私達には婚約者がいる

椿蛍

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5 彼の手の内

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私は笙司そうじさんにプロポーズの返事をしなかった。
プロポーズの言葉に微笑み、シャンパンを一口飲んで終わり。
遠回しなお断り。
懲りずにプロポーズを繰り返す笙司さんに私は慣れていた。
今日も同じことだと、思っていた。
父の許可がない限り、この結婚は進まない。
私の結婚なのに私の気持ちでは決まらない結婚。
そして、父が決めたのなら、すぐに結婚させられる。
私のため、幸せになれるから、そう言われてきた。
沈黙する私達のテーブルにカトラリーの音だけが響いていた。
それ以上の会話は私達にはない。
黙って食事を終え、当たり障りのない会話をし、レストランを出た。
これで、今日はお別れ。
私の今月の義務も終わった。

「小百里。送ろう」

「笙司さん、明日は仕事でしょう? タクシーを頼むわ」

いつもと同じように今日も別れるのだと思っていた。
けれど、それは私だけがそう思っていただけで、笙司さんは違っていた。

「小百里」

笙司さん私を行かせまいとして、腕を掴んだ。
コートを預けたクロークはすぐそこにあるのに遠く感じた。

「……っ」

掴まれた腕は力強く、痛みを感じて、一歩も動けなかった。
痛みに顔を顰めたの気づき、わずかに腕を掴む力を緩めてくれた。

「結婚に対する君の答えは?」

どこか笙司さんは冷たい印象のする人だけど、私に問いかけた声はいつも以上に感情がない。
ない、というより感情をおし殺している?
私に対しての不満や怒りを感じた。
なぜ、今日―――?
知久のバイオリンの音が聞こえたような気がした。
まだ彼の音が残っている。
あの歌うようなバイオリンの音は女性客を魅了したけれど、笙司さんの心は穏やかではなかったということ。
嫉妬心を隠しきれていなかった。
納得した私と、認めたくない笙司さん。
そして、私に結婚したいと言わせて、自分の虚栄心を満たすつもり?

「笙司さん。私が大学を卒業してから、三年は結婚しないと父と約束したはずよ。父から譲られたビルの経営をきちんとやりたいの」

父から生前贈与されたビルを私は持っている。
それは私を渋木家から、遠ざけるために父が決めた。
父は本妻である唯冬ゆいとの母親に配慮して、大学に入学すると同時に私を渋木家本邸から出したのだった。

「俺という婚約者がいるのにビルの経営が必要か? 君がなぜ、そこまで自立することに拘るのかわからない」

「ビルの一階に作ったカフェもやっと軌道にのってきたの。私はあのカフェを音楽家が集まるようなサロンにしたいのよ」

「音楽家が集まるサロンね……。お嬢様が考えそうなことだ。簡単にできることじゃない。失敗して勉強するには金額が大きすぎる」

イタリアンレストランや輸入食品を取り扱うお店を経営しているだけあって、笙司さんの考え方はお金にシビアで音楽など道楽にすぎないと思っているタイプだった。
そう考えているのは笙司さんだけではない。
渋木の父も同じ。

「まだ失敗してないわ。卒業して三年間は経営の勉強をすると言ったら、父も笙司さんも反対しなかったのに今になって反対するの?」

「それはそうだが」

「コートを取りに行きたいのだけど」

それとなく、手を離すように促した。
けれど、笙司さんは離してはくれず、力任せに通路の壁に私の体を押し当てた。
思い通りにならない私への怒りが伝わって来たけれど、私はそれを甘んじて受ける。
私が笙司さんなら、きっと知久のことを疎ましく思い、嫉妬していただろうから。
顎をつかみ、私の顔を上に向かせると、笙司さんはハッキリとした口調で私に言い聞かせた。

「君は俺の婚約者だ。手に入れるため、君の伯母にずいぶん金を使った」

伯母とは父の姉であり、知久の婚約者である毬衣まりえさんの母親のことだった。
父と私が、伯母から聞いた話と違っていた。
伯母が習っている琴の先生の息子さんで、信頼できる方だからと言われただけ。
父はお金が絡んでいるなんて、きっと知らない。

「候補者は山ほどいた」

キスをされるのではというくらい顔を近づけられ、嫌悪感を感じたけれど、それでも私は動じず、彼の目を真っ直ぐに見る。

「お金で私を買ったから好きにしてもいいとでも? それを父が聞いたら、驚くでしょうね」

笙司さんの冷たい目が揺らいだ。
プライドが高い彼にとって、私にこの話を聞かせたことは自分にとって失敗だったと思ったに違いない。
自分の魅力ではなく、お金で婚約者を買ったと言いふらされて恥ずかしい思いをするのは笙司さんのほうだった。
手の力が緩んだのがわかった。

「クロークにコートを取りに行ってもいいかしら?」

「ああ……」

私の冷静な態度に笙司さんは諦めて手を離した。
あなたの私への気持ちはその程度でしょうね。
常識や正論や世間体を突きつけられたのなら、簡単に手を離してしまえる存在―――でも、彼は違う。
レストラン前の通路を歩き、あと少しでコートを預けてあるカウンター前というところに彼はいた。
目の前に現れた知久は少し苛立った目をして、私を見ていたけど、微笑みを崩していない。
その目にぞくりとした。
知久の嫉妬にまみれた目を見ることができるのはきっと私だけ。
けれど、その目が一番魅力的だということを彼は知っているのかしら。

「あのまま、私がキスされると思った?」

「小百里は俺が見ていることに気づいていた」

笑みを消して、私に近づく。

「そうね」

踏み出された足を止めることはない。
視線も、感情も真っ直ぐ私に向かってくる。
その手には知久がクロークで受け取った私のコートを手にしていた。
最初から、知久は笙司さんと行かせるつもりなんてなかった。
コートを戦利品のようにして、私の手に渡さず、知久は控え室のドアを開けると、私を部屋に入れた。

「小百里」

鍵の音と同時に知久は唇を重ねた。
激しいキスにせっかくセットした前髪がはらりと落ちて頬に触れた。
知久の髪、指、唇―――そして、あなたの香りが私の感覚を支配していく。
キスに耐えれず、私の指が知久のシャツをきつく握りしめ、皺ができてしまっても知久は気にせず、飢えた獣のように私を求めた。

「知久……だ、め」

私から先に唇を離すと、笑って知久は言った。

「まだだよ」

目を細め、喰らうようなキスをする。
隅々まで舐めとり、舌がなぞる。

「……っ」

息を乱し、足に力が入らなくなるまで、繰り返す。
崩れ落ちた瞬間、手で体を支えると、知久は私の耳元で満足げに囁いた。

「これは罰だよ」

それはまるで悪魔の囁き。
耳朶を舌がなぞられ、知久の胸を手で押した。

「やめて……」

甘く耳朶を噛まれると、ぞくりと体が震えた。
ここで理性を失うわけにいかない。
誰かに見られたら、私より知久のほうが困ることになる。
家と家同士のしがらみが、私達を茨のように張りめぐらされ、茨の棘は私を苦しめる。
引き取られた時に渋木の親戚から言われた言葉を忘れていない。

『本当に父親は渋木なのかしら。頼るところがないから、一番お金を持っていそうな渋木の家に押し付けたんじゃないの』

―――母はそんな人間じゃない。
そう言いたかったのに言えなかった。
母は私を捨てたから、私は母を庇えなかった。
よみがえる過去の記憶に蓋ができたらどんなに楽になれるだろう。

「俺といるのが嫌?」

拒まれても絶対に手を離そうとはしない知久は私の手にキスを落とした。

「そうじゃないわ。わかっているでしょう?」

渋木の家に関わる人間で私の立場を知らない人間はいない。

『愛人の子』

それが私の渋木の家での立場だった。
頼りなく、弱く、そして利用されるだけの名ばかりのお嬢様でしかない。

「俺は小百里を困らせるようなことはしないよ」

「いつも困らせておいて、よく言うわ」

「心配しなくても大丈夫。ちゃんとレストランのスタッフに伝言させたから」

「なんて?」

「タクシーで帰りますってね」

いつの間に―――違うわね、知久は最初からそうするつもりだった。
レストランでバイオリンを弾いている時から?
それとも、この仕事を引き受けたときから?
私と会うための時間を作るために彼はうまく罠を仕掛ける。
バイオリンの腕だけじゃない。
悪魔みたいに頭がいい。
誰も敵わない。
私の髪や額にキスをして知久は笑う。

「ずっと触れていたいのに我慢してる俺の身にもなってよ?」

知久はホテルの部屋のキーを見せて微笑んだ。
私の心も体も彼の手の内。
一度だって知久は私を手放そうとはしなかった。
出会った時から、私の心は彼のもの。
彼の音に魂を奪われた。
この悪魔は私を全部奪わないと気が済まない―――きっと、地獄行き。
あなたも、わたしも。
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