服を着た女性だったから。
着てみたい洋服を描いて、後からそれを眺めて楽しんでいるなんて、紫水様に知られたら、恥ずかしすぎる。
私が洋服に憧れたきっかけは、少女向け雑誌に描かれた目の大きい女の子の挿絵だった。
女の子が着ていたのは、袖口が膨らんだブラウス。それを見て、なんて可愛いのだろうなんて、思ったのが始まりで、それ以来、洋服への憧れは募るばかり。
洋服を作る知識も技術もない私は、絵を描いて楽しんでいた。
紫水様からいただいたスケッチブックは、私の煩悩の塊になっていて、とてもお見せできない。
「世梨さま、終わりました!」
蒼ちゃんが純粋な眼差しをこちらへ向け、褒めてほしいという顔をしている。
「ありがとう、蒼ちゃん。夏が楽しみね」
「はいっ!」
「次は縁側から見える庭に、向日葵を植えて……」
スケッチブックを閉じ、庭石から立ち上った私の目に、学生服が目に入った。
黒の詰め襟学生服、金ボタンの帝大生が、門前から、私を見ている。
誰なのか、すぐにわかった。
「むぅ! もしや鴉ですかっ!」
「いえ、兄が……清睦さんが来たみたいで……」
「兄……?」
蒼ちゃんが不思議そうな顔をし、首を傾げた。
私たちの雰囲気からいって、不思議に思われても無理もない。
お互い相手の出方をうかがい、兄妹なのに身内同士の親しさは微塵も感じられず、よそよそしい。
「久しぶり。父さんが結婚した世梨のところへ一度挨拶に行けとうるさくてね」
「ご無沙汰しております……」
清睦さんは笑みを浮かべて、近づいてきた。
最後に会ったのは、祖母がまだ生きていた頃のこと。
あの時の清睦さんの用事がなんだったのか、教えてはもらえなかったけれど、帰り際、私に『兄と呼ぶな』と冷たく言い捨て、去っていった記憶は今も忘れられない。
それ以来、私は兄さんと呼ばず、清睦さんと呼んでいる。
一緒に育ったわけでもないのに、なれなれしく兄と呼ばれるのが、不快だったのだろう。
「あの……。申し訳ありません。旦那様は仕事が終わったばかりで、お休み中なんです。ご用件があれば、私が承ります」
「ああ、いいよ。ここで。挨拶に伺ったと、伝えてもらえたらそれで」
学帽から覗く清睦さんの目は冷ややかで、私に対する敵意を感じた。
手土産のカステラが入った風呂敷包みを私に手渡し、ふっと鼻先で笑う。
「なんだ。結局は女中が欲しかっただけか」
手土産を受け取る手が震えた。
私の緊張感が伝わってはいけないと思い、蒼ちゃんに言った。
「蒼ちゃん。中で待ってもらってもいいかしら?」
「じゃあ、ぼく、玄関で待ってます」
なにか言いたそうな顔で、私を見ていたけれど、それ以上追及せず、素直にうなずいた。
蒼ちゃんは玄関の戸を開け、私たちを見張るように待機する。
「ふーん。あの子ども、白蛇か。人ではないね」
くすりと清睦さんが笑う。
どこからどう見ても蒼ちゃんは、人の子どもにしか見えない。
それなのに清睦さんは、一瞬で本性を見抜いた。
「どうして……」
「驚くことじゃない。玲花にもおかしな力があるように、俺にもあるってことだ。もっとも、俺にあるのは目だけで、なんの役にも立たないけどね」
目――清睦さんは、あやかしか人か見抜ける目を持っているということだろうか。
玲花は死霊を見ることができ、言葉を聞けるけど、あやかしの本性は見抜けない。
「郷戸は古い家柄だ。昔は神社の管理をしていたようだけど、明治の時代にそれがなくなった。残ったのは、このおかしな力だけってわけだよ」
清睦さんは暗い目をして、ため息をつく。
跡取り息子として、古い家柄に縛られ続けてる清睦さんにしかわからない闇が見えた気がした。
「世梨は郷戸の元の名を知らないだろう」
「はい……」
「業を問う。それで、業問と呼ばれてきた。その名に、なんの意味があったんだろうね。父さんは力を持っていないし、あの通り俗物的な人間だよ。父さんの代で、言い伝えられてきたものが途切れてしまった」
父は新しいものが好きで、周りから西洋かぶれと呼ばれるほどだった。
東京に洋館を建てたのも田舎の古い家を嫌ってのことだ。
「けどね、俺は父さんが悪いとは思ってないよ。こんな力は時代に合わない。持っているだけ、生きづらくて面倒なだけだしね。あやかしでさえ、進化して生き方を変える時代だ」
「清睦さんはご存じなんですね。私が嫁いだ相手が人ではないと」
私を見下ろす目――それは悪意に満ちていた。
清睦さんの目は、私を傷つけようとする者の目だった。
「当たり前だ。まともな人間が、お前のような娘を相手にするか」
遊び半分で、私を傷つけてきた玲花とは違う。
清睦さんにあるのは、私に対する確かな憎悪だった。
「普通の男なら、玲花を選ぶだろう。見た目も華やかで可愛らしく、愚かで扱いやすい。女学校も出ず、絵だけを描いていた変わり者の娘に、まともな嫁ぎ先があるか」
「絵はおばあちゃんやおじいちゃんの看病の合間に描いていたもので、学んでいたわけでは……」
最後まで、私は言葉を口にすることができなかった。
清睦さんの目があまりに冷たくて、それ以上言ってはいけない気がした。
「俺は世梨が嫌いだ。昔も今もね」
優しい笑顔なのに、清睦さんの目は笑っていない。
「母も玲花もお前を嫌いだよ。本宮の血を引く者は、全員お前を嫌っている。なぜかわかるか?」
「わからない……です……」
清睦さんが怖くて、足が震えた。
「才能だよ。祖父がなぜ、世梨を引き取ったかわかるか? 見込みがあるからだ」
私の手に持っていたスケッチブックを奪い、中を見て笑う。
そして、スケッチブックを地面に叩きつけると、私が描いた絵を足で踏みつけた。
水玉模様のワンピースが歪み、泥がつき、紙は破れてしまった。
「や、やめて……」
「なんだこれは。馬鹿にするのもいい加減にしろよ。お前は千秋唯一の弟子だ。まさか跡を継がないつもりか? 育ててもらったくせに、期待を裏切って恥ずかしくないのか?」
裏切り者――清睦さんの声に重なって、怨霊となった祖父の声が聞こえてくる気がした。
震える私を見て、清睦さんはさらに追い詰めていく。
「みんな、お前が嫌いなんだよ。世梨、お前は愛されない。誰からも」
残酷で美しい微笑を浮かべ、清睦さんは私が傷つくのを見て喜んでいた。
清睦さんは私と違って、生まれた時から、郷戸で大切にされ育ち、家族からも使用人たちからも好かれている。
私と違い愛されている清睦さんが言うのだから、きっとそれは正しい――
「なんの話だ。俺の妻を傷つけないでもらおうか」
私の震える両肩を大きな手で支えたのは、紫水様だった。
「少なくとも、俺は世梨を嫌ってない。勝手な憶測で物を言うな」
紫水様の不機嫌な寝起きの顔は、清睦さんを怯ませるほどの圧が、十分すぎるほどあった。
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