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19 海
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私が高校を卒業し、物理的な距離ができても、知久が私から離れることはなかった。
知久の私への変わらない態度と好意は薄れることはなく、とうとう知久が高校を卒業する日まで、私は別れることができないまま、最後の日を迎えてしまった。
「合格、おめでとう」
やっと言えた。
大学生と高校生という差は私達にとって大きかった。
そして、知久は音楽事務所に所属して、活動し始めたこともあり、以前より会える時間は減っていた。
これから、もっと減ってしまう。
高校を卒業した知久はドイツに留学し、少なくとも四年間は向こうで過ごすことが決まった。
いずれ、こんな日がやってくると覚悟していた私は微笑んで彼を見送れる。
「ドイツに行く前に会えてよかったわ」
「なんだか、別れの言葉みたいだね」
波にさらわれた砂が海中へ流れていくのが見えた。
繰り返し、繰り返し。
波が砂をさらう。
三月の海はまだ寒い。
スプリングコートが風にあおられ、髪がなびく。
知久の高校の制服は今日で最後。
相変わらず、首元のシャツのボタンはとめてないし、タイもしてない。
着崩していて、髪も長い。
後ろにゴムで結んでいるけど、よく先生に叱られていた。
卒業すれば、気にすることがなくなるのかと思うと、感慨深いものがある。
「がんばってね。応援しているわ」
私の激励の言葉に返事はなく、波音が繰り返し聞こえるだけだった。
私と知久の間に長い沈黙があった。
私はなにも感じないように心を殺し、ただ海を眺めていた。
まだ冷たい春の海に来ることになったのはなぜなのか、ぼんやりと考えていた。
海に行こうと言ったのは知久で、海が見たいと言ったのは私だった。
沈黙の後、知久が言った。
「俺は小百里と別れない。別れないために俺は留学することを決めた」
いつもとは違う真剣な声に私はうつむいた。
真剣であればあるほど、傷つけてしまう。
「小百里。俺が戻るまで待っていてほしい」
隣に立つ知久を見上げると、その目は海じゃなく私を見ていた。
「小百里はここで終わりにするだろうなって思ってたけど、そんなことさせない」
「知久には将来が……」
言いかけた言葉を遮るように知久は唇を重ねて、私の声を消した。
「簡単に終われるって思っているのは小百里だけだよ?」
いつもの悪魔みたいな笑みを浮かべていた。
別れを肯定されないための言葉を知久は探していたのかもしれない。
「ドイツに行っても連絡するし、休みには帰ってくる」
私の髪を自分の指に絡めた。
私を逃げられなくするためなのか、知久が離れられなくするためなのか。
くるくると髪を指に巻き、歌うように言った。
「不安なら不安だって言えばいい。小百里のためならいつでも帰ってくる」
「馬鹿ね。ドイツからどれだけ、時間がかかると思ってるの」
「やっといつもの小百里になった」
私が言おうとした別れの言葉はいつの間にか消えていた。
別れたくない―――別れたくないのに。
「寒いし、そろそろ帰ろうか」
知久は私に手を差し出した。
手をとると、体温が伝わり、温かかった。
この手にもう触れることもなくなる。
それが私を苦しめ、このまま、時間が止まればいいのにと思っていた。
そんなことできるわけないのに。
「知久。この後、どこか行くの?」
「陣川家と高窪家で留学前の送別会を兼ねた食事会があるんだ」
「そう」
当然、そこには婚約者である毬衣さんもいる。
「小百里?」
「帰りましょう。遅れると困るでしょ」
さく、と砂を踏む音が鳴った。
歩くと砂は音をたて、一歩進むたび現実がやってくる。
留学の期間は四年。
四年間、私のそばから知久がいなくなる。
今までどれだけ私にとって彼が支えになっていたか、痛いほどわかったけれど、止めるわけにはいかない。
笑顔を作った。
「体に気をつけてね」
「他に言うことはない?」
「ないわ」
「そっか」
知久が私の手を握る指に力がこもり、私から目をそらした。
きっと私に言って欲しい言葉はそんな言葉じゃない。
「小百里のマンションの近くまで送ってくよ」
「いいわ。これから毬衣さんと食事でしょ」
私の手を引き、前を歩く知久には私の顔は見えない。
今はそのほうがよかった。
「小百里。わざと? それとも俺のことをなんとも思ってないとか? 少しは嫉妬してくれても……」
振り返って、私の顔を見た知久の言葉が止まる。
きっと私は笑えていない。
こぼれた涙が、ぽつぽつと砂の上に落ちた。
子供のように泣きたくはなかったのに。
物わかりのいい私でありたかった。
彼の重荷になりたくない、なりたくなかった―――
「行かないで。知久」
「小百里……」
「一緒にいて。私を一人にしないで……」
知久は私を抱き締めた。
強く、きつく。
最後の最後で私は感情を抑えきれず、嘘をつき通すと決めていたのに出来なかった。
「いいよ」
知久は私の涙を指でぬぐうと、スマホを取り出した。
「兄さん? 急用ができた。うまいことやっといてよ」
電話の向こうで『おい!知久!』と声が聞こえたけれど、それを無視してスマホの電源を切った。
「小百里のも」
そして、私のスマホも同じように電源を切った。
「小百里のためなら、なんでも簡単に捨ててあげるよ」
知久は私に囁いた。
「どうする?」
知久のシャツを掴み私からキスをした。
願いが叶えられたのなら、私は悪魔に見合う代償を払わなくてはいけない。
悪魔に払えるものは、私以外、なにも持っていない。
だから、私をあげる。
体も心もすべてあなたのもの。
知久の私への変わらない態度と好意は薄れることはなく、とうとう知久が高校を卒業する日まで、私は別れることができないまま、最後の日を迎えてしまった。
「合格、おめでとう」
やっと言えた。
大学生と高校生という差は私達にとって大きかった。
そして、知久は音楽事務所に所属して、活動し始めたこともあり、以前より会える時間は減っていた。
これから、もっと減ってしまう。
高校を卒業した知久はドイツに留学し、少なくとも四年間は向こうで過ごすことが決まった。
いずれ、こんな日がやってくると覚悟していた私は微笑んで彼を見送れる。
「ドイツに行く前に会えてよかったわ」
「なんだか、別れの言葉みたいだね」
波にさらわれた砂が海中へ流れていくのが見えた。
繰り返し、繰り返し。
波が砂をさらう。
三月の海はまだ寒い。
スプリングコートが風にあおられ、髪がなびく。
知久の高校の制服は今日で最後。
相変わらず、首元のシャツのボタンはとめてないし、タイもしてない。
着崩していて、髪も長い。
後ろにゴムで結んでいるけど、よく先生に叱られていた。
卒業すれば、気にすることがなくなるのかと思うと、感慨深いものがある。
「がんばってね。応援しているわ」
私の激励の言葉に返事はなく、波音が繰り返し聞こえるだけだった。
私と知久の間に長い沈黙があった。
私はなにも感じないように心を殺し、ただ海を眺めていた。
まだ冷たい春の海に来ることになったのはなぜなのか、ぼんやりと考えていた。
海に行こうと言ったのは知久で、海が見たいと言ったのは私だった。
沈黙の後、知久が言った。
「俺は小百里と別れない。別れないために俺は留学することを決めた」
いつもとは違う真剣な声に私はうつむいた。
真剣であればあるほど、傷つけてしまう。
「小百里。俺が戻るまで待っていてほしい」
隣に立つ知久を見上げると、その目は海じゃなく私を見ていた。
「小百里はここで終わりにするだろうなって思ってたけど、そんなことさせない」
「知久には将来が……」
言いかけた言葉を遮るように知久は唇を重ねて、私の声を消した。
「簡単に終われるって思っているのは小百里だけだよ?」
いつもの悪魔みたいな笑みを浮かべていた。
別れを肯定されないための言葉を知久は探していたのかもしれない。
「ドイツに行っても連絡するし、休みには帰ってくる」
私の髪を自分の指に絡めた。
私を逃げられなくするためなのか、知久が離れられなくするためなのか。
くるくると髪を指に巻き、歌うように言った。
「不安なら不安だって言えばいい。小百里のためならいつでも帰ってくる」
「馬鹿ね。ドイツからどれだけ、時間がかかると思ってるの」
「やっといつもの小百里になった」
私が言おうとした別れの言葉はいつの間にか消えていた。
別れたくない―――別れたくないのに。
「寒いし、そろそろ帰ろうか」
知久は私に手を差し出した。
手をとると、体温が伝わり、温かかった。
この手にもう触れることもなくなる。
それが私を苦しめ、このまま、時間が止まればいいのにと思っていた。
そんなことできるわけないのに。
「知久。この後、どこか行くの?」
「陣川家と高窪家で留学前の送別会を兼ねた食事会があるんだ」
「そう」
当然、そこには婚約者である毬衣さんもいる。
「小百里?」
「帰りましょう。遅れると困るでしょ」
さく、と砂を踏む音が鳴った。
歩くと砂は音をたて、一歩進むたび現実がやってくる。
留学の期間は四年。
四年間、私のそばから知久がいなくなる。
今までどれだけ私にとって彼が支えになっていたか、痛いほどわかったけれど、止めるわけにはいかない。
笑顔を作った。
「体に気をつけてね」
「他に言うことはない?」
「ないわ」
「そっか」
知久が私の手を握る指に力がこもり、私から目をそらした。
きっと私に言って欲しい言葉はそんな言葉じゃない。
「小百里のマンションの近くまで送ってくよ」
「いいわ。これから毬衣さんと食事でしょ」
私の手を引き、前を歩く知久には私の顔は見えない。
今はそのほうがよかった。
「小百里。わざと? それとも俺のことをなんとも思ってないとか? 少しは嫉妬してくれても……」
振り返って、私の顔を見た知久の言葉が止まる。
きっと私は笑えていない。
こぼれた涙が、ぽつぽつと砂の上に落ちた。
子供のように泣きたくはなかったのに。
物わかりのいい私でありたかった。
彼の重荷になりたくない、なりたくなかった―――
「行かないで。知久」
「小百里……」
「一緒にいて。私を一人にしないで……」
知久は私を抱き締めた。
強く、きつく。
最後の最後で私は感情を抑えきれず、嘘をつき通すと決めていたのに出来なかった。
「いいよ」
知久は私の涙を指でぬぐうと、スマホを取り出した。
「兄さん? 急用ができた。うまいことやっといてよ」
電話の向こうで『おい!知久!』と声が聞こえたけれど、それを無視してスマホの電源を切った。
「小百里のも」
そして、私のスマホも同じように電源を切った。
「小百里のためなら、なんでも簡単に捨ててあげるよ」
知久は私に囁いた。
「どうする?」
知久のシャツを掴み私からキスをした。
願いが叶えられたのなら、私は悪魔に見合う代償を払わなくてはいけない。
悪魔に払えるものは、私以外、なにも持っていない。
だから、私をあげる。
体も心もすべてあなたのもの。
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