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第一章

2 鴉の忠告

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 強い風が梅の木の枝を揺らし、鴉が一際大きな声で鳴く。

『客が雨を連れてくる』

 ただの鴉ではないと気づき、着物のたもとから白い包み紙を取り出した。
 紙の中には、おやつ用の炒った豆がくるんである。
 包み紙を開け、炒り豆を数粒手に取ると、梅の木の上の鴉に投げ与えた。
 鴉は器用に炒り豆を口で受け止め、食べ終わると枝を蹴って、飛び去っていく。 
 私が村に来てから、鴉がずっとそばにいた。
 不気味に感じたけれど、ああいうたぐいの存在は、東京でも見かけることがあった。
 けれど、震災後は静かになった。
 逃げたのか、消えたのか。
 人ではないもの――怖がる私に祖母が私に聞かせてくれた昔話の数々。
 幼い頃は怖くて泣いていたけれど、今となっては慣れてしまった。

「まさか、雨?」

 さっきまで、雲ひとつない青空と春の空気を感じていたのに、唐突な雨の気配に思わず、空を見上げた。
 ざわりと風が吹き、もやの粒子が頬に触れ、ひんやりとした空気が首筋を撫でる。
 細かく冷たい雨が、私の顔の上に落ちた。
 鴉たちが言った通り、お客様がやってくると、雨は告げていた。
 
「世梨さん! まだ裏庭にいるの? 戻ってこないと、世梨さんの分の朝食がなくなるわよ!」
「今、戻ります」

 鴉の言葉を気にしている場合ではない。
 郷戸ごうどにやってくるお客様は、父に用事がある者ばかりで、どんなお客様が来ようと、手紙さえ書く暇がない私には、関係のない話だった。
 住み込みで働く女中たちは、台所で食事を済ませる。
 食べ終わるのが遅くなると、片づけが滞るため、嫌な顔をされてしまう。
 土間へ戻ると、各自の箱膳にご飯と味噌汁、お漬け物が用意され、すでに食べ終わった者もいる。
 食事は手が空いた者から、食べるよう決められていた。
 郷戸の家族と使用人は完全に別で食事を摂る。
 とはいえ、私が郷戸の家族と食事をしたことは一度もなかった。

「世梨さん。煮物の準備は後でいいから、早く食べて」
「はい」

 食事の時、いつも私の隣に座っている若い女中は、私より少し年上の人だった。
 その人は私が座るなり、卵焼きをひとつ、ご飯の上に乗せた。

「女中頭には内緒よ? だし巻き玉子の巻きの回数を少なくしてやったの。私たちだって、たまには朝から卵を食べてもバチは当たらないでしょ」
 
 お膳に隠した卵焼きの皿を見せて、にやりと笑う。 
 
「ありがとうございます」
「世梨さん、顔色悪いんだもん。心配になっちゃう」
「そうですか?」
「そーよ。疲れた顔してるわよ」

 眠っても体に残る疲労感――確かに私の調子は良くなかった。
 いつも体が鉛のように重く、気を抜くと眠ってしまいそうになる。

「東京から、こんな辺鄙へんぴな田舎で暮らすなんて、大変よね。でも。関東大震災があったでしょ? 住んでいた家は大丈夫だった?」
「祖父の家は焼けずに済みました。でも、本宮もとみやの本家は焼けてしまったので、叔父夫婦は仮住まい先を探していたようです」

 関東大震災さえなければ、私もまだ東京で暮らしていたかもしれない。
 私が住んでいた家は、奇跡的に焼けずに残り、家財もすべて無事だった。
 けれど、叔父夫婦がやってきて、あっという間に家を乗っ取ってしまった。
 
「あー、うん。ごめん。無神経だったよね」
「いいえ。卵焼き、美味しかったです」
「そう? また、こっそり作ってあげるわね。今日はお客様も来るらしいし、きっと夜はごちそうよ。私たちもなにか食べられるかも!」

 お客様と聞いて、どこかで鴉の鳴き声がしたような気がした。
 鴉が警戒する恐ろしいお客様とは、どんな方なのだろう。
 
「あの、お客様って……」

 お客様のことを尋ねようとした瞬間、バタバタと廊下を走る大きな足音が聞こえてきた。

玲花れいかお嬢さんのお膳を用意したのは誰っ!?」
 
 私の隣に座っていた女中が、すっと手を挙げた。

「お膳を用意したのは私です。なにかありました?」
「なにやってるの! 玲花お嬢さんのお膳に漬け物をのせたでしょ! 癇癪かんしゃくを起こして、お膳をひっくり返しちゃったのよ。片付けないといけないから、他にも誰かついてきて!」

 女中たちは誰も行きたがらず、女中頭でさえ、うんざりした顔を見せた。
 これが初めての癇癪ではなかった。
 玲花の癇癪の酷さは全員経験済み。頭から味噌汁をかぶったり、茶碗を投げつけられた人もいる。

「あの……。私が片付けましょうか」

 申し出ると、ホッとした空気が周囲に流れた。
 
「巻き込んじゃって、ごめんね」
「平気です」

 台所がある土間から出て、座敷へ向かう廊下の途中から、玲花の喚く声が聞こえてきた。

「漬け物は嫌いだって言ったでしょ! 絶対食べないんだから!」

 女中たちは青ざめ、廊下に散らばる食事の残骸を片付けることもできず、十六歳の少女相手におろおろしていた。

「失礼します」

 座敷の中へ入ると、両親と玲花が同時に私を見た。
 朝食の席にいるのは三人だけで、兄の清睦きよちかさんは帝大に通っているため、東京で下宿生活を送っている。
 清睦さんがいないと、なおさら家は玲花の天下で、我が儘に振る舞い、誰も止める者がいなかった。

「漬け物の皿をお膳に置いたのは、世梨ね! 私への嫌がらせでしょ!」
「いいえ。お膳を準備したのは世梨さんじゃなくて、私……」
「世梨を庇うの?」

 女中は玲花に鋭く睨まれても怯まず、気が強い性格なのか、それでも負けじと言い返そうとしたのを見て、慌てて腕を掴んで止めた。

「ねえ? 私に嫌がらせをしたのは世梨よね。わかってるのよ」
「だから、私がっ……!」
「いえ、私が用意しました」

 女中になにも言わないでと、目で訴えた。
 玲花は使用人たちを簡単に解雇するができる。
 けれど、彼らには生活がある。
 仕送りをしている者も多く、ここを解雇になって、お給金がもらえなくなると、実家の家族が暮らしていけなくなる人もいるのだ。
 何不自由なく、暮らしてきた玲花にはそれがわからない。

「やっぱりね。私を妬んで、こんなことしたのよ。お父様、お母様。こんな人、早く追い出して!」

 卵焼きをくれた親切な女中は、悔しそうに唇を噛んでうつむいた。

 ――私のせいで、嫌な思いをさせてしまった。

 申し訳ないのは、私のほうで、玲花の狙いは私を傷つけること。それも、他の人を巻き込み、嫌がらせをするのだ。

「あの、ここは大丈夫ですから、台所へ戻ってください」

 逆らえば、解雇されるかもしれない女中たちと違って、少なくとも私の生活は保証されている。
 玲花の癇癪はいつものことで、私が黙って罵声を受け止めていれば終わる。

「玲花。もうやめなさい。新しい食事の膳を運ばせるから、それでいいだろう?」
「お父様は世梨に味方するの!?」

 なだめようとした父の言葉は、逆効果となり、玲花は私に皿を投げつけた。
 皿は私の横をかすめ、背後で陶器の割れる音がする。
 玲花は両親の愛情を少しでも失うことが許せない。
 両親の気持ちが、私に傾かないよう早く郷戸から、追い出してしまいたいと思っている。
 玲花がなにも持たない私に、なぜ嫉妬するのか――少しも理解できなかった。
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