私達には婚約者がいる

椿蛍

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29 変わり果てた姿

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キッチンから穂風ほのかが出てくる音がして、振り返ると穂風が笑っていた、

「やっぱり泣いてた、ココアでも飲まない? 焼いたマシュマロ入りだよ」

落ち込んだときはココア。
学生の頃から、私と穂風の中ではそう決まっていた。
甘くて、温かくて、優しい味がするものを飲んで、二人でどんなカフェにしようかと、話すことが多かった。
そうすることで、私達の未来は暗いものではなく、優しいものだと思いたかったから。

「小百里のマシュマロは二個入れたよ」

穂風はカウンターテーブルにマシュマロ入りの温かいココアを置いてくれた。

「穂風……」

毬衣まりえに嫌がらせされても泣かなかった小百里を泣かすなんて、知久君は本当に悪い男だよね」

「知久が悪いわけじゃないわ」

座ると穂風はジンジャークッキーも出してくれた。

「わがままを言ってもいいと思うよ。じゅうぶん、小百里は我慢してきたよ」

「わがまま……」

「言ったことないんでしょ? 小百里はお利口さんだからね。でも、一生に一度くらい馬鹿になってもいいんじゃない? 渋木のお父さんにさ、自分の気持ちを伝えてみたら?」

「なんて言えばいいのか、わからないの」

渋木の家に引き取られてから、自分の気持ちを口にしたことがない。
言葉にしたところで、私の思いが通ることはなかったから、ずっと諦めてきた。

「簡単だよ。知久君が好きだから笙司さんとは結婚しませんって言えばいい」

「そんなこと言ったら、大変なことになるわ」

「ならないよ。あの知久君が毬衣まりえとおとなしく結婚するわけがない」

「それはそうかも……」

「まずは渋木の家で、バシッと言ってきなよ。それから知久君と話し合えばいいでしょ」

穂風は私の背中を叩いた。

「でも、もう遅いかもしれないし」

「今だから間に合うの! ほら、グタグタ言ってないで行ってきなさいよ」

「おはようございまーすっ! あっ! ココア!」

出勤してきた望未ちゃんがめざとくココアを見つけると笑顔になった。

「穂風さんのココア、美味しいんですよね」

えへっと笑う顔は無邪気で可愛い。
彼女はなにもかもが素直でストレート。
自分の気持ちにいつも正直な子だった。

「いいよ。ココアをいれてあげる。悪いけど、今日は小百里の代わりにフロアを望未ちゃんに任せちゃっていい?」

「なにか用事ですか? もちろんいいですよ。任せてください!」

望未ちゃんは元気よく、ココア、ココアと連呼して私の座っていたカウンターチェアに座った。

「……渋木の家に行ってくるわ」

二人を見ていたら、私は悩んでいるのが馬鹿馬鹿しく思えてきた。

「いってらっしゃい」

にこにこ顔の望未ちゃんと私の背中を押すように微笑む穂風。
もし、全てが駄目だったとしても私にはカフェ『音の葉』がある。
今日は休日で父がいるかどうかわからないけど、今という勢いがないと自分の気持ちを伝えることができないような気がした。
私はタクシーに乗り、渋木家本邸へと向かった。
渋木家は歴史ある家で、高級住宅地の中でも大きく、一際目立つ存在感を放っている。
私が初めて渋木家に連れられて、やってきた日、あまりの大きさに驚いてなにも言えなくなったのを覚えている。
その渋木家本邸の前に着くと、そこには先客らしき車がとまっていた。
見たことのない車だったけれど、女性の車らしく、車の中には女性もののスプリングコートやバッグが置いてあった。

「あら、小百里さんじゃなくて?」

私に気づいたのは清加きよかさんだった。
ちょうど客間にあたる部屋の窓を開けたところだった。
私を見つけると一瞬、戸惑いの表情を浮かべ、困ったような顔をした。

「うん? 小百里が来たのか。ちょうどいい。こちらへきなさい」

父が窓から顔を覗かせた。
私が父に話をするつもりだったのに父の顔の表情は険しく、なにかあったのだと察した。
玄関を入ると、一番下の弟の柊冴しゅうごがいて、私が来たことがわかったのか、階下に降りて来た。

「姉さん。笙司そうじさんと女の人が来てる」

「えっ!?」

「俺も同席しようか?」

柊冴はまだ大学生だけどしっかりしていて、よく気がつく。
きっと私の婚約者が女の人と来たから、いろいろと想像してしまっているようだった。

「いいのよ。大丈夫」

婚約を解消するならするで、私は構わない。
私も同じ話をしにきたのだから。
居間のドアを開けると、そこには私が予想していたとおり笙司さんと女性が座っていた。

「小百里。座りなさい」

「はい」

父に促されて清加さんの隣に座った。
私が笙司さんの隣に座ることはなく、婚約の解消で間違いないようだけど、驚いたのは笙司さんの姿だった。
頬は痩せこけ、目は窪み、目の下に濃い隈ができている。
いつもイタリア製の高価なスーツを着ていたのにネクタイすら今日はしていない。
そして、お酒の臭いが残っている。

「笙司君の会社が潰れたそうだ。当たり前だが、渋木の娘を無一文の相手に嫁がせるわけにはいかない」

「……もちろんです」

「それに君にはずっと付き合っていた女性がいたそうだね」

父はどこで手に入れたのか、昔の写真まで持っている。
それは私が毬衣まりえさんから見せられたものと同じだった。

「本来なら慰謝料を請求するところだが、今の君には支払い能力はなさそうだ」

「……恐縮です」

「笙司さんは悪くないんです! 私がちゃんと経営できなかったから!」

女性が泣き出し、清加さんは困った顔をして父を見た。
清加さんはこういう雰囲気は苦手らしく、父がなにを言うのか待っていた。

「経営責任は社長である笙司君にある。姉の紹介で君を婚約者としたが、見込み違いだったようだ。姉の顔を立てて慰謝料は請求しないが、二度とこちらに顔を出せると思うな」

父の怒りに笙司さんは身を小さくした。
まるで別人だった。
いったいこの数ヵ月の間になにがあったというのだろう。
ふらふらと笙司さんは立ち上がり、それを隣の女性が泣きながら支えた。
悪魔に生気を奪われたかのような姿で、以前のような自信に満ちた雰囲気はどこにも残っていなかった。

「申し訳ありません。失礼します……」

そういうのもやっとの笙司さんは深々と頭を下げた。
そして、私がいることにやっと気づいたのか、ぼそぼそとした声で言った。

「あいつは悪魔だぞ。店に招待した日からまるで呪われたかのようになにもかもうまくいかなくなった……」

あいつとは知久のことだろうか。

「客は来なくなり、スタッフは辞め、会社の株は奪われ、売却しようとした資産は値下がりしてたいした金にもならなかった」

それは恨みというより恐怖に近かった。
知久がなにかできるわけがない。
だって、彼はこの数ヵ月、バイオリンを弾いていただけなのだから。
それは笙司さんもわかっているようだった。

「悪魔としか思えない。あんな男に好きになられたら身を滅ぼすだけじゃすまないぞ」

それは私への忠告だった。
婚約者だった笙司さんから、私へ向けられた最後の言葉だった。
二人が寄り添うように居間から出ていった。
笙司さん達が出ていくと、父は難しい顔で煙草に火をつけた。

唯冬ゆいとに続いて小百里の婚約までうまくいかないとはどういうことだ」

「私の結婚のことだけど……」

私が話を切り出そうとした瞬間、父がイライラと煙草を灰皿に押し潰した。

「結婚のことなら心配いらない。お前の相手はきちんと考えてある。見合い相手にも結婚を前提にと、お願いしてあるから、来週の日曜日、空けておきなさい」

「お見合いって……! そんな勝手に!」

「勝手? 勝手なのは唯冬一人で十分だ。まったく! あいつには困ったものだ。小百里、お前が結婚しないのなら、唯冬に話をするつもりだ」

「唯冬になにを言うつもりなの……」

「ピアノをやめさせ会社を継がせる。結婚は認めてやったが、その尻拭いをあいつにさせる。会社で働かせて柊冴の右腕にでもさせよう」

唯冬からピアノを奪うなんてとんでもないことだった。
私の脳裏に唯冬と千愛ちゃんの幸せそうな顔が浮かび、私は言葉を飲み込んだ。

「……わかりました。私がお見合いしますから、唯冬はそっとしておいてあげてください」

そう言うしかなかった。
この家庭を壊した子である私には弟の幸せを奪うことはできない。
どうしても弟達は幸せでいて欲しかった。
泣かずにすむよう私はいつものように心を閉ざした。
なにも考えないようにして、人形のように父の言葉にうなずいたのだった。
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